ガールズホーム・ステイ
昼に食事をとった後も、オレ達は遊び続けた。さすがに都会に近い場所の施設まで来ると水を使ったアスレチックやウォータースライダーなどいろんなアトラクションもあり、泳ぐのが好きな千花ちゃんと違って特に興味を強く惹かれていたわけでもない自分がすぐに飽きるようなこともなかった。
それと、諏訪野先輩に軽い手ほどきを受けてから千花ちゃんに水泳で再挑戦してみたが、結果としてはまたオレの負けで終わった。とはいえ、昼前にやったものと比べればいい勝負だったという感覚もある。また機会があれば今度こそ勝ってみたいものだ。
ちなみに当の諏訪野先輩はというと。たまにオレと千花ちゃんに混ざってウォータースライダーなんかをエンジョイしたりしていたが、どちらかというと木陰やパラソルの下で休んでいるか本を読んでいるかのどっちかだった。もしかして諏訪野先輩は動くのが嫌いなのか、それとも千花ちゃんとオレの二人でできるだけ楽しませようとしたのか……そんな風に思っていたのだが、真相は意外と早くに明かされることになった。
ある程度遊びつくして次の行動の選択肢が乏しくなってきたところで、諏訪野先輩の提案によりオレ達はひとまず帰ることにした。しかしレジャー施設を出て駅に着いた頃には空は夕焼けに染まっており、自分たちがちょうどいい時間で帰り支度を始めていたらしいことを知る。
ホームで電車を待つ間に、先輩は自身の腕時計を確かめ、首を縦に動かした。
「うん、これなら夕食もちょうどいいぐらいに作れそうだ。二人とも、なにかリクエストがあるならできるだけそれに沿うようにするけど……」
「私はお姉ちゃんの作るごはんなら何でも好きー」
「オレも特に何も。図々しいことを言うなら、とりあえず昼に続いて美味しい食事を期待していますとだけ」
「……そうかい。それじゃあ精々、腕によりをかけさせてもらうよ。期待は……まぁ、ほどほどにね」
楽しみにしてますとだけ、オレは苦笑している諏訪野先輩に伝える。実際千花ちゃんがあれだけ作れるのなら、諏訪野先輩自身の料理の腕もけっこういい線いっているのではないかと思う。とはいえ、確実かはわからないし往々にしてそういう印象で決めつけたイメージというのは案外裏切られやすいものだ。そういう意味では期待は半分、あとの半分は……願望といっていいだろう。
そんな失礼なことを考えているうちに電車が来る。ドアが開き入った車内は、夕暮れになったばかりということもあるからかまだ大して人があふれているというわけでもなかった。
三人で並んで席に座る。一列にオレ、千花ちゃん、先輩といった形だ。
「ちょうどいい時間に、こうして座って帰れる。今日はなかなかツイてますね」
「あぁ、そうだね。特に君たち二人はだいぶ遊んでいたんだ。こんな時ぐらいでも休んでもらえれば幸いだ」
ありがとうございますと、口にしている途中で横の千花ちゃんの頭がぐらっと揺れる。そしてそのままこっちに体を寄りかけるように倒れて――
「おっと」
――くるかと思われた瞬間、目にも止まらぬ速さで諏訪野先輩が手で抱き寄せるように千花ちゃんの倒れる方向を自分のほうに変えた。しかも千花ちゃんを起こすことなく。
「……もう眠っちゃってるんですね、千花ちゃん」
「あぁ。もともと今日はよく眠れなかったみたいだしね。それに疲れたんだろう。無理はない」
そう言って先輩は千花ちゃんの頭を優しく撫でる。それでも千花ちゃんは起きる気配を見せず、先輩の肩に頭を乗せられても浅い呼吸で寝息をたて続けていた。
「かわいいだろう?」
千花ちゃんを見ていると、急に先輩がそんなことを言う。それは軽く口から出てきたように見えた言葉だが、まるで自慢をするかのように――そして、否定はありえないだろうという自信を感じる言葉だ。
そしてさっきから千花ちゃんを見ているオレは、考えるまでもなく次の言葉を紡ぐ。
「そうですね」
千花ちゃんがかわいい、と答えるのは外見だけ見れば普通のことだ。小柄で顔のつくりなんかも決して悪くないのだから、普通というよりもそれは至極当然ということかもしれない。だけど、半日ほど一緒に過ごしているとそう単純に印象だけでなく、実際に彼女をかわいいと思えてきたのは事実だった。
「……でも、ちょっと気が早いですよ、諏訪野先輩?」
「なに、君が決めるならばできるだけ早いほうがいいと思ってね。そしてそれは、私にとっても、千花にとってもだ」
