3話
放課後、草野に残るようにと指示をした。
今日はあんな堅苦しい所ではなく、教室で行うことにした。
昨日の不思議な現象は、結局昨日だけに留まっていた。
生徒はこちらを心配そうにちらちらと見ながら、「さようなら」と言って帰って行った。
「おい先生。あんまり草野いじめんじゃねえぞ」
秋元は明らかに敵意をむきだしにして言った。私はただ草野のためを思ってしているというのに、一体何処に文句があるのか。秋元の言葉を鵜呑みにした私は、いつものように何かを言い返すことが出来なかった。後で何かを言おうとした時には、もう秋元は教室にはいなかった。
広い教室に草野と私の二人だけになった。私は一瞬何と言うべきかわからず黙り込んでしまった。草野は相変わらず何も言わない。
「く、草野」
「はい」
さすがに何か言わなくてはいけないと思い、とりあえず注意をひきつけてみた。草野の目は少し心配しているようにも見えたが、そんなことがあるはずはない。
「今日はお前にプリントを持ってきた。とりあえず数学からやるか」
草野はそんな私に困った様子でいた。プリントを見つめながらも、キョロキョロと視線をさ彷徨わせていた。
それが一体どういった心境の表れなのかは、私には何もわからなかった。ただ、そんなことを気にしていても仕方がないと思い、私は私が立てた作戦を実行に移すことだけを考えた。
「まあ、いいからとりあえず座れよ」
草野は少し考えるような素振りを見せていたが、私が見すぎていたのか突然慌てて席に着いた。
「このプリント解いてみろ」
鉛筆とプリントを草野の方に渡すが、草野はそれをじっと見つめているだけで何もしようとしなかった。
「おい、草野どうしたんだ?わからないのなら教えてやるぞ」
草野に渡したプリントは、最初の授業で習った多項式・単項式という非常に簡単な問題であった。きちっとノートを取っていればこれぐらいは秋元でもわかるだろう。
「おい、草野お前本当は解けるんじゃないのか?」
教師として言ってはいけないことを言ったと気づいたのは、草野の目が私を悲しそうに睨みつけているのに気づいた時だった。
私が弁解の言葉を考えようとしていた時、草野は立ち上がった。
「もういいです。だからいやだ」
そう言って教室を出て行った。
先生にも、校長先生にも、生徒にも良い先生だと褒められていた私が、もっとも言ってはいけない台詞を言ってしまったのだ。
草野と向き合うといいながら、結局私は草野のことを心のどこかで疎んでいたんだ。自分にすぐに従ってくれない。こんなにも素直じゃない生徒だから私は草野を嫌っていたのだ。
私は自己偽悪に陥った。
生徒一人一人を差別せずに過ごしてきたじゃないか。草野には何か抱えているものがある。そう考えたのは私じゃないか。草野と話しをするんじゃなかったのか。何を大人気ないことをしているんだ。
私は頭を掻き毟った。指にはくすぐったいほどに毛がついていた。私はそんなことも気にすることなく、誰の席かも忘れた椅子に座ったまま、机に体を突っ伏していた。
それから私は私を取り戻せずにいた。
課題テストの二週間前の出来事以来、私は草野と関わることを放棄していた。HRでも授業でも、今までの先生らしさを何とか保っていたが、私はどうも草野の存在を受け入れられなかった。
授業では作品に取り掛かり始めた生徒が増え、私は次の段階の作業に取り掛かるべく一人一人の机を回ることをしなかった。
そうして、私は自分にとって可愛い生徒ばかりをひいきするようになっていたのだ。
そんなことを経て、とうとう課題テストの当日になった。
課題テストのテスト監督は基本的に担任が行うもので、普通のテストとは違い、教科の担当者に質問を聞くことができない。
だから担任は動くことなく、ずっと自分のクラスを見ることが出来るのだ。もっとも私の担当は美術なので、質問の類は関係ないのだが。
「皆は今日の為に勿論勉強してきたよな?」
私はいつものようなテンションで皆を元気づけようとした。
「あったりめえだろ。先生のプリントじゃ足りなくて、参考書まで買ったぜ」
どうにも秋元にしては嘘っぽい発言を笑いで飛ばしながら、そろそろ時間が来たので配り始める。
「じゃあもう皆喋るなよ。て言っても、喋ってたのは先生だけか」
笑いながら、プリントを配り終える。
「それじゃあ始め」
その合図と共に生徒は一斉にペンを動かし始める。
秋元が言っていたのはあながち嘘ではないのか。すらすらと問題を解いているように見える。他の生徒を見渡しても、皆同じようにペンを鮮やかに動かしている。その中でももっとも鮮やかに見えたのは、渡辺であった。渡辺はこんな問題など簡単過ぎる。暇つぶし程度にでも解いてやろうか。とでも言いそうな位にすらすらと問題を解き進めている。
先生の中では問題に取り組んでいるか。不正行為はないか。そういったことを確かめる為に机の周りをまわる人もいるが、それは生徒達の集中を切らせる要因になるため、私は絶対に行わない。
それに、私には生徒がテストを受けている間にいつもやることがある。
それは、生徒と同じテストを行うことである。わからない生徒と一緒に勉強をすることもあるのだ。私にとってもテストは力を試す為に必須なのである。
