伸ばした手と踏み込む足と
……思い切ったことを提案したとは、あたし自身も思っていることだった。想像したことしかなくても、男の人を家族以外で自分の部屋に入れるなんて滅多なことではないのだろう。だからこそ、遠原先輩も挙動がまたどこかぎこちなく、どこに目線を向ければわからないかのように目を左右にふらふらとさせているんだろうし――あたしもどこか、身体が固くなったような感覚を覚えているんだろう。
掃除は日ごろからやっている。だからそのあたりに不安は感じないし、見られて困るようなものもないはず。なのに、先輩がいるだけでこんなにもドキドキしてしまう。そのことに納得しそうで、反面それを疑ってかかる部分も無いとは言い切れなかった。
先輩にあれだけ近づいて行っても、あたしはそれが本当に好きだからかはわからないでいるということだ。
「……その、先輩。正座なんてするほどかしこまらなくても大丈夫ですよ……?」
「い、いや、これはほら、気を確かに持つためというか、自分を律するためというか……」
「そういうことならじゃあ、気にしませんけど」
……というか、実はわたしも正座をしている状態なのだけど。そんな会話をしてみると、部屋の中で二人して向き合ってお互い緊張し合っているだけのは、もしかしたらとてもおかしい状況なんじゃないかと思い始めてきた。そう思ってくると本当にそうなのではないかという気になってくるのがあたしだ。だから自分の正座を早々に解いて立ち上がる。
「えと、遠原先輩。なにか時間つぶしになりそうなものとか持ってきましょうか? トランプとかならありますけど」
「うーん……二人だけだと一回にあんまり時間かからないからなぁ。先輩が作り終わるまでだとけっこうな回数やることになりそうだし、あとで先輩も交えてやるとかのほうがいいんじゃないかな」
「……なんだか実感こもってますね、先輩の言葉……」
もしかして以前誰かと二人でずっとトランプをした経験でもあるのかな……と思わされる口ぶりに、なぜかちょっとだけ不安を覚えた。もしかして、先輩にはすでに誰かそういう相手がいるのかとあたしは思っているんだろうか――?
「いや、ちょっと教育に悪い男友達と昔、一晩中トランプやらなんやらで競い合ってね……あの時はなぜか耐えられるバイタリティがあったのが、今じゃ不思議でならないけどね」
「へ、へぇ……」
――安堵して、そのままそっけない返事をしてしまったのが余計にあたしを悩ませる。遠原先輩にそういう人がいたってなんらおかしいことはないし、それにあたしが変な嫉妬をする必要もないはず。だとするとなぜあたしは今、自分の胸をなでおろしたような安心感を覚えたのかと、自問しそうになってきた。だけど、今は先輩がいる。だからそういった、表情に出てしまいそうな嫌なことはできるかぎり後にしてしまおう。
「それじゃあ先輩、お姉ちゃんが作り終わるまではどうしましょうか?」
「え? じゃあ……」
たわいない質問ぐらいのつもりだったけど、遠原先輩はどこか難しい顔をして腕まで組んでしまっていた。そのまま10秒経ってようやく、口を開いたかと思えば――
「……話でもしてれば、たぶんそのうち時間も潰れるんじゃないかな……」
と、どこか情けなさそうに答える。だけど先輩は急にこんなところに連れてこられたわけなのだから、冷静に答えられるほうが珍しい、と思う。それにここでなにか突飛なことを言い出されたら、あたしもどうすればいいのか困るところだった。
「そうですね。それじゃちょっとの間お話ししましょうか、遠原先輩」
あたしがそういうと、先輩は安心したような顔で息を吐く。しかしこの様子だとなにかきっかけがないとまた二人してだんまりになるかもしれない。
あたしは少し身を乗り出し、意を決して聞いてみた。
「先輩からあたしになにか聞きたいことなんてあれば、どうぞこの機会に聞いてみてください! 恥ずかしいこと以外ならなんでも答えられるつもりですから!」
……あぁ。いざ口に出してみると、こんなに体が熱くなっちゃうものなんだな。あたしはそう思いながら、遠原先輩の顔をじっと見ていた。一瞬でまるでこの夏に厚着でもしているかのような体温にさせられた恥ずかしさ、そしてそのうちに一点存在する――先輩はあたしに興味なんてないのではないかという不安を抱きながら。
先輩は、少し面食らったように呆然と口を開けていた。それを見ていて、あたしは悪い予感が当たってしまうことも覚悟する。
だけど――
「……えっと……ちょっと、待って」
先輩はそう言うと口を閉じてなにかを考えるような顔をし、そして、あたしにこう言った。
「……本当に、なんでも?」
「は、はい……!」
その言葉はつまり、あたしになにかしらの興味は抱いてくれているということで。それだけで満足感を得ている自分がいた。もしもなんて考えて、弱気になってしまいそうだった自分はどこかへ消えて、ただただ自分が自信と喜びで満ちていくのを感じている。
「じゃあ、えっと……正直、こんなことを聞くのは変なのかもしれないけど。ちーちゃんはなんでオレに、こんなに興味があるの?」
そんなの――
「そんなの、もちろん遠原先輩があたしにとって特別だからに決まってるじゃないですか!」
当然のようにあたしは答える。もしかして、遠原先輩に対してあたしの抱いてる感情が伝わってしまうかもしれないと思ったけど、構うもんか。むしろ伝わるのなら、伝わってしまえ。
