日々の営み
魔術実習というものは、人によっては鬱になりかねないものなんじゃないかとオレは思う。それは厳しいからだとか、魔術が上手く使えないという劣等感が生まれるだとか、そういうものじゃあないんだ。そんなものじゃあ断じて無い。確かにそこを辛いと感じる者だっている。だがそれ以上に――
「『 燃やせ 焦がせ 焼き尽くせ ここにありしは闇を照らし 命をも燃やし尽くす力なり!』」
――このやたら気恥ずかしい詠唱というものが存在するせいで、やっていられないという人間が多数居るのだった。
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ここ、深根魔術高等学校も魔術学校なのだから当然のように魔術に関する勉強をする。そして、実際にちゃんと扱えるかどうかを定期的に確かめなければいけない。そのための実習なのだが……恐らく、この学校に入学した誰もが魔術の行使をするための方法に驚いただろう。
ただイメージをこめて詠唱をすればいいだけだったのだから。扱うものによって決められた詠唱文を読みながら、手の中にすべての世界を行き交う見えない力――魔力を掴むようにして、詠唱に応じた自分が求める事象をイメージする……と言うと難しく感じるかもしれない。だが、要は「決められた定型文を読みながら手で空気をつかむようにし、炎に関する詠唱なら爆発や火の玉をイメージすることでそれを起こすことが可能」ということだ。
このように詠唱をするだけで魔術が使えるようになったのは、どんな非才や無能の身でも魔術が扱えるようにという、魔女ベアトリスの作った救済措置のようなものだと言われている。なにも無しで魔術を扱える人間が少なすぎたのだ。どんなに優秀な作物も、育つ土地が少なければ意味がない。ましてや、育つかどうかもわからないようじゃあ困ると、色々な国の偉い人らから言われたベアトリスは人間のほうではなく、魔術を行うための魔力のほうにある細工を施した。
魔力に詠唱とイメージだけで魔術の実行者の望んだ事象となるよう動くという風に規定する。
それをたった数ヶ月で、彼の魔女は行った。全ての世界に存在する見えない力に、ある一つの方向性を定めたのだ。これには多くの学者も驚愕したという風に本には書かれている。そんな事は有り得ない、と言ってその実績を認めない者もいたし、讃える者もいたらしい。そんな讃える者達の一人が自分の頭上を指差しながら言い放った一つの言葉は、未だにこの魔術関係の業界に根強く残っている。
「彼女はこの空に絵を描き残したも同然だ!」と。
ただ、この力にも当然悪い面があった。何か高価な触媒も、特別な才能や技術も必要ないこの力は、お手軽過ぎたのだ。その事に気づいた世界は、すぐに詠唱の存在を特級の機密とした。幸い定型文でなければ発動はしないし、集中して魔力を掴む感覚は慣れなければそもそも知覚すらできないだろうことから、特にこれまで一般に流出したということは確認されていない。だがそれを一般市民にばらしたらどうなるのか。よく知らないが、前に「ひっそりと処刑でもされるんじゃね?」などと葉一が言っていたのを思い出す。多分、それで正しいのではないかとは思う。それほどにこの力は強力で、簡単だ。公にしていいものではない。
話を目の前の実習に戻すと、当然のようにこの授業では多くの人間が詠唱を使って魔術を使う練習をする。魔術学校に通う全ての生徒の内の3%ぐらいは詠唱無しで魔術を使うことも可能なようだが、使えない人間は詠唱に頼らざるを得ない。問題はその詠唱の言葉がとんでもなく小恥ずかしいことだ。この詠唱を考えたのはベアトリス本人という風に聞かされているが、オレはそれを信じていない。正直どこの中学二年生が考えた? と言いたくなるくらいのものを、あのやたら褒め讃えられてる魔女が考えたとは思えん。なにか宗教の音楽を参考にしたとか教わってもまったく信用できやしない。ちょうどいいところに目の前で火系統の魔術の実習が行われているので、それに耳を澄ます。
