わたくしと魔王の対面
薄暗闇に包まれた廊下、高らかに鳴るヒール音。闊歩するたび先の廊下に微かな明かりが点灯するも、それ以上の喧噪が今廊下を賑やかに照らしあげていた。
「待たれヨ! 待たれヨ!」
「ふん、人の手が付いているとはいえ所詮カラスね。そんな力でわたくしが止められるとお思い」
目に見えるような怒気を纏い、静寂を闊歩するシラヴィルの肩、黒い翼が乱雑に羽ばたく。がっしりとその肩にしがみ付き、引き留めようとしているらしいカラスはけれど、その揺れに対応しきれていないらしい。
「待たれヨ!!」
「何よ、五月蠅いわね。大体あなた、さっきから羽が当たって痛いのよ。動物は好きだから許してあげるけど……もういいから下がってなさい。貴方が魔王とやらを呼ばないから、わたくしが出向くことになっているのよ?」
己の耳を覆うよう手を入れたシラヴィルは、遠慮なく羽ばたくカラスの羽根から顔を守る。いっそ叩き落とそうかとも思ったが、肩にある手があまりに必死な様なので、そこまでの行為には及べなかった。
「それにしても、大体この城の廊下はどうなっているの? 絨毯一つ敷いていない上、この転がっている岩は何!? この靴、お気に入りなのよ! 踵が欠けたらどうするのっ?」
「も、もう少シ穏やかに歩かれてはどうカ!?」
延々と歩いて尚、人影一つ見当たらない廊下にシラヴィルの怒りの矛先が向く。
歩を進めるにつれ気も落ち着くと思いきや、目当ての人物にたどり着かないことで彼女の機嫌は下がる一片を辿っていた。
「わたくしに意見を通そうなどと、無礼なのもいいところね。だけどあなた、可愛いから許すわ」
「カ、かわい……」
「わたくし、必死にしがみ付いてくる小動物に弱いの。そうだあなた、わたくしのものになりなさい」
口煩いものの、此方に危害を及ぼすことのないらしいカラス。光沢のあるその黒羽へと、シラヴィルはそっと手を伸ばすが、それは嘴によって跳ね除けられた。
「あら、痛いわ。何をするの?」
軽く啄まれた指先を引き戻し、肩口を小さく振り仰ぐ。
「我ハ魔の眷属。気安く触れないで頂きたイ」
カラスはその瞳を目蓋で隠し、やはり忙しなくバランスを取っていた。それは細い枝にとまろうとする鳥が、必死になっている様に他ならない。
「反抗期かしら?」
「そんなモノは無イ!」
今までになく羽根を広げたカラスは、嘴を大きく開けて見せる。その中では一匹の蛇が双頭の鎌首をもたげていたが、シラヴィルはもう前方へと視線を戻していた。
「お年頃というやつね。大丈夫、安心して。貴方がどんなに捻くれていて口煩くて少し皆とは違う問題児だったとしても、お嫁さんはちゃんとわたくしが見つけてあげる……ってあなた、魔物なのっ!?」
遅れて声を上げたシラヴィルは、黙ってしまったカラスの様子を丸くした瞳で伺った。しかしカラスは何故か視線を合わせようとせず、その姿は一回りほど小さくなったかのようだ。
「……。」
耳にしたことはあるものの、魔物を目にしたのが初めてであるシラヴィルは、好奇の目でカラスを凝視し続ける。式典に現れた魔王が人の形をしていたため、噂の魔物という生き物は全て人型だと思い込んでしまっていた。けれどそれならば、何故カラスが言葉を話すのかという事にも、何故人の様な手をしているかという事にも納得がいくと。
心中すっきりとしたシラヴィルは、微笑みを浮かべた。
人の言葉を理解する不気味な異形に対し、彼女は恐怖を感じない。
何処かしょぼくれた様子のカラスに、羽ばたき続けていたから疲れてしまったのかと、彼女は純粋にまた手を伸ばしかけた。
「……何をしている」
瞬間、かけられた声にはじかれたかのよう振り返ったシラヴィル。そのあまりに俊敏な動きで、肩に乗ったカラスが転げ落ちた。
「あなたっ、聞いたわよっ!! どういうことなのか説明しなさい!」
教会で一度見た金の瞳を今、シラヴィルは再び正面から見据えた。頭から足の先まで黒ずくめの男は、まるで彫像のようである。
