第二章エピローグ‐その一
長くなったので場面転換部分で分割。
気がつけば、目の前には暗闇。少年がまず思ったのは、そんな見たままの景色を表す言葉だった。そして二番目にはこの暗闇が目蓋の裏なのだということに気付く。今まで自分は眠っていたのだろうかという疑問を持ちながら、ゆっくりと目を開ける。
どこか久々という感情を覚える光が視界に差し込み、その眩しさに目が細くなる。だが実際そこまでその光が眩しかったというわけではないようで、慣れていくかのように視界には正常な景色がゆっくりとあらわれてきた。
やがて少年に見えたのは、なんら変わったところのない普通の天井とそこにぶら下がるようにある、これまた変哲のない蛍光灯だ。さっきの眩しい光はこれから発せられていたのだろうが、今となってはそれが彼にとってなにか問題を起こすようなものにはなりえなかった。
少年はしばらく何も考えないまま、ぼーっと天井の蛍光灯を眺めていた。瞬きをすることも忘れて、ただ無心になって光を見続ける。
「――気がついたか?」
そうしていると、少年にとって聞き慣れない女の声がした。そしてそれは、はっきりと自分に向けて言ったのだと少年は理解だけをして、とりあえずその女の声がした方向へと横たわる体の向きを変えた。
そして目に入ったのは壁にもたれて座り込む一人の女だった。長い金髪にどこかゆったりとしたドレスのような服装。その上に割烹着をつけているのはいささか不釣り合いだが不似合いという印象を与えない。そしてその姿は少年にとっては自分と同じ国の出身ではない、外国の人物なのだろうかということを思わせた。だが、先ほど言われた言葉は明らかに自分の国で使っているものだったので、少年は――もっとも、さっき言われたことが外国語だったとしても少年に驚く余裕はなかったのだが――戸惑うことなく、当然の言葉を発する。
「……誰だ……?」
少年の言葉に、その女はカカッと笑った。そのような仕草を、少年は綺麗だと思った。そもそも顔立ちからして美人といっていいのだから、大体の事をやって綺麗に見えるのはごくごく自然なことな気もしたが、少年にとって顔立ちの良さはほとんど目に入らないのだ。ただ一人を追い求めている、少年にとっては。
「なるほど、それはもっともな事じゃな。我にとっては少々寂しいが……お前からすればそう言うのが至って当然か」
「……? 前に、会った事があるとでも?」
少年は女が言ったことにもしやと思いながらもそう聞き返した。だが彼女は、至って落ち込んだ気配もなければ逆に不自然なほど明るくなるという事もなく自然に答える。
「……いいや。我とお前は初対面だよ。我はお前を知らないわけではないがな」
知らないわけではない、という部分に少年は引っ掛かるが、それを深く聞くつもりもなかった。どうせこの女に大した興味もないし、知ろうとしても分からないままになるような気がしたのだ。
「まぁ、とにかくまだそこに寝ていていいぞ。ここ何日かずっと眠っておったのじゃし、腹も空いておるだろう? 食事を持ってくるから、もう少し休んでおれ」
そういうと女は立ち上がる。そして彼女が歩いて行った先を見ると台所が少年の目に入った。どうやら今いるところは、台所と同化してるような居間とトイレと風呂とぐらいしかないアパートかどこかの一室のようだと彼は気付く。それに、自分は床の上ではなくちゃんと布団の上で安眠していたらしいということも。ここ最近起き上がれば背中が痛かったりするのが日常だった彼にとっては、あまりに久しぶり過ぎて気付くことが遅れてしまっていた。
「……待って」
少年は、女を呼びとめた。女は振り返り、黙って少年の顔を見る。
やがて恥ずかしい感情が湧きあがるも、少年は何とか言おうと思った事を口にする。
「……まず、水をもらえませんか?」
その言葉に、女は笑顔を浮かべてコップを用意し始めた。
「いやはや何とも、中々の食いっぷりじゃったな。あまり多めに用意して無かったとはいえ、すぐ無くなってしまうとは」
