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異世界少女来訪中!  作者: 砂上 建
梅雨の来訪者
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疾風に及ばず

 ――ネズミか。そう感じて手を伸ばしてみれば、横を走ろうとしていた小さな獣の尾を呆気無く掴むことができた。逃げようとしても、尻尾をつかまれ宙吊りのような状態ではネズミも満足に動くことはできない。それでも、逃げようとするのはうざったかった。黙らせてもいいが、こんな小さなものはエサに使うこともできそうにない。肥大化させるために与えるなら、より大きなもののほうがいい。


 ――ああ。手の中から逃げようとしているからうざいのか。ならば、逃がしてしまおう。手を開くと、ネズミが地面に落ちる。着地したそれは逃げるようにそのままどこかへと駆けていった。多分その小さな体を生かし、これから地上や地下を走りまわって自分たちのエサを求めるのだろう。そう考えたところで、一つの啓示のような案が浮かんだ。


 エサ。そうだ。別にここにだけこだわる必要はない。ネズミが何も気にせず食い散らかすのに、なぜ人が遠慮をする必要がある。大きなエサとなるなら、犬や猫にこだわる必要はない。ただ、刃物だけでは、より巨大な獣などには勝つことはできないし、町の中ではそもそも見つけることが不可能に近い。


 ならば、その辺りにいくらでもいるじゃないか。それを刈ればいい。なぜこれまでやらなかったのだろうかと、疑問にすら思う。街中では人間以上に大きくて数の多い生き物などいないのだから。



 ++++++++++++++++++++



 目の前に、見覚えのある小さな女の子がいた。それは六年程前の、まだ小さかったころの樫羽の姿だ。自分の体は見えないが、目の前の樫羽より少し高いくらいの目線なので、丁度同じ六年前位の頃の背丈か。周囲を見渡すが、誰もいない。昔のころのオレ達だけがそこにいた。周りは何もない、白だけの世界。足の着いている地面も見えないような世界だった。これは、夢だろうか。


「遠原さん」


 目の前の樫羽が、昔の呼び方でオレを呼んだ。ただの知り合いの名前を呼ぶかのように平坦な口調。自分が考える兄としての役割を必死にやろうとしていたあの頃は、毎日のようにこの言葉が胸に刺さっていた。兄ではなく、ただ世話をしてくれる人としか思われていなかったのかを、真剣に悩んでいた。だから「兄さん」という言葉を初めて聞けたときは嬉しかったんだ。


 だからこそ、やめてほしかった。他人を呼ぶように、距離や隔たりが存在しているように、遠原さんとは呼ばないでほしい。


「遠原さん」


 やめてくれ。その言葉が、口から出ない。声を出すことが制限されているように、口が開いても自分の言葉を発することができなかった。ただなぜか思うだけで頭の中に、この世界にその声は響いている。しかし、その声は樫羽には届いていないようだった。彼女の表情は変わらず、また同じように口を動かしているのが見えた。


「遠原さん」


 やめてくれ! オレは、頭の中で叫んでいた。樫羽の表情は変わらない。涙が、頬を伝うのが分かった。口は開くのだから実際に叫んでやろうと、喉に力を込めた。だが、それでも声を出すことは許されない。力を込めた瞬間に、喉に激痛が走る。何も言う事が出来ないまま、その痛みに震えた。

 まるで、神経を直接引っ掻かれているような気分だ。声を出すこともできないで、ただこうして震えていることしかできないのが悔しく、もどかしい。


「遠原さん」


 樫羽が変わらない平坦な声で、その言葉をまた繰り返す。

 それを聞いている内に段々と、怖くなってきていた。自分の声が届かないのではないかという恐怖。そして――今も樫羽にオレの気持ちは届いているのかという、新しい恐怖。夢の中ではない本当の樫羽がどう思っているのかが、たまらなく怖かった。そして、これからも届かないのかというような怯えが、付随してきたようにやってきた。

 ……本当に、届かないのだろうか。全ては試してみなければ分からない。ならば、最後の悪足掻きぐらいはやってやろう。叫ぼうとしたことで生まれた、喉の奥から血が上ってくるような感覚。だがそれは食いしばるようにして耐える。足が動くことを確認し、オレは樫羽のいる場所へと必死に駆けていき――