「つまりみんなのためだと……」
なんとも、そういう大きなことを言われると逆らいづらくなってくる。とはいえ実際、変に先送りにしても悪いことではあるので困りものだ。そうやって頭をひねっていると、諏訪野先輩がフッとこれまで千花ちゃんに向けていたような表情をしてきた。
「……本当ならもっと時間のかかるはずのことだろうし、君に少し無理を強いているというのは一応理解しているつもりだ。しかし、ね……」
先輩はその表情のまま、自分の妹を見た。黄昏時の光が背後の窓から、すやすやと眠る千花ちゃんの顔を――そしてそれを見守っている先輩の顔を照らす。そこには愛と慈しみが、無限にこもっているような、そんな錯覚を持った。
「私としてはここで千花が幸せになってくれても、あとあとで運が良かったとなっても構わないが、その逆――大きな悲嘆に潰れてしまうのは、とてもじゃないけど私のほうが潰れずにいられそうにないんだよ。だから遠原後輩、私は君を見極めさせてもらうし、君もまたよく考えてほしい。」
あるいは錯覚ともいえないのかもしれない。だけどそうかどうかは到底判断のつかない話で、その判断も無理なことだ。ただ、先輩が千花ちゃんに持つ愛情――それだけは本物だとわかるのだ。だからこの人がオレに答えを急く気持ちも理解できないわけではないし、その気持ちにはオレもできるだけ応えたい。
「……とはいえ、ひとまずは『今日一日』が終わらないことにはやはり駄目だろうね」
「……そうですね。オレ達だけじゃなく千花ちゃんにとっても、今日は見極めになるでしょうから」
今日、あるいは今後――その期間はオレと先輩だけが考え続けるわけではない。千花ちゃんだって、きっとなにかを考えているはずなのだから。出会って数日も経たない三人が、互いを見極めるなんてのが可能かどうかはわからないけど、答えは出さなければいけない。それだけは、今でも確かにわかることだ。
「で、遠原後輩。緊張のほうはいかがかな?」
「だいぶ、ってところですかね。でもそれについては勘弁してくださいよ? オレだってこんなの初めてなんですから……」
「こんなの、とはどういうものかな?」
この笑いが漏れるような声は、あからさまに遊んでいる。本当はオレの言いたいことなど見抜いているくせに、それでいて更に楽しもうとしているのが明らかなのだ。とはいえ、そこまで不快ではないのはこの人が本当に嫌になるほどそういうことをしてこないというのをわかっているからなのだが。
「……女子の家に一泊することに決まってるでしょう」
それでも、口にするのは恥ずかしいものだってある。答えたオレの顔の変化を見て、諏訪野先輩は楽しげに笑っていた。夕日のせいにできれば――そう思いながらも、オレはこの後も黙って電車のシートに座り続けるのだった。
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「たっだいまー!」
千花ちゃんが扉を開けて中に入るなり、開口一番に元気よくそう言った。諏訪野先輩がそのあとに続いて中に入る。
「………………」
「……遠原後輩、一度入ったことのある場所なんだし、ここまで来てそう躊躇うこともないだろう?」
開いたままの扉から、諏訪野先輩があきれたような調子でそう言ってくる。心なしかこっちを見る目もどこか冷めている気がするのだが、ここで踏み入ればもう確実に後戻りはできないのも事実だ。躊躇したくもなる。事が一部の友人に知られでもしたら「ヘタレ」などと罵られそうなものだが、逆にここでホイホイ入っていけるような人間がその中にどれだけいるだろう。というかそんな奴いねぇ。
……しかし、一度千花ちゃんから頼まれて、承諾したのもまた事実。覚悟を決めて入るしかないだろう。
「お、お邪魔しまーっす……」
ようやく扉を越えたオレの第一声は、とてつもない小声だった。普通のトーンですらまったく問題ないだろうに、自分でも何に配慮してのことかわからない。気にしていることはあるにはあるが、それとこれとは全く関係ないと思いたいし、もしも、万が一にもそういうことだったとしたら――本当にヘタレそのものじゃないか。
「……まぁ、さっきまでと比べて一歩前進しているだけいいんじゃないかなと、私は思うよ」
「……その言葉があまりにも慰めすぎて、余計自分が哀れに感じられますよ……」
