わたくしと魔王の関係
シラヴィルは全速力で城の一室に駆け込んだ。
目の前にあるのは、焦げた机と傾いた椅子。いつも暗闇を照らし上げているランプには今、明かりが灯されていない。
シラヴィルはこの部屋のことをよく知っていた。当然、ベッドの中で誰が眠っているのかも知っている。
「……っ!!」
何故、自分がこの部屋を選んでしまったのかシラヴィルには分からない。歩き慣れ始めた城の中で、最も通い慣れていた道だったからかもしれない。
何にしても速やかに駆け込んだばかりの部屋から出るため、シラヴィルは扉に手をかけた。しかしそこでふと、背後で落とされた微かな音を聞いた。
まさか、目を覚ましたのだろうかと。
緩慢に振り返ってみた先、ベッドの中で誰かが起き上がる気配はない。もしかすると、気のせいだったのかもしれない。
恐る恐る足を進めてみた先、ベッドの中では枕に栗色の紙を広げ、瞼を落としているやつれた顔があった。
「……眠っているの?」
返事はない。どうやら魔王はあの後すぐ、また深い眠りについたようだと。
ベッドの傍らに膝をつき、手を伸ばしたシラヴィルは、先程整えたばかりだというのにもう乱れているノラの髪を、とりあえず整えてやることにする。触れた髪には油がのっており、到底触り心地が良いとはいえなかった。
シラヴィルは、細い息をつく。
早く湯浴みをして欲しい。
けれど現在体調不良である魔王に入浴を強要することは、流石に出来なかった。倒れられでもしたら、非常に困るからだ。
そうでなくとも入れ替わり以降、姫の身体はノラの無茶によって生傷の絶えない有様になっており、あろうことか頬についている擦り傷にシラヴィルはまた肩を落とした。
失態だった。
考えれば考えるほど、どちらかといえば自分が悪いような気がしてくる。
入れ替わりの事実を知る者がじぶんと魔王しかいない以上、もっと事細かく指示を出しておくべきだったのだろう。
ちゃんと湯につかって頂戴だとか、炎に素手で触れないで頂戴だとか、それ以前に。
これからはもっと指示をだすようにしようと、シラヴィルはぐっと心に決める。
どうやら、自分の身はじぶんで守らなければならないようで。
思い返してみれば、魔王が始めに行ったことも、それであった。
「覚えて貰う事がある」
「後にして頂戴」
椅子に腰掛け、塔から長い髪の毛を下ろすお姫様の絵を眺めていたシラヴィルは、机に落とされた軽い衝撃に視線を上げないままに返した。
「ちょっと今良いところなの。人間の髪の頑丈さを――っ! 何をするのノラッ!」
「材料は此方で用意した」
「まだ全部読んでいないのよ! もう少しで読み終わるわ、だからお願いわたくしにその本の続きを」
「材質が何であろうと縄は燃やされれば終わりという話だ」
奪われた本へと手を伸ばしていたシラヴィルは、瞠目した。
視界の端で分厚い古書のページが広げられるのが目に入ったが、それどころではない。
「ま、まだ全部読んでいないのよ……?」
「説明しただろう」
「そういう問題じゃないのよ! 物語は最後が一番楽しみなのよ……っ!?」
シラヴィルは両手で顔を覆い、机に突っ伏した。鼻をすする音と、恨み辛みの小言の雨が、じめじめと卓上を叩く。
大の男の外見で行われているそれに、しかし魔王は沈黙しか返さない。
淡々と机の上に何かが乗せられる音と、ページが捲られる乾いた音。
しばらくの間。机に突っ伏していたままでいたシラヴィルは、やがてそれらに少しばかり興味を引かれ、指の隙間から少しばかり視線と顔を上げてみる事にした。
「……何かしら、それ」
「魔除けを作る」
「魔除け? あなたが?」
「……お前が持つものだ」
両手を下ろし、改めて机の上に目を向けてみると、いくつかの物がランプの灯に照らされている事が分かる。
首を傾けたシラヴィルが、またひとつめくられたページから視線を上げてみれば、そこにはぼんやりとオレンジ色を映している瞳が真っ直ぐに古書を見下ろす姿があった。
どうやら、魔王はお目当てのページを探しているらしいと。