「遠原さ」


 ――そして手を広げて、樫羽を抱きしめた――



「あ、あの……遠原さん……?」

 樫羽とは違う声が、頭上から聞こえた。おかしいな。確かオレはベッドにすり寄るように寝て、さっきまでの夢の中で樫羽を抱きしめていたと思ったのだが。

「…………あれ?」

 少しずつ眠気が消えてきて、感覚がようやく働いてきた。どうやらオレは何かを抱きしめているらしい。だがこの家に抱き枕なる物はないし、そもそも抱き枕にこんな腰のようなくびれや頭にふにふにと当たる胸のような膨らみがあるはずも――

「!?」

 そこですぐに何事か感づいて、回した手を離す。そしてゆっくり上を見てみると……こちらを見て、軽く涙目になってる天木さんがベッドの傍に立っていた。どうやら寝ぼけて彼女の腰の辺りに思いっきり抱きついていたらしい。感じたものも多分、さっき考えたとおりのものだ。しかし、あぁなるほど。そうだったのか……。


「……あ、あのさ、天木さん」

「……はい」


 目に涙を浮かべた天木さんは拗ねた子供のようで、とても可愛らしい。可愛らしいのだが、それよりも今は、あれだ。


「――天木さん、けっこういい体してるんだね!」


「失礼します。兄さんも天木さんも、いいかげんに降りて食事にしましょ……う……?」

 素晴らしい物を味わわせてくれたお礼を言ってから、地獄へ旅立とう。さっきの感触を信じるならばオレの目測など大外れで、むしろサムズアップで感謝してもいいくらいのものだった。多分、昨日はぶかぶかのシャツでいくらか着痩せしていたのだろう。樫羽の持ってる服にはそれぐらいデカいものもなぜかあるから納得だ。普段見慣れた樫羽よりもナイスなスタイルに礼を言わずしてなんとするのか。これで来世があるかもしれないなら、喜んで変態の汚名を受け入れることも辞さない。

 そんなことを考えていると、涙目の天木さんを見てすべてを察したらしい樫羽の成敗の拳が顔に近づいてきて――あふん。


 ++++++++++++++++++++


「いいかげん、兄さんは女性に近づかない方が良いのではないですか?」


 朝食を食べている最中に樫羽から言われた一言だ。昨日からすでに不埒と言われていいような事を散々やったので何も言えない。

 申し訳なさを感じながら食事のペースを上げる。しかし普段と違ってどうして今日に限って米と味噌汁と鮭の切り身の和食テイストなのか。少し、焦りを覚えてしまう。

 急ぐ理由は簡単、学校があるからだ。なのでこのスピードは少々まずい。着替えは済ませたのでやろうと思えば、朝食を中断することも可能ではあるが、だがそれ以上に厄介な理由があるのが困る。


「遠原さん、あまり急いで食べると体に悪いですよ?」


 天木さんがかっこむように食べていたオレを心配そうに見ていた。さっきはあんな事をしてしまったのに寝ぼけていたから、ということで許してくれた彼女の優しさは心に沁みる。樫羽がちゃんと罰を与えたからというのもあるだろうが。


「いや、その。さっきはごめん、天木さん……本当に……」

「……もうその話はいいですから……」


 さっきのことを思い出したのか、天木さんの顔が赤くなった。彼女はそれを隠そうと向こうのほうを向くのだけど……それがまたいじらしい。もう一度抱きしめたくなってくるが、樫羽が怒気をまだ持ったまま目を光らせているので、それはできそうもなかった。

 そうこうしている内に完食し、食器を洗おうとしたのだが、それは天木さんに止められた。

「洗い物は私がやっておきますから、お二人は学校へ行ってください」

 突然の申し出に、オレは理解が少し遅れた。その間に樫羽が焦っている様子で天木さんへと反論する。

「いえ、天木さんには朝食も作ってもらったのですから……ここは兄さんと私がやっておくべきかと」

 朝食、と聞いてそういえば部屋に来た時から天木さんはエプロンをつけていたことに気付く。もしかして、先ほどの朝食は彼女が作ったのだろうか。状況が見えていないかもしれないそんなことを考えていると、天木さんは少し申し訳なさそうな表情になった。