「『 燃やせ 焦がせ 焼き尽くせ ここにありしは闇を照らし 命をも消す力なり! 』」
目の前で手を前方にかざしながら、叫ぶように詠唱をする男子生徒の手元に、小さな火球が生まれる。それは手の前でしばらく熱を放っているとしぼむ様に消えていき、男子生徒は安堵したように息を吐いた。手の中でキープができるというのも、魔術を使う者としては努力が必要なこととして扱われる。出来なければ、そのまま飛来していってしまうのがほとんどだ。なので――考えたくはないが――戦闘行為にも、使用はできる。しかし、先ほどのような小さな火球ではほとんど威力が無いだろうが。一応火なので木などに当たれば燃えてしまうが、この実習用魔術室(男女別)にはそういった事故防止のための魔力で生まれた物をかき消すような対策が壁や的には施されているので問題は無い。
なお、戦闘に使うためにはより多く魔力を集め、詠唱をしなければいけない。つまり――
「次、遠原!」
……ああ、そうか……目の前でやってたらそりゃあ次はオレの番か……。前の男子生徒はとっくに列の後ろに下がっていたので、ゆっくりと前に進んで前方に手をかざす。
「遠原は確か先日の授業で『下位詠唱』はほとんどやりつくしたな。ならば今日からは『中位詠唱』に挑戦してもらうとするか」
「……はい。『 燃やせ 焦がせ 焼き尽くせ ここにありしは闇を照らし 命をも消す力なり 身に宿すことはできず また身を救うこともない!』」
ボウッと、先ほどの男子生徒の出したものの2倍くらいの大きさの火球が目の前に生まれる。ほとんど初めての体験とこれまで以上の熱が身体を熱くさせ、心臓の鼓動を速くするのを感じる。手元にキープするのは中々に難しいが、小サイズの火球よりも少し強く押さえ込む感じにすることでなんとか安定した。汗が流れ落ちそうになってきたところでしぼむように火が消えていき、完全に無くなったことを確認すると担当の教師から「よし、戻れ!」との言葉をもらったので列の後ろに行く。今回は的に当てるわけではなく安定性を確かめるのが目的だったからこれでいい。
――つまり、より実用的にするためにはあの恥ずかしい詠唱を長くしなければいけないのだ。
詠唱には三つの段階として『下位詠唱』『中位詠唱』『上位詠唱』がある。
下位詠唱はもっとも短く、とっさに出すことができるが出力が低い。
中位詠唱は中途半端な詠唱に中途半端な力と、文字通り真ん中くらいの魔術の発動。
上位詠唱は一番長いが、それだけ大出力で発動できる。しかし安定させることが下位、中位に比べて圧倒的に難しい。よって実習でやらされるのは多くの人間が中位詠唱までだ。上位詠唱をやることができるのは一部の優秀な生徒ぐらいと聞く。まぁ二年生、それもこのクラスに上位詠唱ができるほどに登りつめるやつはいないだろうけど。
ちなみに葉一は、魔術に関してだけは才能を見せている。しかも勉強のほうではなく、実践においての才だ。詠唱をしないと多くの人間が魔術はできなかったが、それ以前に魔術を学び、使っていた人間は個人の才能で詠唱を必要とすることはなかった。
ある人いわく「魔力の存在を感じる感覚を持っていたからこそできた芸当」とのこと。彼らにとって、魔術は少し学べば感覚的に使うことができるようなものだったのだ。詠唱などという時間のかかるプロセスは必要ない。そして、葉一もそんな人間であったらしい。もっとも――
「こら神田ぁ! 発動が早いのはいいが、調子にのって出力を上げるんじゃない!」
「す、すんません!」
それでどこまでも無茶ができるかどうかは、まったくの別問題なのだが。
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魔術実習が終了し、そのあとの午前の間の授業もつつがなく終了して昼休みとなった。朝に弁当を用意するような時間も無かったので、オレは昼食の購買へと隣にいる葉一とともにひた走る。教室を出て数十秒といったところで購買の目の前に出るが……すでに体育会系の連中が黒山の人だかりのごとく集まっていた。