再度机の上へと視線を戻したシラヴィルは、自分には難解でしかない文字が並んでいる古書には構わず、改めて“材料”とやらを検分してみることにした。
「お前の行動は不審だ。いつ周囲の魔物に現状が露見するか分からない……その時の為の、防御措置だ」
「これは何かしら? 白くて、とても滑らかで綺麗だわ」
「それは塩だ」
「ならこちらの透明な石は何? 宝石なの?」
羊皮紙に包まれていたり、そのまま机に載せられていたり。
何にしてもランプの傍らに置かれたそれらは初めて目にするものばかりで、シラヴィルはやや興奮気味に、それらの名称を尋ねていく。
塩、というものの存在は知っていたが、ランプの灯をこんなにも柔らかく映すものだとは知らなかった。
「それは水英石。これはパーシェの針。イモリの尾と、青銅鏡の一部」
「ノラ……あなた、こんなもの何処から手に入れたの?」
「これらの材料は、全て城の中にあったものだ。手に入りづらいものもあるが……二、三度なら作り直すことも出来るだろう」
「……もしかしなくてもあなた、わたくしが失敗すると思っているわね?」
「思っている」
名前が明らかになったそれらを眺めていたシラヴィルは、淡々と零す魔王の方へとじろりと視線を上げた。
左右に細かく動いている栗色の瞳は、恐らく難解な古書の文字列を追っているのだろう。橙色の灯りによって下から照らされたノラの表情には、中々の迫力がある。
シラヴィルはその口を尖らせた。
「全く。まだわたくしの有能さに気付かないなんて、あなたも駄目ね」
「……。……“も”?」
「見ていなさい、ノラ。私の手腕を! ……それでまず、何をすれば良いのかしら?」
机の端に乗せられていた、石造りの椀と短い棒。材料と共に運び込まれていたそれらを、シラヴィルは素早く手繰り寄せる。
古書のページがめくられる音が止まり、やがてゆるりと向けられたノラの横目に、シラヴィルは深く頷いてみせる。
右手には、乳棒。左手には、乳鉢。
万全に整えられたシラヴィルの体勢を確認したのか、顔を向けなおして来たノラが、僅かながらにその首を縦に振った。
「ではまず、イモリの尾を磨り潰せ」
シラヴィルは乳棒を取り落としかけた。
「ままま待ちなさいノラ! この尾、まだ生きているわよ?」
「正確にはもう、生きてはいない。動いているだけだ」
「あら、そうなの? ……何故、動いているの? その、良く分からない……魔術? なのかしら」
視線を向けてみた先、ぴちぴちと卓上で跳ねている尻尾。
ノラが言うには“生きていない”らしいそれに、首を捻りながらもシラヴィルは手を伸ばした。
摘み上げてみても、それの躍動感は変わらない。動いているだけ、というのもこれまた不思議な話だと。
「……魔術より更に根本的なものだ。全ての生物が持つ力の一部と言って良い」
「良く分からないわ。もっと分かりやすく言って頂戴」
「これより分かりやすい言葉は無い」
しばし凝視していたそれを、シラヴィルはやがて乳鉢の中へと落とす。
首を傾げながらも乳棒を握り締めたカルバスの王女は、魔王の城に来て以来、段々不思議現象に慣れ始めていた。
「……次はパーシェの針」
「成程、あなたも良く分かっていないのね……これも磨り潰すの?」
「…………そうだ」
扱いなれない道具の感覚に苦戦するシラヴィルは、眉を寄せたノラの表情に気付かない。
乳棒の握り方を変えてみたり、乳鉢の支え方を変えてみたりと。
試行錯誤が行われる中、鉢から零れた材料が古書に飛び、魔王の眉間のしわが濃いものへと変わる。
「零すな。……次は青銅鏡の一部」
「勝手に零れるのよ!……次はこれね」
「持ち方が悪い。……次は水英石」
「ちょっと! わたくしがやっているんだから手を出さないで頂戴! ……こうかしら?」
「……最後は塩だ」
ノラが古書を机の端へと移動させていくさまを尻目に、シラヴィルは羊皮紙に包まれた細やかな塩へと手を伸ばす。
なるべく零れないよう、なるべく慎重に。鉢の中へとそれを投入し終えると、すぐさままた乳棒を握りなおし、材料のかき混ぜ作業に戻る。
磨り潰すための右手には、当然ありったけの力を込めなければならない。だがしかしそれ以上に、乳鉢を上手い具合に動かしていくことこそが重要に思えた。
