第1話 魔法の力
世界に魔物が溢れてから、一月が経った。
日本魔導軍なる組織に保護された後、虚は生き残った人達と共に、まるで城塞都市のように四方を壁に囲まれた軍の施設に連れて来られた。
その一角に学校の体育館のような場所があり、虚はこの一月ずっと、そこで災害時の避難所のような生活を送っていた。
そこでの生活は随分高待遇で、プライバシーが犠牲になっている事を除けば衣食住は保証され、不便なく暮らす事が出来ていた。
ただ、生活は保証されているけど、この場の誰もが心の奥で押し殺している疑問である、世界には一体何が起こったのか、今はどういう状況なのか、といった類の情報は、不自然な程に何の説明もなかった。
生き残った人々がデモを起こして軍に対して情報を開示しろと迫ったりもしたが、軍は無言を貫くばかり。
一体何故こんな、“世界が壊れると事前に分かっていた“かのような設備や潤沢な物資があるのか、その情報が与えられることはなかった。
一方の虚はというと、意外にもこの一月ずっと、何の行動も起こさず大人しく生活していた。
(何せ魔法なんていう未知の力があるんだ。一体どこまで俺の力が通用するかわからない以上、迂闊には動けない)
いくら世界最強の暗殺者で、誰にも気づかれない“気配遮断“なんてチートな技術が使える虚でも、未知の力を前にしては何もできない。
万が一軍に見つかりこの場所から追い出されでもしたら、流石の虚も生きていくことはできないだろうから。
(……けど、そろそろ俺も限界だ。これ以上この場所の鬱々とした空気に当てられたら気が狂ってしまう)
ただでさえ災害によって大切な者を失っているというのに、避難所での常に衆目の中にいるプライバシーの無さは、人々の精神を更に蝕んでいる。だから雰囲気は日毎に悪くなっていた。
しかも、未曾有の災害を前に状況は最悪。随分用意周到なように見えるが、はたして国が、軍が、いつまでこうして生活を保証してくれるかもわからない。
最悪は既に国家が崩壊している可能性まである為、行動を起こすなら、早くしなくてはならない。
待っているのはもう限界。──だから虚は、禁じ手に頼る事にした。
「……本当に、この手だけは使いたくなかったんだがな」
心の底からため息を吐いて、虚は思わず独りごちる。今から虚は、恐らく現状を打破出来るとは分かっていても、プライドが邪魔をしてこの一月使えなかった手段に頼る。
──それだけが、現状を打破出来る唯一の手段だから。
「少しいいか? ……唐沢玄二って奴に会いたいんだが、どうしたらいい?」
普段から無表情で突っ立っている、避難所の入り口にいる軍の隊員に向かって、虚はそう、奥の手を行使したのだった。
***
少しだけ、昔の話をしよう。
幼少期は《神童》と謳われ、十代前半で頭角を現し、高校に上がる頃には並ぶ者などおらず、世界最強の一角“死の影”と恐れられた天才暗殺者。
それが、裏社会で広く知られる御影虚という人物だ。
目の前から忽然と消える程の気配遮断の技能を持ち、振るう刃は冷酷な上に正確無比。
高校一年生にして、虚の見ている景色は誰よりも高く遠くにあって、有能な暗殺者達も彼の前では赤子のように無力。
強さに誇りを求める虚はその事に嫌気がさして、あの夜を区切りに暗殺者を辞めようと思っていたのだ。
だが、そうして彼が誇りを持っていた強さという境地は、唐突に終わりを迎える事となる。
──重力の反転とスタングレネードの爆発と共に、世界には魔物という化け物が溢れるようになってしまった。
魔物は人がその身で太刀打ち出来るようなレベルを遥かに超えていて、虚が登り詰めた遥かな高みはいとも容易くゴミクズのように踏み荒らされ、なんの価値のないものに成り下がってしまった。
だが、魔物に囲まれ死すらも受け入れかけていたあの厄災の日に見せつけられた“魔法”という力。それを思い出す度に、虚の胸の内に焦燥感が芽生え、虚の胸を焼き焦がす。
一度は望んだ遥な高み。以前は誰一人追いついてこなかった強さの果て。その高みが矮小で滑稽な箱の中だったと言わんばかりの、未知の強さの存在。虚の心はこの一月、それを求めてやまなかった。
だが、求めてやまなかった、とは言ったが、実はそこに至る為に進むべき道は最初から示されていたのだ。
ただ、僅かに世界最強としてのプライドが進むのを邪魔していたから、虚はそれを選べずにいた。
──簡単だ。未知の強さに至りたいのなら、それを持つ者に聞けばいいだけなのだから。
「よう、やっぱり来たか」
