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第十二話

 城内東郭にある昇華院入口へ息を切らせ駆け込んだ佐八郎は入口脇に佇む警護の兵に向かい「鉄炮二番隊組頭の井上佐八郎と申す、衣笠久右衛門様に火急の用で面会したい、すぐにも取り次いでくれぬか」と詰め寄った。


「衣笠久右衛門様はたった今 金傷医療班の白兵衛様が訪問され治療に入いられた由、治療が終わるまで暫時お待ち下され」そう言って侵入を防ぐかの様に佐八郎の前に立ち塞がった。


「こやつ門衛の分際でこの儂に待てともうすかぁ!」と佐八郎は顔色を変え若い兵をにらみつける。

現代で言えば役員室の前に立つ平社員が、次課長クラスの入室を阻止する様なものだ。


「儂はその医療班の者のことで至急衣笠様にお会いせねばならぬのじゃ、何でもよいから早う取り次げ!たわけぇ」と剣幕露わに凄んだ。


兵はその剣幕に気圧けおされ「暫し待たれよ」そう言うともう一人の警護役に目配せし自身は扉を開け中へと駆けていった。


佐八郎は入口前の石畳をいらだった様に行ったり来たりせわしなく足踏みを始める、その姿を残った警護役の一人は呆れた顔で見ていた。


「あぁ遅い!一体奴は何処まで行ったというんだ」

言いながら入口を塞ぐ兵に意地悪く体をぶつけては足踏みし苛立っていた、陽は既に西に沈み辺りはどっぷりと暗闇に包まれ気温も下がってきた「あぁ腹が減ったなぁ、誰にも告げずにここへ来たよって今頃組の者らは儂を探しておるだろうに」佐八郎は星も見えない冷え切った空を見上げ溜息をついた。


しばらく待つ内、中に入った門衛が出てきて「どうぞお通り下され」と叫んだ。


「きさま何をしとったのだ、遅いぞ馬鹿者!」そう叫び門衛を押しのけると中へずかずかと踏み込んでいく、後ろから「衣笠様は周防の間におみえです!」と門衛の含み笑いの声が投げかけられた。

「ええい面白うない」と三和土たたきで草履を脱ぎ散らかし廊下を走り始めた。


しかし周防の間など初めて聞いた部屋…何処だろうと右往左往するも部屋前に周防の間と書いてあるわけはなく佐八郎はすぐに行き詰まってしまった。


仕方なく三和土まで戻ると入口へ行き、「きさまぁ、周防の間とは一体どこなんじゃ!」と声を張り上げた、すると警護役の一人はそら見たことかと小馬鹿にした顔で手のひらを佐八郎の眼前にかざし、その手のひらに部屋の位置を指で描きながら佐八郎に見せる。


「ふん!ここを右に曲がって突き当たりを左じゃな、で何番目の部屋なんじゃ」

すると兵は指を四本立てた。


「きさまは口がきけぬのか!、組頭に向かって身振り手振りで説明するとはこの野郎…」と睨みつけるも気は急いており鼻を鳴らすと再び廊下に駆け上がる。


しかし怒りにまかせ部屋前まで来てみたが…いざ部屋を前にすると(俺は一体にここに何しに来たんだろう)と戸惑った、白兵衛を擁護しなければと思い後先も考えずに突進してきたが、冷気にあたり興奮が醒めてしまえばその目的は曖昧になる。


(無骨な儂がお偉方に何をもの申すというのだ…)

中からは衣笠久右衛門と思しき声音が微かに聞こえ、それに抗弁するかの様に白兵衛の声も聞こえてきた、刹那その声に触発されたのか、ええいままよとばかりに朝鮮障子を開け放った。


その時である、白い物がフワと浮く様な感じに飛び来たり、佐八郎の胸高さを緩やかに飛び去ると向かいの唐戸に当たって音もなく落ちた。


その白い物は半紙を折ったものであろうか、今まで見たこともない奇妙な形をした折り紙だ。

佐八郎は首を傾げながら落ちている折り紙を拾うと それを一瞥し、そっと部屋内を覗き見た。


すると白兵衛に対峙した久右衛門の目が真正面に見えた、その視線は驚愕に満ち佐八郎が摘まむ折り紙に向けられていた。


佐八郎はすかさず部屋に入り戸を閉めて久右衛門の前へと進んだ。

久右衛門は 驚きを取り繕うような仕草で佐八郎を見つめ「井上佐八郎か!おぬしは何しにきた!」と怒った顔で「門衛を脅すとは横着おおちゃくであろうが」とにらみ付けた。


(門衛め何を告げ口しやがったのか…)と思うも佐八郎はかしこまってその場に正座した。


「失礼の段 平に御容赦を、それがし白兵衛様とは懇意こんいの間柄、つい先程まで師には二刻ものあいだ銃の教授を受けておりました、その際こちらへ参ると聞き及び 誠に不躾ぶしつけとは存じまするが師をよく知るそれがしの想いも聞いて戴きたくまかり越したのでござりまする」