なんだかこのまま考え続てもただただ腐っていきそうな予感を覚えながら、オレは廊下に上がらせてもらう。一度入ったことのあるお宅とはいえ、これからここに一晩泊めてもらうことを考えると粗相は当然しないように気を付けて過ごさせてもらわないと。
二人に通されるまま、リビングに入る。ごく自然にソファに腰を下ろす諏訪野姉妹と対照的に、オレはカクカクとネジの足りない機械のような動作で反対側のソファに腰を据えた。それを見て、二人は噴くように笑いを漏らす。
「と、遠原先輩……! なんですかそれ……あはは!」
「……ふっ……」
諏訪野先輩は横を向いて表情を隠していたが、千花ちゃんはそれはもう見事な大笑いを見せていた。さきほどから二人に情けない姿ばかり見せている気がして、自分でも顔が熱くなってくるのがわかる状態だ。とはいえ、このまま笑われっぱなしでも嫌なのでせめてもの反撃というわけではないが、オレとしてはこの状況を予定されてからずっと抱き続けていた疑問をぶつける。
「そ、そもそもオレより二人のほうがおかしいんですよ! 先輩たちしかいない家に、オレみたいな同世代の男を泊まらせるなんて……」
「それが普通じゃないというのは私も認めるが、おかしいという言い種は気に入らないぞ、後輩」
「私も、先輩なら別に気にしなくても大丈夫かなって思ってますから……だから先輩が気にすることないです」
諏訪野先輩は口をへの字に結んで少し不満そうに、そして千花ちゃんはまるでずっと信頼してきたかのような何一つ不安のないことを言ってくる。オレと千花ちゃんがちゃんと知り合ったのは昨日今日の話なのに、なぜこうも信じてくれるのか疑問に思いもするが、そもそもこれ以上反論したところで無駄だと悟るしかなかった。堂々巡りになっても仕方ないし、変に食い下がるよりいっそ諦めてしまったほうが早い。早い話、オレが変な手を出したり口外しなければいいだけだ。
「どうやら納得してくれたようだね、遠原後輩」
「ここまで来た以上は引き返せない気がしましてね。一応覚悟はしましたが」
「か、覚悟だなんてそんな大げさな……もっと気を抜いてゆっくりくつろいでくれて構いませんよ……」
……むしろ気を抜かないほうがいいのはそっちなのではないだろうか。そう思わずにはいられなかった。とはいえ気を抜く、とまではいかなくてもここまででそれなりに落ち着いてきたのも事実だった。
とりあえず、部屋の中を見回してみる。前来た時は学生の二人暮らしだということは知らなかったが、今見てみるとそれにしてはやけにきっちりと、何もかもがそろっているような印象だ。テレビや客人用のソファ、それとテーブルの上にはインテリアとしてだろう花が活けられている。どうもアルバイトをしているというわけでもなさそうだけど……
「なにか気になるのかい、遠原後輩?」
「あ……いえ」
なんでもないと伝えると諏訪野先輩は短くうなずいただけであとは何も聞かなかった。さすがに他の家の経済事情に即座に首を突っ込むのは失礼だろう。
「さて。とりあえずいい時間だし夕飯の支度でもするかな。遠原後輩、ちー、ここでゆっくり待っていて――」
「――え、お姉ちゃんが作るの? 私がやるよ?」
立ち上がった諏訪野先輩がキッチンのほうに向かおうとすると、千花ちゃんがそれを止めるように声を上げる。自然体な様子の千花ちゃんに対して、止められた諏訪野先輩は困ったような顔をした。
「いや、ちーには昼のお弁当の準備をしてもらったし、それに遠原後輩とずいぶん遊んで疲れただろう? ならここは私がやるさ。平等にね」
「そんなのもう大丈夫だよ! 電車の中でちょっとは寝られたし、それにもっと……」
なにやら口論が始まりそうな空気に場がなりかけてきた。とりあえず行く末を見守ろうと思ってみるが、そこに不意に音が鳴る。オレの荷物から聞こえてくるそれは、聞き慣れた携帯電話の着信音だ。突然のことに二人の会話も止まり、音の発信源に目線が向かう。
「や、申し訳ないです……」
とりあえず不可抗力とはいえ二人の邪魔をしたことに軽い謝罪を入れつつ、居間から廊下に出て画面を開く。相手は――樫羽だ。事前に話はしておいたのに、なぜこんな時にかけてくるのかと思いつつも電話に出る。
「どうしたんだ、樫羽。なにかそっちで問題でも起きたのか?」
『今、兄さんがすごくわたしのことを邪魔に扱った気がするのですが気のせいでしょうか』
「……用事がそれならもう切るぞ」
『そんなことを直感して電話をかけるほど暇にはしてません。ですが、用事というほど用があるわけでもありませんが』
