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4話

私はこの時に私がいなくなっていることに今では気づける。

しかし、この時の私には私がどうにかなってしまったという疑惑すら、心のどこにもありはしなかったのだ。

私は純粋に無であった。この時に誰かが私の心境を察して何か言ってくれたなら、私はいつもの良い先生に戻ることが出来たかもしれない。

しかし、そんな仮定の話しをしたところで、今では何の意味も果たさない。私はもう事を済ませてしまったのだから。

だから、私はここにいるんだ。罪と向き合うために、あなたに懺悔しているのだ。



          *



翌日答案が返される。その作業については、私は関与できない。

秋元が自信満々にどれほどの点数を取ったのか。渡辺が余裕な素振りでどれほどの高得点を出したのか。草野がどれくらい解答欄を埋められたのか。私はそれを見ることもしなかった。いつもなら生徒より先に見るのだが・・・。

見たくなかったのだ。私が壊れてしまうような気がしたからだ。

しかし、そんな私に対する配慮も、数学の先生によって憚れた。

うちのクラスの数学の授業が始まる前の休み時間のことであった。隣から「おおー」という感嘆の声が漏れて来たので、私は無意識にそちらを見た。見ると、私に気づいて欲しかったのか。当人はこちらを見ていた。

「どうかしたのですか?」

興味がないというように尋ねる私に対し、相手は興奮したように紙を手渡してきた。私はその紙を見て、息が止まりそうになった。それは草野の数学の解答用紙であった。私がそんな状況になったのは、何も草野の名前を見たからではない。私の頭はそこまで幼稚にはなっていなかった。私が驚いたのは草野の点数であった。あれほど白紙で小テストを出していた草野が、何と八十点を取っていたのだ。

私は先生を見つめてから、本当にこれが草野の物なのか再度名前を確認した。

しかし、何度見てもそこには『草野竹彦』と書かれているだけであった。

「先生のおかげですよ」

前方から聞こえた嬉しそうな声に、思わず顔を上げた。すると、私の心境も察しないような悪魔の笑みでその言葉が囁かれたのだ。

「先生が草野に二週間前から勉強を教えるようになったからですよ」

その言葉に思わず「は?」と言いそうになったのを、かろうじで口に収めた。

確かに私は二週間前に勉強を教える宣言した。

しかしその行為は叶わなかった。それなのに私のおかげで草野が良い点をとれただと?

こいつが事実について知らないのは無理もないが、私は今にも食って掛かって反論を唱えたかった。

そんな願いは、次の発言によって色濃くなる。

「草野が言ってましたよ。竹村先生が親身になって教えてくれたから授業がよくわかるって」

私は今度こそ「は?」と口に出してしまった。

しかし、相手はそれに違う認識をしたようだ。

「いえね。僕が竹村先生に教えてもらってるおかげだろ。って言ったら、嬉しそうに頷いてたんですよ。草野ってのは意外と良い奴なんですよね」

一人嬉しそうに納得するのを横目に見ながら、私は全ての状況を把握できずにいた。草野が私に教えられているのを肯定した?あいつはあんなにも私のことを拒んだじゃないか。

それに笑顔を向けたって?私には馬鹿にしたような笑みしか見せない癖に、何が気に入らないというのだ。私はこんなにも生徒の為に尽くしているというのに、どうして何にもしないただ数字を黒板に並べているだけの先生が評価されるのだ。

私の頭は噴火寸前の富士山のようであった。

「それじゃあ次、草野にこの嬉しい答案を返してきますので、僕はもう行きますね」

奴は一人ご機嫌で、はち切れんばかりの頭を抱えた私を嘲笑うかのように軽快なリズムで職員室を去って行った。


奴が去った後の職員室は、地獄のようであった。私は地獄の中。ただ何もすることなく闇に侵食されていく様を全身で感じていたのである。

机の上には今日片付けるべき書類が山積みされているというのに、私はそのどれにも手を付けず、ただただじっと前を見据えていたのである。パソコンのキーボードを押す音や、書類にペンを走らせる音。そして時間が進んでいく事実を知らせる秒針の音。そのどれもが私の頭の中にただ響いていただけだった。


