幕間‐或る登校日の話1
7月19日、土曜日の朝。その時の我が家はとても慌ただしかった。
「昨日まで病院だったとはいえ、なんでこんな時間まで寝てるんですか! おかげでわたしまで……」
「い、いや、そのことについては本当にすまないと思ってる! 昨日までかなり寝ていられたから体からそれがどうも抜けきらなかったというか――」
「兄さん、言いたい事があるなら口も手ももっと早く動かして下さい!」
トーストした食パン一枚を口の中に詰め込んで、それをある程度咀嚼すると簡素なスープで無理やり流し込む。塩っけの強い味わいばかりが舌に残ったが、学校に遅刻しかねないという今の状況では味わう暇も無いためしょうがない。全ては自分の寝坊が招いた結果だ。
カバンを手にとってリビングを出る。家の鍵やその他貴重品はちゃんと前日に準備しておいたのでそれを用意するのに時間を取られることが無かったのは幸いだった。オレは廊下を駆け足で玄関まで行き――そして、玄関と廊下の境のところに座っている制服の少女に呼びかける。
「そ、それじゃあ行こうか……天木さん」
「――はいっ、遠原さん!」
天木さんと呼ばれて応えた少女は薄い茶色のショートヘアを揺らし、期待に胸を膨らませているような笑顔でオレの言葉に返事をした。
これがオレ――遠原櫟の復帰後初登校日であり、彼女の編入後初登校日。そして長期休業前日で終業式当日の朝、自宅を出る前の光景だった。
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その後は三人でただひたすらに目的地まで走っていた。樫羽もオレがあまりに遅れていたため家に残っていてくれたのだが本来なら中学校の方でも終業式があったために急ぐ必要があったのだ。だからか途中の道で妹と別れるまではけっこう色々と小言を言われたりしていたが、オレのせいで遅らせてしまったわけだしなにか言われるのも仕方ないと納得している。
その後はオレが道に慣れていないだろう天木さんを先導するように学校へと走った。幸いなことに彼女の足は速く、おかげで二人揃って遅刻ギリギリの段階ではあったが学校にたどり着くことができた。
今は職員室のそばで、天木さんと別れるところだ。
「そ……それじゃあ天木さん、また後で……」
「は、はい……」
顔に汗を数滴垂らしながら天木さんは職員室に向かい、オレは四階の教室に向かうため階段へ向かう。二人して息が荒く、肩が大きく上下しているままなのは傍から見たらクスクスと笑われるような対象だったかもしれない。が、オレと天木さんは一緒に走り合った仲だけあって互いにおかしさを感じたとしても一切口を出さなかった。単にそれを気にしている暇がなかっただけかもしれないが――
――そういえばと思い、足が止まる。
「……天木さんは何組になるんだろ?」
それは一切聞いていなかった。天木さんから話すようなことも無かったしそもそも彼女がこの学校に来る、ということを聞いただけですでに驚いてしまっていてそれを考える暇も無かったのだ。
できれば同じクラスだといいとは思うのだが、あまり期待してもいいことはなさそうだ。そう考えてオレは教室に向かうのを再開し、ほどなくして大したトラブルもなく着いた。
ドアを開けると中から大量の視線が殺到し、そしてオレだと気がつくや否やクラスの人間がほとんど寄ってきた。
「おはよー遠原!」
「怪我治ったんかー?」
「まだ痛むようなら遠慮なく言えよー」
男女入り混じってオレを心配するような声がちらほらと聞こえる。そのシンプルな気遣いは嬉しかったが、なにぶん予想していなかったことのためにまずどうしてもたじろいでしまった。オレは言葉を掛けられる中で何とか平静を取り戻してみんなに言う。
「あ、ありがとう。でもこのとおり、大丈夫だからさ」
そう口にしながらオレは腕や足を軽く回す。それを見せるとみんなも大丈夫だと思ってくれたのか、しかし「本当に無理するなよー」というまだ気遣ってくれる声も一部があげながらそれぞれ自分達の定位置に戻って行った。オレもそれを確認した後で自分の席に行くと、オレの机に腰掛けているやつがいたので目を細める。そいつはオレが近付くと歯をニッと覗かせる笑顔を向けた。
