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第二十話

 北方の明・朝鮮連合軍の勢いは凄まじく その兵力は五万有余に膨らんだ。

明の名将軍 李如松は一月七日に小西行長が籠もる平壌城を圧倒的戦力で奪還するとその勢いにのり南下、黄海道東の黒田軍が籠もる竜泉城、江陰城、白川城を襲った、戦力の圧倒差を鑑みた黒田長政はこれら三城を放棄し開城へ退いた。


文禄二年一月十五日、平壌より退いた小西行長軍は開城からさらに南の漢城へと撤退する、これにより日本軍統帥部も朝鮮の首都漢城へと移された。


これを機に日本軍統帥部はすぐさま漢城以北で転戦する日本軍諸将らも戦線を立て直すため全軍漢城へ後退せよとの通達を発した、しかし開城にこもり北方に幾千と群がる明軍や朝鮮義賊らに睨みをきかせる小早川隆景、吉川広家、黒田長政ら諸将は一貫して開城撤退には反対し頑として動かなかった。


だが漢城から秀吉側近であり武断派でも知られる大谷吉継(通称刑部)が派遣され説得におよぶと開城にこもる諸将らはようやく撤退することを承知した。


十七日の早朝、黒田隊五千の将兵は十八里南の漢城に向け撤退を開始した、しかしその日は朝から生憎あいにくの雪模様で開城を出ておよそ三刻後 臨津江(イムジンガン)を渡り終えた頃から二間先さえ見えない猛烈な吹雪に見舞われ雲泉辺りで立ち往生してしまった。


そのため強行は危険との観測から急遽 雲泉の村落で野宿することになった、しかし問題は野宿する野営地が積雪でままならず、兵等は仕方なく村落の民家、納屋、家畜小屋、寺などを強制接収するとそこに強引に入り込んだ。


そのため家を追われた朝鮮の民らは悲惨である、その殆どは黒田勢が到着する前に山へ逃れたが寒風吹きすさぶ猛烈な吹雪の夜、朝までどれほど生き残れようかと誠二郎の心は痛んだ。


それから半刻後、その小さな村落に何と小早川隆景と吉川広家ら九千五百もの兵が難を逃れ押し寄せたのだ、臨津江袂の寒村は一夜にして一万五千の兵で溢れかえった。


そのころ人が寝られそうな家屋や軒先は先に到着した黒田勢が占拠を終えていた、ゆえに後続の小早川軍や吉川軍の将兵らには潜り込む場所とて無く、仕方なく木陰に陣幕を張ったり河原に出てカマクラを造って何とか吹雪を凌ごうとした。


だが夜半、気温はさらに下ると屋内に入れず外で身を縮めていた後続兵らは互いに身を寄せ合い少しでも暖を取ろうと藻掻いていたがそれも一時のこと、遂にたまらず家屋や軒先で眠る黒田兵を引きずり出しに係ったのだ。


その小競り合いは村の至る所で始まり明方まで続いた。

そのころ誠二はといえば母衣衆と共に村でも比較的大きな農家に入り込んでいた、その屋には殿をはじめとする重臣らで占拠され歩哨三十人ほどが交代で見張りに就いていたため小競り合いには遭わなかった。


しかし屋外で繰り広げられる喧嘩や怒号は薄壁に響き、その恐怖に誠二は藁の中に潜り込んで耳を塞いだ。

やがて朝方になると吹雪はやみ淡い粉雪に変わっていた、だが積雪量は一晩で二尺を超え 街道も畑や小川も白一色に染まり見分けすらつかない。

その真っ白な雪原に無数の雑兵とおぼしき薄着の兵らが寒村所々に体の一部を雪の上に見せ冷たくなっていた。


黒田勢は外がまだ暗いうち一斉に屋外に出た、すると外に屯する小早川と吉川の兵らは我先に家屋になだれ込んだ。


黒田勢は隊列を整え漢城に向け進軍を開始した、しかし雪は深くは道を見失うのを怖れ最短直線に漢城に繋がる道はあきらめ、急遽右に折れ臨津江東岸を進み途中漢江に沿って漢城へ入る道筋へと変更した。