そうして一時間が過ぎたようで、鼓膜がつぶれるようなけたたましい音が鳴り響いた。それはただのチャイムにしか過ぎないので、実際はそれほど大きな音は鳴っていない。ただ私の今の心境がチャイムをそういう風に感じさせただけである。

「竹村先生!」

チャイムが鳴った数十秒ののちに悪魔が私を呼ぶ声がした。私は耳を塞ぎたくなるような思いでその声を無視していた。

しかし、悪魔はそんなこともおかまいなしで、私の隣までやってきたのだ。

このときの私はそんなことを考えることが出来なかったが、冷静に考えると先生の席は私の隣にあるので、隣までやってくるのは当たり前のことなのである。

しかし私の頭は先生が悪魔にしか見えないほどに可笑しくなっていたのだ。やってきた悪魔に対し、私は明らかに敵意を込めた瞳で見つめたのである。

「そんな怖い顔しないでくださいよ。予想通り草野喜んでましたよ。竹村先生は本当に生徒思いだなー」

私は悪魔の最後の一言で自分を見失った。

「そうですか」

私は静かに悪魔の顔を見据えて言った。その時の私がどのような表情をしていたのかはわからない。

しかし、先生の反応には特に変わった様子がなかったので、きっと私はいつも通りの私であったに違いない。

私は先生が楽しそうに椅子に座るのも見ずに、急に仕事の虫に取り付かれたかのように積み重なっている書類を片付け始めた。

今日は運の良いことに授業が一つもなかった。そうして放課後までただただ書類を処理していくだけであった。



書類が片付いたのと、HRのチャイムを知らせるのはほとんど同時だった。それほど多くの書類があったわけではないが、気づけばそれほどの時間が経っていた。書類を片付け始めたのは二時間目と三時間目の間の休み時間である。私は昼食を取ることも忘れて、ただ書類を書き続ける機械に成り果てていた。そうしてHRのチャイムを聞くと、私はただ出席簿だけを持って静かに教室へと向かうのであった。


教室の扉を開けると、いつかの日とは違い相変わらず生徒達ははしゃぎまわっていた。

そんな中私の狭くなった視界いっぱいに現れたのだ。

「せ、先生」

更に暗くなっていく視界のさなか、草野は別人のように笑顔を浮かべていた。その顔がただ嬉しくて緩んでいるわけではないことを理解した。

「俺・・・」

草野が何かを言おうとするのを押しのけて教壇へと立つ。そしてけたたましい音を立てて出席簿を置くと、騒がしかったはずの生徒共が一斉に私を見た。奴らはまるで皇帝に逆らえぬ奴隷のように静かに席について私の言葉を待っている。私は一人一人の顔を伺ってから、いつかのように一点に視線を集中させた。

「おい、お前喧嘩売ってんのか?」

私は何の前触れもなく草野に言った。

押しのけて通ったはずなのに、いつの間に草野は席に着いたのか。そんなことは少しも疑問に思わなかった。

私の頭は、既にその時の私によって想像された世界のことしか考えられなかったのだ。

「どういうつもりなんだ?」

草野はそこでようやく自分に言われている事実に気づいたようで、罰の悪そうに黒目をあちらこちらに動かしていた。

ようやく自分の犯した罪に気づいたのだろうか?それでも何も言わない草野に、私は心の中に秘めたありったけの醜いものを吐き出したのである。

「俺がどれだけお前の為を思っていたと思うんだ。今まで俺はいい先生と言われていたんだ。俺はわからない生徒には教えてやってたんだよ。そんなにすぐに結果は出た奴はいねえよ。でもな。お前は何なんだ?俺のことを否定しやがって・・・。それで何が俺のおかげだ。どれだけ俺を馬鹿にしたら気が済むんだ。美術の先生である俺に絵が描けないだって?お前本当は描けるんだろう。勉強だって出来たんじゃねえか。俺が何をした?てめえに何かしたか。なあ、答えろよ草野」

