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異世界少女来訪中!  作者: 砂上 建
夏日の来訪者
50/53

一つ屋根の下にて囲まれて

「私はね、その時はまだなにも……千花がどうなっているか、知らなかったんだよ」

 三人で卓に着くと、諏訪野先輩はそう始めた。

 目の前にある料理は出来上がったばかりの産まれたてを主張するように湯気を立ち上らせていて、それこそ平常時であったらまずごくりと唾を飲み込みそうなものだったが、しかし引きずってきた疑問と怒りがその気にはさせてくれない。

 オレは先輩の話を聞くことに集中することにした。

「千花が来てから数年以上……その間、私は内心浮かれていたわけさ。誰と話そうが、なにをしていようが『突然できたかわいい妹』のことばかり考えていたんだ。妹ができたことにばかり熱心になって、妹がどうなっているのかを大して見ることもなく、ね」

「……それでも、お姉ちゃんはあたしのことを誰よりも気にかけてくれていたよ……それだけでも……」

 いや、と諏訪野先輩は千花ちゃんの言葉に首を横に振っていた。少し顔を伏せて落ち着いているようではあったが、表情は今話した過去のことに何かを想っているような――悔みを感じさせていた。

「千花は、そう言ってくれると思ってた。だけど私はまだ……どうしても納得できていないんだ。だからこそ、千花と私はここにいると言ってもいいんだけどね」

「……そう、だね」

「そうなんですか?」

 千花ちゃんも肯定したその、だからこそ、という言葉がどういうことなのかはわからないので、先輩に尋ねてみる。要するに、先輩は自分が千花ちゃんの境遇に気づいていなかったことに納得していないのはわかったけど、そこからなぜここに来ることになったのだろう。

「まぁ、そういうことなんだよ、遠原後輩。私は父や母が研究に千花を強引に巻き込んでいたことを中学二年生ほどのころに知って、二人と大ゲンカしたんだ。だけど所詮子供の私だけではどうしようもなかった。だから、一計を案じたんだよ」

「一計……?」

「海山奏子……まぁ、要するに深根の校長にね、直訴したんだよ」

 えぇ!? とオレが声を荒げるのも無理はなかった。なぜ、海山さんにそのことを訴えたのかがわからないのだ。だってオレからすればあの人は確かに魔術学校の校長という立場ではあるがそれでもただの一校長で、ただの息抜き大好き婆さん……いや、おばさんというイメージでしかない。なぜそんな人に……と思うオレを見て、諏訪野先輩は首をかしげた。

「あれ、もしかして遠原後輩は知らないのかい? 奏子さんってけっこう魔術界隈じゃ偉い人なんだよ? 有名とは言えないけど、調べればけっこうすぐわかることだったんだけど」

「……ぜーんぜん」

 オレは、海山さんがそんなすごそうな立場の人間だと知らなかったし思ったこともない。怒られそうだが、そもそも全然そんな雰囲気もないと思っていた。しかし、そういえばあの人の言を信じるならたしか海山さんはベアトリスの直弟子なんだったか。それを考慮すれば、偉い立場にもある程度納得がいく。

「まぁ、とにかく私はそれと、彼女の住所を調べてこの街に住む奏子さんに直談判しに来たわけなんだけど……そうしたらあの人、この学校に入れって言ったんだ」

 先ほど驚嘆の声が上がった口から、今度は気の抜けたような「はぁ?」という声が自然に上がってしまった。その反応に、二人とも苦笑する。

「私たちも、最初は似たようなことを思ったものだよ」

「うん。あたしは後でお姉ちゃんから聞いただけだったけど、びっくりしちゃった」

「普通はそこで勧誘なんてしないもんだと思うんですけど……」

 ……いや、そういえばオレや天木さんもあの人に誘われて深根に入るようになったんじゃなかったか。ついでに樫羽もそうするように仕向けられているし……なにか意図があって誘ってたりするのだろうけど、しかしまぁ、知り合いに集中しすぎだろう、いくらなんでも。