しかし、今回ここに来たのはこんなにみっちりとすし詰め状態になった場所を潜ってまで昼飯を買いに来たわけではない。
待つこと一分ほど。この分厚い人の壁の中から嬉しそうな顔をした、この場では異彩を放つような少女――那珂川那須野が小さな紙袋を抱えて出てくる。
「よう、那須野」
多分これからゆっくりとその中のパンかなにかの味を噛み締めようとしていたのであろうが、そんなこととは遠慮なしに声をかける。こちらを向いた那須野はすぐに普段の顔つきに戻り、葉一を見て不機嫌そうな顔になった。
「……なんで神田がここにいる」
「いや、二人が喧嘩したみたいなことを聞いたからさ。でも悪いのはどう考えてもこいつだと思うし、本人もそれを認めてるみたいだから、謝罪の言葉くらいは聞いてやってくれよ」
「……興味無い」
「そんな事言わずにさぁー、頼むよ那須野、このとーり!」
那須野はこちらに背を向けて自分の教室に戻ろうとしたが、オレの隣の葉一がパァンと音を立てて手を合わせながら頭を下げてるのを見て、話だけは聞く気になったのか、ため息をついてもう一度こちらを見てきた。あまり気分はよくなさそうだったが、オレにできることもない。
「それじゃ葉一。後はお前の仕事だ」
オレはひとまず葉一の後ろに下がってその背中を押す。ここから先は多分、オレの出番は無いだろうし。
「那須野……スマン! 一々、いやしょっちゅうその大胆ボディに触ろうとして……深く深く反省している! だから」
「神田、貴様は以前もそのようなことを言っていなかったか? それで信用して欲しいとは無理が……」
なんというか本気で謝ってるようにも思えない葉一の言葉にも突っ込みたくなったが、この二人、前にも似たようなことしてたのかと、今度はオレがため息をつく。前にもやったのなら、今すぐ貫かれていてもおかしくはないだろうに。
「違う! 今回は本気だ! 俺は、今回のことで自分の未熟さや愚かさを深く思い知ったんだ……だから次はこんなことを絶対に起こさない」
葉一はいつにもなく真剣な表情になった。それに対して那須野はどうも困惑している様子。今までと違うという葉一を信じていいか迷っているんだろう、きっと。
「……それでも神田を信じるのは、少し……」
ダメだ。今のままでは葉一を信用するには材料が足りなさすぎるらしい。というか、正直オレも今の葉一の姿がどこか嘘のように見える。なんというか、無理をして真摯な顔つきをしている。昔から付き合いがあるからそこが見抜けたのだろうか。しかし、このまま関係がこじれているというのも歓迎はできない。
……しょうがないか。
「那須野。それじゃあちょっと賭けようぜ。今から葉一があの購買にパンを買いに行く。お前のためにな。それでお前が好きそうな品が手に入ったなら、許してやってくれないか?」
オレは葉一の後ろから、未だにごつい連中が群がってるところを指差しながらそう提案してみる。那須野はまだ少し渋そうな顔をしていたが、ひとまず小さく、コクンとうなずいてくれた。
「……しょうがない。それで、今回はチャラにしてやる」
「だとさ。よし、行って来い葉一」
そんな好条件の約束を取り付けられたので喜んでいるであろう葉一の顔を見てみれば、先ほどの真摯さはどこへやら。これでようやく希望が繋がったというのにどうも口元を歪ませながら顔を青くして、汗も出ているようだ。夏といってもまだ六月。暑いというほどでもないのだから……冷や汗だろうか。
「あ、あれの中をかいくぐって那須野の満足するようなものを買って来いって……それはちょっと酷いんじゃないかなぁ親友よぉ!」
ぐいぃ、と葉一がオレの制服の袖を掴んできたので、それを振り払う。
葉一の顔が捨てられた子犬のようになった。
「何言ってんだ、許されるかもしれないんだからいいだろ? ……あぁそれと、ついでだがオレの昼飯も買ってきてくれ。後でちゃんと金は返すからさ」
「お、お前……まさかそれが――!」