段々と叫ぶように捲くし立てる私に対し、草野は怯えるでもなくただまっすぐに私を見据えていた。私はその目がどうしても気に入らなかった。初めて出会った時から受け入れられなかった目が私を見つめているのだ。

もう一度醜いものを吐き出そうとした瞬間。

草野とほぼ対角線上にいる秋元が泣きそうな声で私に話しかけてきた。

「先生・・・どうしたんだよ。急に何怒ってんだ。なあ、先生」

秋元は涙を流さまいと息を整えながら静かに言ってきた。いつものような口の悪さは感じられず私の良心が目を覚まそうかとしていた。そんな時・・・。

「いつもだ」

地獄の底からまた草野が私を連れ戻してきたのだ。決して元の私には戻さまいと、私の足を全力でひっぱっているのだ。

「いつもいつも・・・先生って奴は・・・」

草野は何者にも興味を見せない瞳から、敵を見つめるような鋭い目になった。普段の私ならばそこで草野が怒って傷ついていることを理解できたであろう。

しかし今は、草野の言葉がより一層に私を地獄に陥れるのである。彼の心に気づけるはずはなかったのだ。

「先生がなんだってんだ!俺だって仕事なんだよ!仕事じゃなきゃお前なんて相手にするかあ!」

私は肺の中にある全ての空気を外に出すように、教室中。あるいは隣の教室にまで聞こえるぐらいの大声を上げた。

既にその時には現実は見えていなかった。女子生徒が恐怖に涙を浮かべているのも、男子生徒が慌てふためいているのも、秋元の目が腫れ上がっているのも何もわからなかった。

この地獄の中には今や草野と私しか存在しないのだ。

「先生もうやめて!」

草野の目の前にいる渡辺が立ち上がった時、私の世界はまた少しだけ明るくなった。地獄の中で頭上から光が指すように、渡辺は私から敵を隠してくれたのである。

「やめてよ。どうしたの。何で?先生、おかしいよ」

渡辺が嗚咽を漏らしながら座りこんでしまうと、その後ろから私や、この状況をも嘲笑うかのように草野がまた視界に現れたのだ。

「うるせえよ。お前ら俺のことなんてなんとも思ってねえんだろ。渡辺・・・お前俺のこと好きとか言ってたな?どうせ成績上げてほしいだけだろ。こんなかの誰も俺のこと何て好きじゃねえだろ!嫌いなんだろ!」

私は叫ぶのにも疲れ果て、息も絶え絶えに草野の席まで進んだ。草野は私をただまっすぐに見つめてくるだけであった。

「なんだその目わ。立て」

草野は私の言葉を計るように私の目を一心に見つめてくる。そして少しした後で、また黒目をあちらこちらに動かした。それがしばらく続くと、ゆっくりと目を閉じながら立ち上がった。

もしかするとその時の私はわかっていたのかもしれない。草野が私の今の心境を理解し、観念したことを。

「よし。さすが男だ。なあ、草野!」

怒鳴ると同時に、先ほどまで草野が腰を下ろしていた椅子を蹴飛ばした。その音が思ったよりも大きく響いたので、クラスは一層静寂に包まれた。

私も草野もお互いに見詰め合っているだけで、時間が止まってしまったかのような錯覚に陥った。

と、その刹那・・・。

「先生!」

後ろから渡辺らしき声が聞こえたが、私はもう言葉は全て同じにしか思えなかった。後ろからということもあり、私は全身が鳥肌が立ったような寒気を覚え、一心にその主を倒そうと試みた。近くに武器がなかったので、私は力いっぱいに突き飛ばした。周りに障害物の多いこの空間では、それすらも大きな攻撃になると思ったのだ。案の定、その者は机の角で頭をぶつけたようで力なく倒れ込んだ。私は心の底から安堵すると、大きく溜息を付いた。そして、気を引き締めて草野に向き直る。まだ倒さなければならない強敵が残っているのだ。

