彼女の面影
若い頃の過ちは誰にだって一つや二つはあるだろう。
俺は一つや二つじゃ済まないが。
だらしなかった。
女に。
二股三股は当たり前で、付き合っていた女たちが目の前で喧嘩することも日常茶飯事だった。多少困りはしたが、嫌じゃなかった……むしろ、楽しんでいた。
全てが遊びで。関係は後腐れなく清算した。必要なら金も渡した。弁護士に任せることもあった。資産家の家に生まれた俺には安いものだった。
ただ一人。金で解決できない女がいた。いい女だった。従順で、心遣いも細やかで、初めて結婚しようと思った。
だけど、まだ。早すぎた。
遊び足りなかった俺は、やがて新しい恋人を作り、彼女に別れを切り出した。いつも通りに。軽い気持ちで。
「嫌よ。」
初めて。彼女が俺の言葉を否定した。
「嫌よ。絶対に嫌。」
そう繰り返すばかりで、まともな会話は出来なかった。宥めても、脅かしても彼女は頑として譲らない。円満に別れることは出来ないと諦め、彼女と暮らした町から消えることに決めた。何も言わずに、家を出てそのまま帰らなかった。家も家具も彼女も全て置き去りにして。
だけど。
彼女に、この世から消えてほしいと思ったわけじゃない。
……罪悪感はしばらく残ったが、すぐに忘れた。
彼女が存在した、ということも。思い出も。全て忘れ去った。
でも。
彼女は忘れてくれなかった。
「生まれ変わっても、また一緒になろうね。」
そう言って、彼女は幸せそうにほほ笑んだ。
悪夢に、悲鳴をあげて目を覚ます。
悪夢というより、悪い思い出か。
それは他愛ない恋人たちの言葉の遣り取り。来世まで共に生きようという戯れの約束。
彼女は真剣だったが、俺は軽く頷いた。
それだけのこと。
身体は汗だく、肩で息をする俺を妻が心配そうに見る。
「どうしたの?あなた。」
彼女と別れた数年後、俺は結婚した。美しく、朗らかで、慎み深い。俺の理想通りの妻。
「パパ、どうしたの?」
幼い声を聞いて、俺は再び悲鳴を上げかけ、どうにか飲み込む。
今年5歳になる俺の娘だ。寝室は別にしてあるが、向こうの部屋にも悲鳴は響いたのだろう。
なおも心配そうに声をかけてくる娘に妻が「大丈夫よ。」と声をかける。
俺は平静を取り戻すのに必死だった。
失いたくなかった。
この幸せを。
娘が生まれたとき、心底嬉しかった。
人の親となるのが、こんなに幸せなことだとは思わなかった。
だけど。
似てくるのだ。
だんだん。
彼女に。
「生まれ変わっても、ずっと一緒。」
誓いを彼女は実行したのだろうか。
そんなバカなことがあるわけがない。
しかし、見れば見るほど似ている。
俺でもなく、妻でもなく、彼女の面影が娘には現れている。
声も、指の形も、髪質まで、全て。
俺は娘を避け始めた。
彼女への罪悪感と共に、呼び起こされる恐怖。
いつか娘は彼女しか知らないはずの事を言い出すかもしれない。
いつか娘は俺を糾弾するかもしれない。
俺の不実を。
俺の罪を。
避け続ける俺に、娘は寂しがって付き纏うようになった。
邪険に扱っても、擦り寄ってくる娘に、俺は遂に手を上げてしまった。
床に倒れた娘は涙を浮かべ、呆然と俺を見上げた。
あの日、崖から突き落とした彼女と同じように。
あの日、彼女は俺の居場所を突き止め、やって来たのだ。彼女の執念に恐怖を感じ、俺は彼女を、殺した。
崖から突き落として。
彼女は自殺として処理され、俺の犯罪は公になることはなかった。
悲鳴。
俺の、悲鳴。
口からほとばしり出る絶叫が部屋を震わせる。
手近にあった椅子を振り上げ、娘の上に振り下ろした。
何度も。何度も。
―――夫の死を聞かされたのは事件当日の夕方のことだった。
娘を殺害した後、衝動的に飛び降り自殺を図ったのだと警察は淡々と告げた。
ノイローゼ気味の夫のもとに娘を残し、外出した私を彼らは責めているようだった。
しかし、二人を連れて行く勇気が私にはなかった。
私が訪ねたのは双子の姉の墓。
若くして自ら命を絶った姉。両親が早くに離婚した為に、姓も育った環境も違うが、大事な姉だった。
彼女の死後、鏡の中に姉の姿を見つけるのが辛くて、私は整形した。
時が過ぎ、私は夫に出会った。
優しく、洗練された彼にたちまち恋に落ちた。
資産家の御曹司だという告白と共に、プロポーズされた時、夢かと思ったのに。
幸せは長く続かなかった。
生まれてきた娘は昔の私そっくりだったのだ。
私にも、夫にも似ていない娘を彼が不審に思うのは当然のこと。
娘を避け始めた彼に、全てを話そうと決意した。
勇気を貰おうと、姉の墓を訪ねたのに。
まさか、こんなことになるなんて。
―――いつから運命の歯車は狂ってしまったのだろう。
残酷な描写と言うほどじゃないとは思ったんですが、やっぱり子供が殺されるのは気分良くないなと。