「よぉ、数日ぶり! 机の上に花瓶はいらなかったみたいでよかったぜ」
「見舞いに来てたんだから、んな嫌がらせみたいなことは必要ない程度の怪我だったってわかるだろ。降りろよ」
へいへい、と言いながら素直に机から身体をどけたそいつ――神田葉一という昔馴染みは自分の席に戻ることもせず机の横に立ってオレを見ていた。カバンを置いた後で尋ねる。
「お前もさっさと席に戻らなくていいのか? もうすぐ古賀も来るだろ」
担任教師の名前を出して軽いゆさぶりのようなものをかけてみたが、流石にそれは承知しているらしく一切動じた様子は無かった。逆にそれより、と前置きして耳元に近づいてきた。そのままひそひそと周りから隠れるように言ってくる。
「例のあれ、お前驚いたか?」
意地の悪いような、なにか楽しんでいる感じの声。それにあれとはっきり言ってこそいないが驚いたかどうかを聞いてきたことを考えると、こいつが言いたいことは多分オレの予想した通りのものだろう。葉一の調子に乗っかって自分も小声で返す。
「……驚くに決まってんだろ、天木さんが制服着てきていきなり学校行くなんて言い出したんだぞ。病院に閉じこもりっぱなしで情報がほとんど入ってこない分余計に驚かされたわ」
「ま、そりゃそうだよな。俺も那須野もこの話を聞いた時は目を疑ったぜ」
聞いたんなら目じゃなくて耳だろ、とつっこむも葉一はやはり一切気にしない。更になにか余裕のあるようにも見えた。それも、不自然なほどに。
この前驚かされた経験から、まさかとオレは身構える。
「……葉一、お前またなにか他にも隠してたりしないだろうな……?」
「おいおい、ひでぇ言いがかりだな。俺は一度たりともお前に何か隠し事をした覚えはないぜ? この前だってちゃんと驚くっていったじゃねぇか」
「それも内容は言ってなかったろうが。いいから何を隠してるのか――」
言え、と口に出そうとしたその時に教室の前の方の扉が大きく音を立てて開かれた。どうやら担任教師が来たらしい。周りでまだくっちゃべっていた一部の生徒も席に戻っていく。そしてそれは葉一も同じで、得意げな笑いを浮かべながら「じゃあまた後でな~」などと言って自分の席に向かった。時間切れまで上手く逃げおおせたあいつの勝ちという事か……いや、もしかしたらまだ隠し事をしているというのもオレの思い過ごしなのかもしれないが。とにかく今は、あいつではなく前を見ることにした。担任である近実ちゃん(40代・♂)になにか言われるのも嫌だし。
前を向けば、やはり入ってきたのは担任の古賀近実だった。しかしその様子は普段とどこか違ってなにかいつもよりも疲れているみたいだ。暑さにやられたのかそれとも年齢からくるものなのか、どちらにせよぜーぜーと息を吐きながら片手を教卓に立てて自分の身体を支えている様子はどこか心配になってしまう。やがて息を整えたのか呼吸が収まってきた古賀はクラス中を見る。
「……あー、よし、欠席の連絡があった小尾以外は全員いるな。とりあえずまだ他の教室に行ってるような馬鹿とかいないよな? このまま話して大丈夫だな?」
「まずあんたが一回落ち着け!」
教室の一角から男子生徒の一人が、なにかを気にしすぎている様子の古賀につっこむ。古賀は普段だったらそういう態度には、敬語をつけろとか気だるげな声でも注意していた。なのに今回に限ってはそれに対して一切構わず「そ、そうだな」と同意して深呼吸する。それほど慌てるような事があったのだろうか。クラスの中にもけっこうな人数オレと同じように古賀への違和感が拭い去れないやつがいたようで、疑惑の視線が教壇に居る古賀に集中して向けられていた。
「……待て待てお前ら、せっかく落ち着いてきたってのに。んな熱い視線で見てきたらまた動悸でも起こしかねん。終業式に一クラス遅れて行きたくはないだろ? だからさっさと終わらせてくれ」
頼む、と深刻そうに頭を下げて頼まれてはみんなも視線の集中砲火といういじめのような事をしたくなくなったのかクラスの雰囲気が落ち着く。それを確認してから古賀は全員に向けて話し始めた。
「あー、まぁ一応夏休み前の最後のHRってわけだが、大きな連絡は帰る前に伝えることになってる。だから、本来なら今もさっさと終わらせて講堂に向かうところだったんだが……数日前に急に来たから色々と手続きに走らされるわ、さっきもギリギリに登校するわ……」