避難所の外にいた隊員に声をかけた後、虚は確認の為少し待たされると、それまで保護された人々は入る事が許されていなかった軍の保有する区画へと案内された。
そして見たことのない白い長方形の大きな建物の前に連れてこられると、黒髪ロングでモデルのようなすらっとした体形の眼鏡美女が虚を引き取り、更に面倒なセキュリティを色々と超えた後、奥にある一室に通された。
そこはどこか荘厳な雰囲気のある、広い部屋だった。チンツ張りの柔らかそうな対面ソファに腰掛けて、年不相応な茶髪が妙に似合う疲れた顔の男がカラカラと笑い、虚を手招きする。
「まあ、座れよ。こうしてここまで来たわけだし、お前も現実を把握出来てないわけじゃないんだろ?」
勲章がいくつも付いた軍服を身に纏い、やたら美味そうにタバコを吸うのは、災害の日に虚を保護した男、唐沢玄二。
「……現実は、把握してるつもりだ。だから、力を求めてここに来た」
促されるままにソファに腰掛けて、虚は玄二に視線を向ける。
「はっ、それが人に物を頼む態度とは、暗殺者ってのは教育がなってないな。おっと、それくらいの調べはついてるさ。お前が何者かって事もな。……だから、現実を把握出来ているなら、俺とお前の間にある溝の深さを理解して話せよ」
ヘラヘラしているようで、玄二には格の違いを見せつける余裕があった。一瞬冷たく睨まれただけで、世界でも屈指の暗殺者が、畏怖を覚えるほどには。
「……俺は実力あるものに払う敬意は持ち合わせている。だが、その魔法という力にはまだ、納得がいっていないもんでな。俺を従わせたいなら、相応の力を示して貰いたい」
身分も年齢も、そして力も、上なのは明らかに玄二の方だ。保護された日に一度示された力の差を、虚ははっきりと覚えている。
けれど、多少の力の差を前にして竦んでしまう程、柔な世界を生き抜いて来た虚ではない。玄二の放つ圧力に対抗して、軽い殺気を込めて視線を返す。
玄二にとって虚は、一見ただの一捻りで倒せそうな非力な少年でしかない。だというのに、いきなり雰囲気を変えた虚の視線に、玄二は言い知れぬ緊張を感じさせられた。
「俺も己の力でのし上がってきた人間だから、お前の思考は理解できる。いいだろう、相手をしてやる。……沢野、頼む」
「全く……分かりました」
虚をここまで連れてきた黒髪ロングの美女──沢野明美は、玄二に言われ、部屋の端に設置されていたディスプレイパネルを操作する。
すると、豪華な応接室だったはずの部屋は一瞬にして無機質な長方形の空間へと変貌した。
「──っ、こんな事が出来るのか」
突然部屋が変化したせいで座っていた椅子が消えて尻餅をつきつつも、虚は魔法への好奇心を隠しきれず、辺りをキョロキョロと見回す。
「さあ始めようぜ。力の差を見せてやる。普通にやってもつまらんからな。先手はお前にくれてやる」
「その言葉、後悔するなよ」
玄二が腕を組んで、好きにかかって来いとばかりに隙を晒す。安い挑発ではあるが、力は玄二の方が上なのがわかっている以上、そこを見逃す余裕は虚にはなかった。
直後。目の前で、今の今まで相対していたというのに、瞬きの一瞬で虚の姿が玄二の視界から霞と消えた。
「おいおい、とんでもねえな」
それが魔法だと言われても容易く信じられる。それくらい、虚の気配遮断の技術は異常だ。余裕綽綽だった玄二も、これには驚きを隠せずにいる。
『火炎陣』
だが、玄二が小さくそう唱えて手を振り下ろすと、彼を中心に炎が円状に放出された。空間に揺らぎを生み出しながら動くそれはまさに、回避不可能の一撃。
いくら目に見えないとはいえ自分に攻撃を仕掛けてくると分かっている以上、玄二には対処のしようがいくらでもあった。
「──ちっ」
これで終わりだろうと、玄二はそう思った。本来、人の身一つで魔法を相手にすることなど無謀でしかないからだ。
だが、虚は着ていた上着を広げて簡易的な防具とし、着弾の瞬間に合わせて前へと飛び込むことで炎の直撃を防いで見せた。
そして、もはや気配遮断も止め、最高速度でそのまま玄二へと迫る──。
「見事だ。魔法がなきゃ、俺はお前に勝てないだろうな」
だが、虚の攻撃が玄二に当たることはなかった。
直後、一体どうやって動いたのか、玄二は背後に回り込み、虚の首を締め上げていたのだ。
「これが魔法だ。……納得出来たか? ”死の影“さん?」
勝敗は決した。そう思い、抵抗する事をやめた虚を解放して、玄二が問いかける。
「かはっ……はぁ、はぁ……ああ、どうやら認めるしか、ないようだな」
「そいつは良かった。それじゃあここからは建設的な話をするとするか」
息も絶え絶えに話す虚を満足げに見ながら、玄二は話を始めた。