5話
草野がまた先生に呼び出された。草野が来てから先生は草野に必死だ。俺も最初はそうだったけど、草野は俺とは違って先生に何も言わないから苦労しているみたいだ。
俺だって今だから竹村先生は違うって思えるけど、確かに先生を信用するのは難しい。草野も早く竹村先生の良さに気づけばいいのにな。
今日はあることで、クラスの皆で放課後居残っている。皆で草野が帰ってくるのを待ちながら、俺は二人のことを心配していた。
「ごめん。遅くなった」
扉の方から申し訳ないほど小さな声が聞こえた。皆は笑顔で草野を迎え入れると、作業を始めた。俺はその間中ずっと、草野の表情が気になっていた。
「それじゃあ今日はこのぐらいにして引き上げよっか」
学級委員長のような位置にいる渡辺が言うと、皆は「お疲れー」と言って、そそくさと帰って行った。俺は自分が帰る用意を何もしていないことに気づき、皆が帰る中急いで荷物をまとめていると、横に誰かの気配を感じた。
「おっ、おお。草野か。何だ?どうかしたか?」
ただ黙って下を向いている草野が、いつもの様子とは違うことは俺にでもわかった。
「とりあえず座るか?」
俺は自分の席に座ると、隣の席を勧めた。
草野はしばらくはその状態でいたが、やがて決心したかのように腰を下ろした。
「あの・・・」
草野の小さな声が教室中に響き渡った。それだけで今ここには俺達しかいないことを感じさせられる。だからどうだ。ということもないのだが、何だか俺は草野が話すことに興味を示していたようで、次に口を開く姿を緊張しながら見つめていた。
「秋元君に相談したいことがあるんだ」
「何?」
俺は草野の先の言葉が早く聞きたくて、端的に投げかけた。それが俺のいつもの悪い癖で、怒ったような口調になっていたのか。草野は少し躊躇っている様子でいた。
「ごめん。でも、秋元君だから言える相談なんだ。先生と一番仲が良さそうだから」
俺の心配していたように、草野もまた先生と仲良くなりたいと思っていたようだ。先生に何も話さなくて困っているようだけど、やっぱり俺と同じで、つっぱても先生と仲良くなりたいと思っていたんだ。
俺は草野のその言葉だけで安堵したように頬が緩んだ。それを草野は不思議そうに見つめていたけれど、特に何を言ってくることはなかった。
「先生と仲良くなりたいんだ。秋元君みたいに先生に何でも言えるような関係になりたいんだ。でも、俺・・・誰かに気持ちを伝えるのが苦手で、それに・・・先生だから」
最後の言葉に何かの想いがこもっていると思い、遠慮を知らない俺は率直に聞いた。
「お前先生と、てか、教師全体に何か感じてんのか?」
俺も昔はそうだったように、草野にもそういうことがあるに違いない。そういった根本的なことを聞いたら、たぶん草野も竹村先生に心を開けるようになると思う。
俺は誰かの相談を受けることも、慰めることも苦手だけど、草野には悩みを解決してほしいから。だから俺は人のことにこんなに真剣になれるんだ。自分の境遇と似ている所があるからかもしれないけど。
「俺、前の学校で先生にいじめられてたんだ。俺見ての通り勉強出来ないでしょ。だから先生に質問に行ってたんだ。だけど、先生はお前みたいな馬鹿な奴に時間を割いている余裕はないって。それなのに、先生のせいなのに。俺が悪い点数を取ると学校の恥だって言って、毎日雑用を押し付けられていたんだ。友達もそんなにいなかったし。それにその先生上辺だけはいい奴だから、誰もそんなことしてるって思わないから。だから、俺の言うこと誰も信じてくれなかったんだ。だから、俺、先生って奴が嫌なんだ。だからはじめは竹村先生も上辺だけの奴だって思った。でも、今日そうじゃないってわかった。でも、何も言えなかったんだ」
草野は途中声を震わせながら、二度と思い出したくもないようなことを俺に打ち明けてくれた。
俺はただ黙って聞いているだけしか出来なかった。それでも俺の胸には草野の思いがひしひしと伝わってきた。真面目な草野と、こんな俺との先生の扱いは違うけれど、俺だって先生というもの全体に差別をされていた。
竹村先生は違う。それだけがわかっているなら、俺はそれだけで充分だと思った。先生はどんな生徒にも真正面からぶつかって、草野の闇だって取り除いてくれるんだ。