「その、勝手に台所を借りるのも悪いかな、とは思ったんですけど……少しでも、昨日のお礼をしたくて」


 そしてえへへ、と彼女は少しはにかんでるような、苦い笑いをしていた。振り返ってみるとご飯はそこまでいつもとの差は無かった。だが味噌汁は出汁の味が活きていて、味噌のほんのりとした塩気と匂いがいまだ眠気を引きずっていた鼻の奥をくすぐり、実として入っていた豆腐といい体に優しい感じだった。焼き魚も魚の脂をクドくならないぐらいに適度に落としていて、焦げもほとんど無かった。塩気もご飯を一気に食べるのにちょうどいいくらいの塩梅。美味しかったとしか言いようがない。


「あの、天木さん」

「はい?」


 朝食の美味しさを振り返っているとどうにもこの気持ちを伝えたくなってしまい、つい天木さんに呼びかけてしまったのだが、タイミングを間違えたかもしれない。どちらが洗い物をやるかの話をしていた所に割り込んでしまったので、二人がこちらに注目していた。考えなしに口を挟んだことを後悔したい。二人とも怪訝そうな顔でこちらを見ているので、なんとも緊張してしまう。


「……えっと……あ、朝ご飯、おいしかったよ! それじゃ!!」

「に、兄さん!?」


 見られている緊張と、言った後の気恥ずかしさでオレはその場から走って逃げてしまう。居間から廊下へ、廊下から玄関へと走る。慌てて靴を履いたところで、樫羽が追いついてきた。


「兄さん、カバンを忘れています!」

「わ、悪い、樫羽!」


 焦りすぎていたみたいだ。樫羽からカバンを受け取り、ドアを開ける。とにかくこのまま学校へ――扉を開けて、家の前の道まで走って出るまではその一念だけが頭を支配していた。それが、たった一つの予想外の出来事で塗り替えられていった。



「…………あ」



 昨日のような雨雲が無い空からの陽光を感じるよりも先に、家の前の道に深根魔術校の女子制服を着た知り合いがいることに気づいた。二人して同じことを口走ってしまった彼女は、樫羽よりも長い黒の髪を頭の高い位置でポニーテールのようにした、それだけならばある意味どこにでも居そうな子だ。といっても、こいつもなかなかに綺麗な顔立ちをしている時点でどこにでも居そう、という言葉は無くなると思う。切れ長でキリッとした目つきに、腕などわりとしっかりしたような体つき。もしもこいつが男装をすれば、男のようにも見えるかもしれない。しかし制服を押し上げるように自己主張の激しい胸部はまさに、女性らしさの象徴といえる。

 ただ一つ右手に持っている、布に包まれた3m前後の長い『何か』が彼女の異様さを引き立てる。その中身が何かは知っているが、知っていてもいなくても、こんな見栄えだけで危なそうなものをおよそ一人の少女が持っているのは異質だ。

 ポカンと口を開いていたその女子が、ゆっくりと口元を歪めた。


「……ふっふっふ。まさかここでお前と会えるとは」

「いや、会えるも何もここがオレの家なんだから当然だと思うが……あと、ふっふっふなんて笑うやつはあまりいないから治しといたほうがいいと思うぞ」

「出来ることなら早朝の内に出会いたかったが、致し方無いな……」


 そういって彼女――那珂川(なかがわ)那須野(なすの)は布をはぎ取り、そこから出てきた金属製の細身の槍に小さな斧の刃がついた――ハルバードと呼ばれるような武器を構えた。とりあえず人の話はちゃんと聞いてほしい。


「さぁ、始めるとしようか!!」

「……道端でやるのは気が進まないんだが」


 そう言いつつも、路上には出る。実は、こいつとのあいだにはちょっとした約束がある。街中で出会ったら、周囲を確認して安全そうなところなら、もしくは別の場所に移動して組み手をする。そんなことをする理由は……まぁ、自分のせいってところだ。ただの知り合いなら出会う確率もそこそこ程度だろうが、学校が同じなのでほぼ毎朝確実に出会うことになる。これのせいで毎日早めに家を羽目になっているのには少し後悔しているところだ。今日は少し遅れたのが災いしてしまったらしい。


「あ、あのー……これはいったい……?」


 ひょっこりと、家の中から天木さんが顔を出してきた。何事かわかっていなさそうな顔だが、ちょうどいい。これから手に持っているものが邪魔になる。天木さんの方に寄ってカバンを前に出す。


