雨の日の終わり(後)
そういえば聞いたことはあった。今や多くの異世界の存在が知られているが、見つかっていない、もしくは交流が無い世界の方が多いという話を。見つかっていない世界はただ存在が捉えられていないだけで、そこの人間が流れてくることもある。だが交流が無い世界というのはまずそこの人間がやってくることが希少である。言うなればそこの人間と出会うのは石油や埋蔵金を見つけるような確率よりもより小さいものらしい。
なぜ交流が無いのかというとまず、発展してきた文化がとても似通っているということが問題となる。そもそもの話、オレ達が住む世界は昔から科学だけで進歩していった結果、異世界というものが存在することさえ知らないまま、それらを想像の産物でしかないと切り捨ててきた。そしてそれを知ったのは、ある異世界へと召喚されて帰還した少年が連れてきた本物の異世界人と、魔術という存在があってこそである。要するに、魔術がある世界のほとんどは異世界の存在どころか世界の移動法まで編み出している。たとえそれが魔術だけが進歩した世界でもだ。先程話に出した少年を呼び寄せたという召喚なんかは、その最たる例といえる。
そんな魔術に対して科学は、異世界の存在すら捉えられなかった。そして、進歩してきた文化が似通っているということは、その世界は科学が主流であるということ。そうなるとこれまで科学だけを進歩させてきたこの世界にとって得るものが少ない、ということで交流はほとんどないらしい。
そして目の前の彼女――天木鹿枝は、そんな無視されてきた世界の出身ということだろう。異世界という存在を知らないのは大体そういう人だということをよく聞いているので、すぐにそういうことだとは理解した。だがそうなると一つだけ、どうしても浮かんでしまう疑問がある。
「……えっと、天木さん。普通は異世界ってそう簡単に渡れるものじゃないんだけど……なにか、特別なこととかやったりした?」
この世界でも、基本的には異世界へ行ったりするような手段は大きく分けて二つしかない。一つはポーターと呼ばれる巨大な装置を使う事。そしてもう一つが、ベアトリスのような最高位の術者の魔術で渡る事だが、多分天木さんの世界ではポーターなんてものは存在しないだろう。そうなると誰かが故意に、彼女を異世界へと渡らせた可能性が高い。
そんな推測をしながら聞いてみると、天木さんもなんだかはっきりとしないような、そんな曖昧な口調で、
「えぇっと……確かですね、二日ぐらい前の夜に、知らない公園に入ったんです。それで疲れてベンチの上で寝ていたら……少し前まで夢だと思ってたんですけど、頭の中に直接響くような声で――」
『――今のままでお前は本当によいのか? 心にある後悔は、捨て置いたままでよいのか? ここで諦めるなど認めん、せいぜい向こうでお前もよく知る男に頼るがいい、小娘よ』
「――っていう……なんとも、尊大そうな女の人の声が聞こえてきて。それで目が覚めたら、夜にいたところとは違う、知らない町の公園みたいな場所に……」
というようなことを語ってくれた。まったくどういうことだかわからない。その頭の中に響いたとかいう声が真実なら、多分その女? が天木さんをこの世界に送ってきたんだろうが……皆目、見当もつきそうになかった。ベアトリスという人物は確か、聡明で高潔な人物だったらしいから天木さんに語りかけた不遜な物言いの人物とは合わないし、だがベアトリス以上や同等の力を持つ人物、というのもまた知らない。ただ、オレには分からないがもしかしたら知っているかもしれない人に心当たりはある。明日にでも聞いてみようか。しかし、公園で寝たとかいろんな意味で危ない状況だろうに、天木さんは案外肝が太いな。無事で何よりだ。
ちなみに、昨日はどこか分からないという状況が怖くて寝られなかったので一晩中歩いていたらしいのだが、むしろ夜に一人で歩いているのも普通に危ないだろう。天木さんはちょっと女性として危ない橋を渡りすぎではないか。