「それで、今の諏訪野先輩たちがここにいるってことはその話を飲んだってことでいいんですよね?」

「その通りだ。私は当初受ける予定だった東京の魔術学校から、深根に乗り換えた。それで入試を合格した後に実家からなんとか、ちーのことも連れ出してこっちに引っ越した……ってわけだね」

 諏訪野先輩はすべて話した、と言わんばかりに一気にリラックスした雰囲気を醸し出す。肩の力が抜け、自然体となったようなその姿とは対照的に、千花ちゃんはまだどこかぎこちない印象を持つ。

 ……千花ちゃんはわかりやすいが、こうして何度か対峙してみても諏訪野先輩は何を考えているのかわかりづらい時がある。言うなれば腹芸が上手いというやつだろう。もっとも、基本的に嘘をつくというよりも猫や仮面を上手に脱いだり被ったりしている、というのがオレの見立てだが。

「……しかし、よく東京の魔術学校から深根に目標変更なんて通りましたね。言っちゃなんですけど、レベルだったら東京――というか都会の学校のほうが上だし、先輩ならそこでも十分に上を狙えると思います」

「ん? 遠原後輩は私はそっちに行っていたほうがよかったって?」

「そういうわけじゃないですよ。ただ不思議に思っただけです」

 先輩の言葉は本気で言っているわけではない、というのはその悪戯っ子のような顔を見ればオレでも察せられた。先輩もただ軽い遊びのつもりで言ったのだろう。表情がにこやかな物になった。

「ん、確かに私もただ深根に変えると両親に言ったわけではないよ。ちょっと取引を持ちかけてみたんだ。これまで千花に伝えてきた魔術を、試すつもりはないか、ってね。私はそれを見守る立場でってことにしてね」

「……あぁ」

 それならば、千花ちゃんをこっちに連れてくる理由としては十分なのかもしれない。話を聞いてる限り、研究命ってようだし。納得はしがたい理由だったが、だいたいそういうことなのだろうと理解した。

「要するに、どれもそういうことなわけだ。私とちーがここで二人暮らしをしているのも、東京からわざわざこっちに越してきたのも、全部あの家からちーを遠ざけるため――そして私が今後、ちーを守るために」

 諏訪野先輩は妹に愛おしげな視線を向けながらそう言い、しばらく目を離さなかった。しかし不意に「おっと」と我に返ったように口にすると、身体を正面に向けて両手を合わせた。

「話が長引いてせっかくの食事が冷めてしまっては困る。今日はちょっと急いだからあまりいいとは言えないかもしれないが、二人とも十分に味わってくれれば幸いだ」

 では、いただきます。

 そう言って諏訪野先輩は自分だけささっと目の前の食事に箸をつけた。オレと千花ちゃんは目を合わせて、少しの時間逡巡するように見つめあうと、どちらからともなく口元が緩んだ。

 ――まぁ、それもそうか。そう思っているような顔。そして、先輩と同じように手を合わせる。

「いただきます!」

「――いただきます」

 千花ちゃんの元気な言葉に飲まれながら、オレも同じ言葉を口にしてスプーンを掴んだ。



(……美味しいな……)

 スープを口に含むと、雑味の無いクリアーなコンソメの風味が広がった。諏訪野先輩は少々卑下しているようだったが、これなら十分――いや、十二分に満足のいく出来だろう。もしも先輩自身が完成だと思うような物ができていたら、オレの舌ははたしてちゃんとその料理を味わえていただろうか。


 ……いや、というか、それよりもだ。オレはそんな感想だけを考えていたわけではない。

 色々と話を聞いたがその中でも頭の中をぐるぐると旋回し続けるのは、千花ちゃんが元は異世界人だったということ――樫羽のような、自分で望んだわけではない転移者だということだった。

 千花ちゃんを見ると、彼女もまたこの料理を味わって至福のような顔を浮かべているようで、少なくとも自分で話したことに少しも沈んだ様子が見られなかった。諏訪野先輩も同様だ。