「度々ごめんね、天木さん。ちょっとこのカバンを持っててくれないかな? 樫羽も、先に行ってていいから」

「え、あ、はい。わかり、ました……?」


 天木さんは混乱しているようだが、カバンは素直に受け取ってくれた。後でちゃんと事情は説明することにしよう。


「……そうですか、兄さん。できるだけ早く、お願いしますね」


 樫羽が一瞬、那須野のことを邪魔者を見るような鋭い目つきで見ていた気がしたが、すぐに樫羽は行ってしまった。那須野は気にしていないのか気づいていないのか、それに何も言わないのでそれについては気にしないことにした。どうも早くやりたくてうずうずしているという様子の那須野にそれを聞いても、多分まともな返事は返ってこないだろう。


「準備はよいか?」

「ああ、いつでもこい」


 周囲に人影は無い事を確認して、足に力を込める。視界の端では天木さんがまだあたふたしていたが、オレが今見なければいけないのは、目の前の那須野の動きだ。


「では……参る!」

 那須野が姿勢を低くして深く一歩を踏み込み、そのままこちらを突いてくる。その一連の動きは以前よりも速くなっているが――読み通りだ。余裕を持って右に避ける。しかし那須野も甘くはない。

 最初の突きはあくまでも攻めの初手。すぐにこちらが避けた方向に払ってくる。こちらも右に避けた後ですぐ後ろに下がり、払いの届かない距離へ下がる。那須野のこちらへの払いは掠らない。 

 ただ、そこから那須野の猛攻は始まる。こちらを真正面に捉えると、そこから懐に入りすぎないように距離を詰め、槍としてのリーチを活かした突きを連続で行ってくる。

 最初はまだ避けることはできても、次第に紙一重での回避になってゆく。回避、回避、かすり、回避、かすり。顔や手にどんどんかすり傷が増えていく。制服に傷がつかないのは那須野の腕のおかげだ。 

 そしてついに――那須野のハルバードが身体に当たる直前で止まる。


「……ここまでか。では次は、本気で来てもらおう」

「了解。ちょっと待ってろ」


 お互いにもう一度距離をとって構えなおす。そして意識を集中させようとしたところで、先ほどの組み手の最中からボーっとしていた天木さんが慌てたように声を上げる。


「ふ、二人とも何やってるんですか!? こんな道のド真ん中でいきなり……!」

「ああ、いや、大丈夫だよ天木さん。こいつは一応知り合いだから。死んだり怪我はしないように手加減してるらしいし、うっかり致命傷を与えてしまうような腕でもないからね」

「……む、新顔がいたのか。(それがし)は那珂川那須野という。以後よろしくお願い申す」


 天木さんの事にようやく気づいた那須野は、天木さんに対して軽く一礼した。だが、すぐにこちらへと向き直る。あくまでも勝負を優先したいようだ。


「あ、こちらこそ……ってそうじゃなくて、遠原さん!」

「うーん、なんて言えばいいのかなぁ……まぁとりあえず、気にしないで見ててよ。……このままやられっぱなしってわけでもないし」


 説得しようにも時間がかかりそうなので、心配するようなことだけはない、ということだけを伝える。天木さんはいささか納得のいっていないような表情だったが、どうにかこの場は抑えてくれたようだ。


「……わかりました。帰ってきたらちゃんと話を聞かせてくださいね?」

「分かってるよ。あとでちゃんと全部聞かせる……すまん、待たせた」

「なに、気にしてなどいない。目の前でいきなり戦いが行われていたら誰だって止めようとするだろうさ……それよりも早くしてくれないだろうか?」


 気にしてないって言ってたじゃないか、という突っ込みは心におしとどめる。時間がないのも事実だ。

 深く、呼吸をする。頭と体を落ち着けるためにだ。そして自分にとって馴染みのあるキーワードを頭の中で呟く。


(……とりあえず、決定条件は……『那珂川那須野と関係のある者』とかでいいか)


 脳に何かが繋げられたような、そんな感じがする。しかし不快感はどこにもない。当然だ。実際に繋がっているわけではないのだから。やがて数名の人物の情報が頭に入ってくる……関係のある者というのは少し失敗だったかもしれない。余計なものまでついてきた。

(まあ、それはしょうがない……確か那須野の相手をするときは『こいつ』……だったよな?)