「おっと、早く行かないと良いものは残ってないぞ? 早く行けよ、葉一」
手が滑って、何かに感づいたような顔をした葉一を人ごみの中に全力で押し込んでしまう。足元に力を込めるのを忘れていたのか抵抗しない葉一を軽々と押し込むことができた。まぁ、今はこれが正解の行動だろう。オレは自分のクラスがある方向に翻る。
「櫟ぃぃぃぃぃ! てめぇぇぇ!」
後ろから聞こえる恨み言には即座に耳を閉じて、那須野に付いてくるように促す。しかしその間、ついてくる那須野のものかはわからないが、後ろからとてもクズを見るような視線で見られていたような気がした。まったく失礼千万だ。オレはただ友人関係の改善と共に、自分の昼飯の調達をこなしただけだというのに。
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「櫟ぃ……お前、絶対後でちゃんと金出せよな」
適当に自分たちの教室で待っていると、わりと早くに葉一が帰ってきた。その腕にはしっかりと購買でなにかを購入してきた証のような紙袋が抱えられている。
「ふむ、それじゃあまずはその中身を見せてもらおうじゃないか」
「バカ言うんじゃねーよ。お前は那須野のあとだ」
そう言いながらオレに触らせないよう、葉一は那須野に袋の中身を確認してもらっていた。那須野は吟味するように中身を見ていると、ふいに「…おっ?」というような顔をした。そして袋の中に手を入れて取り出したのは――三角形のサンドウィッチ的な……なんだこれ?
「神田……これは」
「ん? やっぱりクリームサンドは気に入らなかったか……?」
「……クリームサンド?」
自分も聞いたことも見たこともあるが、こんな形ではなかったような気がする。あれってコッペパンを横から切ってその間にクリームを挟むってような見た目のやつだった気がするんだが……。
「何だ、櫟も知らないのか? クリームサンドっていってもこれと本来のものはまったく違ってな……」
長ったらしい葉一の話をまとめると。
元々どこぞのご当地名物だったクリームサンドなるものの存在を偶然ここの購買パンの製作者が耳にしたが、あろうことかその製作者が常識外れなことに見たこともなければ調べる暇も無いので、イメージだけで作り上げたものがこの学校で売られているらしい。本来のクリームサンドは俺が浮かべたもののようだが、この学校では耳をそいだ食パンを三角形に切り、その間に薄切りのみかんなどを混ぜたホイップクリームをサンドしているとのこと。なんで間違えてるのにそのままなのかは、これを気に入っている客がいるかららしいが……どうみてもこのクリームサンドはスイーツだ。しかも何か外している感じのするようなタイプの……。
「まぁ、あれだ。那須野って普段からあまりこういったデザートっぽいものとか食べないから気になってたんだよ。やっぱり女の子だし、食べはしなくても好きなんだろうかとは思っても聞く機会とかないし……それで今回買ってきてみたんだが……やっぱり嫌か?」
「嫌じゃない」
そう言うなり、那須野はその包装を解いて勢い良くクリームサンドに噛り付いた。一口で三分の一を食べたが、とても女の子らしい食べ方ではない。だが食べた後の顔を見るにとてもご満悦だったみたいで、それを見るとこちらとしてもこれはこれで女の子らしいように思えてくる。
「……ふふ。こういうのも、悪くはないな」
「待て待て那須野。そういうのは最後のほうにだな……」
「? 何故だ。わざわざ気に入ったものを後に食べる理由がどこに」
「そういうものだから気に入るんだよ。最後に食べたほうが口の中にその味とか幸福感とかが残るだろ?」
「……一理あるな。すまない神田。某はお前を誤解していたようだ」
手に持ったクリームサンドを置いて、那須野は神田に軽く頭を下げた。一件落着……でいいのだろうか。葉一もなんか嬉しそうな顔になってるし、これは横で一人仏頂面になっているのもあれだろう。オレもこの空腹を埋めて幸福感を味わう仲間になるか。