そんなこんなで、天木さんにはオレに説明できる限りの異世界に関することについて聞かせた。この世界は異世界があるということを確かに知っているということ。「ポーター」という装置で世界間移動もできるようになっているということ。色々な世界でも人間が無限の種類にまで広がるわけではなく、例えば天木鹿枝という存在は元居た世界以外に、外見も性格も年齢も違うかもしれないけど確かにいるということなどをだ。ところどころで頭に疑問符を浮かべていたが、これ以上噛み砕いた説明ができるほど、オレは頭が良くない。というか、限界に近かった。
「ごめん天木さん、ちょっとこれ以上はどう説明すればいいのか……あとのわからないところは樫羽にでも聞いてもらえる……?」
天木さんは未だ納得いってなさそうだが、頭を絞り尽くして憔悴しきっているオレを見て、とりあえずこの場はその疑問も引っ込めてくれたようだ。まさか概念から違う相手に教えるのがここまで大変だとは、図らずとも教師の大変さを知ることになった。
「あ、そ、そういえば、遠原さんのご両親とかはまだ帰ってこないんですか?」
天木さんは今思いついたように手を叩いて、そんなことを聞いてきた。きっと、話題を変えたかったのだろう。
だがその質問に、オレは少し顔が強張ったのを感じた。
「……さぁ。父さんは何年も前に「俺の最愛の人を助けにいく」って言って出ていったきり、母さんは樫羽が家に住む前から帰ってこないし、今日も帰らないんじゃないかな」
その「最愛の人」と言うのは母さんのことだろうと思うが、母親の記憶というものがオレにはなぜか全く無いので、いったいどんな人なのかはわからない。しかし、父さんがオレに「最愛の人」と言っていたのだから、多分すごい人なんだろうけど。
天木さんはどうやら「帰ってこない」の部分に反応したようで目に見えて焦っていた。ちょっと言葉が足りなかったか。
「あの……あまり聞いてはいけないような話だとは思うんですが、それって失踪じゃ」
「うん、まぁ、そう見えるよね。でもオレとか樫羽が心配してもしなくても、その内フラッと帰ってくる予感がするから、あまり心配はしてないんだ」
あの父さんだし、と心の中でこっそり付け加えておく。予想外の事をやるのは、あの父親の十八番だ。
「そ、そうですか……すみません」
謝らないでいいよ、とシュンとした天木さんに言うのだが、どうにも本気で心配しているようで、その暗い表情は変わらなかった。それを見てどうにも難しい話と、期せずしてやってしまった暗い話をしてしまったことを反省する。
そんな二人して落胆気味のムードの部屋に、軽いノックの音が響いた。樫羽だろう。オレは「どうぞー」と妹を招くと、少し開いたドアの隙間からひょっこり、中を窺うように上半身だけその姿を覗かせる。
「……兄さん、天木さん。お話はまだ続いていますか?」
「いや、もう終わったところだよ。ちょっと別の話で長くなったけど」
「そうですか。夕食のあとから二時間近い間、兄さんの部屋から音がしませんので少し心配になりましたが……話はついたみたいですね。それで兄さん、別の話とは?」
「あー、まぁ世間話みたいなもんだ。特に大事ってこともない。それで、わざわざ降りてきたってことは樫羽は何か用があったりするのか?」
「いえ……ただ、もう夜も遅いので天木さんはどうされるのかと。さすがにお客様を居間で寝かせるのはどうかと思いますし……」
時計を見てみると、今は23時の少し前だった。天木さんは時間の流れに気づいていなかったようで、時計を見て思い出したように欠伸が出ている。そういえば一晩中歩いていたと言っていたし、ほぼ徹夜だったのだろう。それに彼女の実家はこの世界にはない。
となると、確かにこの家に泊めることになるわけだが。
「樫羽。なんで天木さんが泊まるってわかってるんだ?」
樫羽は天木さんが異世界人だとは知らないはずだ。だから彼女が帰ると思っているほうが自然な気もするが、この時間に帰らせるにしても、オレが送っていけばそれで十分なはずだ。そうなると泊まるという確信を持っているのは性急ではないか。
それを聞かれた樫羽はすぐにそっぽを向いて、
「……いえ、この時間に女性を帰らせるのは危ないと思いまして」