佐八郎は語りながらも淀みなく口を突いて出る口上こうじょうに我ながら驚いてもいた。


「何!白兵衛を師とな…おぬしほどの銃の達者がこの白兵衛を師と仰ぎよるのか」と久右衛門は驚きを隠せない。


「左様でございまする、それがしの銃器博識などは師の前では赤子も同然、誠に恐れ入る師匠でございまする」


「ふむぅ、黒田家随一の鉄炮識者に赤子とまで言わしめる白兵衛…そなたやはり先程申した通りこの時代の者ではないのかもしれぬのぅ、して今投げた紙飛行機というたかな あれは一体何なのじゃ」


「あれは」そう言って誠二は佐八郎を頼もしげに一瞥すると「あれは空を飛ぶ乗り物でござる、それがしが暮らす四百年後の時代では紙でなくもっと巨大な旅客機というものが三百人もの人を乗せ空を飛翔しているのです」


「………たわけ!やはりそなたは狂人じゃ、手妻(手品)じゃあるまいし どうして何もないこの天空に三百もの人が浮かせられるものかよ、狂人の戯言ざれごとには付き合っておれぬわ!」


「戯言とおっしゃるは当然のこと、ここでは証明のしようがありませぬ、ゆえに先程紙で模型を作り飛ばしてお見せしたのでござりまするが、信じろというは困難でありましょう、しかしながらこの時代にこの様な空を滑空する折り紙など誰が作れましょうや」誠二は佐八郎が手に持った紙飛行機を受け取ると今度は強く投げた。


すると紙飛行機は勢いよく天井付近まで舞い上がり、そこから大きな円を描きながら二回転ほどもゆるやかに滑空し静かに着地した、その飛翔は誰が見ても紙が投げられて飛んでいくのとは異なり、まるで白鳥が意志を持って滑空するかのように見えたのだ。


「久右衛門様、この紙の飛翔は鳥が滑空するさまに似ているとは思いませぬか、これは風を受けて空中に浮いたのでござる、何なら今よりこのこの折り紙がなぜ鳥の様に空中を飛翔することが出来る原理など説明させて戴ければ納得が行いくかと存じまするが、いかが」


「まだ言うか、そんなものは子供騙しの玩具に過ぎぬわ!さらに言いつのるならば狂人と見なし牢に閉じ込めねばならんがそれでもよいのか」と誠二をにらみ据えた、だがその目には憎しみなど毛筋ほども見えず、誠二には興味に満ちあふれた眼差しに見えた。


「久右衛門様、もそっと穏やかに師の言い分を聞いて下さらぬか、それがしも師の学識を知るまでは狂人の戯言と思おておりました。


しかし聞き進むにつれ師の唱える原理は実理に適かなっており信ずるに足たる理論でござった、先程聞いたばかりでござるが手から石を落とし地に着くまでのわずかな間に十発もの連射が出来る銃機関の仕掛けを教授され、初めて師がこの時代の御方ではないと信じるに至ったのでござりまする。


我が師を信ずるに足りず狂人ともうされるなら明日よりその機関銃とやらを造って御覧入れましょうぞ、幸い鉄炮修理の備えに我が配下の銃工匠を数人連れてきておりまする、これより師に絵図面を描いてもらい早急に製作に取掛かりとうござるが御許し願えまするか」と佐八郎は結んだ。


「んん…そこまでおぬしが申すなら許さぬこともないが…もし出来なかったときはそちもただでは済まぬがそれでもよいのか」


「はっ、おおせのままに、しかし出来た暁には師が唱える滑空理論を聞いて戴けますな」

と佐八郎も念を押した。


「承知した、して期限は師走の末までとするがよいか」


「それでようござる、では師匠これで帰りましょう」そういって早々に佐八郎は立ち上がった。


誠二にとってみれば火器技術の前にまずはインパクトのある航空理論で未来から落ちてきたことを印象づけようと紙飛行機を飛ばしたのだが…急に現れた佐八郎に話を横取られ気が付けば考え抜いた誠二のシナリオとは違う方向へ進んでしまった。