「おい葉一、なんかパンよこせよパン」
ぶっきらぼうにそう言った時に、こっちを見た葉一の顔はとてもなにかにがっかりしたような表情だった。オレの知ったことではないが、なにか残念なことでもあったのか。思い当たる節は無いわけでもないが。
「……お前はどうしてそう目の前の空気をぶち壊すかねぇ。いい雰囲気だったろうが、なぜ邪魔しやがる!」
「いいじゃないか。お前らが笑ってるのに、オレだけぶすっとしてたら完全にのけ者だろ。そもそもお前にパンを買わせたのは、お前が失敗した場合も考えての行動だったんだぞ?」
「ほう……いったい俺がトチったらどうするつもりだったんだ?」
熱血馬鹿、もしくは単純馬鹿には先を見ることなどできやしないということなのだろうか。それではこの先生きのこれまい。だからオレは、不敵に笑って言い放ってやった。
「とりあえず三人で飯を食いながら、ここでゆっくりとお前をつるし上げるつもりだった」
「……お前は本当に友達想いだなぁ……!」「阿呆だな」
失礼な。那須野にそうバッサリと言われるつもりはない。葉一も言葉はオレを褒めているが、目はまったくもって笑っていなかった。何だっていうんだこいつらは。人の考えを理解できない性分か。
「……まぁ、一応お前にも買ってきてやったよ。ほら」
葉一は渋々、といった感じで袋の中から何かをオレに投げ渡してきた。受け取ってみれば……メロンパンか。まぁしょうがない。あの体育会系がごった返しているような所で、コロッケパンのようなものは中々に残りづらいものだ。コッペパンだけとかではなかったのだからマシだろう。
メロンパンに食いついてみれば、まず聞こえたサクッというような軽い音。最初に噛んだ表面の軽やかな硬さと、中の生地のフワッとした感触からの甘みが広がっていく。昼なんだしもう少しガッツリとしたものを食いたい気持ちもあるが、メロンパンでも取ってこれた葉一には感謝したい。
「葉一、よくこれを取ってこれたな? てっきり残ってるのはハズレ……とは言いたくないが、これよりは駄目な方かと思っていたが」
ゴソゴソと自分の分のメロンパンを引っ張り出してそれに齧り付いていた葉一に聞いてみると、肩をすくめる様なリアクションでため息を吐いた。
「いやぁ、あいつら見る目ねぇわ。残ってる中では一番状態が良さそうだったのに、他の焼きそばパンとかに群がってたからな。おかげで楽に取れたぜ」
「そうだったか。あぁ、ところで那須野は自分で何を手に入れたんだ?」
今度はその横でカレーパンを食べていた那須野に聞いてみる。オレ達が話す前にすでにあの空間で至福のような笑みを浮かべていたのだから相当すごいものを手に入れたと思うのだが……。
「……これとカツサンドと……メロンパン」
これというのはカレーパンだろうが……全員メロンパンかよ……、という空気が三人の間を漂いはじめる。なんだこのメロンパン集団は。シンパシーだかシンメトリーだかの感覚を共有してるんだろうか。
「……葉一。一応聞くが他に取れそうなのは何かあったか?」
「……あんパンか、コッペパンくらいしか無かったな……」
「そうか……ならしょうがなかったんだ……お前のせいじゃない……」
そんな状況でメロンパンを買ってこれたのは僥倖だ。むしろよくやったと誉めてやりたいが……いかんせん、空気が重い……。
「そ、そういえばあの購買のカツサンドって見たことないな! ちょっと見せてくれよ?」
この空気に耐えかねた葉一が、話を那須野が買ったというカツサンドのほうにシフトさせようとする。普段はいらんことしか言わないくせに、今回はいい判断だ。オレも実は見たことが無いだけに気にはなる。
「少し待て……これだ」
そう言って見せてくれたのは、見た目は何の変哲もないカツサンドだ。しかし……今この手に持っているのが食いかけのメロンパンであることを考えるとまさしく至上の糧のような存在に見えてくる。
どうするべきか考えたが、やはり空腹には耐えかねる。恥を忍んで、頭を下げるしかないか……!
