プロローグ③
本来現実には存在しないはずの魔物、ゴブリン。暗殺者稼業に飽き気味だった最近少し齧ったゲームで目にした事があったが、現実で見るそれは凄まじい威圧感があり、あまりに醜悪な姿に虚は吐き気を覚えた。
何せ、その人ならざる魔物は、今しがた虚の目の前で悲鳴を上げていた女性の首を、大きな口で噛み切ったのだ。シルエットだけは人と似ているのが、人とは何もかもが違う。まるでゴキブリと相対した時のように、目の前のそれが敵であると、虚の本能が警笛を発していた。
「グウゥゥゥ……グッチャ、ゴウゥゥゥ」
響いて来るのは事切れた女性の肉を食らう生々しい咀嚼音と、地獄の奥底から響くような、低いうなり声。創作の中だけかと思われた存在が今、現実に、人を殺め、そして喰らっている。その事実は、暗殺者として人の死に慣れている虚からしても、あまりに受け入れ難いものであった。
「ほんと、冗談だろ?」
「グウゥゥゥ……ウ」
とうとう壊れてしまった世界に向けて問いかけるように空笑いを浮かべた直後、咀嚼に夢中だったゴブリンの意識が唐突に虚の方へ向いた。距離があるから非現実を前に呆けていられたが、気配を消す事もなく正面に立ち尽くしていて、気付かれないわけがなかったのだ。
ゴブリンは女性の死体を脇に投げ出して、どんどん虚の方へと迫って来る。このまま何もしなければ、あの女性のように無残に死に絶えてしまうだろう。ゴブリンの野性味を帯びた獰猛な表情は、そんな未来を想起させるには十分すぎた。
(震えてる? 俺が?)
乾いた笑いが浮かぶ。強がりを言っても、現実に迫り来る恐怖には言い難いものがある。たった今目の前で人を喰らったという事実が、脳裏に焼き付いて離れない。
「ははっ、ゴブリンなんて、ゲームじゃ雑魚扱いだったのにな」
ゴブリンは既に虚を捕捉している。ゲームでは雑魚といってもここは現実で、二メートルを超える体躯がある化け物だ。馬力も速度も、きっと虚より早く、逃げてもすぐに追いつかれてしまうだろう。
(なら、相手の油断を突く方が、まだ可能性があるか)
逃げられない以上、戦うしかない。そう決めた虚は姿勢を低く構え、迫るゴブリンに向かって自分から駆け出していく。それを見たゴブリンは手に持っていた南蛮刀を大きく振りかぶり、そして、一切の躊躇なく、虚の命を狩り取ろうと振り下ろす。
ヒュッと空を切る鋭い音が鳴るほどに、ゴブリンの振り下ろす力は強い。当たった地面はコンクリートで補装されているはずなのに、砕け散っている。
──けれどそう、南蛮刀は地面を砕いたのだ。狙った虚には当たらずに。
「馬鹿みたいな威力だな……それに、躊躇いがない」
殺し慣れているような輩でもない限り、相手に得物を向ければ多少の物怖じをするものだ。けれどゴブリンにはそれがない。相手は怪物、虚は獲物。そもそもの基準が違うのだろう。
「けど、相手が悪かったな。そんな力任せのやり方じゃ、俺には通用しない」
大振りの一撃を躱した虚は、ズボンの内側に忍ばせていたナイフを引き抜くと、一閃。自分の背よりも高いところにあるゴブリンの首を、虚もまた一切躊躇いなく一撃で綺麗に切り落とした。
切り口からドス黒い血が溢れ出す。耳に残る醜悪な断末魔が辺りに響く。虚の手には相手を殺した感覚が鮮明に刻まれる。だが虚には、動揺も慟哭も汗の一滴すらもない。
「経験値は入らない、か」
創作の中なら現実世界で経験値が手に入って強くなったりもするのに、なんて事を考えながら、首と胴体が分かれて地面に崩れ落ちた死体には目をくれることなくそんな事を呟く。
世界最強と謳われる程の実力を持つ暗殺者である虚にとって、本能のままに暴力を振りかざすだけの魔物の一匹など、相手にもならない。ただ虚の圧倒的実力を前に、命を散らすだけだ。
──尤もそれは、相手が一体なら、の話だが。
「一匹見たら百匹はいるってか? 本当にゴキブリみたいな奴らだな」
辺りを見て、思わず虚はため息をついた。虚がいる一本道の両端から迫る、十や二十じゃきかないであろう大量のゴブリンの群れ。最初の一匹と戦っている間に、気付けば虚は取り囲まれていた。
「まあいいさ。ゲームと同じだ。ゴブリンなんていくら来ようと敵じゃねえ。それを証明してやる」
一度殺す事が出来てしまえば、虚にとって彼らはただの獲物でしかない。虚は先程までの恐怖心とは裏腹に、興奮して高鳴る心臓の鼓動を必死に押さえ込みながら、ゴブリンの包囲を抜けるべく、前へと一気に駆け出す。完全に距離を詰められて背後から攻撃されるよりは、正面に距離を詰めた方がまだましという判断だ。
そうして虚は、止めどなく襲いくるゴブリンの群れと戦い続ける──。
