第二話
母里太兵衛が向かった本陣は仮小屋より一町(約100m)ほど北に有り、この地を領する両班の屋敷であったろうかこの界隈で最も広大な屋敷と庭園を擁していた。
長政ら三番隊がこの地に到着する前、日本軍の開城攻略を聞きつけたこの付近一帯の住民らは急かされるように西へ落ちのびたという。
それゆえか両班屋敷には家具調度品の殆どが揃っており広大な庭も荒れはなく、田舎といえど朝鮮両班の豪勢な暮らしぶりが手に取るようにわかった。
ただ遠目からは本陣とは分かりづらく、ために屋敷廻りに急遽 竹矢来を張り巡らせ何とか体裁を繕った、だが広大といえど五千もの将兵を収容するには狭すぎ、半径一町付近の民家を徴発しどうにか全将兵を収容したのだった。
そのころ本陣では長政を中心に座が組まれ絵図を見ながら一老の栗山善助や後藤基次らが軍議の最中であった。
「善助よ、いまごろ小西行長は中和の占領を終えた頃かのぅ、しかし奴め加藤清正殿と平壌攻略の先陣を争うのは勝手だが我らを配下のように見下し、あろうことか我が軍を援軍程度にしか見てはいないことが口惜しい、くそぉ!なんで儂が商人上がりの行長風情に従わにゃならんのだ」
「殿 ご立腹は分かります、大殿官兵衛様が若くして失脚あそばれたは三成めの画策によるもの、その三成の腰巾着ともいえる小西行長を蛇蝎の如く毛嫌いするのはわかりまする、しかしここで我らがそっぽを向けば奴らは秀吉様にまたぞろどんな報告をするかわかりませぬ、当座は行長殿に拝伏するが肝要とこころえまする」
「わかったわ!もう言うな善助、しかし腹の虫がおさまらぬ奴らめ…こうなったら遅参してやろうか」
「殿 何をそのようにご立腹か」入ってきたのは母里太兵衛である。
「おお太兵衛か何をしておった、すでに軍議は始まっておるぞ」
「申し訳ござらぬ、ただいま弦斎様の案内で例の空より落ちてきた男を見てまいったのでござる」
「あぁ…あの男か、して男は生きておったか」
「はっ、生きておりもうす、しかし目はさましたものの自失呆然の体ゆえ一刻後に再び見に行くつもりでござるが」
「そうか…たしかすっぱだかで落ちてきたと聞いたが、これはいわくありそうでおもしろそうじゃな、儂も見に行くとするか」
「殿、そのようなどこぞの馬の骨とも分からぬ奴儕、もし敵の回し者であれば御身に危害が及びもうす、なにとぞご自重下さりませ、これ太兵衛!殿の御耳にいらざる事を吹き込むものではない」
栗山善助は太兵衛をにらみ付けた。
「善助よ われはなんでそうも口うるさいのじゃ、まるで父上とそっくりよ よいから太兵衛 あとで儂を案内せぃ」長政は苦笑しながら太兵衛に目配せした。
栗山善助はあきれ顔で長政と太兵衛を交互に見ながら深い溜息をついた。
申の刻少し前、仮小屋に待機していた小者が弦斎の部屋へ飛び込んできた。
「弦斎様!男が激しく暴れ もう手が付けられませぬ、急いでお越し下さりませ」と引きつった顔でほえ立てた。
「なに!暴れておるのか、よし分かったそちは母里太兵衛殿に至急知らせよ」言うなり弦斎は脇差しを腰帯に突き通すと部屋を飛び出した。
仮小屋へ走り寄ると小屋の中では乱闘の最中か大声でののしる声が漏れてきた、弦斎は表戸を引き土間へとかけこんだ。
見るとむしろの上で大男が小者の上にまたがり わけの分からぬ罵声でわめき立てている。
男は後手に縛られているにもかかわらず小者とはいえ百戦錬磨の足軽にまたがり両ひざで相手の腕を制しながら呂律の回らぬ舌で罵詈雑言を浴びせていた。
まるで子供の上に大の大人が乗っているようにも見えた、その力の差は誰が見ても歴然であろう、弦斎は迂闊に手を出せばこちらもただではすまぬと直感し ひとまず太兵衛が来るまで待とうとその場にたたずんだ。
そのとき男は弦斎の方を見た、目が合った瞬間弦斎の背筋が凍った、その眼光は先の虚ろな色ではなく野獣そのものの鋭さを秘めていたからだ。