と普段どおりの口調で返してきたのだが、これでも十年来の兄妹仲だ。こいつがさっきまでの話を聞いていたことを隠しているというのはすぐ分かった。しかしオレも天木さんに演技がバレたわけだが、嘘がバレやすいあたりもしかしてオレと樫羽は普通の兄と妹以上に兄妹らしいんじゃないかと思う。だがまずはそんなことより今は早く天木さんが寝る場所を決めないと、このままテーブルで寝てしまいそうな状態になってしまっている。さすがにここで寝ても疲れは取れないだろう。
とりあえずここでうだうだ悩んでいてもしょうがない。オレは表情が少しでも緩まないように軽い力を入れながら、樫羽に顔を向けた。
「よし、樫羽。明日になったら父さんの部屋の中を片付けよう。それから天木さんにはそこで寝てもらうとして、今日は親密な仲になるためにオレと天木さんが一緒に「兄さんってパンチングマシーンみたいな顔してますよね」嘘ですごめんなさい!」
ちょっと調子に乗ったら頭を下げなければいけないという威圧に襲われるとは。とても兄妹らしい兄妹の姿とは思えない。当人の意識が曖昧な内に少々得できそうな展開に持っていこうとしたオレも少しは悪いが、普通の妹は兄の顔をパンチングマシーンなんかとして扱ったりはしないはずだ。周りに他の兄妹がいないからよくわからないが、そういうものだろう。夢なんて見ていない。
とにかくそんな土下座も辞さないような勢いで謝ると、樫羽が呆れたような風に握りかけた拳を下ろす。だが、その目は家族を見るにしてはおかしいんじゃないかというぐらい蔑んでいるようだった。
「……まったく、兄さんは。それでは今日のところは仕方ありませんが、天木さんにはわたしの部屋で寝てもらいましょう。布団さえ敷けば二人で寝れるくらいの広さもありますし、なによりさっきの様子だと、兄さんの手が届くところには置いておけません……兄さん、それでは」
樫羽は天木さんの腕を掴むと、彼女も立ち上がってついていくのだが、どうにもふらふらしてるわ、目が半閉じているわで危なっかしい。樫羽もそう思ったのか、腕を掴むだけではなく肩を貸して出て行こうとしていたが、その前に樫羽には聞いておくことがあったので、天木さんを寝かせたらもう一回ここに来るように、と伝えておく。
「それじゃ、天木さん。おやすみ」
すでに起きてるんだか寝てるんだかわからない天木さんにそう言うと、天木さんはその瞼がほぼ閉じた顔をオレに向けてきて、形容するならば「ニヤァ」という擬音が似合いそうな、にんまりとした笑顔をこちらへ向けてきた。かわいらしいと思えるその行動に、思わず自分も笑顔を返してしまう。どういう意味なのかはわからないが、まぁそれは、深く考えなくてもいい事柄なんだろう。
樫羽が戻ってくるまでの間に、ゆっくりとした時間が流れることを予感したのか。オレは大きなあくびを一つするのだった。
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数分後、なにやら疲れた表情の樫羽が居間に戻ってきた。やけに速かったが、どうも布団を敷いたらすぐに、フライングボディプレスでもしたいのかと言いたくなるようなダイブを布団にむかって行い、そのまま幸せそうな表情で寝てしまったとのこと。天木さんは天然なのか何なのか、よくわからない人のようだ。その話にはオレもなんとも言えないような苦い顔をしてしまった。樫羽は疲れを吐くように一息ついて、向かいのイスに座る。
「……それで兄さん。聞きたいこととは?」
「あぁいや、気のせいかもしれないんだけど……天木さん、なんだかお前が部屋に行ってから緊張が解けたようになってたんだよ。それでさっき、オレが風呂に入ってここにいない間になにかあったりしたのかな、と」
天木さんの態度が食事の前と後で少し変わっていたことが、少しだけ引っかかっていたのだ。もしかしたらオレの考えすぎかもしれない疑問に、樫羽は片眉を吊り上げて、口元に手を添える。だが、考える――というわけではなかったらしく、すぐに口を開いた。
「心当たりというものはちょっと無いですね。もしかしたら、という考えはありますが」
「もしかしたらって、なんかキツいことでも言ったりしたか?」
