わたくしと魔王の気遣い
最後に何やら魔王へと耳打ちした後、空気を読み退室したクライドの足音が完全に遠ざかる。
それを確認し終えたシラヴィルがベッドへと視線を戻せば、目の前で魔王が縄を引きちぎった。
「ぎゃ――――っ」
「うるさい」
拘束を破った獣の姿に、シラヴィルが上げた絶叫。それはすぐさま、ノラの掌に抑えられる。
一つ、息を呑み。シラヴィルは視線と共に廊下へと耳を向けた。クライドが「何事か!?」と駆け戻ってくる気配は無い。
ほっと胸を撫で下ろせば同時、ノラの掌が離れていく。
「な、何故あなた、縄を引きちぎれるの? わたくしはそんな有り得ない筋力を持っていなかった筈よっ?」
「あらかじめ縄の内側だけ燃やしておいた」
「なるほど。だからそんなに簡単、に……」
いつも通りに始まりかけた会話に、シラヴィルはふと言葉を切った。怒りを一周通り越したような魔王の瞳が、此方を見据えている。
慌てて踵を返し扉へと向かおうとすれば、目の前に見慣れた火柱が上がった。
人知を超えた現象を見慣れる、というのも妙な話だが。
おかげで足が止まったのも一瞬。すぐさま覚悟を決め、炎を突っ切ろうとまた足を踏み出したシラヴィルは、しかし途端につんのめり、見事顔面から床に着地する羽目となった。
あっという間のことである。
潰れた蛙のような有様と化したシラヴィルの影を足先で踏んだ魔王は、周囲の炎を消し薄ら笑いを浮かべていた。
「保身に走るのは良いが今更だろう」
「あなたは少しは保身しなさいよ!」
激しい一撃を受けた鼻を押さえながらシラヴィルが振り返れば、腕を組んで見下ろす魔王が首を傾げた。
「わたくしといると力が無くなって、弱るのでしょう? それならば距離を空けようとは思わないのっ?」
確かに、二人だけの空間で話さねばならない事は山ほどあっただろう。
分かっていても言い訳のように吐き出すシラヴィルは、厨房で立ち聞きしたヤモリとカラスの会話を思い出していた。
魔と人は相交わってはならぬ。人は魔から力を奪う。
良く意味は分からなくともシラヴィルなりに、その真剣な調子は感じ取っていた。
「……恐らくまず、弱るの意味が違うな」
腕を組んだ魔王は、何かしらの推察を行っているのか。
口を閉じ一旦少しの間を空け、けれどまた直ぐに淡々と紡ぎ始める。
「人のように魔は病に伏せる事が無い。力が奪われるというのは率直そのままの意味だ」
「どちらにしろ都合は悪いのではなくて?」
「……何故、人は魔から力を奪うと言われているか分かるか」
そんな事知るわけがないだろうと睨みあげれば、ノラがその片足に体重をかける。
偉そうに見下ろされるのは気にくわないシラヴィルだが、身動きすれば燃やされかねない。
「魔は力で全てを理解する。人は無力を受け入れないが為に迷う。魔にとって人とは不可解な生き物だ」
「ノラ……あなた、迷ったり悩んだりする事が無いの!?」
「お前が〝迷う〟だの〝悩む〟だのという言葉を知っていた事に驚くが」
無表情に落とされ、また少し苛立ちが募る。
まったく。あの勇者は一体何処を見て、この魔王を“繊細”だなどと称したのか。
シラヴィルには不思議でたまらない。
「しかしその不可解と接すれば魔にも迷いが生まれる。理解が出来ないからな、理解しようとすればするほど、悩む事になる」
「あら? ……あなた悩んでたの? どっち?」
「……。悩みは力を惑わせる。一瞬の刹那に力が戸惑えば、それは死へと直結する」
ため息交じりに纏めたノラに、シラヴィルの眉が寄った。
「やはりまずいんじゃないの! 生死に関わっているじゃない!」
「但しそれは己を統制する事の出来ない弱者のみの話だ」
「弱者で悪かったわね!」
心配無用と言いたいらしいが、それにしても他に言い方があるのではないかと思う。
ここの所、自身を律することが出来ていなかったシラヴィルは、ノラの言葉が嫌味のように聞こえた。
「最近は頭がごっちゃで、どうせわたくしは悩んでばかりよ! 迷って何が悪いの、やるべきことは分かっているのよ!」
多少支離滅裂気味に吐き出すシラヴィルを、見下ろす魔王の目が細められた。
「先程言っていたな……カルバスの国情が気になるのか」
「……民は、お父様が只いい生活がしたいがために、風習とわたくしを利用していると思っているわ」
「……。」