虚がゴブリンの群れに突っ込んでから、しばらく時間が経った。
「きゃあああぁ! ……あ」
辺り一帯から度々聞こえてくるのは悲鳴と断末魔。赤く染まった街は燃え盛る炎の熱さとそこら中から上がる恐怖の声で埋め尽くされ、まさに地獄絵図と言うべき有様だ。
「はぁ、はぁ……」
もう、何体相手取っただろうか。疲労と、更に体力を奪う周囲の熱気に充てられて、意識を朦朧とさせながら虚は考える。一体どこから湧いているのか、倒せど倒せどゴブリンは湧いて来る。一匹一匹は大した相手ではなく、虚なら瞬殺出来る。けれども無尽蔵に迫るゴブリンの群れを前に、虚の体力はもう、限界に近かった。
(……配電設備への細工やらなんやらで、今日は一日動きっぱなしだったからな)
ゴブリンとの戦闘の前に、虚は物凄く面倒な研究施設への諜報依頼をしたばかりだ。結果こそ失敗どころではないくらいに散々だったが、今日一日の疲労が、長期戦になった今響いてきたのだ。
「──っ!?」
攻撃の途切れ目に一息つこうとした矢先、背後から虚の腕を大振りの棍棒が襲った。間一髪でそれを交わしたが、背後を振り返った虚は、あまりに理不尽に現実の残酷さを呪った。
「そりゃあねえよ……」
棍棒の主は全長三メートル以上ある巨体に灰蒼の体──オークだった。顔は豚、体はデブ、女性を拐い種付けをするあのオークだ。今一撃の速度から見て、オークがゴブリンを遥かに凌ぐ強さなのは明確だ。それが十体以上、ゴブリンの群れを蹴散らしながら、虚へと迫っていた。
「まったく、冗談だろ……? 夢なら早く覚めてくれよ……」
ゴブリンの群れにオークの集団。そのあまりに非現実的な光景に思わず弱音が漏れる。しかし、そこで戦う事を迷いはしない。虚はまだ、生きる事を諦めていない。
半眼で無感情にオークを見据えると、虚はその懐目掛けて一気に駆け出す。途中にいるゴブリンの全て無視して、素早く動き、オークの元まで辿り着くと、巨大な手を駆け上がって首元まで迫り、そして、血でどす黒く汚れたナイフを一閃する。直後、頭と切り分かれたオークの首元からは灰色の血が噴き出し、去り際僅かに虚の腕を灰に染めた。
「来るなら来い! まだ、死んでやらねえよ……!」
オークの死体を踏みつけたその上で、虚は魔物の軍勢に向かって吠える。世界最強の暗殺者“死の影”。積み上げられた歴史に轢かれるならともかく、疲労で死ぬなど、そんな無様が許されるはずがない。いくら引退する予定だったとはいえ、虚にもプライドがある。
力を振り絞り、迫りくるオークを次々に片付けると、魔物の数も減りようやく脱出の目処が立ち始める。だが、その時だった。
「オオォォォォウ!」
脳裏に直接響き渡るような甲高い咆哮が、朱色に染まった空の彼方から聞こえてくる。
「ドラゴン……いや、ワイバーン、か?」
我が物顔で、吹き上がる火柱に照らされて朱色に染まる空を舞うのは、群れを成して飛ぶ十数匹のワイバーン。時々咆哮とともに地上に向かって吐き出される熱線はまだ遥か先にいるはずなのに虚まで熱量が伝わる程の威力で、たった一発で半径百メートルほどを火の海へと変貌させる。
「はっ、なんだよ、あんなの勝てるわけないだろ……」
空を飛び、呼吸をするように街を焼く飛竜。そんなの、人が相手に出来る訳がない。虚のこれまでの必死の攻防も、白兵戦であればこそだ。一吹きで家々を簡単に焼き尽くす業火に晒されてはひとたまりもない。
「あの攻撃範囲はどこに隠れても無駄だろう。どうにかして、射線上から逃れるしかないが……」
「グルゥゥゥゥゥゥ」
どうにかワイバーンから離れられないかと考えたが、虚はすぐにかぶりを振ってその考えを捨てた。ワイバーンに気を取られている間に、再び前後の通路は、ゴブリンとオークで埋め尽くされていた。彼らを相手取りながらワイバーンをやり過ごすのは不可能に近い。更にいえばここから離脱する事も、満員創痍の今の虚には出来るかどうか怪しい。
(ここまで、か……)
弾薬も手榴弾も、かなり前に尽きてしまっている。加えて現れた人の身では越えることの出来ない化け物を目の当たりにした事で、虚の心は完全に折れた。それ以上戦う事を諦めて、ただ呆然とその場に立ち尽くす。
ちょうどその時、虚の頭上を飛んでいるワイバーンの一体が近づいて来て、虚のいる場所に向かって熱線を放とうとした。
──だが、熱線が虚を焼く事はなかった。突如として付近の地表からワイバーンの放つ熱線に似た黄色い光の帯が煌めき、ワイバーンたちに向かって直撃し、撃墜されたからだ。更に光は何度も放たれて、ワイバーンたちは次々に墜落していく。
(あれが撃墜された……?)