こいつなら少しありえそうな話だと思ったが、樫羽は違うというように首を横に振った。
「そういうことではなく……あの人は、わたしの存在に違和感を感じていたのかもしれません。そうだとすると、今は単純に慣れたのかもしれませんけど」
「……違和感って、なんで会ったことも無いのに樫羽に違和感なんて感じるんだよ」
「彼女が元々居た世界の兄さんに会っていたり、もしくはそれなりの関係だったりしたのかもしれませんよ? わたしも元はここの娘だった、というわけではありませんし……でもそれは、あくまで仮定でしかない話です。あまり信じすぎないようにしてくださいね」
こいつ、もう聞いていたことを隠す気もないな。しかし元居た世界のオレか。確かにそいつと天木さんに縁があったという可能性もあるかもしれない。異世界について分かっていることの一つに『世界がどれだけ多くあろうとも、そこに住む人間は基本的には同じ』ということがあるからだ。とはいっても、この星の総人口七十億人以上がそのまま丸写しのようにコピーされているわけではない。『存在発生の時間差』という、法則性の無いような法則がそれを邪魔している。
時間差とはどういうことかと言われれば、要するにその個人が生まれる時代は同じではないこともある、ということだ。例えば、電球を生み出したりした発明家――ここでは仮にAと呼ぶ――Aという人物がいた。彼の作り出したものは今でも使われるものの基礎にもなっているほどのものだ。だがもし――すでに彼の発明すべてが、すでに誰かの手によって完成されている未来の世界で生まれていたら? そもそもそのような研究ができないほどに旧い時代に生まれていたら? ――そういった、もしもという可能性が無限とも言えるほどに広がっている数多の異世界にはある。だからこそ、オレが別の異世界には今はいないのでは? という可能性もあるのだが……最初に会ったときから、どうも引っかかる、明確な違和感があったのだ。正直今になって考えるとそれに気づいていればよかったのではないかとも思えるそれを恐る恐る、樫羽に言ってみる。
「なぁ、樫羽。オレ、天木さんに会ってまだ名前も言わないうちに「遠原さん」なんて呼ばれたんだけど」
「……じゃあもうほとんどわたしの考えで当たってるようなものじゃないですか。というか、そういうことはできる限り最初に言ってください。まったく、なんでこんな事もわからないんですか……」
予想はしていたが、ここまでボロクソに貶されると流石に傷つきそうだった。こんな罵倒を年下の妹にやられるとちょっと泣きそうだ。しかも少し様になってるあたりがキツい。
「……それで、聞きたいことはそれだけですか、兄さん」
「あ、ああ……それだけ、かな?」
「なぜ疑問系なんですか。別にいいですけど」
未だに苛立ちを引きずっているような態度の樫羽に少し怖気づいて妙な返答をしてしまった。しかしそれで樫羽の態度がちょっと和らいだように見えたから、結果的には良かったのかもしれない。
「……あ、ところで兄さん。今度はわたしの方から兄さんに聞きたいことがあるんですが……ちょっといいでしょうか?」
突然、樫羽が視線を逸らして聞きにくいことを聞いているような仕草で、そんなことを言ってきた。いつもならば「いいですね?」というように、有無を言わせない事が多い樫羽にしては珍しい、確かめるような言葉だ。なぜ急にこんな態度になったのかはわからないが、それでも拒否する理由は無い。
「いいですか、なんて言わなくていいっての。家族同士でも少しは気を使ったほうがいいことはあるとはいえ、いきなりそんな態度で来られても焦ってしょうがない」
「……分かりました。では、兄さん。聞きたいのですが……わたしは、れっきとした兄さんの妹であるつもりです。たとえ血が繋がっていなくても、そう思っています。でも兄さんは……わたしを戸籍上の妹でしかないと……そう考えてるんですか?」
……やっぱりお前、全部聴いてたんじゃないか。もう盗み聞きしていたことを誤魔化す気はないのかと思う。
だがそれ以上にオレの頭を支配したのは、そんな事を気にしている妹と、言葉を間違えた自分への苛立ちだった。