 その数人の中にある、自分も少し見知った一人の老人のことを強く念じた。口元に白い髭を生やし、穏やかそうな雰囲気を出す様はまさしく好々爺といえる。

 しかし……あまり認めたくはないところだった。これが『自分』だということが。

 老人の情報がぼんやりと感覚でわかってくると、次はこの老人のどこを自分に写すかを決めなくてはならない。


 ――そう、写すのだ。この老人を、自分に。遠原櫟に――別の世界の遠原櫟を自己複写コピーする。これが自分がなぜか持っている能力だった。別の自分を写すというのはそこまで使えるようなものにも見えないが、持つ人間によっては大きな力となる。ちょこちょこ危ないことに首を突っ込んでいるとはいえ、特に基本スペックが秀でているわけでもない一般の高校生たるオレがこの老人を写すことで、槍術に関してはほぼ誰にも引けをとらないであろう那須野と互角に戦うことができるようになるのだから。所詮はコピーなので満足に性能を活かせないわけだが……この状態でも那須野と互角に渡り合えるというのは、それだけ老人の能力が馬鹿みたいに高い、ということだろう。

 写すことができるのは敏捷性や筋力などの、その人物の持つ身体の性能。長く持ち続けて人物の象徴ともなっているような、武器などの道具。その人物の身体そのもの。そして記憶などを含めた知識。この四つだ。短くまとめるならそれぞれ性能、武装、身体、知識、というところが妥当か。

 

 この能力にもデメリットはある。まず、長時間使うことができない。せいぜい30分くらいしか持たない。その後のインターバルには使用していた倍の時間を要す。長期戦にはまったく向かない、切り札にせざるを得ない能力だ。とりあえず、今選択するのは性能と武装だ。知識も身体も必要ではない。最後に、その二つをもらうということを意識する。これで――

(……それじゃあ自己複写、始めるか)


 ――準備は完了だ。


 頭の中に直接何かが叩き込まれたような衝撃の後、高熱が出たときのような感覚に一瞬だけ陥るが、それに耐えると身体に力が流れ込んでみなぎってきたのがはっきりとわかる。先ほどまでの自分と比べると差は歴然としていた。拳を打つ速度。足の踏み込みの速さ。全てが違う。別人になったようとはこんな感覚か――半分くらい別の自分を写しているので間違いとも言えんが。

 そして手には、先ほど意識したとおり、爺さんが使っている道具――武器が握られている。仕込み杖だ。やや情けなさを感じたが、杖から剣を抜いて、構える。片手で持って振れるほどに軽いが、那須野の攻撃を流すことができれば問題ない。


「……よし。来い、那須野」

「ようやくか。ずいぶんと待たせてくれる!」


 苛ついていたのか、その言葉とともにギリギリの距離から、さっきよりも速くなった突きをこちらにしてくる。だが、今の状態ならばかわすことは先ほどよりも楽だ。体を捻って避けるとすぐさま次がくるが、それはこの仕込み杖で弾く。ただ体を使って避けるだけではなくなったのは大きい。

 「どちらかが一撃当てたら終わりでいいが、確実に当てられると思わない限り攻撃をしなくていい」という条件でやっているからかもしれないが、彼女の攻撃はそれだけ正確だ。避けながら攻撃というのができるほど甘くはない。

 那須野の突きが段々と深くなってくる。それはわずかなものではあるが、今の感覚ではとても重大なことだというのがわかる。ハルバードのリーチは確かに活かせているが、このままいけば彼女は大きな隙を晒すだろう。そしてその時は、すぐにやってきた。

「ハァッ!」

 力強い刺突。今日見た中では最速のそれを紙一重でなんとか避ける。避けられて苛立っていたからとしても、焦って力だけに偏った行動をした方が悪い。一気に終わらせるべく踏み込む。

 その動きが、判断ミスだった。那須野の手の動きとニヤッとした笑み。彼女はまだ突き出したハルバードを引いていない。それどころか柄を横から叩きつけようと、突き出した槍を無理矢理振る。