「んー……やっぱりお姉ちゃんの料理と比べると、あたしってやっぱりまだまだなのかな……」

「いや、昼のお弁当だってよくできていたし、ちーがそう気に病む必要はないさ。遠原後輩もそう思うだろ?」

「そうですね。二人とも達者で羨ましい限りですよ、オレとしては」

 とりあえず、気になるのは確かだがオレ一人が気にし続けてもしょうがないだろう。今は二人と一緒にこの時間を楽しもうと、諏訪野先輩の言葉に同意しながら自分に言い聞かせるようにした。

「羨ましい……って、私の作る料理なんてそんな大したものでもないよ? 事実、今日はいくらか出来合いのものも使ったしね」

 このハンバーグとか、と先輩はナイフをそれに通しながら言う。千花ちゃんも同意するようにコクコクとうなずいていたが、オレが言いたいのはそういう話ではなかった。

「いや、実をいうと家の料理係って基本的にはオレになっていまして。でも、腕として同じ域に及んでいる気はしませんし、それにいつも自分で作るもんですから。たまに誰かに作ってもらえるのなら、それはけっこううれしいもんですよ」

「先輩が料理……って、他の人はやらないんですか? お母さんとか……」

「あ、うちは両親が今はいなくてね。妹と二人暮らししてるんだよ」

 オレは平静なつもりでそう言ったが、しかしこのことを言うと大概の反応は暗くなられてしまうものだった。今回もご多分に漏れず、千花ちゃんがたじろぐような表情になる。

「ご、ごめんなさい先輩……あたし、ぶしつけなことを聞いちゃって」

「いや、全然気にしなくていいよ。オレだって千花ちゃんたちのことを聞いたんだし、それにまだ悲観するようなことかどうかもわからないからさ」

 父母共に一切の連絡がいまだ無いままだ。とはいえなにか重大な事件になっているのならオレの耳に届いているはずだし、逆に今はまだ希望も持てる状況なだけいいほうだとも思える。

「遠原後輩がそういうなら私は気にしないし、ちーも……」

 先輩はさすがに切り替えが早くすっぱりとオレの言った通りにしてくれた。しかし千花ちゃんはまだ切り替えがうまくいかないのか、困ったような声を出している。先輩もそれを見て一度言葉を止めたが。

「……まぁ、今すぐは無理でも、そのうちそう思えると思うよ」

 と、本人に代わって(たぶん本人よりも正確な判断だと思われる)大丈夫だと言ってくれた。とはいえ、オレとしては大したことのない話なので、神経質になったりするようなこともないだろう。

「しかし、遠原後輩に妹がいたとはね。想像もしていなかった」

「千花ちゃんとは似ても似つかぬタイプですがね。まぁ、今となっては唯一で一番大事な身内です」


「そうか――私と、同じなんだね」


 先輩はその言葉と共に微笑のような顔を向けてきた。そう言われると、確かに経緯は違うがオレと先輩は妹と二人で暮らしていて、唯一の家族と呼べるような間柄で……それでいて、その妹が元はどこからか現れた異世界人で。先輩はオレの妹、樫羽が異世界人であることは知らないだろうけど、奇しくも同じような関係性を持っているらしい。

 横目に未だ困り顔の千花ちゃんを見つつ、樫羽の顔を思い浮かべる。似たような、とは言ってもオレと先輩には一つ違いがあるように思えたのだ。


 それは、先輩は千花ちゃんをたぶん、救えたということ。それを違いというならオレは逆説的に樫羽を救えていないことになるけど……正直、それはいまだによくわかっていない。オレと樫羽は意思の疎通をしたりなんかはできているけど、それでもあいつが幸せかどうかはわかっていないのだ。千花ちゃんを見ていると、彼女は現在を幸福だと思えているように見える。それなら樫羽はどうなのだろう。