「お前は何も考えなくていい。後は先生に任せろよ」
「えっ?」
草野は独特な目つきで俺を怪訝そうに見てきた。俺は一瞬ひるみそうになったけど、別に草野は軽蔑しているわけではないと悟ると、俺はもう一度草野に目を合わせた。
「先生が何とかしてくれるから」
再びそういうと、俺は草野の笑顔を始めてみた。こいつでもこんな笑顔するのか。そう思うと嬉しくなって、草野の頭をくしゃくしゃに撫で回した。
今度こそ草野は嫌そうにさっきの目を向けてきたが、もう俺は何も気にならなかった。今まで関わりにくい奴だと思っていたけど、これからは良い友達になれそうだ。
俺がそんな感傷に浸りきっていると。
「後、お願いがあるんだけど・・・」
遠慮がちな声が聞こえてきた。
俺は笑顔で「何でも言え」と言うと、草野はさっきよりも良い満面の笑みを浮かべてくれた。
「先生に言われたんだ。勉強がわからなかったら楽しくないぞ。って。それに勉強教えてやるって言われたんだ。でも、前のことがあるから俺が傍でわからなかったら何かされるんじゃないかって思って・・・。だから、秋元君。勉強教えてくれないかなあ?」
「えっ、俺?」
さっきまでの自信に満ちた笑顔はどこに行ってしまったのだろうか。クラスの中で一番馬鹿な俺に頼んではいけないことを頼んできたぞ。
しかし、無碍に断るわけにもいかなかったので、俺は勉強を教える約束をしてしまった。
そうしてその翌日から、俺は毎日草野に勉強を教える日々が続いたのだ。
翌日、またもや草野が先生に呼び出しをくらった。しかし、今度は珍しく教室で話しを始めるつもりらしい。
俺は帰る前に草野に「頑張れよ」と言い残し、先生にいつもの冗談を言ってから教室を後にした。
俺はこの時、二人の距離がより一層に縮まることを予想していた。
しかし、真相はそうではなかった。学校からゆったりと帰路に沿って進んでいると、後ろから誰かが全速力で走ってくる音が聞こえた。最初は気にも留めなかったのだが、息の途中で俺を呼ぶような声が聞こえたので、振り返った。振り返るとそこには、今にも泣き出しそうな草野の姿があった。俺は状況を全く理解できず、とにかく草野が落ち着くのを待った。
息を整えた草野は、さっきあった出来事をゆっくりと話してくれた。俺は途中何度も「嘘だろ」と言ってやりたかった。しかし、草野の表情が、草野の声がその言葉を空気の中に通してくれなかった。
俺はどうして先生がそんなことを言ったのか。理解出来なかった。あの先生が生徒にそんなことを言うはずがない。頭でそう思っていても、事実はそれに反しているのだ。実際それによって傷ついた者が俺の前にいるのだ。俺は事実を受け入れられないまま。とにかくそんなことを言った先生を見返してやりたいと思い、全力で草野に勉強を教えると決めた。
今日はテストが返却される日だ。俺の教えた甲斐があったのか。草野はテストの日もほとんどわかった気がする。と、嬉しそうに言っていた。実際草野に勉強を教える為に猛勉強した俺も、今回は手ごたえがあった。
俺は意気揚々と先生がテストを返却するのを待っていた。
草野は今まででは考えられないような点数を出したので、特に数学の先生にとても褒められていた。
先生が「急にどうしたんだ?」という問いかけに、草野は嬉しそうに「竹村先生に教えてもらった」と言っていた。先生に知らせるように仕向け、後で驚かす気なのかもしれない。
俺はこの時今度こそ草野が先生と上手く行くって信じてたんだ。
それなのに・・・。
*
秋元君はとうとう涙を堪えきれずに、わんわんと泣き始めた。私は秋元君の草野君の話しを聞いて、こんなどこにでもある行き違いが、悲しい殺人事件を生んでしまったのだと思うと、胸が苦しくなった。この事実をあの男が聞いたらどう思うのだろうか。私までも涙を浮かべそうになった時、秋元君は涙を堪えながら必死に何かを言おうとしていた。
「これ。渡してもらえませんか?」
秋元君はポケットから、少しくしゃくしゃになったプレゼントに使われる袋を出した。
「これは?」
私の問いかけに、秋元君はもう一度涙を袖で拭ってから、息を整えて言った。
「草野からの先生への誕生日プレゼントなんです。あの日は、先生の誕生日だったから、本当はあのHRの時に、先生の誕生日会をするつもりだったんだ」