「頼む、一口だけでもそれをくれ!」
教室にオレと葉一、二人の声が響き、同時に那須野に頭を下げていた。それが一瞬だけ周囲の注目を集めてしまう。那須野が「ば、馬鹿、少し静かにしろ」と、注目を浴びているのが恥ずかしいのかそんなことを顔を赤くして言ってきたが構うものか。今は腹に貯まるとかそういうんじゃなく、シンプルに甘み以外が欲しい。具体的に言えば塩気、しょっぱさだ。それを手に入れるには……横のこいつは邪魔者。
「……!……」 「……!!……」
葉一と目線がぶつかり合う。二人が争うのは、目の前のカツサンドの一口。色気のない、食い気に溢れた実に浅ましい戦いといえる。
「全く……お前らはどうしてそうも独占したがるのか……」
呆れ果てたような表情をしながら、那須野はカツサンドの端をちぎって、オレ達の目の前に差し出してくれた。
そこのアホと眼力の比べあいなぞしてる暇はない。それをすぐに口に運ぶと、パンに染み込んだソースの味が口内に広がる。カツなんてどこにもない切れ端もいいところだ。
これはおちょくっているのかね? と言ってやろうと、那須野を見ればすでにカツサンドの半分以上はその姿がなくなっていて、口を膨らませた那須野の顔だけが見える。
「……お前が一番独占欲が強いと思うんだが?」
「何、これは独占ではない。ただ必要な食事を摂っているだけだ」
「ぐぬぅぅ……!」
フフン、と鼻で笑うように那須野は返してきた。確かにこっちが勝手に要求したわけだが……それでも一口ぐらいならいいじゃないか! と訴訟も辞さない覚悟で抗戦しようとしたその時、教室のドアが開く音がした。そちらを見やれば、古賀が誰かを探すように顔を覗かせていた。
「おーい遠原ー……っと、ちゃんと居たか。ちょっと、こっち来い」
「お? 何かやらかしたのか?」
古賀から呼び出されたオレを、葉一はにやつきながらはやし立てる。しかし呼びつけられるようなことをした覚えもない。なので多分『あれ』だろうと予想。
「多分、校長からだと思うぞ? 前のから一ヶ月は経ったぐらいだし」
「あぁ……それか。んじゃ、今日か明日には用事ができるのか」
「そうだな。今日は別の用があるからいけないけど……まずは古賀に聞いてみるよ」
早い段階で葉一は何のことか察したようで、プラプラとこちらに手を振って見送ってくれた。人が帰るみたいな雰囲気になって困るのでやめて欲しかったが、古賀を待たせても意味はないので無視して、話を聞きに廊下に出た。
古賀から聞かされたのは予想通りの内容だった。とにかく数分間、放課後に校長室で詳しい話を聞くようにということを聞いて、それから戻ってみれば葉一がメロンパンを二つほど口にほおばっていた。先ほどまで自分が座っていたところにあったはずのメロンパンが消えているのを見てどういうことかは察したので、葉一の頭を叩いてやる。次に腹部を狙うべく腰の位置に拳を構えると、待った! というように葉一が手を伸ばしてきた。
「これはお前のじゃない! これは那須野がくれた――」
「横でメロンパン食ってる那須野を見てから言えドアホ!」
我関せず、という態度で葉一を見ずにメロンパンを食べている那須野を尻目に、葉一へフックを入れる。そこでゴングのように、昼休みの終了が近いことを告げるチャイムが鳴った。
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「失礼します、海山さ……校長先生」
午後の授業が終わってから、オレは寄り道をせずに校長室へ向かった。先ほど古賀を使ってオレを呼び出した人物――海山奏子に会いに来たのだ。恩人とも言える人なので海山さんと呼びたいが本人が校長と呼べ、と言ってくるので彼女の前では仕方なく「校長」と呼んでいる。長い髪を後頭部のあたりでまとめあげた白い髪はサラサラとしており、色が抜け落ちたという感じでもないのできっと地毛なのだろう。