「……それは違うと言えるだけの言葉を、わたくしは持っていなかったのよ」
言葉を返さない魔王を、シラヴィルは見上げた。
身体にかけられている呪いを、我が物として振るう魔の王。視線を斜めに流している彼も、確かに迷う事はあるらしかった。
シラヴィルは、唇を噛んだ。目を閉じ大きく深呼吸する。ここ数日、大量に聞あかされた衝撃の数々に、彼女の脳内は混沌としていた。
父を信じたかった。そんな感情と情報が絡まり、全ての訳が分からなくなる。
悩み迷いが力を失わせるという魔王の言葉も、分からなくは無かった。
「……お前、数日前立ち聞きしていただろう」
近くで落とされた声にシラヴィルは目を開ける。上からのものだった視線が今、水平に流されている。
「な、何のこと?」
「この部屋の前でだ」
シラヴィルの誤魔化しは通じない。しゃがみ込んだノラから視線を逸らすという、あからさまな挙動不審にため息が零される。
「……どこから聞いていた」
「……わたくしの行先は中々居心地のわるそうな所ね」
薄氷の友好条約。救出の兵は来ない。
丁度部屋の前を通りかかった時、耳にした言葉をシラヴィルは反復する。
肩に垂れる栗色の髪を、魔王がうっとおしそうに背へと流した。
「そうだ、この身体の行先はそんなものだ……口止めも意味は無かったな」
「わ、わたくしだって、わざと聞いたわけではなくてよ?」
「だから落ち込んでいるのか」
虚を突かれたシラヴィルの目が丸くなる。
てっきり立ち聞きを咎められると思っていたが、ノラは怒りを膨らますことなく淡々と言葉を紡ぐ。
「勇者が去り際に言っていた。“魔王”は恐らく、何やらに落ち込んでいると」
「……そんな事を言っていたの」
クライドはその心情に気付いていたらしい。
魔物達の噂話を耳にしつつ、厨房に逃避しに来ていたシラヴィルの相手をしていたのだから、当然かもしれない。
「つまりそういう事よ……落ち込んでいる時、人には会いたくないの」
避け続けた理由を明確にしたその声は、微弱に震えていた。シラヴィルは視線を逸らしたままに、退散しようと立ち上がる。
しかし立ち所に腰を落としたままのノラに手を引かれ、また尻餅をついた。
「痛いわっ! 何をするの!?」
「また逃げようとしただろう」
「今のは逃がす所でしょう!? そしてその後ろ姿を見つめながら、なにやら物思う場面だった筈よ!?」
思い描いていたシナリオをぶち壊されたシラヴィルが抗議の声を上げる。不可解そうに首を傾けたノラの眉は、また寄り始めていた。
「今更物思う事などない。おかげ様で此処しばらく暇だけは充実していたからな」
「そう暇でも無かったでしょう!? クライドと何やらお話していたのではなくてっ?」
「あいつとの会話に思考は使わない」
初耳な勇者の名にすら関心を示さない魔王。
シラヴィルは反論を忘れ、改めてクライドに同情した。姫の中身を魔王と知らず、あまつさえこんな事を思われていると知ったら彼はどんな顔をするだろう。見物なのは確かだが、流石に哀れみを禁じ得ない。
「そして先程の言い訳も却下だ。落ち込んでいる時人と会いたくないと言うが、そもそも勇者とは会っていただろう」
下らない事を考えているうち、完全に言い訳の退路を塞がれた。
時間をかけじわじわと責め立てる事を真綿で首を絞める、というらしいが、ノラのそれは真綿でなく岩だ。
天井が徐々に落ちてくるような圧迫感から逃れようと、シラヴィルは意味の分からない笑みを浮かべ、視線をふんだんに泳がせる。
「あらあらあら嫌だわ、ノラったら。その物言いだとまるで嫉妬しているみたいよ?」
「何故だ。嫉妬というものは優れた者に対する、妬みの気持ちだろう」
「ほ、本当に哀れな勇者ね……」
念のため、もう一度扉の方へと意識を向ける。そこで誰かが絶望に膝を落としているような気配は無く、シラヴィルはほっと一息をついた。
しかし、その様子にまた逃亡を図っていると思われたのか。ノラの瞳が険しい色を帯びていく。
「ち、違うわよ暴力はいけないわ!」
「確か一つだけ悩まされた事があったな」
同時に紡がれた声にお互いが首を傾げる。己の勘違いに気付いたシラヴィルが曖昧な笑みで誤魔化せば、ノラが一つ頷きを返した。
「お前、魔王の事をどう思っている」
「はっ!? 何なのいきなり、一体なんの話!?」
突然とんだ話題。その内容にシラヴィルは昏倒するかと思った。