それはそうだ。樫羽はそんな無駄な時間を取るような妹ではなかった。あいつは、衝動的なことは片手間にさくっと片づけるタイプだ。
「そうか。じゃあ早めに頼む」
『では手短に。兄さん、わたしから通報するようなことの無いように、くれぐれも我慢を重ねてくださいね。欲望に流されることの無いよう、では』
「んなことするか――!」
オレの反論を聞く気もないのか、本当に言いたいことだけ言って手短に電話を切りやがった。なんというか信頼されてないのか、それとも心配されているのか……どっちもあり得るような気がして、自分でもどう整理すればいいのか判断がつかない。とはいえ樫羽の言うとおり、そういった問題を起こしたらシャレにならないのは明白だ。鉄のように固い意志で今日を耐えきろうというのを今一度心に決めて、オレはもう一度諏訪野姉妹のいる部屋の中に戻る。
ドアを開けると、さっきまでは顔を突き合わせていた二人が対称的な様子になっていた。千花ちゃんはがっくり肩を落とし、諏訪野先輩が今にも鼻を鳴らしそうな勝気な顔をしている。
「その様子だと、諏訪野先輩の言い分が通ったみたいですね」
「ん、あぁ。まぁ運が良かった、っていうところさ。それじゃあ遠原後輩、後のことはよろしく」
あっけらかんとそう言って、諏訪野先輩はキッチンのほうへと向かった。後のことっていうのは、この今にもズ~ンと沈んでいきそうな千花ちゃんのことでいいんだろうが、よろしくって……。
「先輩……せっかく出来立ての手料理を振る舞えると思ったんですけど、負けちゃいました……」
千花ちゃんの気分と雰囲気が更に落ち込んでいく。相当ショックを受けているようだが、事実疲労も貯まっていた気はするし、それで万が一無理を押していたのなら休むべきだとも思うのだけど今それを言ったらなんだか逆効果になりそうだ。少し考え直した結果、とりあえずオレは千花ちゃんの顔を見れるように少し屈んで見上げる。
「……今回はともかくさ、また次の機会にちーちゃんの手料理をいただくよ。その時はちゃんと味わわせてもらうから」
千花ちゃんの目が、力無くオレのほうに向いた。
「……約束してもらえますか?」
「もちろん。時期はまだ、すぐには決められないけどね」
そう答えると千花ちゃんはまだ肩に力の入らないような状態のまま、それでも確かに眦は穏やかに下がりどこか暗さを無くしたような顔になっていた。
「……先輩とまた一緒にいられる約束なら、してもらえるだけでいいですよ!」
顔が上がる。それを見て、オレもまた立ち上がった。千花ちゃんはへへ、とちょっと照れているかのように笑い、そしてオレの手を取った。
「すみません先輩、また励ましてもらっちゃって。本当ならわたし、お礼が言いたかったはずなのに……手間ばっかりかけさせて、ごめんなさい」
「そんなに及び腰にならなくてもいいよ、別に迷惑じゃないし……ていうかそれより、なんで手を?」
「だってここにいるとお姉ちゃんの作業が見えちゃいますから。どっちが作るにしても、先輩にそれを見せるよりも実際にご飯になったときのお楽しみにしたほうがいいかなって」
「……なるほど」
要はサプライズとかそういった類か。まぁ確かにここで千花ちゃんと二人で椅子に座りながら待っているのもなんだか味気ないしそれはそれで面白そうだ。オレはその提案に乗ったことを伝えるために笑ってうなずいた。
「えへへ……ありがとうございます。それじゃあ――少しの間、あたしの部屋でいっしょにいてくださいね」
……ん? と疑問符を頭に浮かべたのは千花ちゃんがそれを言い終えてから一拍の間を置いてからのことだった。
千花ちゃんの部屋で一緒に、ということはつまり、少しの間とはいえ彼女と二人きりになるということで間違いない。いや、間違いだ。むしろそれを想定せずに返答したオレの間違いが明らかに存在している。すぐ近くの部屋で先輩が料理をしているとはいえ、それでもプールとは違い一つの空間で二人だけ。
樫羽のさっきの電話が頭をよぎる。いやいや、まさかと一笑に付せればいいのだろうが……万が一という言葉もあるのだ。より思考を、煩悩を制限して――そう脂汗を浮かべながら考えているオレを引っ張って、千花ちゃんが一つの扉を開ける。そしてその中にオレは引っ張られるように吸い込まれるのだった。
……願わくばこの扉が禁断のものとか法廷に続くそれではないようにと、一人祈りながら。