「つまりどういうことなんすか、せんせー!」
ぶつぶつとぼやきはじめた古賀をまた男子生徒の誰かが急かす。オレはそのぼやきの内容にまさかと思い始めていたがオレがそれに確信を抱く前に、古賀が苛立ちの限界が来たかのように教卓を叩く。
「だから、来たんだよ! こんな時期に、編入生が!」
古賀がそう言うと、教室中がシンと静まりかえった。まるでみんなの心の状態をそのまま映しているかのような無音が一瞬だけこの部屋を包んだかと思えば――
「――なにぃぃぃぃぃぃぃ!?」
ほぼ全員分と思われる、窓の外にも響いていそうな大声が教室中を包み込んだ。オレは事情を悟ってしまい、一人このあとどういうことが起きるのかも理解した。なのでまるで遠くに居るものを眺めるような気持ちになってクラスメイト達のリアクションに対する全力な姿勢に感心していた。
そんな声に動じず、古賀は恐らく女生徒の編入生がいるであろう廊下の方に向かう。そして編入生に対してであろう手招きを廊下にした。
クラス中が緊張してドアを見つめていた。そりゃ突然の編入生となればみんな気になるだろうし、それにこんな長期休暇ギリギリのタイミングでの入学なんて更に興味を引くに決まってる。そんな張りつめた空気の中でオレは恐らくこのクラスに彼女が来る事を知っていた葉一のほうを睨みつけるように見ていた。あいつはまたオレに情報を隠して驚かせることに成功したのが嬉しいのか、ニヤニヤとこちらを向いている。余計に小憎らしい。
オレがそんな風に葉一を見ていると、教室の一部がざわつく。どうやら件の編入生が入ってきたらしい。オレもチラッとそっちを見るが――やっぱりだ。
肩に力が入ってガチガチに固まっているが、そこに居たのは間違いなくオレの知り合いで、そうは見えないけど異世界の人間で。更に言えば先日まで仲違いのような関係になっていた少女が、やはりオレの考えた通りそこにいたのだ。
「今日からお前らと同じ教室で勉強することになる天木だ。ほら、自己紹介」
ぎこちない笑顔で古賀の言葉に頷いた天木さんは一歩前に出た。ほんのりと頬が赤くなっており、スカートの前に置いた手を握るようにしている彼女の姿は緊張しているのが明らかに伝わってきて、オレは心中でがんばれと応援する。
やがて天木さんは教室全体を見て口を開けた。
「……あ、天木鹿枝です! 突然の編入ですが、私も驚いていますのでどうか――」
すぅっと、一呼吸置く。
「――どうか気軽……に、話しかけて下さい一年間宜しくお願いします!!」
噛んだ。直後に本人は一瞬黙りかけたが、その後カッと顔を赤くして自分が噛んだ事を誤魔化すように早口で挨拶をまくしたてて後ろに下がった。運が良かったのは、この教室にそれを大声で笑うものが居なかったことだろう。一部周囲からニヤついているような声が漏れ聞こえるがそれだけならまだいいほうだ。
噛んだ編入生という存在によってあまりにも微妙な空気に包まれた教室をなんとか沈黙から引っ張り出したのは古賀がパンパンと手を叩く音だった。それによって我に返ったようなやつも何人かいたらしくビクンと大きく反応しているやつが目に入る。
「おら、とりあえず紹介は済んだんだ。さっさと講堂行って話聞いて解散させるぞー」
その言葉を聞いて各々立ち上がると教室の外へ――行く前に、多くのクラスメイトは天木さんの元へ駆け寄った。
「えぇぇ!?」
天木さんはなんでと言いたげな悲鳴を上げる。それを意にも介さずクラスメイト達は天木さんに身を乗り出さんばかりの興奮気味な勢いでたかる。
「鹿枝、だっけ? よろしく、あたしは――」
「すげぇ……普通に可愛くて、それなりに胸もあるわおまけにちょっと弱気そうな雰囲気って、男心掴む要素ばかりじゃねぇか……」
「このクラスにも、ついに清楚系という癒しが来るんだと思うと胸が熱くなってきやがる……!」
「あ、質問質問! 天木さんって、前はどんな学校にいたのー?」
「いや、ここはまず彼氏の有無と男性経験の有無を――いてぇな誰だ蹴ったやつ!」
「全員だボケ!」
やんややんやと騒ぎ立てるクラスメイト達に隠れてちらちらとしか見えないが、天木さんはどうも困り果てたように右往左往しているみたいだった。今の空気で飛び出したら知り合いという事でオレも色々と質問攻めにあうのかもしれないが、今は天木さんを助ける方がよさそうだ。