 少なくとも、今の自分にそれをわかることはできなかった。


 +++++++++++++++++++++++++


「さて、食事も終わった。洗い物も済んだ。そこで私から一つ遠原後輩に話があるんだけどいいかな?」

 千花ちゃんと先輩が二人で洗い物をしていたのでなんとなくリビングで座ったままぼーっとしていたオレに、改まった様子で先輩が声をかけてきた。

「いいですけど……なにか、大事な話なんですか?」

「大事と言えば大事だけど、まぁ今日一日で忘れていいような話かな」

 なんだそれ、と思いつつも一応大事だというのならそれを聞くのはやぶさかではない。先輩の話に耳を傾けることにする。

「まず単刀直入に聞くけれど――遠原後輩、どこで寝たい?」

「……なるほど」

 だいたいは今の質問で理解した。というか、今言ったことがすべてなのだろう。それについてはオレもちょっとだけ考えていたことだった。

「オレは全然、リビングの床とかで構いませんよ。一応水着以外の荷物に毛布もありますから、それかけて寝ます」

 同じ部屋で同衾というのは、先輩が言っていた通りなにが起こるかわからないからマズイのだからさすがに節度を持って除外だ。

 オレの返答に対して、先輩は頷きながらニコォッ、と笑顔になっていた。不自然なくらいに、気持ちよく。

「うんうん、私もそうしてもらおうとおもっていたんだ。一応、年頃の男女で、すでに屋根は同じところにいるわけだしね」

「……もしかして、先輩……」

 そのどことなく台所に向けて言っているようなはっきりとした声は、未だそこから戻ってこない誰かに自制させるために向けて言っていたりとかいうわけでは……?

 そんな妄想に近い推察を自分で考えておきながら頭は否定していたのだが――やはりまぁ、時に事実はどうあがいても否定したくなる方向に傾くことがあるようだった。

 そろりと足を忍ばせるように台所から顔を覗かせて、千花ちゃんは戻ってくるとすぐに口を開いた。

「で、でもね、お姉ちゃん――!」

「……うん。わかってた。ちーが遠原後輩の言葉でもすぐに折れないのは。だからたぶん私が何を言っても無駄なんだろう」

 なにかを言い出したそうにしていた千花ちゃんを遮って、諏訪野先輩はオレの肩にポンと手を置いた。どことなく諦めたような顔で。

「だからあと、よろしく。遠原後輩」

 いやいやいや、それを投げられても、と反論する間もなく諏訪野先輩は離れていく。

 そういえば、この外泊の話が出たときは先輩と千花ちゃんが長いこと話し合っていたが……まさかそれで今回面倒になったとかそういうことか! この人も意外と俗っぽい理由で動いたりするな!

「先輩……あたしも、そういうのがあんまりよくないって事はわかっているつもりです。それに、別にあたしは変な目的で言ってる訳じゃないですから」

 千花ちゃんの目は、その言葉を証明するかのようなまっすぐとしたものだった。少なくとも嘘は感じない。諏訪野先輩に押し付けられたようであることには納得できないけれど、その真摯な姿勢を見てしまっては背を向けるのは逆に失礼だろう。

「……それじゃあ、ちーちゃんはどうして急にそんなことを?」

「先輩と――もっと、一緒の時間を過ごしたいからです。それじゃ、だめですか……?」

 ダメ、ではないと思う。むしろ本人としてそこまで言ってくれるのは、素直にうれしいことだった。だけど、この話は最初から認めるも何もない話。ただ厳然と、絶対的な壁が存在している話だ。それを越えようというなら、千花ちゃんの理由では無理というほかない。しかし、ただ駄目といって聞くかどうかということもある。

 ここは多少強引でも、千花ちゃんから引くようにするのがベターだろうかと、オレはある行動を決意して千花ちゃんの目の前に近づいた。

「……せ……先、輩……?」

「――隙ありっ」

 急に接近したことでか、体が固まったようになった千花ちゃんに向けて手を伸ばす。自分の腕が慣れからか自然に動いていることを感じながら、オレは――彼女の頭の上に、そっと手を置いた。


「……えっ?」

「ちーちゃん。オレも、そう言ってもらえる事は嬉しい。だけど、ね」


 呆然とした千花ちゃんの頭に手を載せたまま、それを前後に動かす。決して髪を傷めたり痛がらないよう、できるだけ優しく。だけど――彼女に、オレの意図が伝わるように。

「オレがちーちゃんとあの部屋にいたら、下手をすればこれじゃ済まない可能性だってある……それは、分かるよね?」

 なにせ、頭に容易く触れられるのだ。やろうと思えば、どこだって触れることも可能。

 要はそれがちゃんと伝われば少なくとも舞い上がっただけの普通の子は引き下がるだろうし、なにより勝手に触れたのだ。頭とはいえ、それなりに嫌がることは必至だろう(妹が嫌がっていたことしか実データは無いが)。

