クロッカス -焦燥ー
「お前、浮気してるだろ」
一瞬、彼に何を言われているのか解らなかった。
私も彼も社会人で、繁忙期に入っていて忙しく、なかなか休みが合わなかったから、会ったのはほぼ一か月ぶりだった。
彼、梨本貴史とは、高校からの友人の杉坂叶菜の紹介で、付き合いだして二年になる。二人とも高卒で就職したから、お互いの交友関係は会社の人以外、大体知っているはず。
最近は電話もあまりしなくなったし、メールも事務的でなんだか冷たくなってきて、もしかして浮気してるのかもと思っていたから、彼の言葉は青天の霹靂だった。
『疲れているから家でのんびりしたい』という彼の要望で、私の家で前々から見たいと思っていた映画を見ている最中。それも、主人公が恋人に泣く泣く別れを告げるシーンで、独り言のように言われた。
「してないけど。どうしてそう思ったの?」
元々高校の時から、男友達と呼べるような人なんて存在していないから、彼が疑っているのは会社の人だろう。
疑われるとしたら、最近彼女のことで悩んでいるとかで、女性社員に相談している同僚の松野維くらいかな。といっても、友人兼同僚の竹内夢果と他数人を交えて、飲みがてら愚痴を聞いたりしていただけだし、やましいことなんか何もないんだけど。
「しらばっくれんなよ。杉坂に聞いて、もう知ってんだよ。証拠の写真だって持ってるんだ」
「証拠って、いつ撮られたものなの?見せてくれない?」
「今は持ってない、杉坂に預けてきたんだ」
叶菜に預ける意味が分からない。私が見せてと言えば、見せてくれるだろうに。
彼は時々、こういうことをする。何か意味があるのかもしれないけれど、私にはまったく理解できない。
「貴史の男友達とか、私の知らない人に預けるんならわからなくもないんだけど、何で叶菜に預けたの?」
「別にいいだろ。杉坂の方が預けるのに都合がよかっただけだって。」
やっぱり、彼なりに理由があるらしい。
「てゆーか、浮気しといて謝りもしないわけ?証拠まであるって言ってんのに」
謝るも何も、そもそも私は浮気なんてしていない。あると言っている証拠だって、似ている誰かを撮ったものに違いない。
「証拠って、いつどこで撮られたものなの?」
「先週の土曜日、桜市の繁華街だけど。お前、ストライプのシャツに下はジーンズで、黄色いパーカー羽織ってたろ。同じの着てるとこ見たことあるし」
確かに、先週の土曜日に繁華街に行ったし、彼が言ったような服装だった。でも、気晴らしに一人で出かけたのだ。会話した男性なんて、本屋の店員さんくらいなのに。
「確かにその服装で繁華街に行ったよ。でも、男の人と話したのなんて、本屋で会計してくれた店員さんくらいなんだけど」
私がそう言っても、彼は納得してくれない。証拠として写真なんてものがあるなら仕方ないのかな。
「もう、その写真に写ってるのが私じゃないって、証明しないかぎり納得してくれないんでしょ」
「あぁ。信用できない」
「じゃあ、叶菜に言って明日写真持ってきてもらって。私もその証拠写真見てみたいから。話し合おう、どちらにしろこのままじゃだめだと思うし」
今日、彼に誤解だと証明するのは無理だ。明日、叶菜を交えて話してみるしかない。
「わかった。じゃあな」
彼が帰ったのを確認して玄関に鍵をかけると、ベッドに潜り込んだ。
泣いてはいけない。
まだ、泣くわけにはいかない。
涙を流すのは、貴史に潔白を証明してから。
せめて、出かけたのが一人でなければ。友人にでも証明してもらえたのに。
あの日、あの格好で出かけていなければ。人違いでこんなことにはならなかったのに。
煩雑とした思いを消せないまま、会社に行く用意をした。