確かに遠原先輩にとってのあたしは、一年も前に偶然助けただけの、名前も知らなかった女の子でしかないのかもしれない。本当ならあたしだって、ただ助けてもらった人が遠原先輩だっただけで、こんな特別だなんていうこともなかったのかもしれない。
だけどあたしは、こうして目の前にあの人がいてくれることに対して特別な感情を――恋をしている心のざわめきが大きくなるのを誤魔化せないでいる。
好きなんですと、今はまだ決して声になることのない想いが胸の中で生まれたまま、溶けないでいて。
この声が消えないでいてほしいと、願っていて。
その特別な、憧れと違う気持ちの向かう人が、あなた――遠原先輩だから。
「わかった。そのことについては……オレも今は深くは聞かないことにする」
「……そうしてください。あたしも……今はまだ、少し、恥ずかしいので」
恥ずかしい、というのは本当でもあるけど……どっちかというと、いまの気持ちを口に出さないためのちょっとしたウソだった。まだ一週間も経たない内に遠原先輩にこんなことを言っても、きっと困らせてしまうだけだから。それにあたしも遠原先輩も、互いをよくわかっていないと言っても過言ではないのだから。
遠原先輩が、それじゃ、と質問を切り替える。今度はさっきよりもいくらか軽い声の調子で、話題も同じくいくらか軽くなるのが予測できる。
「ちーちゃんと諏訪野先輩は、なんでご両親から離れて二人暮らしなんてしてるの? 大変だと思うけど……」
「それは……えっと、単純に進学先としてお姉ちゃんが当初から深根校を選んでいたんです。それであたしも同じ学校を受けることになるから、先にお姉ちゃんと一緒にこっちに東京から越してきたんです」
昔から聞かれることが多かった質問は、遠原先輩からも飛んできた。あたしはそれに対して、何度も繰り返してきた答えをする。実際はお姉ちゃんがこっちに越してくる時、あたしを引っ張ってきたというのが正しい形だけれど……おおむね間違ってはいない話だ。
「つまり、高校のために、ちーちゃんは中学校も途中で変えたってこと?」
――それは――
「…………」
「あ、あれ? オレ、なにかまずいことでも……?」
遠原先輩の表情が少し苦々しくなっていくのが目に入るけど、それ以上にあたしの胸の内は複雑になる。先輩が言ったことは、あたしにとってはマズイというよりもどうすればいいかを迷うことにならざるを得ないものなのだ。
本当ならばそう簡単に話してはいけないと言われていること、だけど……
「…………先輩」
それ以上先のことを考えるよりも先に口が動く。頭の中で、やめるように願う声と続けるように促す声が同時にしたような気がした。口を止めようとするのはきっと、ここでの暮らしでなじんだ防衛本能からか。一番選ぶのがたやすく、つい手を伸ばしそうになる答えだ。
だけど、あたしは最初に言ったことを思い出す。なんでも答えると、遠原先輩にあたしは言っているのだ。確かにこれはパーソナルな問題で、それこそ恥ずかしいからと誤魔化してもいいことなのかもしれない。だけどあたしにとっての先輩というのはあたしをあの時助けてくれた、今は最も眩しく、そしてこれからも……救ってくれるかもしれない人だから。
「――あたしはこれまで学校には行かなかった――いえ、行かされなかったんです」
家族以外、誰も知らないはずのことをあたしは初めてこの時口に出した。言い終えたとき、なにか重い物を呑みこんだような鈍い感覚が胸の中にあるのを感じて、ぐっと口をつぐみ、息が詰まるように止まる。
ここにきて、まだ引っ張られているのかな、あたしは。そんなことを考えながら、驚いたような顔をしている遠原先輩を見る。止められていたような話だし、なにより普通なら中学校までは義務教育――らしいし、そんな顔をされても無理はないのかもしれない。
今までは実感がわかなかったけど、これを見るといざそれが普通からは外れていることなんだと理解せざるを得なかった。
先輩が口を、重々しく開く。
「……なにか事情があるんだとは思う。だけど、それについては」
「……いえ、先輩。どうせ言っちゃったんです。ならあたしに、最後まで言わせてください」
全部、聞いてほしいですから。その言葉だけを、また飲み込む。
……それは、単純に最初に言った通り恥ずかしかっただけの話だったのだけど。
その気恥ずかしさを誤魔化すように、あたしは深呼吸をして自分の話すことを整理し始めた。
++++++++++++++++++++
聞かないつもりだった。千花ちゃんの事情についてはなにかがあることは察せたが、オレはまだそれを聞いていい立場ではないと思っていた。だけど、千花ちゃんは話すと言った。
それなら……オレは無理に聞かないと言い張るつもりはなかった。なぜなら千花ちゃんはそうやって無理をするような子ではないと、無理をしてまでオレに自分の事情を話せるような子ではないと思っているからだ。それでも、決して軽い気持ちではないはずのことを、オレの最初の考えだけで跳ね返すのは無碍にもほどがある。
「まずあたしが、どういう理由でそうしていたかってところから話すべきですよね……」
千花ちゃんが確認するように聞いてきたので、オレはそれに小さくうなずく。
「じゃあ、まず最初に言ってしまうとですね――あたしはこの世界の人間ではないといいますか」
「異世界人ってこと?」
千花ちゃんの言葉を聞いたオレは、自分でもおどろくほどすんなりとその考えが出てきた。もしかしてオレはもう、だいぶそういう話に慣れてきてしまってるのか?