佐八郎に促され渋々立ち上がると衣笠久右衛門に一礼し、引きずられる様に周防の間より連れ出されてしまった。


外に出ると興奮から冷めたせいか その冷え込みに震え上がってしまう、だが内心は思惑とは違ったものの帰結にそれほどの差はなく、また佐八郎が誠二を想っての庇護突出が嬉しく何故か心は温かみに満ちていた。


佐八郎は歩きながら嬉しそうな顔で振り返り「師匠!危なかったですなぁ、もしあのまま言いつのればどんな災いに及んだやら、後はそれがしがうまく運びますよってどうぞお任せあれ」としたり顔の佐八郎である。


(衣笠久右衛門という男…やはりただ者ではない、どうやら最初からこの俺の素性を見抜いていたようだ、さてあの男 この俺に一体何をさせようと目論んでいるのか…)

誠二は隣で喜ぶ佐八郎を横目に これより我が身に訪れる吉凶を慮った。



 北京行きJL869便のビジネス席で書類を書き終えるとパソコンを膝上から脇テーブルへと移した、そのテーブルに冷めたコーヒーがまだ残っていることに気付きカップを手に取った、すると視線は自然に前方のテレビモニターに行く。


モニターの地図上に示された機の現在位置は朝鮮の海州沖辺りにあった、誠二は背筋を思い切り伸ばすと今日一日の出来事をぼんやりと脳裏に描いた。


朝9:16分の新幹線で名古屋を出て東京には11時頃に着いた、八重洲から中央通りへと歩き東京支社の玄関をくぐる。

六階の工機部に行くとすぐに部長の武田を呼び工程進捗の打合せに入る、昼になったとき支社長の太田黒から内線で「すぐ近くに旨い飯屋が出来たからメシに行こうや」と誘いがあった。


彼は誠二の八年先輩で、二十年以上も国内外を精力的に活動してきた本社営業のやり手であった、しかし歯に衣着せぬ豪放な性格が災いしてか役員らにうとまれ一昨年東京支社に飛ばされた男だ。


太田黒は骨から肉を器用に切り出し旨そうに頬張った、そしてクチャクチャと咀嚼しながら「午後から北京に行くんだってな、どうよ向こうの進捗状況は」と言いつつフォークは止まらなかった。


「はい、天津武清の工場増築は二ヶ月前に終わり今は設備類の据付もほぼ終わったところでしょうか」


「じゃぁ生産に入るのは来月辺りか…ということは一段落つくんだ。

そう言えば近々お前が役員になるらしいと本社の内田常務が言ってたが…お前の親分は何か言ってなかったか」


「親分だなんて、木田専務からは特に何も聞いていませんが…」


「木田専務の懐刀と言われるお前が何も聞いてないなんぞ有り得んだろう、俺が奴に嫌われてるといって隠すことはなかろうが」


「本当ですって、本当に何も聞いてませんよ、それに私はまだ45歳になったばかり、こんな若造を役員に推すなんてありえませんから」


「おかしいな…内田常務の情報はいつも的を射てるんだが、しかしこれまでのお前の業績は他を圧倒していただろう、例えばオートチューニングのマシニングセンタで国内トップシェアに躍り出たのも、不況時に医療機器のOEM生産で乗り越えられたのも みなお前の手腕とその成果じゃないか。


直属上司で平取りだった木田の野郎が専務に抜擢されたのはお前の功を独り占めにしたからと陰で噂されとるぐらいは知ってるだろう、これでもしお前が役員になれなかったら奴は人非人だぜ」


「人非人なんて言い過ぎですよ」


「ふん、あいつは昔からそうなんだ、一見人の良さそうな顔をしとるが心の底では何を考えてるのか知れたもんじゃない、この俺を飛ばしたのも奴の仕業よ」


それからは肉を食うのも忘れ太田黒は延々と専務との確執かくしつうらみ、無能さを上げ連ねた。


食事を済ませた昼からは眠気を誘う営業会議だ、会議が終わるとまたもや太田黒から「話の続きがあるから地階の喫茶室まで来てくれ」と連絡が有った、しかし15時33分の成田エクスプレスに乗り遅れるからと逃げる様に東京支社を後にしたのだった。



 カップに残ったコーヒーを飲みながらシートに背をあずけると太田黒が洩らした「そう言えば近々お前が役員になる公算が高いと本社の内田常務が言ってたが…」の言葉が脳裏をよぎった。


来年には役員の椅子が待っている…正直言えば木田専務からその話は聞いていた、しかし太田黒に否定したのは羨望されるのは鬱陶しいと思ったからだ。


(俺もとうとう役員か…妻の志津江がさぞ喜ぶだろう)