「……さっきは戸籍上はオレの妹になってる、なんて無神経なことを言って悪かったな。でも……そんなわけないだろ。オレはお前がただの戸籍の上での妹でしかないだなんて思っちゃいないよ。殴られても罵られても構わないから、オレはいつまでもお前の兄でいたい。たとえお前の本当の両親が来たとしても、お前の兄をやめるつもりはない。お前はオレの――大切な妹だ」
声に出しているうちに少し、顔が熱くなっていったように感じた。それでもまっすぐに樫羽のほうを見つめる。本当のことを言って、目を逸らす必要は無いのだから。今は胸を張って向き合いたい。
樫羽はオレの言ったことを聞いて安堵したかのように表情を和らげる。普段少し笑うことはあっても、表情がそこまで変わらない樫羽としては、かなりの変化だ。勢いも少しはあるが、自分がシスコンに見えるレベルの発言をよくまぁここまで言えたものだと、内心で思う。だがまぁ、シスコンでもいいか。それぐらいは上等なほどに家族としては愛しているのだから。
「……ありがとう、ございます、兄さん。……その、わたしも―――」
笑顔のまま何か言いかけた樫羽の意識が飛んだ。突然項垂れるように倒れたため支えることもできず、テーブルにそのまま額をぶつける。ケガをしていないか心配になったので、立ち上がって近づき、意識があるかどうかを確認しようと顔をぺしぺしと叩く。
「…………ぅ」
意識はあるようだ。じゃあ大丈夫だな、と思いかけた瞬間。唐突に目覚めたのかガバッと顔を上げて立ち上がった樫羽が普通ならやらないような、人にものすごく媚びるようなポーズをしたのを見て、オレは思った。
――無理矢理にでも眠らせておけばよかったと。
「…………えへっ! おっにいちゃーーん!! ひっさしぶりー!」
……お兄ちゃんという、普段とはまったく違う声色での、まったく違う呼称。一人だけオレは、そう呼んでくる人物を知っている。知っているが、正直今はあまり会いたくなかったというのが本音だった。できればもう部屋に戻って寝たかったのだが、無視するわけにもいかないか。
「……よう、カシワ。久しぶりだな」
『カシワ』とは、普段の品行方正な遠原樫羽の中に眠っている傍若無人な人格のようなものだ……というか、多分こちらが本来の樫羽なんだろうが、こうして表に出てくること自体が少ないので基本的に裏人格という扱いをしている。
普段の樫羽との違いは……まぁ見ればわかるかもしれないが、とても素直だ。普段も気に入らないことを正直に言うという意味では素直ではあるが、こちらは人への好意をとても強く表に出す。特に先ほどの「お兄ちゃん」なんていう発言とかは、そういうことだ。最初にオレを兄と呼んだのもこの『カシワ』である。二年前まで普段の樫羽からは天木さんのように「遠原さん」と他人行儀な呼び方をされていたが、『カシワ』からは最初からお兄ちゃんと呼ばれていた。ちなみに樫羽が初めて兄さんと呼んでくれた時は嬉しさで枕を濡らしたというサイドエピソードも付け足しておこう。
そんな『カシワ』が、気だるそうな挨拶を返したオレに対して少し不機嫌そうな表情をした。
「むー、久しぶりに再会したんだからもうちょっと嬉しそうにしてもいいでしょー?」
「いや、再会っていってもいつもの樫羽とは毎日顔を合わしてるし……というか、その顔で子供みたいなこというなよ」
「あー、そうだった。もう子供じゃなかったねー……ワタシ」
そう言って、自分の胸を下から持ち上げるようにすると、自分の胸のあたりを服越しで下から上げ下げしてふよんふよんと擬似乳揺れとでも言おう行為を始めた。
……こういうところを見るとたまに樫羽を妹じゃなく一人の女性として見そうなことがあるが、理性とは案外強いものである。しかも揺らすといっても僅かに上下する程度だ。この程度で折れる心はしていない。
「む、ちょっとは反応してよー、お兄ちゃん?」
「ふ、ふん! そんな少し成長した程度じゃオレの理性は折れないんだからね!! 天木さんぐらいになってから出直しな!!」