「…………はい…………」

 千花ちゃんはようやく自分の言ったことを認識したのか、オレや先輩の言葉を聞き入れてくれた。ならば、もうこの手を乗せている必要もないだろう。

 そう思い、離そうとした時だった。腕を力強く、掴まれる。千花ちゃんの頭から手が離れることは無い。そしてオレの腕をつかんだのも、また千花ちゃんであった。

「ち、ちーちゃん?」

「……先輩とお姉ちゃんが言うこともわかります。あたしも少し……怖いといえば、怖いような気もしました」

 そう言った千花ちゃんの顔は、よく見るとどことなく赤く見えるような気がした。そして、オレの腕を掴む指がより深く沈む。

 ……ただ諦めてくれるだけなら、そんな顔になる必要も腕にさらに力をこめる必要も無いんだろうなと。余計な勘が働いて、オレにそんな諦めのような予測を告げていた。そして事実、それは当たることになる。

「だけど……あたしも、我慢できないんです。先輩がここにいてくれるから……だから、せめて一つだけ、お願いを聞いてくれませんか?」

 千花ちゃんがそう語る表情に、オレは……切なさのようなものを感じたのだろうか。大げさに言えば、それこそ今告げようとしていることが彼女にとっての希望であるかのような。本当のところは分からない。だけど、それならばオレは首を縦に振るだけだ。

 それを見た後に千花ちゃんは深呼吸を二度行った。オレもまた、隠すように小さく息を整える。


「……先輩。このまま、少しの間だけ――あたしを、抱きしめてくれませんか……」


 千花ちゃんの言葉に意識を委ねて、オレは彼女の小さな身体の腰に手を回し――触れる寸前で、意識を取り戻す。抱きしめるって……要は、抱きしめるってことだよな。この手で。千花ちゃんを。

 ――無理だろ、それ! 少なくとも、軽い決意でできるような行為ではないのは明白だ! どうすればいいのか、まるでわからん。

 行動に窮したオレは助けを求めて諏訪野姉のほうに視線を向ける。彼女もまた今の千花ちゃんの言葉にそれなりの衝撃をもらっていたようで、すごく悩んでいるような顔だ。しかしオレが目を向けていることに気がつくと、その表情から即座に気にしていないような顔に切り替わった。

「……ま、まぁ、今回だけ、っていうことで……任せるよ……遠原後輩」

 そういうと諏訪野先輩は……こちらから、顔を背けた。完全に丸投げということだろう。これでは俺が助けを求めた意味が無いではないか。

 しかし、そうなると本格的にどうするべきか。どうにか抱きしめたりしないで済む方法が思いつけばいいんだろう。だが千花ちゃんはもう、先ほど寸でのところでオレが行動を止めたからか、もうそのつもりになっている様子だ。このまま待たせたりしても可哀想な気もする。

 ……先輩もああして見ないふりをしてくれるというのだし、どうせならこのまま言うとおりに抱きしめてあげるというのがいいのだろうか。もう一度手を、さっきと同じようにしようとする。

(……一度止めたからか、余計に恥ずかしい気がする)

 それに、正直なことを言えば――オレにとって、女の子を抱きしめるなんてほど密着する機会はこれまでの人生でも一切無かったもの。それをこんな状況で急にといわれて落ち着いていられるものか。

 恥ずかしいし、どうすればいいかわからないし、それに怖い。だが、こうしてあげれば、それで千花ちゃんも大それた要求をやめてくれるというのだ。

 それだけ。それだけと考えれば十分じゃないか。うだうだと悩んで、それで余計に悲しませたりしたらあわせる顔も無い。一度、ここで覚悟を決めればいいんだ。


 自分の腕が、少しずつだが彼女の身体に近づく。それは歩みのような小さな幅だが、着実に距離を縮めていた。心音の聞こえるような錯覚と、頬が熱を帯びていく感覚が、それを確かに伝えてくれている。