自分の境遇になんだか疑問を抱き始めるオレをよそに、千花ちゃんは一瞬止まったかと思えば、変に驚いた顔であたふたと手を動かしていた。
「あ、あの、遠原先輩? もしかして、あたしの事情に最初から気づいてたとか、そういうことではないですよね!?」
「いや、そういうことじゃないよ。ただなんというか、慣れが出ただけだから気にしないで」
「慣れ……ですか……!」
……どう見ても、どういう慣れなんだ、って言いたげな顔だ。それに関してはオレも同意なだけに、なんとも触れづらいのでスルーしておこう。
千花ちゃんもそれのことは忘れようというのかわざとらしい咳払いをして一度区切る。
「……えぇと、まぁそうです。あたしはどこかの異世界から突然こっちの世界にやってきたらしくて、どうするかを考えた結果、諏訪野……お姉ちゃんの両親が引き取って養育することにした養子でして。諏訪野家が引き取ったのは、その時あたしを拾ったポーターの研究機関にいて、それでいてちょうどいい家庭環境だったから……だったかと」
「……ん? ちょうどよかった?」
ちょうどいい環境だったのなら、学校にも行くものではないだろうか。わざわざ世の道理から外して育てようとした理由がなにかあるのか。いまいちオレにはそのあたりが理解できなかったが、千花ちゃんがどうやらそれを察したらしい。もう一度語り始めようと口を開ける。
「ちょうどよかった、というのは世間から隔離がしやすかったっていうことですね。当時からお姉ちゃんのお父さんとお母さんは二人そろって立場の高い職員で、住居も広く厳重なものを持っていましたから。そこであたしは高校に入学するまで……ずっと、ただ知識を詰め込むだけの存在でした」
「知識を詰め込むだけ?」
「……魔術に関して、いろんな人が、自分の持つありとあらゆるものを入れていったんです。それは動姿勢魔術であったり描跡魔術だったり宿物魔術だったり、それ以外の理論的には存在すると思われてるプロセスの魔術のことを遠慮なしに」
「それは……!」
酷い。それでは拷問をし続けていた、というのと変わりないではないか。未だ年端もいかないのにそれ以前にそんなことをやっていたなんて、普通なら許されないはずなのにそれがまかり通ってしまうのか。魔術なんてもののためだけにやることではないだろうに。
そしてオレは、ふと気になったことを聞く。
「諏訪野先輩は、その時は?」
「お姉ちゃんは……疲れていた時なんかはよく気にかけてくれましたし、毎日人の目を盗んで会いに来てくれましたね。あたしもあのころからお姉ちゃんは唯一のよりどころだったんだと思います」
千花ちゃんはそう言いながら、どこか悲しそうな目をしていた。罪悪感の固まったような表情は、少しだけ口元を笑みのような形にする。
「だから、今回は――」
「そこまでだよ、ちー」
ガチャリと、ドアが開いてそこから顔を覗かせたのは、諏訪野先輩だった。その顔は、どこか余裕の無い空気を帯びているようなものだ。
「お、お姉ちゃん……聞いてたの?」
「当たり前だよ。いくらなんでも遠原後輩と部屋で二人きりなんて、私もそこまで許容できないし、安心できないから必死になって部屋の内側の声が私に通るように魔術で細工をしたさ」
部屋で二人きりがダメってそりゃそうだ。むしろ諏訪野先輩のやっていたことは普通ならなんて無駄に難しいことを、と思うがその理由の前には些事にしかなるまい。とりあえず正座で向かい合わざるを得ない。
「ごめんなさい、お姉ちゃん……で、でも遠原先輩は悪くないの! あたしが、あたしが勝手に!」
「落ち着いて、ちー。別に責めに来たわけじゃないし、止めようってわけでもない。というか、止めるつもりなら最初から聞こえてるんだ。こんなタイミングで入りはしないさ」
慌てる千花ちゃんをなだめるように、諏訪野先輩は膝をついて目線を合わせると彼女の頬を優しくさする。千花ちゃんもその効果か波が引いていくように落ち着いていく。
「……千花一人に話させることじゃないよ。私もこの事については背負わなければいけないものがあるのでね」
「お、お姉ちゃん……? それって……」
「詳しい話は――」
諏訪野先輩は立ち上がり、廊下に出るとオレ達も出てくるように手で促しながら言った。
「――向こうで夕食でもとりながら続きといこうじゃないか?」