わたくしと魔王の落下事故
きりの良いところで切ったら驚きの短さになりました。次辺りから、一話ぶんの文字数は増えてくる予定です。
シラヴィルは一人、廊下を走り続けていた。
ドレスをたくし上げる手のひらに汗が滲む。儀式用のそれに散りばめられた装飾が酷く重い。躓きそうになったつま先が蹴飛ばした小石は、あっという間に先の闇に紛れて消えた。ろうそくの灯が置かれている間隔が、長くなっていることが分かる。
一人で駆け抜ける暗闇というものは、嫌に恐ろしかった。
反響する自らの足音が前からも後ろからも聞こえてくる様で、いつの間にか誰かに追われているような気分になる。
一つ角を折れても、誰か、はいなかった。
二つ角を折れても誰も、いなかった。
三つ角を折れても、何の影形一つとしてない。
自身の焦燥が、羽音のような耳鳴りを連れてくる。巻き付くような動悸が身体を締め上げる。
「……っ、……は」
かくりと足から力が抜け、シラヴィルは壁に手をついた。
父の危機。その一点のみにざわついていた筈の恐怖が、今では周囲全てを塗りつぶす。
「……っ!」
壁についていた手のひらにひやりとしたものが伝い、シラヴィルは慌てて手を引いた。
腕を抱き動悸に潰れそうな耳を澄ませば、小さく水滴が落ちる音がした。
小さく浅い息を大きく深いものに無理やり変えて、数回呼吸を整える。
右を向けば闇で、左を向いても闇。
けれどその中で、確かに何かが蠢いた気がした。
「―――ッ」
鋭く飲んだ息が声にならない悲鳴に変わる。
足先まで転がってきた、巨人の手で握り固められたような形をした、歪な白いかたまり。
目があった瞬間耳の長い犬が、笑いながら跳ね始めた。
「落ちて死ぬ! 落ちて死ぬ! 落ちて死ぬ!」
力の抜けた腰が地につく。瞬き一つできないシラヴィルの視界で犬はよだれを散らし、目を剥きけたたましく笑う。
少しでも、少しでもと。
震える指先でシラヴィルは地を這った。犬は笑いながら長い耳を振り乱し、彼女が元来た方向へと跳ねていく。
そんな異形から目を離せないままに、シラヴィルは覚束ない足に力を込め、石造りの床を蹴った。しかしそれは酷く不安定で、また先の闇の中に倒れこんでしまいそうになる。
けれど身を襲うであろう衝撃に、かざされたシラヴィルの腕は、宙を掻いた。
「あ……?」
伸ばす指先が当てもなく落ちていく。
身体を支えるはずの地がそこには無く、落ちる、という事象をシラヴィルは直観で理解した。
吹き飛んだ思考に浮遊感が、不快な懐かしさを連れてくる。
「馬鹿が……っ!」
鋭く、鼓膜を震わせる声。
シラヴィルがそれを認識したのと同時、鈍い衝撃に身と頭を打たれた。
一度身を襲ったそれは息を無理に吐き出させ、次のがまた息を詰めさせる。
腕の中にあるものを強く握りしめ、その後も続く衝撃に息を殺し続けたシラヴィルは、気が付けば身体が地に投げ出されている事に気がついた。
今度こそ完全なる、無明の闇。
僅か持ち上げようとした腕に裂けるような痛みが走り、遅れて節々を襲う鈍痛。どこかから落ちたのだという事は分かった。
そして自分以外の誰かが、そこにいる事だけは確かだった。手探りで迷わせた指の先、僅かな体温を感じる。
「意識は戻ったか……あとは灯りか」
凛とした声。明確な意思を持ったそれにシラヴィルが安堵の息を落とせば、体温がゴソゴソと身じろぎをする。
しかし灯りは一向に灯らず、誰かもピタリと動きを止めた。
「……?」
できれば早々に灯りをつけ、医師を呼びに行ってほしい。
緩慢な痛みに問いかけるのもおっくうで、シラヴィルはただ相手の様子を伺う。けれど誰かさんはまた忙しなく身じろぎを始めただけで、一向に灯りをつけてくれない。
「……どういうことだ」
「……どういうことでも良いから、早くしなさいよ」
また動きを止め小さく誰かが落とした言葉に、息を整え気だるく返す。
その時シラヴィルは聞いたことのある自身の声と、聞き覚えのある誰かの声に、内心首を傾けた。
違いないはずなのに、違う。その違和感の正体をぼやけた思考で追っていると、衣擦れの音と共に指先にあった体温が離れていく。
恐らく人を呼びに行ってくれたのだろう。
シラヴィルが全身から力を抜き目を閉じれば、誰かさんのちぐはぐな足音が遠ざかる。
高いヒール音と、何処かくぐもった音が徐々に上がっていくところ。恐らく自分は階段から落ちたのだろうと、彼女はようやく状況を察した。
そうして、しばし待てば、また遠くから近づいてきた足音。
重たい目蓋を緩慢に開いたシラヴィルが、首を動かし足音の方へ顔を向ければ、新しいスタイルかと思うほど裾の破けたドレスが、視界に入る。
「あなた、遅いわ」
そして、あろうことか。ぼんやりとしたシルエットからして、時間が掛かったわりに、誰かさんは一人で戻ってきたようだった。
けれどそれを責めるより先、シラヴィルは違和感の正体を捉える。
「……いえ、おかしいわ。わたくしなんだか声が、おかしいわ」
口を開けば漏れる、低く掠れた音。階段から落ちた際のどを痛めたのだろうかと、恐々己の喉に触れたシラヴィルの指先、朴訥な骨が隆起していた。
「……体の具合はどうだ」
滑らかなそれを数回なぞっていたシラヴィルの手が、動きを止める。
かかげられた灯りに顔を上げれば、その視界に、ランプを持つ誰かさんの全貌が収まった。
「……あまりよろしくない様だな」
完全に乱れた栗色の髪に、不快気に寄せられた形の良い眉。
いつも鏡の中にいる筈の自分が今、シラヴィルの目の前で舌打ちをした。