「あら、色が変わったわ! もしかしてこれは……完成、かしら?」
練って、練って、練った挙句。
薄紫色になった乳鉢の中身に、シラヴィルは顔を輝かせた。しかし最後になるとだいぶ手馴れてきていた事もあり、終わってしまうのが少し惜しかったりもする。
そんな彼女の複雑さは相手に伝わったのか、どうなのか。
笑ったかと思えば瞠目し眉を寄せた表情をしばし無言で見つめていたノラは、やがて乳鉢の中身へと視線を流し、小さく頷いた。
シラヴィルの口元が、自然とほころぶ。
「やったわ! どうなの、完成度としては!? 見事でしょうっ!?」
「……これは力の強い魔にほど、良く効くように出来ている。持ち歩き、最終手段として使え。これをかけられた魔物はしばらくの間、お前の存在を認知出来なくなる」
「それはつまり……わたくしが何処にいるのか分からなくなる、という事?」
「そうだ。目の前にいたとしても、気付くことが出来なくなる」
シラヴィルは感嘆した。同時に鼻を鳴らした。
素晴らしい出来である。この世のどこにもこれ以上素晴らしい魔除けはないだろうと、シラヴィルは乳鉢の淵を指先で滑らかに撫でる。
鉢の底に溜まった薄紫色のどろりした魔除けは、見れば見るほどに美しい気がした。良く見るとランプの明かりを微かに反射させている辺りが、特に美しい。
「ふっ……流石、わたくしね。こんなに素晴らしい魔除けまで作れるようになってしまったわ」
「……。磨り潰しただけだがな」
「ノラったら……隠さなくて良いのよ?」
にっこりと見上げた先、ノラの瞳が丸くなる。
普段は淡々としているくせに、驚いたときは妙に顔に出るそれを知っていたシラヴィルの笑みが、尚一層濃いものへと変わる。
「不思議だったのよ。こんなに単純な作業なのに。あなたは何故か、わたくしが失敗することを恐れていた……」
「……。」
「つまり一見磨り潰すだけに見えるこの作業にも、隠された重要な部分があった。……そうでしょう?」
「…………。いや」
「けれど! わたくしはそれを知らずとも成し遂げた! あなただって、わたくしなら出来ると思ったからこそ、この魔除けの作り方を教えてくれたのでしょう?」
にまにまと笑みを浮べながら、シラヴィルはその両手の内で乳鉢をくるくると回転させる。開きかけたノラの口が、結局何も言わないままに閉じられる。
栗色の前髪の奥、魔王の眉が寄せられている理由は良く分からなかったが、そんなことはシラヴィルには割とどうでも良かった。
「感謝するわ、ノラ」
「……。……理解を超える」
「あらこの魔除け、そんなに上手く出来ているの?」
やがて小さく落とされた魔王の言葉に、シラヴィルは乳鉢へと視線を落とした。
まだ、記憶に新しい思い出だった。
回想の余韻にほころんだ口元を引き結んだシラヴィルは、ベッドの中で眠っているノラへと深く頷いて見せる。
とりあえず今は、乱れた髪をとかしてやる。乱れた毛布を肩へとかけなおしてやる。
魔除けに比べれば非常に心もとないが、今は自分の身体に対してもノラに対してもそれ以上の出来る事は無く、やれる限りを施したものの少々物足りなく感じていたシラヴィルは、改めて自分が風邪を引いた時のことを思い返してみた。
医者による診察や、部屋を清浄にするだとかいう、まじない。
けれどそれより自分が嬉しかったのは、頭を撫でられたり、毛布をかけなおしてくれたりといった小さな事だった気がした。
なのでノラにもそれを施してみたのだが――否、それよりずっと嬉しかったのは子供の頃、眠れない夜に母が額に落としてくれたキスであると。
「っ!!」
不意に思い出した瞬間、シラヴィルはよろめいた。
急激に蘇ってきたのは、部屋に入った瞬間には覚えていたけれど、もうとっくに頭の中から追い出されていた筈のそれ。
戯言だった。
そんなもの、王女である自分には存在するはずもない。
おとぎ話や噂話の中でしか聞かない、先程厨房で行われた会話の中でも、最も非常に余計な部分。
「恋人同士に見える」--だとかいう、頭のおかしい勇者のたわごとだった。