弦斎は思わず脚を一歩引き腰の脇差しに手を添えると身がまえた、それを見るや男は歯を剥きすぐにも飛びかかってきそうな気配を見せる、そのとき太兵衛が土間へと飛び込んできた。
刹那、太兵衛を見るや男は立ち上がりざまに大きく吼え突進してきた、太兵衛は俊敏に動いた その技は実戦で磨かれた凄まじい動きで 突進してきた男をまるで蠅でもたたき落とすがごとくいとも簡単に土間に叩き伏せたのだ。
「ぐうぇ」と喉を鳴らし男は土間に突っ伏した、太兵衛はすかさずその男の背に跨がると ばたつく脚を握りあらがいを制し「縄を持ってこい!」と震える小者に怒鳴った。
またたく間に足と手を背で結ばれ思い切り引き絞られた、男は太兵衛に軽々と引き吊られ 再びむしろの上へ放り投げられた。
腹ばいに投げ落とされた男はしばらく苦悶に体を震わせ わめき散らしていたが次第にその声は小さくなっていき、ついには海老ぞりにもだえ弛緩していった。
小者らが恐る恐る近づくと太兵衛と弦斎は弛緩した男のすぐ横に座った、そのとき長政が土間に飛び込んできた。
「あっ、何だ もう収まったのか」言うと板の間に上がり太兵衛の横に座った。
「太兵衛よ、この縛り方はちとひどうないか、かわいそうに少しゆるめてやってはどうじゃ」
男は海老反りに縛り上げられ苦悶顔で座る三人をにらんでいたのだ。
暫くにらみ合ってののち弦斎は男の耳を掴むと「これ、おぬし名は何と言うのじゃ」と耳元でささやいた。
「…………」
男はうめくもただにらみ付けるばかりで口を開こうとはしない。
「こやつだんまりを決め込むつもりか、やはり朝鮮軍のまわし者かのぅ」
弦斎は長政を見た。
「しかしなんで敵が裸で空から降って来るのだ…儂にはどうもげせぬ」
長政は首をひねって太兵衛を見た。
「我が日の本の忍者・素破のたぐいならばこうして縛り上げられる前に拷問を懸念し舌を噛んで自害し果てようものを、こやつは自害するどころか儂らをにらみ付けておる…やはり出来そこないの朝鮮間者でありましょう」
太兵衛はしたり顔で長政に言うと「朝鮮人であれば王であろうと放って逃げ出す奴ら、拷問にかければすぐに吐くでありましょう、これお前 通事を至急呼んで参れ」
太兵衛は振り向いて小者の一人に命じ「殿、少しばかり汚い光景を御見せすることになりまする、ここはどうぞお引き取り願わしゅう存じます」と長政に一礼した。
そのとき「なに!俺が朝鮮人だとぉ、お前らこそ誰なんだ!」と男が急にわめきだした。
その声に三人は飛び上がらんばかりに驚き眼をむいて男をみすえた。
「こやつ日の本の者か…」言って弦斎はうなった。
「俺が一体何をしたというのだ、早く縄をとけクソォ…強くしばりやがって」
男はうらみがましく太兵衛をにらみ付けた。
「お前が訳も分からず暴れ狂うからだろう、もう暴れぬともうすなら縄目をゆるめるがどうじゃ」
太兵衛も鼻白んで男をにらみすえる。
「俺が目覚めたときすでに縛られていたんだ、訳も分からず裸にされ縛られたら誰だって暴れるだろう、とにかく縄をとけ…もう暴れないから」男の声はすこしずつ平静さを取り戻しつつあった。
それを聞いた長政は太兵衛にといてやれとばかりに目配せを送った。
「殿のお許しじゃ…しかたないといてやろう、しかしお前は最初から裸だったんだぞ…小便漏らしの破廉恥な奴め」言いながら太兵衛はにくにくしげに縛った縄目をといていった。
とかれた男はすぐに起き上がりむしろの上に正座すると股間に目をやった、そしてハッとした表情に顔を歪ませると恥ずかしげに両手で股間をおおった。
「お前らが脱がせた俺の服をすぐに返せ」と再び怒鳴る。
「こやつまだわめくか!言ったろうお前は裸で落ちてきたんだと、それに服とは何なんだ」
太兵衛は殴らんばかりに膝を進めると男の喉を大きな掌で握り押さえた。
男は太兵衛の恫喝にとっさにあらがったが すぐにその膂力には到底勝てぬとばかり力を抜いた。