そう思って彼女を呼ぼうかと思ったのだが、その必要はなかった。
「――す、すみません! 遠原さんはどこですか!?」
だって、オレが言う前に天木さんが言っちゃったからね。ハッハー……なんて、心中で欧米人みたいなことを考えたのは単純な理由だった。
編入生であるはずの天木さんがこれまでもこのクラスにいたオレの名前を簡単に出したのだから、天木さんに向けられていた好奇の目がオレの方に対象を変えるなんて、当たり前の話で。
ついでに言えばオレは天木さんを中心とした一団に声をかけようとしていた真っ最中だったから、姿勢なんかも周りからすれば完全に彼女に呼びかけようとしていたみたいのはずで。
その状態のオレをさっきまでみたいにわいわいと騒がずジーっと見つめるクラスメイト達は、数秒ほど沈黙を保った後で二種類の行動に出た。
一つは女子生徒たちの行動で、彼女らはなにもわかってなさそうな天木さんの肩を掴むとにやにやと、あるいはにっこりと笑いながら――
「天木さん、まだ講堂までの道わからないよね? 私達が連れてってあげるよぉ」
「え、あ、助かりま――」
「その間に……色々と、聞かせてもらうけどね」
耳元で何か言われた天木さんの顔からサーッと血の気が引いた。そしてカタカタと小刻みに震えながらこっちを見るのだが、オレが何かする前に天木さんは何やら新しいオモチャを得た子供のように楽しそうな女子たちによって教室の外へ連れていかれた。
……もっとも。
「それじゃあこっちも、色々と聞かせてもらおうじゃねぇの」
「あぁ。拳での語り合いにならないことを期待してるぜ、遠原?」
「……お手柔らかに頼むな」
仮に天木さんが連れていかれなくてもオレはここ――もう一つの行動、男子達がオレの逃げ場を奪うように周囲を囲んだ後の状況から助けに向かうなんてできそうになかったし。
チラリとオレは唯一助け船を期待できそうな葉一の方を見る。しかし、奴の座席はもぬけの殻だった。分かってて逃げたのかそれとも普通に気付いていなかったのか。なんにせよ、この状況で助けてくれない不在の昔馴染みを呪いつつ、オレはゆっくりと周囲から飛び交う怒号のような質問に答え始めるのだった。
ちなみにこれは余談だが担任教師はオレが囲まれたあたりで何事か気付いていながら教室を抜け出ていたと聞く。そのことを踏まえて後に、彼には生徒への思いやりが足りないと校長たる海山さんへ直談判するも、そもそも彼女もこういうことは笑って楽しむ人間だったためあっさりとオレの主張が世間話のようにスルーされたことをここに記しておこう。
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「……じゃあ、お前とあの子は知り合いってだけで特に深い関係ってわけじゃないんだな?」
教師達や校長が主に挨拶や報告、注意勧告などを並べていた終業式が終わり教室に戻ったところで、オレはまだ朝の事を聞かれていた。しかし式に参列している最中にも前後から根掘り葉掘り聞かれることになるとは考えてもいなかったことだ。質問の声もやたら気迫がこもっていて疲労が著しく溜まったのを感じられる。
しかし流石に式の最中八分ぐらいあった校長からの挨拶をほぼ無視して聞き出そうとしてきただけあって、彼らも聞きたいことは全部聞き出してその上でオレと天木さんは大した関係じゃないと分かってくれたらしい。
ちなみに何を言ったかというと以前に那須野が言っていた、天木さんは彼女の親戚であるという話だ。オレが那須野と仲がいいのを知ってるだけあって、それなら天木さんとオレが知り合いなのも不思議じゃないと男子たちも納得するのは早かった。
「まぁ……分かってくれて嬉しいよ」
「そうだな、俺達も嬉しいぜ。お前があんなかわいい子とよろしくやってるなんてことになってたら……」「……そ、そんなわけないだろ……?」
あまりにしみじみと呟きながら握り締めた拳をかざすものだから、オレは身体を少し後ろに引きながら同調する。同居している、なんて余計バレてはいけない状況なことをはっきり理解できた。
周りにいた男子たちが各々の席に戻っていき、オレも自分の席に座ってようやく落ち着く。