そう考えながらカップを口から離したときなぜか胸騒ぎを感じ、もう一度書類を見直そうかと再びパソコンを膝上へ戻した。


その時である、後ろから蹴っ飛ばされるような凄まじい衝撃と轟音が加わり 耳奥がキーンと弾け一瞬意識が飛んだ、しかしすぐに凄まじい熱気に炙られる苦痛に我に返った。


眼を開けると機内は猛烈な炎にさらされ、その炎は頬を焼き髪を燃やしていた、誠二は悲鳴を上げながら立ち上がろうと藻掻もがいたが安全ベルトが引き締まりビクとも動かない。


慌ててバックルを探すも腹にくい込んだパソコンが邪魔で手は狂った様にパソコンの蓋を掻いていた、そのとき大音響が再び後方にはじけ、誠二は布団から飛び上がる様に目覚めた。


(あぁぁ夢か…)

汗で体中が濡れていた、布団から半身を起こすと辺りを窺う、治兵衛がすぐ隣で大鼾で熟睡していた、そして戸の隙間から見える外はまだ暗闇にあった。


真夜中か…そう思い再び仰向けに寝た、しかし背中の濡れと神経が尖り、フッと眠りにつくもすぐにうなされ目覚めてしまう、そしてようやく深い眠りに落ちたのは空が白みかけた頃だった。


「こいついつまで寝とるんだ、早よ起きんか!」

治兵衛に汚くののしられ白兵衛は暖まった寝床から怯える様に這い出た。


「夕んべは晩飯も作らんで何処で遊んどったんだ、今朝も陽が高こうなるまで寝てやがって、早よぉ顔でも洗ってこんかい!」今日の治兵衛はいつになく機嫌が悪い。


下帯からはみ出た尻を思い切り蹴飛ばされ白兵衛は転げる様に井戸端へ駆けだした。

江陰城詰めの金傷医療班は弦斎の愛弟子である治兵衛と見習いの白兵衛の二人だけだ、ゆえに大先輩の治兵衛には頭が上がらず、布団の上げ下ろしから食事 洗濯の世話まで当たり前の様に白兵衛の役目になっていた。


治兵衛は今年四十六で弦斎とは同い年と聞いた、しかし白兵衛よりたった一つ年長なだけにその底意地の悪さにはいつもいきどおりを覚えていた、しかし盛り上がった筋肉や刀胼胝だこ、そして彼の圧倒的威圧感に接するとえてしまう白兵衛である。


この時代の朝鮮出兵という狂気の世界、少し御役が上 或いは先輩というだけで下の者は奴隷扱いとなる、それは彼らが生殺与奪の権を握っているからに他ならない、誠二はこれまでほんの些細な過ちでも陰で陰湿に虐められたり、或いは密かに縊り殺されている現場に遭遇したことがあった、だが何も見なかった 何も知らなかったで通すことがこの世界で生き残れる唯一の方策と体に叩き込まれていたのだ。


井戸端で顔を洗い東の空を見ると陽の高さはすでに山の頂きを少し出ていた。

(ふぅ だいぶ寝過ごしてしまったな…こりゃぁ治兵衛殿が怒るわけだ)

顔を拭きながら炊事場へ戻ると奥の板の間に 角が欠けた折敷おしきあわ飯、味噌汁、青菜と漬物の小鉢が並び、旨そうな湯気が立ちのぼっていた。


治兵衛が珍しく朝飯を用意してくれたのかと喜び 板の間に上がり座ろうとしたとき

(えっ一人分しかない…ということは寝坊の罰として今朝も朝飯抜きということ?そんなぁ…)


旨そうな匂いを嗅いだ後だけに落胆は大きかった、白兵衛はしかたなく立ち上ると折敷を恨めしそうに見つめ洗い場の前へ行って水瓶の柄杓ひしゃくを手に取った。


(はぁぁ、昨夜は遅くなり晩飯は抜きだったから目眩がする、仕方ないまた水で空きっ腹を埋めるか)

これまで罰としての飯抜きは頻繁にあった、そんなときは治兵衛に隠れ大豆を炒って粉にした きな粉を口一杯に頬張り水をたらふく飲んだ、そうするとけっこう昼まで持ちこたえることが出来た。


手を伸ばし棚からきな粉の壷を下ろし 中を覗く(あっそうか一昨日全部さらえたんだ…)

しかたなく水を心いくまで飲み柄杓に残った水を洗い桶に注ごうとしたとき桶内に椀や小鉢が沈んでいた。


(ん…この椀や箸は治兵衛殿がいつも使ってるやつ、ということは…)