「甘いッ!」

 振りかぶりかけていた仕込み杖で横から来るハルバードの柄を受け止めようとするも、間に合わずにその攻撃をもろにくらってしまう。柄とはいえ金属製の棒が直撃すれば痛いのは明白だ。骨が折れるまではいかなかったみたいだが、痛みは激しく、そのまま地面に膝をついてしまった。


「すまぬ、大丈夫か!」

「あ、ああ……骨は折れてなさそうだ。しかし、焦っていたのは俺のほうだったな」


 駆け寄ってきた那須野に無事を伝えると、胸に手を当てて安堵したような顔を見せた。骨を折ったかどうかだけでも不安だったのだろう。時間が無いからとすぐに勝負を決めようとしたのがいけなかった。周りを見ることを忘れて突っ込むなど、愚の骨頂と言える行為だ。元々自分から望んだ事ではないにしろ、負けというのは悔しい。


「そうか……しかし、あまり手加減も出来なくなってきたな。お前がそれだけ奴に近づいてきているというわけだが、それだとどうにも本気でやりそうになる」

「……その方が本来の目的に近づくとはいえ、こんなことになるなら本気の勝負にはしたくないな……」


 立ち上がりつつも、自分の頭につながっているような何かを外すように脳に命令する。そうすることで手の中の仕込み杖や体の中にたぎっていた力は消えていく。残るのはいつもの自分だけだ。ちょうど脇腹の痛みも引いてきた。そして忘れてはいけないことを確認するように口に出す。


「……さて、そろそろ走らないと学校に間に合うかどうか危ない訳だが?」


 那須野は一本取れたことが嬉しいのか、鼻歌交じりにハルバードをもう一度布にくるみ始めていたが、これを聞いて驚愕の表情をしてこちらを見てきた。


「なにぃ!? もうそのような時間であったか……!」

「おいおい気付いてなかったのかよ……とりあえず、走るぞ。あ、天木さん。カバンありがとうね」


 その場で固まったように動かない天木さんから預けていたカバンを頂戴して、準備に手間取りそうな那須野をおいて先に行く。

「ま、待て! 某を置いていくな!!」


 負けたことは悔しい。だからせめて、ここで勝ちたい。たとえ知人を置いていくのが世間一般で悪いことと扱われていたとしても、ただ、なにか勝ちたかったんだ。後で那須野にはこう言い訳しておこうと考えながら、オレは後ろを振り返らないまま、走って学校へと向かった。



 ++++++++++++++++++++



 結論から言うと、逆に先へと行かれた。全速力で走っていたら、その横を風を切るようなスピードで那須野が駆け抜けて行き5秒もかからずにオレの目には見えない距離まで走っていったのだ。確かにあいつは俊足だが、自前の脚力だけとも思えない速度だったので、恐らく脚力を上げる魔術でも使ったんだろう。魔術に携わった人間しか恐らく知らないことだが、通常の魔術はきちんと手順を追った詠唱さえすれば、ほとんどの人が簡単なものは使用できる。しかし肉体を強化するような魔術を扱うためにはまず元から丈夫な体が必要となるものなのだ。

 なので、常日頃から金属製のハルバードを振り回すような那須野にはできても、オレにはできない。あれさえ使えれば遅れることは絶対に無いのだが……凡人は凡人らしく自分の力を振り絞って走るほうが性に合ってるんだと、そんな風に那須野を羨みながら、もしくは自分を慰めながら走って行き、教室に着いたのはHRが始まる5分ほど前だ。息を切らして入ってきたオレのことなど誰も目に留めずにみな友達と談笑している。

 まぁそのほうが気楽だわな、と思いつつも席に荷物を置いていると先ほどオレが閉めた扉が再度ガラリと開く。

「いよっしゃぁぁ間に合ったぁぁぁ!!」

「うるせぇ!」「黙って入れ!」

 開いたと同時に大音量の声を撒き散らして周囲に怒られながら入ってきたのは神田かんだ葉一よういち。それなりに伸ばした鳶色の髪をした男だ。黙っていればそれなりに見れる顔なのに喋りで台無しにする三枚目の見本のような男で、熱血的な事とエロ……もとい色を好む昔馴染みでもある。ちょっとした事情で今のこいつの家には那須野も住んでいるのだが、あいつは早く起きていた筈なのになぜこいつはこんな遅いんだろうと疑問を持ってしまう。そんなことを考えていると葉一がこちらに近寄って話しかけてきた。