淡く発光している様にすらみえる白い肌や、筆で書いたかのように滑らかに通った鼻筋と顎の輪郭。それは間違いなく名匠による、造形だった。
けれどシラヴィルは、失敗作だと思う。
個性すらも削り落とさたかのように、整いすぎてかえって不自然なその姿には、一つ以外の特徴が無い。この時点で作品としては中の下どまりである。
しかし、それ故か。影の中に影を落としたかのような佇まいの、その長めの黒い前髪に隠れる、光る金の双眸。
それだけが、やけに目を引く。
「ま、魔王サマーッ」
「あら、あなた。しっかりつかまっていないと駄目じゃない」
慌てているのか、覚束ない様子で飛ぼうとするカラスに、シラヴィルは驚いて手を伸ばす。ガッシリと掴んだ黒い手は、人の者より少し硬かった。
「ギャーッ!」
「疲れているのでしょう。今はわたくしの元で休むことを許すわ」
「…………。」
「そしてあなたは何を黙っているの?早く説明なさい!」
暴れるカラスを胸に抱え込み、シラヴィルは魔王の言葉を促す。
そんな彼女の一連の流れを黙って眺めていた魔王は、しばし本物の彫刻像ように微動だにしなかったが、やがてその唇に薄く隙間を生んだ。
「人質が人質を捕るか」
「それよ! 仮にもわたくしをそんな、簡単に人質だなんて、わたくしを誰だと思っているの!?」
わめきたてるシラヴィルの手に力が入り、胸元のカラスが潰れたような声を上げた。硬性の廊下に反響する声は、苛立ちだけを高ぶらせる。
「カルバス王国第一王女、シラヴィル・アン・カルバス」
対し、名を呼び上げた魔王の態度は平坦なものだった。闇に潜むその眼光だけが、僅かに細められている。
「そう、わたくしはカルバスの第一王女よ!」
「取引材料としては絶品でス」
「その通りよっ!」
カラスの補足に胸を張り、地位を誇るシラヴィル。ついでに軽く鼻を鳴らした彼女だが、しかし先を続ける者がいない。
「…………。」
落ちた静寂は元より暗い廊下を更に暗くするかのようで、シラヴィルは一つ咳払いをした。
「あなたもどうやらわたくしが欲しい様だけれど、残念ね。わたくしの行先はエセドニアと、もう決まっているの。わたくしがエセドニアに嫁ぐことにより、繁栄が……繁栄って知っているかしら? ……何かいいことが起きるって事よ。だから人質にはなれないわ。もう行先は決まっているし、これ以上の行先はないのだもの」
得意げに語りシラヴィルは、片手を大きく広げて見せる。
己が他国に行くことにより自国が幸せになるとは、幼いころから聞かされてきていた事だった。友好の証だとか公然の人質だとか影で大人が囁いていたが、幸せになるなら何でもいい。
カルバスという国の民が皆そうであるよう、姫である彼女もまた身内を一番大切に思っていた。
目を伏せ家族の事を浮かべれば、シラヴィルの堅くなっていた体から力が抜ける。やはりどこか緊張していたのだろう。その緩んだ腕の隙間から、カラスがするりと逃げだした。
一拍遅れてシラヴィルの手が伸びるも、黒羽は指をすり抜ける。大きく羽根を広げたカラスは魔王の肩にとまり、身を隠すようその闇に紛れた。
「……きそうほんのう、かしら」
眉尻を下げ、肩を落とすシラヴィルはカラスの消えた闇を名残惜しく見つめる。心中家族のことを考えていたぶん、ただ見つめてみる事しかできない。
しかし見つめているうち段々と濃くなっていく闇に、慌ててシラヴィルは視線を逸らした。
その視線より少しずれた場所。同じく魔王は腕を組み、石造りの壁のくぼみに並んだ淡い蝋燭の灯りを眺めている。
「……物事には時期と言うものがある」
小さく魔王から漏れた呟きに引かれ、シラヴィルは一度瞬きをする。先程まで何の話をしていたかを、瞬時に思い出すことが出来なかった。
「まだ人質の話をしているの?」
「エセドニアか……」
「あなたの話は飛びすぎているわ。何が言いたいのか、さっぱり分からない」
シラヴィルが眉を寄せ緩く腕を組めば、魔王は眺めていた蝋燭に手を伸ばした。
瞬時、乳白色の円柱がとろけたかと思えば、顔を持ち上げた小さな四肢が尾を引きながらその手に乗る。