 そして、いざ腕が触れようかという距離まで来たその時、オレは目を閉じた。なさけない話だが、これ以上、目を開けたままではできそうになかった。この光景を目に焼き付けながら、それをさらに越えていくことなど尚更のことだ。

 逃避のように、視界をさえぎり見ないことで自分の感覚を軽くする――そんな卑怯を働きながらも。


 それでもオレは、覚悟の末の行動ができたと思う。

 歩みではない、急速な動作で――オレは、千花ちゃんの身体を抱き寄せたのだから。


「………………!」

「………………………………」


 いざ、一人の少女を腕に抱きながら思うことができたのは、ただただ小さな身体は脆そうで、より強く抱き締めたら壊れてもおかしくなさそうだという、ありふれた接触の感想だ。心臓が高鳴るとか、顔が赤いとか、そんな最初からの状態をいまさら心中に述べることも無い。

 だが、なんとなく、それらとは違うもの――身体の芯のほうからひとつ、何とも分からないようなものを感じていた。それはきっと感情と呼べるようなやつで……もしかしたら、千花ちゃんが望むようなそれなのかもしれなかった。ただ、急な事態に混濁している意識はそれを一切解析することができないだろう。だからまだきっと、それは分からないことだ。

 そして、オレではなくこの状態を望んだ当の本人はというと、顔を見ることができなかった。抱き締める、という形からしてしょうがないかもしれないが、なによりもオレが見たいという気をもてないでいたのが、一番の原因だろう。うずまった顔にどんな想いが出ていようとも、今の自分にはそれを視界に入れることすらできるものか。

 ただ、この時間――おおよそ10秒にも満たない時間の、接触だけが答えのヒントだった。

 それまでは、どちらから動くことも無く。時間に身を任せるだけの、単純な空間になにがあったというのだろうか。

 そして、その10秒を超えたところでオレと千花ちゃんはどちらともなく離れた。オレは離れながら、天井に目線を上げる。

 そこにある答えを見ないように。決して、見えないように。


 やがて、ダッ、と駆ける音。ようやく目線を下げればリビングの扉が、閉まることなく開け放たれていた。


「……いやー、なんとも私は居ないほうがよかったのではとも思える、青春の一ページそのものの甘ったるい光景を見せてくれてありがとう。遠原後輩」


 肩に手を置かれ、振り向くと諏訪野先輩がげんなりとした顔つきにやる気のなさそうな棒読みでオレの奮闘を称えてくれる。皮肉っぽい部分を感じるのは、まぁ当然のことなんだろう。

「ただ……遠原後輩には、本当にできることを全部やってもらったようだ。きっと今、ちーはとても嬉しい。それだけは私からも保証するよ」

「そうなら嬉しいですけどね……」

「まぁ、私は大して楽しくも嬉しくも無いがねっ!」

 急に胸を張ってそんな強調するように言われても、とオレは呆れを抱きかけるのだが、しかし先輩の立場で見ればそれは愉快では無いんだろう、ということにも気づく。なにせ、いきなり連れてきた男と長年大事にしてきた妹が数日で抱き合ってる光景を眼前で見せ付けられてるわけだ。しかも、こういったような状況をできるだけ作るように動いてるから口出しもできないだろうという立場も同情を加速させる。

「……ほんと、最初は遠原後輩にはそこまで期待してなかったんだけどな。なんだか、今では私もキミならばって思えてきたよ」

「お、元生徒会長の信頼は十分に得られたってことですか。光栄ですね、光栄」

「うむ。光栄に思ってくれるついでにちゃんと私も愉快になれる、そんな結末を期待しているよ。後輩くん」

 バシンと手のひらで背中を思い切り叩いてきた諏訪野先輩に、オレは苦笑で応える。

 ……みんなが、楽しく、嬉しく。オレもまた、そんな結末の中にいたい。

 ここにいる諏訪野姉妹含め、樫羽、天木さん、葉一、那須野。それに琉院や三里さんもいるような、そんな未来。そんな日常。

 それを望む想いが、このとき確かにオレの中に芽生えつつあった。

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