今の攻撃、考えられるのはレーザー兵器の類しかないが、現代の技術でそれはまだ実用化されていないから、それはあり得ない。何が起こったのかはわからない。だがとにかくこれで、目の前の敵に集中することが出来る。
とはいえ前後の魔物の総数は数えきれない程に多い。その中にはゴブリンやオークを超える強敵もいるかもしれない。ワイバーンがいなくなったとはいえ絶望的な状況には変わりない。
「せめて銃があれば──!」
今のナイフ一本の近接戦のみではもう体力が限界だ。だが、立ち止まる事は許されない。前後から押し寄せる魔物の両方を相手取る状況になるのだけは避けなくてはならないからだ。魔物の裂目を狙ってどこかに逃げるか隠れるかするにせよ、武器を取りにバイクに戻るにせよ、どちらかを選ぶ必要がある。
「──くそっ」
僅かに残った希望に己の命を賭して、虚は真っすぐ後ろに駆けだした。
(……このまま逃げてもどうせジリ貧だ。けど、死ぬ気でバイクまで辿り着ければ多少の武装が手に入る。そこに活路を見出すしか──なんだ!?)
突然起こった巨大な爆風に、虚は思考を遮られた。姿勢を後方に仰け反らせ、どうにか爆風を凌ぎ切る。
「建物が、倒壊したのか……?」
見ると、目の前が激しい炎に包まれていた。そこは丁度、先刻まで怪物どもが鎮座していた場所だ。既に火災は手が付けられない程に広がっている。建物が倒れて来る事に不思議はない。だが、それは違った。目の前を染める炎の海は偶然に起こったわけではない。それは、人為的に起こされたものだ。
「ったく、てめえはよ、被害がでかくなるから市街地で炎系統は使うなってんだろうが」
「あ、すいませんつい……」
戦場に響くのは、明らかに状況に似つかわしくない、余裕をもって繰り出される会話。そして規律正しく響く、複数の硬質な足音。そこにいたのは軍服を着て、統率が取れた足並みで前へと行進する集団。虚の知る限り、そんな組織は一つしかない。自衛隊だ。
「そこのお前! いや、それだけじゃない。この辺で隠れてる奴がいたら出て来い!」
部隊の先頭を歩く四十代中盤はありそうな老け顔で、咥えたばこをふかし、緑の軍服を腕を抜き、纏うように着崩した茶髪の男が気怠さを滲ませた声で大きく呼びかける。
「たった今、俺たち日本魔導軍戦闘部隊が現着した! いいか! お前らは助かった! 動けるものは速やかに外へ出て声を上げろ!」
立派な口上はやはりというべきか、気怠そうな声質のせいで些か真剣味に欠けている。
助けが来た。それはこの絶望的な状況に差し込んだ光明。垂らされた蜘蛛の糸だ。だが、今しがた圧倒的な力で怪物を掃討した彼らを見ても尚、虚は距離を保ったまま構えを緩めない。助けを求める事はしない。虚は、彼らを信用していなかった。
「ん、で、そこのお前! お前だよ坊主」
「……」
男は日本魔導軍と言ったか。そんな組織は見たことも聞いたこともない。虚は情報に通じているという自負があるからこそ、余計に未知対する警戒心が強くなっているのだ。加えて、この果てしない絶望の中、ギリギリの命のやり取りを続けてきた今の彼にとって、この混沌とした状況の全てが警戒対象。真に信じられるのは、自分だけ。そうやって、沢山の命を見捨てた上で、虚はこの瞬間まで生き残って来た。
すると、一向に動こうとしない虚を見かねて、今しがた呼びかけをした男が虚に向かってずんずんと歩み寄る。
「隊長、待ってください。彼は今──」
「うるせぇ。黙って見てろ」
男の後方にいる同じ軍服を着た十数人がざわつくが、男は気にした様子もなく、どんどん近づいて来る。
「救いを与えようとしても、警戒を緩めない。おまけにその返り血。一体どれほどの間、生身で奴らとやりあってたんだか……」
「……おい、止まれ」
