第1節 始まりの赤(17)
「アウナス聖教騎士団、エクセルシア戒律の第一章、冒頭文」
「……『騎士たるもの、人を殺めるより人を愛し、己の技を以て人を活かす聖人であれ。邁進する意志と精錬された業は何よりも気高き国の宝と見よ』」
「勉強家だと話が早くて助かるな。次からは行き当たりの場で復習するより予習をしてこい」
聖騎士団の戒律など審問官は普通は見ないだろうがな、と騎士長は言い締めつつ、革の手袋をはめた右手で自分のこめかみを二、三度つついてみせた。
今、どういう状況の中に自分はいるのだろうか?
この国で最高に位置する騎士から、失格を取り消しにする便宜を図られていて、同時に恐ろしいほどの高評価を得ている。
……のだと、思う。流れから推察するとそうなる。
「しかし、戒律にあろうが結局は同じだ! いずれ戦場に出ることもあるだろうに、人が斬れなければ何の意味もないだろう!?」
「おっしゃる通り。規律は綺麗事だ、司祭殿。確かに今の彼女では、まだその辺をうろつく野良猫でも引っ張ってきた方がマシかもしれない」
野良猫って……野良猫以下って、それはあんまりだと思う。
「けれどね、欠点と言うのは克服するためにあるものだと思わないか? 人の能力の向上の仕方には二種類あるんだ。一つは歳月に比例する『成長』。もう一つは、覚悟と努力によって培われる『進歩』だ」
凛と響く声に腹の底が震える。
訴えかけてくる言霊が、耳から頭に一本の楔を通して聞こえてくるようだ。
胸に沈んでいた黒い澱が溶けて澄んでいくような。
そんな高揚を煽る声。
「私はその子に賭けるよ。今ここにその若さで彼女が立っていることが、すでに『進歩』であることの体現だぞ? 掛け値など無い。それくらい強くなれる素養があるんだ。自分に架された不運の一つくらい、軽く払えるさ」
呆気に取られていた。
私は今まで、この恐怖感と戦おうとはしていなかったことに気づいたからだ。
いつでも逃げて、いつでも恐れて、それが周りに知られることをなお恐れていた。
隠し通せるはずもないのに。
「ここに騎士団に入団が決まった皆も、そうでない皆も心に刻んでくれ。最初から狼のように勇猛な戦士など、どこにもいない。人は生まれた時は子羊だ。そして真の意味では、羊は狼にはなれない。かく言う私も、ただの狼の皮を被った羊、たかだか一人の人間なんだ。英傑と言われようが神に為らざる人であるという事を忘れないでほしい。これは、私自身が逃避したいから言うわけではない」
そしてもう一度、静かに聞き入る面々をゆっくり一瞥すると、再び零度の眼を私に据えて言う。
「一人ひとりの純然たる『意志』の力で、自分の求める『騎士』になって欲しいから言うのだ。私がその指針となれれば幸い。先達の遺志も報われるというもの――私は、自分が世代の〝境界〟を取り持つ人間であると自負している。この試験で落ちたものは更に、受かったものは殊更に自分の『騎士道』を求道してくれることを願い、私のあいさつとする」
そして、にっ、と。
今度は嘲笑じみた冷笑ではなく、まるで万人の母のような、親身で砕けた相好を私に向けてくれた。
何故だろう。
おお、と合格者も失格者も見事な主張に唸り、どよめきを上げる狭間で。
不思議と一人、涙が出た。
この苦難を理解してくれる人が居る。
克服できると、信じてくれる人がいる。
その事実がただ、嬉しかったんだ。
†
その後、正式に騎士長が私の失格を取り消すように取り持ってくれたおかげで、私は見習いながらも騎士団に入ることができ、今日に至ることができていた。
最高に忌々しい、今日という日に続くことなど知らないまま。
あの日はひとり、歓喜に震えていたように思う。