私はただ夢中で何かをしなければならなかった。そうでなければ、この敵に私はすぐに倒されてしまうに違いない。そう、何もしなければ私が危ないのだ。

「せんせ・・・」

草野が何かを言いかけたのを、私は焦ったように頬を殴り飛ばした。

草野は地面に倒れると、口を開けていた時に殴ったので、口を噛んだようで、口からは血を流していた。そんなことは今の私にでもわかった。

しかし、それが草野から出たものなのかどうか怖くなっている自分がいた。あの血は私のものかもしれない。私は全身から血の気が引いていくのを感じた。

もうダメだ。

私は・・・。

「お前がいるからだ!」

私は先ほど自分が蹴飛ばした椅子を拾い上げ、倒れる草野の頭に振り落とした。草野は始め驚いたように眼を見開いていたけど、それが次第に小さくなっていき、目の端から涙を流していた。

「そんな同情に!」

私はもう一度振り落とした。

草野は悲痛に目を細めるが、私の目をじっと見つめている。

草野の頭からは血が流れ出ていた。それが次第に流れていき、草野は血の涙を流しながら私の顔を見ていた。その目が恐ろしくて、もう一度振り落とそうとしている時。草野は観念したような、虚ろな目をした。そして力なく唇が動いたのだ。

「ごめんなさい」

私は椅子をどこかに投げ捨てたい気分になった。

しかし、もう遅かった。

私の体は既に草野を殺そうとして、それ以外の自由を利かせてくれなかったのだ。

私の意志に反して、椅子は頭を目掛けて落ちていったのである。草野はもう私を見ることができなくなった。

その瞬間、私は教室にいることを実感させられた。

「く、草野・・・先生」

入り口に一番近い席に位置する秋元は、椅子からは腰を上げているものの近づいてくる様子はない。

いや、近づけないのだ。

尋常じゃない事態に気づいた先生達が、血相を変えて私の元へ近づいてきた。

そこから先のことは覚えていない。気づけば私はあなたの元にいたのです。どうして私がこのような事態を犯したのか。今話しても私にはわかりません。

しかし、私は生徒が怖かったのだ。あんなに好きだったはずの生徒がどうしても怖かったのだ。



           *



男は事件に至るまでの原因と、事件の内容を教えてくれた。

男はとても悔いているように思えた。隙を見せれば今すぐにでも自殺をしてしまいそうなほどに。そして男は精神が崩壊していた。男の話しだけを聞くと、草野という生徒が反抗していたように思える。

今回の事件を引き起こすきっかけになった人物であるが、私は真相を知るために男が嬉しそうに話していた秋元君に話しを聞いてみた。

「秋元君だね?今回のことは本人から聞いたよ。今日、君に尋ねたいのは草野君のことなんだ」

秋元君は草野君の名前を聞くと、泣きそうな顔をしながら唇を硬く閉じた。秋元君はそのまま膝の上に拳を握り締めながら震えていた。必死に涙を我慢しているのだろう。

私はいたたまれない気持ちになりながらも、聞かずにはいられなかった。

私が何かを言おうか迷っていると、秋元君はゆっくりと口を開いた。

「俺の・・・せいなんだ。俺の・・・」

「それはどういうことかな?」

 私の問いに、草野君は堪えていた涙を一筋だけ流した。目にはまだ涙を溜めているようで、男が言っていた通りの強がりな子なのだと理解した。

「俺、草野が先生と仲良くなりたいって相談受けてたんだ。でも、先生に言わなかったから。先生は草野に嫌われてるって思ってて・・・だから。だから先生があんなことに・・・。どうして、どうして俺先生に言えなかったんだろう」

「もう少し詳しく話してもらっていいかな?」

 秋元君は冷静を取り戻すように、一度目を閉じてからゆっくりと語り始めた。その時の秋元君の悲しそうな目を、私はきっと生涯忘れることはないだろうと思った。


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