「勇者に問われ返答に悩んだ」
淡々と見返してくる魔王は恐らく、もう一度問われた時の為を思い、正確な答えを必要としているのだろう。
混沌渦巻く脳内に頭痛を覚えたシラヴィルは、引き攣るこめかみをさするよう指先を当てる。
「て、適当に答えれば良いでしょうそんなもの……」
「分からないから聞いている」
「秘密よ、とでも言って笑っておけばいいのよ!」
なるほど、と呟き目を伏せた魔王に脱力するシラヴィル。クライドは本当に八割近く余計な事しか言わない。因みに残り二割は勘違いと的外れ。よりによってノラにまでそんな問いかけをしているとは、想定外だった。
しかしこうして思い返してみれば全ての諸悪の根源は、頭が沸いているとしか思えない勇者の発言だとシラヴィルは気がつく。
初日にクライドが吐き出した、単純明快故に強力な単語が、全ての調子を狂わせているように感じる。
「……因みにあなたは、わたくしの事をどう思っているの」
「そうだな、まず」
「やはり言わなくていいわ!」
思い直し遮ったシラヴィルに、ノラが一つ瞬きをする。
「わたくしがこの部屋に来れなかったのはね、あれよ、ほら、勇者に魔王と姫が仲が良いだなんて思われたら困るでしょう?」
「困らない」
「困りなさいよっ! まるで……こ、恋人のようだと言われたのよ!?」
シラヴィルがこの部屋を訪れられなかった理由には様々なものがあったが、その一言が仕切る割合は大きかった。
頭上に疑問符を浮かべるノラをきっと睨みつけたシラヴィルは、また直ぐに視線を逸らす。
「何が困る。言わせておけばいいだろう」
「駄目だわノラ、あなたは本当に駄目だわ何も分かっていないわ」
乙女の気持ちを察しろという方が無理なのかとシラヴィルは脱力し、背を床にぐったりと預ける。
薄暗い天井を眺めれば気が滅入り、覗き込んでくるノラをみるとまた気が滅入り、シラヴィルは全てを視界に入れぬよう、目を閉じて腕を額に乗せた。
「そもそも国情について知りたいのならば聞けば良いだろう、部下に聞くよりは端的に纏めてやる」
「そういう話じゃないのよ……もう本当に駄目ねあなたは。傷つくからもう何も言わないで頂戴」
少しそっとしておいてくれという意味を込め、シラヴィルは目を閉じたまま額に乗せていない方の手を左右に振る。それに魔王は苛立ちを募らせたのか、部屋の温度が下がった気がした。
「お前の意味が分からない、お前はいつも意味不明だ。人とはそういうものなのかと勘違いしかけていたくらいだが、しかし勇者はどこまでも単純だやはりお前の訳が分からないとしか」
「お前、お前、言わないで頂戴……」
ずらずらと流れる魔王の言葉に口だけで言い返す。止めなければ永久に続きかねんノラの小言にシラヴィルは辟易した。
「もう嫌だわ、わたくしは知らない事すら知らなかったのよ。“聞けば良い”とあなたは言うけど……知らないのに、どうやって聞けというの?」
「……。」
「それに落ち込みたいのに勇者が馬鹿な事を言うせいであなたにも会いにくいし、会ったら会ったで余計に落ち込むような事をあなたは言うし……」
ぶつくさと愚痴を零していくうちシラヴィルは本格的に落ち込んでいく自らを感じる。その姿は魔王の目にさぞ挙動不審に映っている事だろう。
風習の利用、民の反感。戦と貧困の理由。身内と玉座と父の真意。呪い。
シラヴィルにとって初耳なそれらを、ノラやクライドは当然のように語る。
夢から覚めたようだと言えば聞こえはいいが、シラヴィルの五感にねじ込まれる現実は、悪夢以上に耐えがたかった。
「シラヴィル」
「…………え?」
懐かしい。久々に他人の口から出てきた己の名に、シラヴィルは腕を上げ閉じていた目を開く。
自身の顔が目前に迫っていた。
軽く伏せられた瞳と視線が交差し、当然のように柔らかい感触が唇に落ちる。
「……。」
淡々としたノラの瞳が離れていった。その間も逸らされない視線を、シラヴィルは数秒黙って見返し、口を開いた。
絶叫だった。
勝手に止め処なく漏れ続けるそれが誰の口から吐き出されているのかも分からないままに、身体を横へと転がし三回転半した所でシラヴィルが壁にぶつかれば、潰れたような声を最後に悲鳴が途切れる。
「勇者の言葉は本当だったな」
感心したような魔王の声に振り返るも、シラヴィルの口は開閉するだけで何の言葉も紡げない。
