やさしい魔女
「それでいいんだ」
魔女は身体を横に向け、煙をくゆらす。わざとらしく深い呼吸をして、ゆっくりと天井を見上げた。部屋の空気は相変わらず水を打ったように静かで、落ち着き払っていて、家具も彼女も、どこかこの世のものではないように感じられた。
「おっと、生憎まだ生きているよ、悪かったね」
「……」
顔に、出ていたのだろか? 思わず、手がホルスターからずり落ちそうになる。それを横目でちらりと見て、魔女はまた、にこりと笑った。
「冥土のみやげだと思って、サトリ……あたしの昔話をもうひとつだけ聞いてくれないか」
彼女の申し出に、俺は思わず、
「……なんです?」
と応じた。彼女はありがとうと微笑むと、テーブルの上に置いた筒のようなものに灰をぽんぽんと落とした。そして、再び俺の方に身体を向けていたずらっぽく言うのだ。
「なあに、つまらない昔話だ。退屈だと思ったら、いつでも話を遮ればいい」
*
あたしには夫がいた。こんなあたしの過去を知っていながら、とても良くしてくれるやさしい男だった。子宝には恵まれなかったけれど、ふたりで慎ましく暮らしていく日々は決して悪いものではなかった。あたしたちは夫婦として長らく一緒に過ごしていたが、雨の降るとある日に、夫のイヴァンは突然死んでしまった。彼はその身を裂かれ、青い炎で焼かれて、彼の立っていたところにはほとんど何も残らなかった。衣服さえもだ。唯一残ったものは、彼の身につけていた結婚指輪だけだった。何かのはずみで、たまたま外れていたんだろうね。偶然にも、彼の指輪は妻のあたしと同じサイズだった。ああ、自分は見てのとおりのいかつい手だから、並みの女よりも指の部分が太いんだ。
そうしてイヴァンは死んだ。チリひとつ残さずに殺されたんだ。殺したのは魔女だ。あたしの中に棲んでいる悪い魔女が、幸せな生活に退屈して、嫉妬して、夫を殺しに現れたんだ。
――いいや、違う。殺したのはあたしだ。魔女はあたしを罰しに来たんだ。たくさんの人を殺しておいて、サトリのような不幸な人をたくさん生んでおいて、戦争が終わったら知らんぷりして幸せに暮らす。そんなこと、どこの誰が許してくれるだろう。魔女は正しかった。正義だったんだよ。醜いのはあたし、ナタリア・ヴィンスひとりだけだった。
自分が夫を殺してしまったと気がついたとき、あたしは愕然とした。だって、直前まで一緒に朝食を食べていたんだよ? おいしいコーヒーを淹れてくれると言って立ち上がった彼の背中を、あたしは丸焦げのトーストよりもひどく焼いてしまったんだ。あたしは、あたしに植え付けられた魔女の呪いは、何十年経っても衰えてはいないことを知ってしまったんだ。でもあたしは、自分のしたことにどこか安心していた。自分が罪深い魔女のままだったことに安堵したんだ。だって、魔女が普通の女のふりをして幸せに暮らすことに一番違和感を覚えていたのは、ほかでもないあたしだったから。
当時はこのあたりにももう少し人がいた。だから、その人たちには、夫は身体を悪くして都会の病院に入院したと説明した。元々、丈夫な方ではなかったしね。やがて村も過疎が進んで、おまけにここ何年かの戦争騒ぎ。丘の上に住んでいるのは、いよいよあたしひとりになった。人間も魔女も、ひとりになるといろんなことを考える。あたしは毎日、ここでトーストを食べてコーヒーを飲みながら、夫をどうやって殺したのか思いだそうとしているんだ。まあ、結局判らないままなんだけどね。今朝も、あんたが来る前にいろいろと考えていたんだ。どうやったらあんたに……いや、なんでもない。
とにかくあたしは、夫を殺した。そしてそのことに罪悪感を覚えるでもなく、後を追うわけでもなく、こうして毎日コーヒーを飲んでタバコを吸っている。彼がいなくなってからもう何十年も。でも、どうしてか、夫の淹れたコーヒーよりおいしいものを作れないんだ。あたしの方が、彼よりずっと経験豊富になっているはずなんだがねえ。
そして、こんなにも時間があるというのに、あたしが思い出すのは夫のことばかりだ。不幸にしてしまったたくさんの人のことは、いつも二の次なんだ。いや、二番目に思い出すのはサトリのことだから、三の次かな。ああ、魔女はやっぱりあたしの中にいて、いつの間にかあたしそのものになっている。本当にひどい女だと思うよ。どこまで行っても、自分のことばかり。たまたま誰かに愛されたのをいいことに、ほかの人のことはどうでもよくなってしまった。姫なんて名前はガラじゃない。本当にひどいね。自分の罪を忘れて、背負うべきものから逃げて、もう何もできないほど年老いてしまった。あたしに残された未来は、いつか迎える自分の死くらいだ。それがいつ来るのかは判らないが……こんな魔女のことだから、きっと普通の死に方はできないだろう。
魔女というのは昔から、正義の使者に倒されるべきものと決まっているんだ。
*
「ああ、イヴァンが立っていたのは、ちょうどあんたがいるあたりさ」
ナタリアさんは、俺を見てそっと涙をこぼした。俺の手に、思わず力が入る。
「ところで……」
こちらの様子に気付いたのか、彼女は俺の手の先を見て問いかけてきた。
「あんたは手に持ったものを、どうするんだ?」
自分に向けられた、銃口を見据えて。