第2節 零の白(17)
「さて、と」
一息をついて、先生は傍らに置いてあった片刃の短剣を手に取り、和服の懐にしまい込んだ。
騎士を辞めたとはいえ、用心深い性分が染み付いてしまったと言っていた。外出する時はいつも懐刀を持ち歩いているらしい。
ほとんど食事に手を付けていない。いつものことだが、本当にそれで身体が保てているのが不思議だ。
「あぁ、そうそう。遠出になるんならハルサメを連れてっていいぞ。最近は運動不足で落ち着かないしな、アイツ」
ハルサメとは先生の愛馬だ。体格は並みの軍用馬と遜色なく、特別な駿馬ということでもないが、普段から世話している私でも分かるくらい〝彼〟は切れ者である。
愛称はハルちゃん。だが、そう呼んでやるにはいささか愛嬌が足りない。
私の浴衣姿を見ると興奮するみたいにやたら嘶くし、普段より少しでも餌の量を減らすと、ジトッとした不満げな視線で黙って私をにらみつけてくる。
さすがは先生の馬だけはある。煩悩的な教育に対する余念がない。
その分、騎手の心を汲んで動いてくれる馬――なんじゃないかなぁ、たぶん。
いかんせん背に乗ったことがないので分からない。
「確かにハルサメなら騎士団の馬よりも役に立つかもだけど。いいのかな? 公式の馬を使わなくて。それに、先生の大事な相棒なんでしょ。私に万一の事があったら責任取れないよ」
「騎士団じゃあ自前の馬を使っても構わない。厳密に言うと、申し込んで能力審査とかを受けなきゃならんのだが――俺の馬と言っておけば通るだろうよ。それとまぁ、お前に万一の事があっても、あいつは一人でここに帰ってくるだろう。無駄に賢しいからな」
「それって御主人を見捨てるってこと!?」
「平たく言えばそうだな」
「なんてヤツだ!」
「ヤツじゃなくて馬な。別に馬と書いてヤツと呼んでもいい。人間みたいな野郎だし」
先生をしてそこまで言わせるのか。なんてヤツ、もとい、なんて野郎だ。
そうして先生は一息入れて立ち上がった。
懐刀を仕込んだのだ。おそらく外に出るのだろう。しかし、食休めもなく場を立つのも珍しい。
「急いでどこに行くんですか」
相変わらず右足を庇いながら立ち上がる。見ていても不憫だが、気を使うと怒られるので何も言わない。
「調べものがあるから教会まで行ってくる。挨拶がてら騎士団にも顔を出す。今回の事で腑抜けた野郎が居ないか、たまには見回らねぇと締まらないだろうよ」
「へぇ、たまには指南役らしいことするんだねぇ」
「今は緊急事態みたいなもんだからな。託された仕事はきっちりするさ」
そうだよね。いくら先生でも――って。
……託された?
「え? 正式な仕事でやってるの、それって。前は自分がやりたいからやってるって言ったじゃない」
問いかけると、先生はぴくりと背中を揺らし、そして出来得る限りだと思われるゆーーっくりとした動作でこちらを向くと、
「ん――? 聞こえなかったなぁ。なんだって?」
また出た。焦ると言動がゆっくりになる、例の癖。
しかも今回は露骨に、額に冷や汗付きだ。
ここのところよく家を空けている忙しさの疲れからか、珍しく動揺が大きいらしい。
これはもう直接聞いても良いくらいだろう。勝算がありそうだ。
あわよくば全て吐いてもらう。
私もここ一週間で物理的にいっぱい吐いたんだから、師弟同士の痛み分けといこうじゃないか。
「先生さ、私に隠し事するのって失礼だと思わないかなぁ」
「隠し事? 俺がお前に? 馬鹿なこと言うもんじゃないぞ」
「誰が毎日、家事やってるのか分かってる?」
「あのな……」
「誰がハルサメの世話を全部してるか分かってくれる?」
「おいおい」
「誰が寒い日も洗たくしてるか分かる?」
「だから……ルビィ――」
もう一押し、と、私は浴衣から伸びた手をちゃぶ台に叩きつけた。
「誰がえろいことされてもちゃんと黙ってるか、分かってるの!?」
「――さん……です、はい」
勝った。
私の勝利を祝うかのように、机の上で陶器のコップがぐわんぐわんと歓声を上げている。
いやぁ、それほどでもないよ、お安いもんだ、と心の中で返礼をしておいた。