暫く進み坡州(パジュ)の南西端に差し掛かった頃、川面から吹きすさぶ雪は吹雪に変わり昨夜以上の猛烈な勢いを呈し始めた、これにより上級武官らは馬に乗っているのも苦痛になり、誠二も皆に倣って馬を下ると風上に馬体を置いて徒歩で歩き出した。


それでも二刻ほども歩くと辺りは次第に明るくなり気温も上がってきた、雲泉を出る際 迂回策を取ったため漢城まではまだ十里近くはあろうが何とか夜までには漢城に着けそうと兵等は雪を踏みしめる脚に力を込め先を急いだ、後方には遠く遅れて小早川隆景や吉川広家らの行軍が黒田勢が踏みしめた跡を辿たどるように、黒々とした蟻を思わせる行列ははるか北方へと続いていた。



 一月十九日の夜までに漢城以北に点在するおおよその日本将兵らは漢城に到着したが、途中の猛烈な吹雪と異常低温のため 一割ほどの兵が途中で凍死もしくは逃散したらしい。

また二十一日には転戦で遅れていた殆どの軍勢も漢城に集結を終え その兵力は五万を超えた。


その頃、黒田勢と対峙した明・朝鮮連合軍三万は白川城に入っていた、そして平壌より糧秣をたずさえ南下してきた李如松の軍と合流し勢いを盛り返すと日本軍が退城した開城に交代するかの如く入城した。


一月二十五日未明、勢いを得た明の提督 李如松は漢城へ撤退した日本軍を一挙に粉砕すべく五万の兵を率いると開城を出発した。


誠二はこれら勢いを増す明・朝鮮連合軍の南下の驚異を一老の栗山善助から聞いた、善助は「明日にも敵を迎え撃つため北上するが貴公ら母衣衆はこの漢城で待機するよう殿には進言した、じゃが三人の若い母衣衆は意気も上がり殿にどうしても付き従うと申しておる、じゃから母衣衆筆頭である貴公から若い者らを何とか説得してほしいのだが、できるか」と問うてきた。


「……難しいかと存じまする、特に若い稲垣寅左右衛門などはこの朝鮮に来てこれまで一度も戦ってはおらぬと日頃嘆いており この度ばかりは何が何でも出陣すると意気巻いておりますので…」


「やはりのぅ…いや彼らが突出したい気持ちは分からぬではない しかし彼らに出陣を許せば筆頭たる貴公も同道せねばなるまい…それが困るのじゃ、彼奴らが戦死しようがこれは戦じゃから仕方の無いこと、じゃが貴公が怪我やまして戦死でもしようものなら黒田家にとって一大事、何としても貴公を無事に豊前中津へ送り出さねばならない、仕方ない儂からきつう言い聞かせるしかないか…」

そう言うと思案顔に俯いたが、気づいた様に面を上げ「そういえば殿より託された上申書の方は進んでおろうのぅ」と問うてきた。


「はっ、はい…序の口当たりは」と適当に応えた…だが正直未だ思い出せてない。

「左様か、もう日がないゆえ殿も急いておられる 頼むぞ」

そう言うと善助は部屋から出て行った。


(クゥッ…これはマズいなぁ、何とか思い出さねば、しかし迎撃戦に出なくて良いのなら命拾いというもの、これも俺の頭脳があったればこそか…)そう思いながら誠二は額を撫であの深夜の酒宴での出来事を初めから反芻しはじめた。



 二十七日払暁、日本勢は南下する明・朝鮮連合軍を迎撃するため小早川隆景は黒田勢を含む先鋒二万の混成隊を率いて出陣、次いで宇喜多秀家が本隊二万二千を率い開城方面に向かって進軍していった。


漢城には守備隊として小西行長と大友義統が残り、誠二郎以下母衣衆は善助からこの度の戦は危険ゆえ漢城にて控えろ!ときつく命令され荷駄人足らと共に漢城に留まった。


日本軍と明・朝鮮連合軍の戦いは漢城の北方四里にある碧蹄館付近で戦端が開かれた。

先鋒小早川隆景が率いる混成部隊の中で特に目立った働きをしたのは立花宗茂と高橋直次の部隊で、その攻撃隊は錐状に敵連合軍中央に突撃し多くの戦死者を出しながらも果敢に戦い、敵の主力を攻撃隊に引き付けた、その間に小早川隆景率いる主力は碧蹄館を迂回し包囲戦を敢行、敵はこの作戦にまんまと嵌まり四方より数千丁の火縄銃の攻撃に晒されその死者は計り知れず総崩れに敗走した。