「よう、お前も相変わらず早いな!」

「ああ、おはよう葉一。早いって言っても、オレもお前の40秒くらい前に来たばかりだぞ? そんなには変わらないよ」

「いやいや、その割には涼しい顔じゃないか。余裕でも持って歩いてきちまったのか?」

「違う。ここに来る途中で那須野に会ったんだ。それで、いつもの『アレ』だ……というかお前、何で那須野よりこんなに遅れてんだよ」


 那須野の名前を出すと「うっ」とばつの悪そうな顔をした葉一は、なにやらぼそぼそと自供しはじめた。


「いやぁ……なんか最近避けられてて、朝も起こしたりしてくれなくてさぁ……理由は、よくわからないんだけど……」

「理由がわからないとか、嘘つけ。お前がそういう態度のときは大抵お前が悪いんだ。ちゃんと謝ってこい。二度としないとも言えよ?」

「な……! 何を俺が悪いって証拠だよ!」

「……前に相談されたんだよ。お前がやたらと体を触ろうとしてきてうざいって……どうせそれか、似たような馬鹿やらかしたんだろ?」

「いやーそれにしても、那須野はまだお前と戦おうとするんだな」


 こいつ、自分が不利と見るや即座に話を切り替えやがった。どう考えても今その話をするのはおかしいだろうが。


「いや、そうじゃなくてお前のボディタッチがうざいっていう」「まだ実力が足りないとか思ってるのかなー」


 なんだこいつ、普通になにか理由が無くともうざいな。こっちの話を聞く気はないみたいだし、しょうがない。友人のよしみで強引な話題そらしにものってやるとしよう。

「まぁ、実際どうなんだろうな。あいつと組み手をしてて、どんどんあいつの敵に近づいてるとは言われたが……」


 那珂川那須野がオレと鍛錬をしたがる理由は、ひどく単純なことだ。殺された両親の敵討ち――元の世界で武人であった彼女の家族たちを殺した老人、『遠原櫟』への復讐のため。

 自分の腕を磨くためにこの世界にきた彼女がオレ達と出会ったのは、この馬鹿がオレを街中で大声で呼んだせいだ。それで出会い頭に襲ってきた彼女を相手に、自己複写の能力を使ったりしてどうにか落ち着かせた。だが今度はこの能力に興味を示してきた彼女に「別世界の自分を写すことができる」と言うことを教えると、今度は頭を土下座するような勢いで下げながらこう頼まれたのだ。

 「どうか、その力を某に貸してはくれまいか」と。

 そこで彼女の事情を聞いて、オレは彼女が『遠原櫟』を打ち倒すための修練に付き合うことを決めた。世界が違うとはいえ、自分がそんなことをするのは我慢がならないということと、とにかく必死だった彼女のために。


 そんなことをしみじみ思い返す。葉一はやはり話題を逸らすのが目的だったようで、大して興味の無さそうな顔だった。


「ふぅん……まぁ、いいんじゃねぇの? それならもともとの目的にも近づいてるってわけだし」

「……お前、俺と同じこと言ってるぞ?」


 この不利と見れば即座に話を変えたがるようなやつと同じにはなりたくない。心の中でそう毒づく。

「お前みたいな内側にスケベを封じてるようなやつとは一緒にされたくねぇなぁ……」

 ……もうやだこいつ……なんでここまで被るんだよ……と心中で頭を抱えていると教室の前のほうのドアが開いた。担任の古賀が来たらしい。葉一や周りの生徒たちも各々の席へと戻っていき、自動的にHRが始まる。

「よーしみんな、まず最初に報告しなきゃいけないことがある。今日の1時間目の数学だが青海先生がいまだに引きこもって出てこねぇ。よって1時間目は」

「自習ですねわかります!」

「ちげぇよドアホ。自習じゃなくて実習だ。『魔術実習』の授業だっての。それじゃ後は出席確認したらHRは終わりな」

 魔術実習、という言葉に周囲がざわめく。かくいうオレも、少し鬱蒼とした気持ちになってしまった。炎天下での長距離走などとも比べ物にならないほど、辛く厳しい授業というのが一時間目にやってきたからだ。

 なぜなら魔術実習という授業は、まともな心では耐えられない。まさしく『魔』の科目なのだから――

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