虚は身も凍るような低い声で、無遠慮に近づく男を制した。今の虚が放っているのは一流の暗殺者のみが放つ事が出来る、本物の殺気だ。死を体感させる程のそれに後方の兵士たちが短い悲鳴を上げて何人か倒れたが、男は意に介した様子もなく、虚に話かけた。
「てめえ、なにもんだ? ま、魔物とあんだけやり合って生きてるんだ。ただの一般人って訳でもないだろ?」
笑いながらさらに近づく男を、虚は更に低い声で制す。
「日本魔導軍なんざ、聞いたことがない。あんたらこそ、何者だ?」
「聞いたことないってそりゃ、仕方ねえだろ。今日から始動の新設部隊だからな」
「新設……信じがたい。何か、証拠は?」
「おいおい、てめえは俺らのこと疑う前に自分の状況を認識しろよ。んなナイフ一本でどんだけ切り抜けてきたか知らんが、そろそろジリ貧だろ? 俺らは住民の保護に来たんだ。取りあえずおとなしくしとけって」
「無条件に信じられるわけが──」
「ったく聞き分け悪いな。これから他の地区も回らなきゃならないってのに……いいか?」
──刹那。男は瞬く間に虚の背後に回り込み、虚の首元に、本能的な恐怖を刻み込むのに充分な程の、灼熱の炎を纏った手刀を当てがった。
「俺らにゃお前の及ばない力がある。……もう保護じゃないくていい。これは脅しだ。いいから、黙って俺らに従え。さもなきゃ他の住民にも迷惑がかかるんでな、お前の身は保証しねえぞ?」
「……」
虚は男の言葉に視線を落とし、黙り込む。強者には従う、というのもまた暗殺者にとっての不偏のルールだからだ。
「それは肯定と受け取っていいな。……お疲れさん、後は任せな」
虚は促され、男と共に後方の軍人たちの下へと歩いていく。見ると、既に何人かが保護され、これまで感じた恐怖から、身を寄せ合うように一か所にまとまっていた。
「ああ、そうだお前」
あと少しでその集団に合流するところで、男が不意に引き留めた。
「お前らはこれから避難民の施設で保護されるだろう。そこで俺の名前を出せ。唐沢玄二。それが俺の名だ。お前は見所がある。こっち側に来い。ただ守られるだけは性に合わんだろう?」
男はそう言い残すと、他の軍人に次の指示を出しながら立ち去って行った。
数人の生き残りと合流すると、血に塗れたナイフを握り占めた虚を見て、周りはたじろぎ距離を空けた。彼らの行動に思う所がないわけでもなかったが、それ以上に自身の心に助かったということへの安堵が大きく存在していることに虚は驚いた。
(しかし、これだけしか助からなかったのか……)
しばらくして、二人だけ残った軍人が生き残った面々を引率し始める。移動し始めたということはつまり、もうこれ以上人数が増えないということだから、この周囲で生き残っていたのはこれで全員なのだろう。十一人。千以上の人間が住んでいたであろう街に生き残ったのは、たったの十一人だけだ。
しばらくして、軍人に引率されて高所を通過した時に虚は周囲を見渡した。すると、視界には見るも無惨な惨状が写り込んだ。街全てが燃えていると思えるほど激しく周囲一帯から立ち上る炎。響き続ける怪物のうめき声。あちらこちらからは爆発音が聞こえる。少し前までは夕暮れのオレンジ色だったまだ夜のままの空は、真っ赤に染まって痛々しい。
世界が全て、こうなのだろうか。
疲労で朦朧としながらぼんやりとそんなことを思いつつ、誘導に従って、虚は再び歩みを進めた。
その後しばらくしてその想像は間違いでなかった事を、虚は知る事になる。重力という不変の法則が反転し、人の世をスタングレネード大の音と光が襲った、この日この夜。
──世界は一度、終末を迎えたのだという事を。
こんなに長いプロローグを最後までご覧いただきありがとうございます!!!
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