この敗走の最中、明の提督李如松は落馬し、それを追う日本勢にあわや討ち取られる真際におよんだが、幸いにも隙を突き からくも逃げのびたという。


この碧蹄館の戦いで日本勢は敵六千余の首級を挙げ勝利を得たが深追いは危険と判断しその日の夕刻に漢城へと退いた。


一方、漢江の南東 坡州(パジュ)まで逃れた李如松は開城へ軍を退いた、この碧蹄館の戦いで李如松は完全に戦意を喪失、その後さらに北方の平壌城へと明軍は退いていった。

この戦いで明軍の弱さが露呈し、当てにはならずと気付いた朝鮮全羅巡察使の猛将 権慄(クォンユル)は自兵二千三百と朝鮮義勇軍を率い、全羅道攻略に進撃してきた、そして小早川隆景・立花宗茂ら一万五千余の軍勢をみごとに押し返し日本勢を全羅道より撤退させることに成功した。


二月十二日、朝鮮軍の増長を懸念した小早川隆景は速やかなる朝鮮軍討伐を期して漢城の西方 漢江の畔にある全羅道幸州山城の攻略を決意、小早川隆景・小西行長・宇喜多秀家・黒田長政以下三万余の軍勢で出陣した。


総攻撃は早朝より始まったが断崖絶壁や狭隘きょうあいな通路に阻まれ城攻めは困難を極め、力攻めに頼る日本勢は敵の猛攻に死者数は増大していった、それでも夕刻近くようやく権慄を幸州山城の本城まで追い詰め落城は目前に迫った。

しかし権慄に呼応した京畿道の水師 李蘋イピンが十隻ほどの船を仕立てて漢江を上ってきたため退路を断たれることを恐れた日本勢はやむなく漢城へと撤退した。


こうして、朝鮮巡察使 権慄クォンユルは明に力を借りることなく朝鮮の独力で圧倒的多数の日本勢を幸州山城から追い出し退散せしめた意味は大きい、日本側は総大将の宇喜田秀家が重傷を負い、石田三成・吉川広家・前野長康などまで負傷する有様で、兵にも大勢の死傷者を出し惨敗の結果で終えたのである。


以降 大規模な戦闘はなかったが、臨津江東岸の坡州より出没する敵の巧みな波状的攻撃や幸州山城の脅威により漢城郊外での活動が次第に困難になっていく、これにより城内の馬草が枯渇こかつし多くの軍馬が餓死していった。


またこの酷寒の中、敵のゲリラ活動を怖れ城外へまきを取りに行くのも危ぶまれ、暖をとる燃料さえも枯渇、幸州山城の敗戦も手伝ってか過酷な寒さと糧秣の不足などの悪条件により将卒のあいだに厭戦的な気分や撤退願望が広がり、飢餓と疫病が蔓延するなか漢城を持ちこたえる気力さえも次第に削がれていった。


二月二十七日、諸将は限界を感じ漢城で軍議を開いた。

これら諸将は太閤殿下に粛々と従い、遠い朝鮮の地を侵略し見も知らぬ幾多の朝鮮人を殺し、略奪の限りを尽くして一時はほぼ朝鮮全土を手中に収めた強者らである。


しかし時と共に朝鮮士民らは牙を剥き、各地で義軍が立ち上がると反攻へと転じそれを明軍が支えた、気付けば三十八度線以北は瞬く間に奪還されこの地 首都漢城さえも風前の灯火になっていた。


十五万人の将兵が意気揚々と釜山に上陸してから十ヶ月、気が付けばその三分の一は朝鮮の山河に屍を晒した、それも敵に討たれたる者は寡少でその殆どは寒さ・飢え・疫病に倒れていったのだ。


何のため、誰のための戦なのか…諸将はここに来てようやく疑問を感じ始め、厭戦的な気分や撤退願望におちいり、諸将の間にも疑心暗鬼・猜疑心・相互不信という想いが蔓延はびこり悩まされていくことになる。