「現カルバス王は戦を起こしすぎた。玉座から降りる必要がある」
「ふぅん。そんな事よりもそれ、何かしら。トカゲ?」
魔王の手の上、乳白色の爬虫類はシラヴィルを見て黒い瞳を半分だけ閉じ、闇をなめるよう真っ赤な舌を出す。
「……お前はそのための、取引材料だ」
「なるほどね……ねぇ、その子触らせなさいよ」
「…………お前を人質に、現王を〝王〟でいられなくする」
「何を言っているの、そんなのは無理よ」
「……。」
相手との距離を詰め、小さく美しい生物に目をやっていたシラヴィルは、そこで落ちた無音に少し遅れて気が付いた。
生物の半分閉じられた黒曜石の様な瞳から顔を上げると、眇められた金目が見下ろしてくる。
「だって父上は王だもの。それにさっきあなた玉座がどうとか言っていたけれど……父上は毎日玉座から降りているわ。椅子では眠れないもの。だいたい一度椅子から降りたって、また座りなおせば良いだけじゃない」
真っ向から視線を向け率直に言葉を吐き出せば、今度は丸みを帯びた金の目。
それは夜を闊歩するという、野獣の瞳そのものだ、と。
今まで野獣など御伽噺でしか聞いた事が無いシラヴィルだったが、直観でそう感じた瞬間。
彼女の中で、全ての事柄が繋がった。
「あ……あなた、まさか……っ!」
さぁっと青くなったその表情を、依然丸い目がじっと見下ろす。
慌てて距離を取りながらシラヴィルは、震える己の肩を抱いた。
「わ、わかったわ! あなた父上を、王を襲うつもりねっ!? なんだかんだ意味の分からないことを言って誤魔化してっ……宵闇に紛れ込み、何か悪さを……っ! こ、殺そうとしているのねっ!?」
あくまで自身の中でのみ、全てが繋がったシラヴィルは、二・三歩後ずさったのち踵を返して駆け出した。
獣が人を襲うのはよくある話で、あの獣のような瞳をした魔王は標的を王へと絞ったのだと。
昔犬に噛まれたことがあるシラヴィルは当時の恐怖を鮮明に思い出しつつ、真っ暗闇に近い廊下を僅かな照明頼りに全速力で駆ける。
頭の中にあるのは、父にこの事を知らせなければという、その一点に尽きていた。
「……主殿」
「……。」
唐突に自己完結し、一人駆け出して行ったシラヴィルの後姿を眺める魔王の掌。半眼のヤモリが言葉を紡ぐ。
「あの娘、知れ者と見受ける。色々なものが遅れておるようじゃ……一国の王女とは思えぬ」
言い切った部下は口から洩れる炎を舌のようにチラつかせ、一本のろうそくへと速やかに姿を戻した。掌で灯りとして浮遊する部下を目に、魔王は細い息を落とす。
「魔王サマ。アレは確かにシラヴィル・アン・カルバスに違いありませン……しかシ、我を腕に抱いたのモ、恐らく人質目的ではないト」
微かなその音に答えるよう、魔王の肩に舞い降りた一羽のカラスが羽ばたきで風を震わせる。
監視役としてつけていた部下に流れた金眼の視線は、真下を向いた嘴を数秒眺めた後、結局姫が消えた先へと戻された。
「……下がれ」
「お、追うのなら我ガ」
「二度は言わん」
言葉に黒い翼が羽ばたけば、魔王は闇に身体を溶かす。
黒く澄んでゆく主の気配を見送ったカラスは一時滞空し、やがて地に降り小さく羽根をたたんだ。
「情けなや」
浮遊する蝋燭はいつの間にやらまたヤモリへと姿を変えており、からかうように炎を遊ばせる。
「言い訳はすまイ、我は我慢が辛イ。先程も魔王サマが来られなければ我ハ自重デキなかったであろウ」
「せずとモ、あのような小娘喰ろうてやれば良いのじゃ」
「片目くらイならば問題なかろうカ……しかし魔王サマに失望されたくはナイ」
羽毛を広げ羽根の隙間に空気を取り込んだカラスは心地悪げに、毛羽立った翼を嘴で鞣した。そんな動作を繰り返したかと思えば嘴を床に当て、挙句羽毛に頭を埋めてしまう。
「知っておるぞ貴殿、それは“すとれす”というものよ」
宙を滑り歩くヤモリが、はっきりと言い切る。
「……禿げぬよう祈るばかりだナ」
羽毛の中からの言葉は、情けなくこもっていた。