「…………ふぃー」
息を吐きながらオレは葉一を見る。あいつはさっきの集団には入っていなかったが、しかしそれでもニヤニヤと笑いながらこっちを見ていてそれはそれでとても腹立たしい。逆恨みでしかないが後で文句の一つでもつけておこう。
そうして恨めしく葉一を見てる中、ゆっくりと教室に入ってきたのは少し騒がしくも楽しげに談笑する様子の女子クラスメイト達だった。なんと、天木さんもすでに馴染んでいたのかその雰囲気の輪に上手く溶け込んでいる。
「あっは、ありがとねー天木さん。色々と面白い事聞かせてもらっちゃって」
「いえ、私も楽しかったです! それにみなさん良くしてくれましたし……」
「いやいや、そんな恐縮しなくてもいいって! じゃあまたー」
女子達は不自然な様子もなく普通に言葉を交わして、天木さんの周りから自身の席に戻る。オレの横を通った女生徒がボソっと「……あんたも案外大変なのね」と同情するような事を言われたのだが、いったい何を話したと言うのか。残された天木さんは周囲を見回してオレを見つけると、明るい表情になって駆け寄ってきた。
「遠原さん! 私がこの組に来たの……驚きました?」
「……驚いた驚いた。ここ最近で二度目だけどね」
すみませんと天木さんは言うのだが、後頭部に手を当てながら笑顔で言われるとまるで自分がやった事を照れているようだ。もっとも、それをやったのが葉一ならともかく天木さんなら可憐な仕草にほかならないので怒る気はさらさら湧いてきやしない。
「まぁとりあえず、話をするならもうちょっと後にしようか。一応古賀ももうすぐ来るだろうし、天木さんも一度席に戻ったら?」
「そうですね、それじゃあ後でまた。お願いしたい事もありますので」
「ん、わかったよ」
そういうと天木さんはオレが来ない間に教室の中に増えていたと思われる空いている席に向かった。周囲からは天木さんと会話しているときに監視するような視線を向けられていた気がしたが、それも天木さんが去ったことで無くなる。まさかとは思うが今後この教室で天木さんと会話する度にこんな目を向けられることに……と思ったが、よくよく考えたら那珂川那須野が昼休みになるとこの教室に来るようになった最初の頃も似たような視線はあった。今ではすっかり無くなっているし、今のものも多分すぐに収まるだろう。
そんなことを考えていると、古賀が足早になって教室に入ってきた。
「おーし、それじゃあ最後のLHRだ。色々と連絡があるからよく覚えとくように。まぁ、大体はプリントに書いて――」
そう言って古賀は持ってきたプリントとその内容についての話を始めるが、たしかに重要な事は紙に書いてあるみたいだしこれならあまり熱心に聞いていなくても大丈夫そうだった。オレはふと気になった天木さんの方を見ると、彼女はプリントを机の脇に置いて古賀の話を熱心に聞いている。その理由は簡単で、どうやら天木さんの世界とこの世界は口に出す言葉はほとんど同じようなのだが、文字はわりと違うもののようなのだと昨日の夜に彼女が教えてくれた。実際に天木さんの書いたものは、オレには一つも理解できなかった。それで彼女がオレの家に来た初日に、あれだけ熱心に新聞を眺めていたのかが分かった気がする。熱心に読んでいたのではなく、ただ単に内容が分からず考えこんでしまっていたのだろう。今もきっと言葉なら分かるから、古賀の言葉を聞き逃さないようにしているのだ。
それはそれとして、彼女がああして熱心になって何かに取り組んでいる姿というのを見るのはオレからしたら初めてだった。それも楽しそうに。
これまでオレではそんな表情にすることもできなかったが、ここ最近で天木さんの顔つきは暗いものがかなり抜けてきている。それはいいことだし実際嬉しいとも思う。それでも、どこか悔しいと思う気持ちもあった。自分は彼女を助けるなんて言っておきながらその実、あぁやって安心させることもできていなかったというのを見せられているようで――
(――って、いかんいかん)