この会議でも諸将間の猜疑心は払拭出来ず、本音を漏らす者などいない、しかし次第に「まずは、太閤殿下の朝鮮渡海の日程延期を上申し、やむにやまれず釜山まで退いたという既成事実を作ろう、そこで太閤殿下に事情説明の注進を行う」という手立てに傾いていった。


それは秀吉をあざむく談合行為であり、また秀吉への反抗の現れでもあった、諸将は談合内容を改竄するとその猜疑心から密かに盟約書を取り交わしたという。


軍議の翌日、遠く咸鏡道ハムギュンドで抗戦していた鍋島直茂や加藤清正ら二番隊が漢城に相次いで帰還してきた、彼らは朝鮮東岸を南下し江原道に入り鉄嶺を越え厳寒のなか漢城を目指したが、江原道では島津・毛利勢は既に漢城に撤退していたため朝鮮伏兵の執拗なる攻撃に遭い幾多の兵を失う過酷なる漢城撤収であったという。


十ヶ月前、各方面軍による八道国割と呼ばれる制圧目標を決め、意気揚々と各地を制圧していった諸将は 情けなくもこうして漢城に撤収したことは 完全に振出しに戻ったと言うほかは無かった。


平壌での敗戦情報は遅れること二ヶ月、二月の中旬に肥前名護屋に届いたという、この直前まで名護屋城では平壌での講和交渉により明国から講和使節が来日すると取り沙汰されていたのだから全くの青天の霹靂へきれきであったろう。


この情報により秀吉の三月朝鮮渡海計画は延期されることになった。

また秀吉自身も朝鮮侵攻の実状が次第に見えてきたと言えよう、彼は一連の戦略変更と軍勢の立て直しを図るべく浅野長吉と黒田孝高(官兵衛)らを三月に渡海させることになる。


そのころ誠二はこの漢城に来てようやく「恐るべき計画」の全貌を思い出した、それは秀吉亡き後、黒田家が数多あまたの対抗勢力を抑え「天下取り」を実現させる野望構想だ。


あの日、夜陰に紛れ江陰城から脱出した道すがら、己の身の処し方次第で飢餓やイジメから脱することが出来るやもしれぬと思った、それには黒田家重臣らの庇護が必須、その庇護を得るには彼らにはない知識や能力を解り易く表現し、且つ要求あらば素早く実証・実現して見せること。


まずは江陰城で機関銃を製造し実演することで己が四百年後の世から来た技術者であると認知させた、その先進技術を見た重臣らは戦国下克上の通念も手伝い「天下取り実現」の可能性を掴んだはず、その結果が誠二の庇護へと繋がり この危険地帯から脱出させ豊前中津の領地に誠二を封じ込めようとの行動を促したのだ。


タイムスリップした徒手の己をこの時代に生かす手立ては四百年後の経済学や経営学また最新技術を以て彼らの要求を叶える…それが生き残る道と信じ、あの酒席で無意識にも黒田長政を前に天下取りの構想をぶちまけたのだろう。


それは酔った席での無意識行為ではあったが…彼らは誠二の目論見通りに動いてくれた、あの日からは飢餓やイジメは途絶えた、ならば彼らに報いる行動を起こさねばなるまい、まずは要求された上申書から着手しなければ…だが情けなくもこの時代の上申書とやらの書き方が全く分からない。


上申とは御上に意見を申し上げることぐらいは分かる…だが善助が言う「上申書はできたか」の言葉の前後を考察するに何か違うような気がした、その言い方からすれば多分意見を申し上げるのでなく殿に上申する計画構想の目的と その目的を実現させる具体案を列挙し、それを以て読み手に該当計画案が実現可能か評価できる「書」を意味するように聞こえた。


実際のところテンプレートがなければ作法を誰かに聞くべきだろうが…上級武者となった今、いまさら聞くに聞けない内容だった。


誠二は二日ほどあれこれ考えたが幾ら考えようとも分かるはずもなく ええいままよと以前開発部の課長であった頃よく書いた企画書・提案書・稟議書を思いだし、これらを一緒くたにしたような書類を作成しだした。


そんな中、大殿官兵衛が三月に釜山に来られるとの情報を耳にした、しかし安田誠二郎は黒田官兵衛に付き従い五月に長政の居城 豊前中津城に向かうことをこの時はまだ知らない。

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