「何やら落ち込んでいる相手を励ます方法として効果的だそうだ」
「そんな事は聞いてないのよ、何を考えているのノラあなた正気っ!?」
甲高く裏返ったシラヴィルの声に、魔王が顔を顰める。自身の姿が絶叫を上げたり声を裏返したりする光景は、未だ不快なままなのだろう。
だが今のシラヴィルにとってそんな事は些末だった。
「落ち込んでいたのだろう」
「落ち込んでいるとかそういう話じゃないでしょうっ!?」
これほどかという程に目を見開いたシラヴィルは首を激しく左右に振り、壁に縋り付いたかと思えば脱力しため息を落とした。かと思えば文字通り両手で頭を抱えまた床の上を転がり始め、譫言のように訳の分からない言葉を羅列する。
「……何が起きている」
「それを聞きたいのは此方の方よっ!!」
不審物を見るよう目を眇める魔王に、シラヴィルは動きを止め全力で喰ってかかった。
「何がどうして何故そんな事になるの! しかもあなた、さり気なくわたくしの名を呼ばなかったかしらっ!?」
「先の問いに関しては勇者、後に関してはお前が言い出した事だ」
名に関しては言われてみれば確かに、シラヴィル自身その様な事を口走った覚えがある。
しかし勇者は間違いなくおかしい。
「また勇者なの!? 本当にろくな事を言わないわねクライドはっ!」
今すぐ勇者の身を拘束し鍋に入れて煮込んでやりたい。そんな想像がシラヴィルの脳裏をよぎるが、あまりいい味が出るとも思えずやめる事にした。ただ本当に何を考えているのか聞きださねばならない事は確実だろう。
「手段がどうであれ明瞭な効果だ」
「嫌がらせなのっ!? 勇者と結託するなんてそんな馬鹿な」
「もう落ち込んではいないだろう」
息をつくようなノラの言葉。
錯乱していたシラヴィルは途端、何故か動揺が落ち着くのを感じた。
「まさかノラ、わたくしを心配していたの?」
「……何故だ。居心地が悪い」
自然に頬が緩むのを感じながら、相手を見つめる瞳を瞬かせるシラヴィル。眉間に深くしわを刻み、目を細めるノラはどこか腑に落ちないかのよう首を傾げていた。
「でもね、やはりどうかと思うわ。ああいう事は婚約者以外に行っては駄目なのよ? だから、せめて頬か額にしなさい。それに、今回のその、場所に行う時は……きっちりと情緒を漂わせ甘い雰囲気の中で行うべきよ?」
「部位として唇しか空いていなかった」
「ぶ、部位……!?」
あっさりと言い切られシラヴィルは現実に引き戻された。
踵を返しひとり椅子へと腰かけるノラの中に、心遣いなんてものが存在するのか。彼女には到底読み切れない。
「……本題に戻る」
「え?」
「落ち込みは解消された。部屋を出る理由は無いだろう」
相変わらずの無表情な声。それに僅か含まれた冷たさにシラヴィルは息を呑む。すっかり失念していたが、ノラは未だ部屋を訪れなかった事を根に持っているのかもしれない。
真っ向から見下してくる、栗色の瞳の奥。思い当たってみれば確かにそこには、怒りが若干揺れて見えた。
「しかしお前の言い分も理解できる。カルバスの国情について知りたいのならば聞け」
けれど予想外に、次の言葉の内容は柔らかかった。
音だけを捉えれば非常に冷たいそれに、シラヴィルは目を丸くする。
「……二度は言わないのではなかったの?」
魔王は同じ台詞を繰り返す事を嫌うはず。珍しい事もあるものだとシラヴィルが問えば、相手の足が組み替えられた。
「……聞いていないかと思っていた」
「馬鹿言わないで。最近は無駄に聞こえる耳のせいで悩まされているのだから」
小さく息を落とせばランプの明かりの元、魔王の口角が柔らかく上がる。
「悩む、か。いい気味だな」
シラヴィルが非難を込め見返せば、魔王はまず勇者の事だが、と己の思索を語り始めた。
聞けと言っておきながら何だと思わなくもないが、優先順位というものはある。避け続けていたぶん、伝達事項の数は多大だろう。
その後、やはり魔王の話は長かった。
問えば返ってくる答えと、非難に向けられる呆れ。書物の解読より容易で、他のどの言葉より素っ気ないそれを耳に、シラヴィルは苦笑し膝に顔を埋めた。
「おい。寝るな」
「……寝てないわよ、失礼ね」
勇者が城に来て以降、莫大に増えた疑問の数々。
ただ其処に有る現実の直視も、淡々と語られれば少しは楽な気がした。