校長というにはまだ若い見た目をしているように見えるが、これでも長生きをしていると以前に語ってくれたことがある。恐らくだがオレの予想よりは長く生きてるだろう。スーツ姿でも女性らしいラインはまるで隠れておらず、海山さんのきつそうな性格の表情と相まってサディストの女教師、という表現が似合いそうだ。しかしその顔を本人はコンプレックスに思っているらしく、眼鏡を掛けることでイメージを柔らかくしようとしているらしいが、むしろ逆効果だった。誰も言わないので本人は気づいてないみたいだが。
「ああ、来たかい。まぁ座ってな、お茶くらいは出してやるさね」
「ありがとうございます、校長。ここに来てからもお世話になりっぱなしで……」
「気にする必要はないよ。昔っからあんたはあたしに気を使いすぎだ」
嘆息しながら海山さんは宣言どおりお茶を出すつもりなのか、棚から何かを取り出した。ここのすぐ隣が給湯室、というのはなんとも不思議な構造だと思う。しかし、そもそも不思議なのは魔術を教える学校というところからすでに不思議か。
オレがそんなこんなで深根魔術高等学校に通うことになったのは、この海山さんからの薦めがあったからだ。父さんが居なくなってからは父さんの弟――叔父の遠原繁夫さんが世話をしてくれていたが、繁夫さんに頼りっぱなしでいたくなかったのと、父さんの知り合いであったという海山さんがオレの持っていた自己複写の力のことをどこからか知り「その力を活かすための方法を教えてやる。だからお前ら、二人共うちの学校に来い」という誘いをかけられ、この学校にやってくることとなった。
もっとも、受験はちゃんと受けさせられることになっていたので、海山さんが誘いをかけてきた日から必死で魔術学校に関する勉強をする羽目になったのだが。ついでになんとか入学できた時に小中同じだった葉一まで入るとは思いもしなかった。あいつにここを受けた理由を聞いてみたところ、家から近いからだったのには呆れたけど。
「いえ、校長は色々良くしてくれますし。なにより父さんとも仲良くやっていたみたいですから、そりゃあ気を使いますよ」
「仲良く、ねぇ……あいつなんかとは全くお近づきにはなりたくなかったよ。目の前の若い女ほっといてその倍は生きてる師匠にばっかり手を出して」
「……100より上にいったら大差はないような気が」
「あんた、自分から稼ぐチャンスを逃したいのかい?」
ぎろり、と海山さんの目が鋭くこちらを睨みつける。もともとキツい顔つきなので、それは効果をより発揮した。蛇に睨まれた蛙のようになったオレは即座に謝るべく、頭を下げる。
「えー……と、校長。何も文句は無いので今回は見逃してください」
「その台詞、これまで何度言ってきたのさ? ま、そんなことは気にしてもしょうがないかね……早く本題に入るとするかい」
何度も言った覚えなんてまるで無いと過去から目を背けつつ、机を挟んで向かい合っているソファの片方に姿勢を正して座る。海山さんは給湯室でお茶を用意すると直接、コトン、と目の前に湯飲みを置いてオレの向かいに座った。お茶からほんのわずかに立ち昇る湯気と緑茶の匂いが爽やかだ。一度気を落ち着けるためにもゆっくりとそれを飲む……渋みが少し多いように感じるが、不思議と嫌な感じも無く飲める、そんなお茶だった。口から湯飲みを離して一息。海山さんはその様子を見てニヤニヤとして聞いてくる。
「いいものだろう? これはアタシもわりと気に入ってるんだ。だが、どうにも買い込みすぎちまってね。あんたのほうで貰ってくれると助かるんだが、いるかい?」
「気持ちは嬉しいんですけど、生憎と我が家は麦茶派でして。あ、でもみや……校長が来た時に出せるようにでも貰っておきます」
「じゃあ明日にでも渡してやるさ。今はもっと別の話をするために呼んだんだからね……と言っても、今回も前と同じだが」
海山さんは懐に手を入れそこから取り出したものをゴトリ、と机の上に転がすように置いた。
種類も分からないような、大型の拳銃。一般人が使えば肩が外れて当然のようなサイズのものを彼女は特に何の関心も無く無表情で置いてから、シンプルに今回の用件を伝えてきた。
「この世界で『遊んでいる』魔王の娘を捕まえな」