思考がネガティブな方向に沈みそうになったのを察知して、オレは頭を激しく振る。変な方向に考えすぎて、また前のように思考を乗っ取られたくはない。海山さんが言うには前に天木さんの世界の「遠原櫟」の全てを写そうとしたことから、その残滓がオレの中に残っていたのではないかということらしい。そしてそれが未だに残っているのかどうかは分からないという事も言われている。オレ自身も、それがまだ残っているのかどうなのかの判断はまるでついていない。だからこそ、いつまた似たような事が起きるか分からないのが余計に恐ろしい。
「――と、夏の間も学校は空いているが用が無いならあんまり来ないようにってことで、HR終わり。後は勝手に解散しろー」
古賀のその言葉を皮切りに教室にいた生徒達は束縛から解放されたかのようなスッキリとした顔で立ちあがり、多くは帰り支度を済ませていたのかすぐに教室から出ていくか、仲のいい友人と話し込んでいたりするかのどちらかの行動を取っていた。そんな中で天木さんが鞄を持ってこっちに来る。にこにこと笑っているようではあるのだが、やはり文字の理解がうまくできていなかったのが辛いのかどこか不自然な感じもある表情だった。今日がこっちに来て初めての登校日だからというのもあるのだろうけど、とにかくオレはねぎらいの言葉をかけることにする。
「お疲れさま。初めてのここはどうだった?」
「……疲れました」
「やっぱり」
正直に述べられた言葉にオレは苦笑いをしながら納得する。今日が普通の授業日ではなかったのも逆に良かったのかもしれない。通常授業だったら質問責めも続いてただろうしそれに天木さんは文字に慣れていないからもっと疲れていただろう。
「……でも、楽しかったです。にぎやかで、明るくて――」
天木さんは笑顔のままそこまで言ってから一息吸った。
「なんだか……懐かしくて」
「……そっか」
天木さんは最後の言葉を言ったあとで本人も意図していなかったのだろうけど表情を少し変わらせた。目は笑っているのに口元はなにかをぐっとこらえてるような、なにかを寂しがっているような顔。
その原因はなにかなど深く考えるまでも無い。彼女が元居た世界での学校の記憶を、どうしても思い出してしまうのだろう。そしてそこにはきっと、あいつもいるのだ。
オレは「天木さん」と彼女の名前を呼んだ。
「! あ……な、なんですか、遠原さん?」
天木さんはなにかから引き戻されたような反応をする。だけどそれには触れないでオレは彼女に聞いた。
「いや、さっきのお願いしたい事ってなんなのかなって。オレができることならやらせてもらうつもりだけど」
「あ、それですか。えっと、一応聞いておきますけど遠原さんはこのあとなにか予定とかは……」
「何も無いかな。昼食は夜に作り置きしたし」
ふむ、それを聞かれるっていう事はなにか時間を取られるようなことなんだろうか。天木さんはオレの返答を聞いて安心したように大きく息を吐いた。
「それなら……その、この学校の中を案内してくれませんか?」
そういって彼女は目の前で軽く頭を下げてお願いしてくる。オレは断る理由も無いのですぐ了承することにしたのだが――それを止めるように背後から服を掴まれた。誰だと思えばそこにいたのは険しい顔つきをしたクラスメイトの男子だった。
その男子の視線はオレに対して一つのことを訴えてきている――「お前、そのお願い引き受けちゃうの? オレがやっとくよ?」――ということを。その男子の視線の意味を理解すると、それと同じことを考えているかなりの数の視線が周囲からこっちに向けられていた。仲良くなりたいからとはいえ必死すぎるし、ついでに言えばどれだけ人の話に聞き耳を立ててるんだろうか。
オレはそのことに呆れかえりながら天木さんの方に向き直る。
「了解。できるだけすぐに行こうか」
オレがそう答えると天木さんはパッと明るい表情になって「ありがとうございます!」とお礼を言ってくれた。こうも嬉しそうに言ってもらえるのなら周りから視線ではなく「お前許さねぇ」という呟きなんて聞こえてもまったく堪えないね。
オレがカバンを持って立ち上がると天木さんは教室の扉の方に急いで駆け寄ってそのまま出て行った。
その直後、周りからまるでようやく獲物が一人になったと言いたげな男子の隠す気のない殺意入りの視線と女子のまるで眺めて遊んでいるような視線を一人で浴びる。そんな目線の暴力あるいは羞恥プレイをやられ続ける趣味も無かったオレは急いで天木さんの後を追うのだった。