「分かった分かったから手を離せ苦しいだろう、お前ら俺なんか拉致してどうしようというのだ!」
太兵衛が手を離すと男は素早く辺りを見渡し「オイ!ここは何処なんだ…って、お前らの格好は何だ!カツラなんぞ被りやがって」
「こやつ生意気な、何と横着なもの言いだ!ちとばかり痛い目を見せぬと分からぬようだな」
太兵衛は右手をあげると拳を握りまさに殴らんばかりに振りかぶった。
「やめよ!」長政はとっさに太兵衛の振りかざした腕を握るとこれを制した。
「我らが誰かも分からぬようじゃ、そう一方的に攻めるものではない、これ何か着るものをこの男に持って参れ」いうと長政は男の首をしかと掴む太兵衛の手を叩いた。
太兵衛はしぶしぶ男から手をはなしなおもにらみ続けていた。
「儂は黒田長政という者じゃ、おぬしの名を教えてはくれぬか」
長政は極力融和な顔を作り男にたずねた。
「黒田長政…どこかで聞いたような」男は思い出すような仕草で首をひねった。
「俺の名は…俺は…」言って眼をむく。
「俺は誰なんだ…あぁぁ誰なんだぁ」苦しげに頭を押さえ始める。
「頭が割れるように痛い、あぁぁ痛い」頭を抱えもだえるように前のめりに倒れた。
「いかん、こやつ頭を強う打って気失せに至ったようじゃ、ほれここに寝かせよさぁ早く」
弦斎は頭を押さえる男の手を振りほどくと むしろに横たえた。
「もう思い出すでない、名などよいから落ち着け、もう考えるな」
肩の背中を優しく叩きながらまるで子をあやすように男にささやく弦斎である。
そんな弦斎に長政は「気失せとはいかなる病なのじゃ」と聞いた。
「気失せとは健忘の意にて頭を強く打つなどの受傷・発症より昔の記憶が抜け落ちる病をいい、無理に思い出そうとすればこの様に強烈なる頭痛をともなう病なのじゃが…」
「さすればこやつは名も出自も永遠に思い出せぬと言うのか」長政は弦斎を凝視した。
「いえ永遠ではのうて一時的な障害と覚えまする、それがし昔 京にいた頃 大工見習いの嘉平なる若者が屋根より落ちて頭を強く打ったのでござるが…この男のように気が付いたときは以前の記憶が全くなく頭痛をしきりに訴えておりもうした、しかし十二日ののちにその男はすっかり以前の記憶を取り戻したのでござるよ、ゆえに十日かあるいは何ヶ月後かははっきり申せませぬがいずれは元に戻る日もくるでしょう」
長政はそんな病があったのかといった面持ちでふさぎ込む男の顔を気づかう様にのぞき込んだ。
しかし太兵衛だけは「この男 おのれの出自が言えぬよって仮病をよそおっておるのよ、儂はだませぬからな!」そう嘯くと鼻を鳴らして仮小屋から出て行った。
「奴は豪傑じゃが考えが短絡でいかん」そう言うと弦斎は長政を見て苦笑した。
「得てして豪傑とはそのようなもの…もしや儂のことを言うておるのかよ、老人はきついのぅ。
ところで弦斎殿 あすの早朝にはこの陣を払って我が三番隊は中和・平壌へと軍を進めるが…この男はどうしたものかのぅ」
「そうですな、このままこの地に捨て置けばすぐにも倭人と知れ八つ裂きにされましょう…儂がこの者の面倒を見ますよって一緒に連れて行きますわい」
「弦斎殿面倒を掛けますがよろしくお頼み申す、この男が記憶を取り戻したならすぐにも知らせて下され、では後をよろしく」そう言うと長政も男の顔をもう一度のぞき込んで座を立った。
それと入れ違いに小者が仮小屋に入ってきた、男にあてがう着物を持って来たようだ。
小者は床に上がると男の前に色あせたつぎはぎの着物を置いた、それを見た弦斎は「おいおいそんなボロしか無かったのか、この御仁がもし身分有る御人であったら何とする、もそっと程度の良いものを持って参れ」弦斎はそう言うと小者を追い立てた。
むしろの上では先程の威勢はどこへやら、頭を抱えた男は唸りながらうわごとのように何かつぶやいていた。
弦斎はその顔をそっとのぞき見た、その苦悶にゆらぐ男の顔は色白く貴人の相にも見ゆるのが不思議だった。