板の間に慌てて戻ると折敷の上に乗った椀を確かめた。

(あっ俺の椀だ、ということは治兵衛殿はもう済まされ俺に朝飯を用意してくれたんだ…)


白兵衛は崩れる様に正座すると味噌汁の椀を掴み いつも使う対の長さが違う箸を握り椀から立ち登る湯気を顔中に浴びた、すると情けなくも涙が止めどなく溢れてきた。


最近は以前の様に死に怯えるほどの飢餓感は薄らいでいた、それでも食への執着は日々の生活の中で頭の殆どを占めていると言えよう。


飯が朝晩食べられる、そんな当たり前のことが この環境下では至福と感じ 情けなくも涙が零れてくるのだ…。


箸を握りしめ涙を拭いたとき父が語った戦後の話が思い出された。

それは終戦直後 学校給食がまだなかった時代、朝食抜きや弁当を持って来られない生徒がクラスに半数近くもいて、そんな生徒らは昼になると知らぬ間に教室からいなくなったという。


まだ全国民が飢餓の中にあり栄養失調や餓死する子供らは後を絶たず、戦争に負けるということは子供らには死を意味することなのか…、以前高校生の娘と中学生の息子が遅刻するからと二人揃って朝食を抜いて飛び出していった、妻の志津江は後を追いかけ「なぜもっと早く起きられないの!」と玄関口で叱っている声が聞こえた、そんな時は父が語った戦中戦後の食糧難に想いが至ったが、しかし飽食の時代に育った自分には父が語る飢餓への怯えなど想像もつかなかった。


幼少期から青年に そして就職から結婚へと、今日まで“怯え”など無縁に育ち 親兄弟らに見守られ苦労なく社会生活を送ってきた、ゆえに金や食に困った経験など一度として無い、しかし今はどうであろう、惨めすぎる虐めや死を予感する飢餓に情けなくも子供の様に怯えて泣いている、最下層に落とされた人間などに尊厳など微塵も有りはしないということを骨身にしみて理解したのだ。


「何だおみゃぁ、儂が朝飯用意したったのが そんなに嬉しかったのか、けっ!おみゃぁはほんとに餓鬼だよなぁ」いつの間にか治兵衛が台所の入口角に隠れ こちらの挙動を面白そうに窺っていたようだ。


「あっ、治兵衛殿食べさせていただいております」慌てて涙を拭き米つきバッタのように何度も頭を下げた。


「そういやぁ おみゃぁが寝とったとき鉄炮組の若きゃぁもんが呼びに来とったぞ、何でも衣笠久右衛門様の御指図で鉄炮組に配置換えになったと聞いたが、何でおみゃぁはそんな大事なことを儂に黙っとるんだ、この野郎…まぐれ治療が図に当たり みんなにちやほやされて天狗になっとりゃせんか!、呼びに来た鉄炮組の奴には誰が配置換えなんぞさせるかと叩き帰してやったわ!」


「申し訳御座りませぬ、昨夜帰ったときには治兵衛殿は既にお休みで…遅ればせながら報告致します、衣笠久右衛門様の命で急ぎ鉄炮を作ることになりました」


「たあけ!鉄炮だとぉ、おみゃぁ鉄炮なんぞ知りゃせんだらぁ阿呆なこと抜かせ!」と早々に頭をいつもの固い拳で殴られた。


「それでも鉄炮二番組の組頭 井上佐八郎殿に協力し年末までに新式銃を作り上げるよう衣笠久右衛門様の厳命が下りましたゆえ致し方御座りませぬ…」と殴られた頭を両手で抱え抗弁する。


「何で衣笠様がおみゃあに命令できるんだ、金傷医療班は殿様の直轄やぞ、例え御重役といえど勝手に儂らに命令なんかできせんのだわ、まぁええ 今から儂が衣笠久右衛門様に会って問い詰めてくるで、ええか帰ってくるまで何処へも出ちゃかんぞ、ええな!」


白兵衛を憎々しく睨み付けると憤慨した顔で台所の草履をつっかけ外に飛び出していった、その後ろ姿を眺めがら白兵衛は赤い舌を出し、したり顔で粟をかき込み漬物を頬張ると(粟飯は残っているかな…)とかまどの前へ行き鍋の蓋をそっと開けてみた。


(おっまだ大分残ってる…待てよ、これは俺と治兵衛殿の昼餉の分か、まっ昼餉はどうせ鉄炮組で出してくれるだろうから昼餉の分もいただくとするかククッ)

と 辺りを窺い椀に粟飯を思い切り盛りつけ、猫足でそっと戻ると 残った味噌汁を粟にぶっかけ意地汚くかき込み始めた。


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