でもじっくりとは見ちゃうんだなー。だってそこで胸が揺れてるんだぜ。普段は見れないような光景なんだぜ。ただ妹なのが哀しい、それだけなんだ。というか天木さんの胸まで見ていたことに気づくと死にたくなってきた。服越しだから曖昧とはいえ、サイズを目測とかセクハラもいいところじゃないか。
「へぇ~、そうなんだ~……えいっ!」
ニヤニヤと、不穏な笑みを浮かべて近づいてきたカシワがいきなり、上半身に抱きついてきた。しかも完全「当ててんのよ」仕様だ。といっても、顔の話だが。どうやら自らの胸を当てにくるような子には育たなかったらしい。残念ではない。
オレの胸に顔を擦り寄せてくるカシワの顔は満面の笑みに塗りたくられている。樫羽の顔なので少しその違和感は拭えないが、それでも嬉しい気持ちは伝わってくるので、こっちも笑顔にさせられる。胸のうちにあるその頭をできるだけ優しく撫でる。
「カシワ……」
「あぁー、お兄ちゃんが一生ワタシのそばにいてくれるなんて、嬉しいなぁー!」
「おい待て、そこまでは言ってないぞ!? というかそういう発言はやめろ恐ろしい!」
病んだ妹とか全力でお断りだ。特にこいつに殺しにかかられたら本当にやられかねない。まだ五十年以上は生きて、天寿ぐらいはまっとうしたいという小市民らしい夢がオレにはあるんだ。
「あはは、今のは冗談だけど、さっきの言葉が嬉しくて。つい出てきちゃった。はい、サービスしゅうりょー」
カシワがオレから手を離して元のイスに座る。しかし本当に、普段出てきている樫羽とは真逆だ。普段からルンルン気分でスキップしてそうなカシワが、普段は動じぬ心できれいに歩く樫羽の体を使っていると誰やねんと言いたくなる。まぁ可愛いのだからそれでもいい気はする。
「さっきのって……あのお前の兄で、ってやつか?」
「そ。だっていつまでも家族でいてくれるって本気で言ってくれたもの。ワタシもあの子も嬉しくなるよ」
カシワはいつも、樫羽のことを「あの子」と言う風に呼ぶ。カシワのほうはもう一つの人格を認識しているらしいのだ。対して樫羽は別の人格というのをわかってはいない。記憶が無いときがある、としか思っていないようだ。人格が変わっている時の記憶もないので、単純にカシワのほうが上位の人格なのだろう、というのがオレの考えだ。
「本気で、ねぇ……オレはいつも本気のつもりなんだが」
「それなら、今日はいつもよりも本気に感じられたってことじゃないの。最近のあの子、不安だったみたいだよ?」
「……そうだったのか? じゃあこれで悩むこともなくなるな」
「軽い反応だなぁ……本気なんじゃなかったの?」
「これで本気なんだよ、分かるだろ?」
これは自信をもって言える。なのにカシワは呆れた様子の半目でこちらを見ていた。
「……はぁ。それじゃ、ワタシはお風呂にでも入って寝るよ……」
「そうか。じゃあオレも、そろそろ寝るかな」
実を言うと、そろそろ本格的に寝たいところだったのだ。先に部屋に戻ろうとすると『カシワ』がなにか悪いことを思いついたような顔をして、クスクスと笑った。
「……あ、一緒に入る?」
「誰が入るか!」
当然の拒否。そんなことをすればこいつのことなので、途中で確実に樫羽に体を渡して何も知らない樫羽によってオレが血祭りに上げられる。そもそもまずこんな年齢の兄妹が一緒に風呂に入るわけがあるか。シスコンでもありえない話だろう。
「ふふっ、やっぱりいつもは本気じゃないんじゃない。お兄ちゃんなら女の子との混浴を断るわけが」
「……調子に乗るなっ」
馬鹿なことを言い続けそうなカシワにペチン、と軽いデコピンをお見舞いして、部屋へと戻る。「あぅぅ」とか後ろから聞こえてきたが気にしない。風呂はさっきシャワーを浴びたし、歯も磨いておいたから別にいいだろう。このまま寝ることは、やはり変えなくてもよさそうだ。自室に入って一直線にベッドに向かい潜りこむと、ゆっくりその意識を沈めていく。
そんなこんなでベッドの上で横になって寝ていると、誰かが部屋に入ってきたような感覚がした。しかしオレは目を開けないまま、眠り続けることにする。だからその姿はわからない。けれど――
――ありがとう。
その言葉だけをはっきりと聞いて、オレは更に深い眠りについた。