クリム戦争
「このあたりで、もうすぐ戦闘が始まります」
ある年の二月。俺はクリムの片田舎にいた。
人がほとんどいなくなった村、その外れにある丘の上に建てられた一軒の民家で、俺は住人の老婆に語りかけていた。彼女はダイニングの椅子に深く腰掛け、キセルから煙をふかせて俺の顔をじっと見ている。その手には絹のような素材の手袋がつけられており、甲の部分には品のいい刺繍が施されていた。彼女の装いに派手さはないものの、俺にはその手袋が妙に印象的だった。
かつてこの村に住んでいた人々の多くは、帝国とクリムの戦争の影響で遠くの土地に逃げてしまったのだという。俺は、それ以上詳しいことを知らない。知る必要はない。この戦争に関して、どうせ何もできやしないのだ。ただ、かつての自分のように、故郷を失って悲しむ人が生まれることを悲しんでいるだけなのだから。
クリム王国は、帝国の東に位置する歴史の長い国だ。俺の生まれた国から見れば南東に位置している。この国は古くから帝国と対立する立場をとっており、それゆえに二国は小さな軍事衝突を繰り返していた。しかし今回のように本格的にクリム全土が攻撃されるのは、俺の知る限り初めてのことだ。
今の皇帝は、国土の拡大に熱心だ。俺の国を砕いた先代の遺志を継ぎ、即位以来あちこちの国に手を出している。帝国の国土拡大の成果は上々で、まことに憎らしい限りである。
「ここは危険ですから、早く避難してください」
俺は浮かび上がった怒りを握りつぶして、立ち上がろうとしない老婆に再度警告する。老婆は相変わらずの様子で、慌てる素振りすら見せない。彼女のややくすんだエメラルド色の瞳はぎらりと輝いており、決して俺の声が聞こえていないわけではなさそうだった。肌には深いしわが刻まれ、長い髪は総白髪。年齢は八十前後か。それでいて、鋭い瞳を中心とした顔つきはしっかりしており、耄碌しているようには全く見えない。彼女は自分の意思でここに座っているのだと、俺はほどなく理解した。
「……開戦は」
老婆は、はっきりと口を開いた。
「開戦は、いつなんだ」
「……見立てでは、明日の朝です。日が昇りきったころかと」
俺は厳しい表情にたじろぎながら、彼女の質問に応じる。
ただ、この情報は確実ではない。あくまで俺が身を寄せている反帝国組織の作戦開始が、その時間だというだけ。
「そうか」
老婆はそれで十分だと言うように、口から一筋の煙を吐き出した。相変わらず、ここを動こうという様子はない。彼女は脚を組み、再び俺に視線を向ける。
「それで、あんたは何をしに来た? 独り暮らしの可哀想なばあさんを助けに来たとでも?」
「……」
恐ろしいことに、だいたい合っている。俺はリーダーから村に居残っている民間人の話を聞いて、居ても立ってもいられなくなってここまで訪ねてきたのだから。この行動は独断であり、ゆえに半ば逃亡に近いので、もうあちらには戻れないかもしれない。
老婆は図星を突かれた俺の顔を見てにやりとすると、キセルをこちらに突きつけて得意げに言った。
「あんたはそういう男さ……昔からね」
「え……」
思わず耳を疑った。確かに老婆は今、
「まあそんなことはいいのさ。ところで、だ」
キセルを置いた彼女は両手を叩いて、俺の思考をわざとらしく遮る。ガチャガチャとした騒がしい音が暖かな内装に彩られたダイニングキッチンに反響する。やがてそれは違和感に変わり、再び俺の関心を奪った。
俺の両目は、今や音の発生源に吸い込まれている。
それに気付いた老婆はそれを――自分の両手をいとおしそうに見つめながら、問いかけた。
「ねえサトリ……あんたは、ナタリア・ヴィンスを覚えているかい?」
悲しそうに。
そして、どこかうれしそうに。
――俺の名を知る不思議な老婆。袖から覗く彼女の両腕は、銀色の機械でできていた。