一時間目はどうやら数学のようだ。私は数学のプリントを最近誰かに突きつけたような記憶があると思いながらも、結局そのような事実が記憶にないことに気づき、すぐに問題に取り組むことにした。
二年の最初に行うテストは、基本的には一年の時に習ったものばかりである。やり進めて行くと、最後の方に二年の範囲である単項式・多項式が出てきた。
その問題にぶつかった時、私はそれを突き破ることが出来なかった。秋元にプリントを作っていたはずなのに、何故だかそこだけ私の頭の中からきれいに公式と言われるものが抜け落ちていたのだ。もっとも、公式と言われるような大層なものはこの単元にはないのだが・・・。
私は頭をひねったが、どうしても何も出てこなかったのだ。そのうちに数字やら、文字やらが魔物と化して見えた。
私はついにプリントから目を背けたくなった。その瞬間に何者かが見計らったようにチャイムが鳴り響いた。
「終わったぁー」
秋元が上げた声によって、私は我に返ることが出来た。たった一つの単元のやり方が思い出せなかっただけで、どうして私はこんなにも動揺してしまっているのだろうか。
その内に一番後ろの生徒達がテスト用紙を集めてきた。私は机の上が散らかっていることに気づき、それを急いで片付けた後でプリントを預かった。最後にプリントを渡して来たのは草野だった。
「出来たのか」
「いえ・・・まあ」
草野は曖昧な返事をしながら、逃げるように席へと戻って行った。明らかに私のことを避けているように思えてならなかった。
無理もない。私が教師としてあらぬべき姿を晒してしまったのだから・・・。草野にも勉強を教えてやらねばならかったのに、結局テストの当日まで草野に何もしてやれなかった。草野は一体どれだけの問題を解けたのだろうか。積まれたプリントを見つめながら、私はその中の一枚だけが妙に分厚く見えた。
「先生もう廊下に出てもいいですか?」
「えっ、ああ。いいぞ」
渡辺は私のことを怪訝そうに見つめながら言うが早く廊下へと出て行った。
それから他の生徒も立ち上がって、ひとまずやりきったと言う様に伸びをしている奴もいた。
私はとりあえず解答用紙を職員室に運ぶのと、次の時間のテストを取りに行くべく立ち上がった。
「おい」
「何だ?」
ふいに秋元が声をかけてきた。それから、ゆっくりと席から立ち上がると、秋元にしては珍しく口をもごもごとしながら何かを言いたそうにしていた。
「どうしたんだ?お前らしくないぞ」
「ええ。ああ・・・いや。持ってやるよ」
「えっ?」
秋元からはあり得ないような優しさを受け、私は思わずプリントをぶちまけそうになった。
秋元は「何だよ」と言いながら、私の手の中からプリントを半分ひったくるように奪った。
「行くぞ」
既に扉を開けて廊下に出ていた秋元は、少しだけ頬を赤く染めていた。
私は急に優しくなった秋元が気持ち悪かったが、素直に嬉しかった。
私はクラスの可愛い生徒によって支えられているのだ。最近の私はあまりにもおかしすぎた。生徒のことで道が逸れるのを、再び元の道に戻してくれるのもまた生徒なのである。そう思うと、やはり私は全ての生徒を愛せているのだと実感した。
「先生さ。どう?」
不意に秋元が漠然と聞いてきた。自分の中だけで理解しておいて、主語を言わないのは若者の悪い癖である。
「何がだ?」
私がそう尋ねると、秋元は「だから・・・」と、歯切れ悪く言った。
「草野のことだよ」
「何でそんなこと聞くんだ?」
私は急に気分が悪くなってしまい、思ったよりもきつい調子で言ってしまった。
「いや、だってさ・・・。草野と上手く行ってないっていうか。俺もあいつのことよくわかんねえけどさ。先生何だか最近・・・」
秋元はそこまで言うと、ふいに口を噤んだ。私は秋元の行動に思わず足を止めた。
「何なんだ一体」
呟くように言うと、気まずそうにしていた秋元が驚いたように私を見上げた。私はそんな秋元の顔を素直に見ることが出来ず、また足を進め始めた。
さほど広くないはずの廊下が、今日はやけに広く感じた。こうしていつまでも私は目的地に達せずに彷徨ってしまうのではないか。そんな錯覚に陥ってしまいそうになった。
しかし、頭の中と現実は異なり、私たちはすぐに職員室に着いた。その間秋元はずっと俯いていた。私はただ前を見据えていた。そんな不思議な様が、たった今まで廊下に溢れていたのだ。
「ありがとな」
私は秋元と目を合わすことはせずに、プリントを受け取った。そして職員室に足を踏み入れようとした時。
「先生は最近変だ。俺何かこええよ」
悲しそうに、独り言のように呟く秋元の姿が、私の網膜の裏に焼きついた。
私は何とも言うことが出来ずに、秋元との関係を断ち切るように勢いよく扉を閉めた。
そこから国語と英語のテスト時、私はテスト問題を解く気が起こらなかった。
私は生徒が嫌いなことをすることもせずに、ただ椅子に座りながら前を見つめていた。仮に今誰かがあからさまな不正行為をしていても、私はそれに気づくことが出来ないだろう。
私の中で生徒への思いが初めて消えた瞬間でもあった。
私は無事にテストを終えると、帰りのHRに「皆よくがんばったな。今日はゆっくり休めよ」という、誰でも言う定型文しか言うことが出来なかった。
そうして、生徒をあしらうように帰りの挨拶を済ませて教室から追い出すのであった。