そう言いながらもどこか嬉しそうな笑みを女は浮かべる。少年は食前にもやった両手合わせをもう一度行って食事の締めとすると、女に向き直った。
「……どういうことかは分からないですけど、こうして安全なところで休ませていただけたのは感謝します。ありがとうございました」
そういって少年は軽く頭を下げる。もちろん本当にありがたいと思ったからこういうことをしているわけだが、少年は女に目を合わせなかった。それどころか、すぐにここを出たいという気持ちが胸の中を占めている。それを口に出しはしないが、おおよそまともに他人を見ている人物ならば気付くのは容易いほどにそういった感情が彼の外面に滲み出ていた。
だが顔色一つ変えないのは彼だけではなかった。女もまたその少年の様子に何を考えているのかを気付いたが、それを無視して笑った顔で少年に顔を近づける。
「それで、味はどうじゃった? 誰かに振舞ったのは久々でのう、感想を聞いてみたいのだが……」
朗らかに笑いながら女は少年にそう聞いた。少年は言葉遣いが年寄りくさいわりに、なんとも外見よりもよほど幼い少女らしい質問に、しばし考え込む。今の少年は布団から上半身を起こしているだけで、女は近付いてきた際に布団の上に乗っかった状態だ。もしも怒らせたら逃げようがない。
どう答えるかを少年はしばし悩んだが――
「……ちょっと味が薄めだった、ですかね」
口に出したのは彼の正直な感想だった。そう言ったのはどうせここから先会う事があるかどうかも分からない相手に嘘をついても仕方が無い、という理由からだ。
女はその答えに楽しそうな顔が苦く変わった。
「むむ、そうか……ちょっと味覚が変わってきたのかのう。次に誰かに振舞う時までに修正しておかねばな」
「でも不味くはなかったですよ。むしろ美味しかったですし」
少年はフォローのようにそう言うが、実際そう思ったから言っているというのが真実だった。薄いとは思ったが、病み上がりで起き上がったばかりの身体にはむしろちょうど良く、もう少し重かったりくどかったりするものを出されていたら、箸が止まっていたかもしれないと彼は思う。
しかし女はそれには気付かず、その発言をフォローだと思い否定するように右手を振った。
「そういう言葉はいらんよ。出来る限り料理も良くしていきたいからの」
「……そうですか」
少年はそれならば、とあっさり引き下がる。別に怒っていないのならそれでよかったのだ。女も布団の上から退き、少年が載っていた物を綺麗に食べつくした跡の食器を重ねて台所に運んでいった。
水が大きく噴き出す音が聞こえ、そしてその音が弱くなる。女がサッと食器に水をかけてスポンジに洗剤を染み込ませるさまを、少年はただボーっと眺めていた。
腹に久しぶりの満足な食事が入ったからか少年は今すぐにも動き出せそうな感覚でいたが、ここから逃げ出すように出るのも良くないような気がしていた。そして良くないような気がした、という事に少年はなにか変だという想いを抱く。
今まで自分は、なにがなんでもあの子のところに行くことを優先してきた。それこそ元から何も持ってはいなかったが、全てを投げ捨てたような心で彼女を――天木鹿枝を殺して死ぬという事を優先してきたはずだった自分が、なんでここから抜ける事を躊躇うんだという疑問が少年の胸に渦巻く。
カチャカチャと食器同士がぶつかるような音の響く中で、少年は必死に思い出す。なぜこんなことになっているのかという疑問を解き明かすカギを見つけるために、自分の記憶を掘り返す。
少年は天木鹿枝を追い始めてからの記憶を一つ一つ、皮を剥くように思い返していく。だけど、その大半は大して意味を持たない、彼女を捕まえられなかっただけの日々の記憶だ。そして記憶は一番最後――彼にとって最も新しいものに至る。
天から伸びて来て自分の頭に繋がった糸のようなもの。それを掴んだ先で確かに感じた、天木鹿枝の気配。そしてそこで出会った、同じ『遠原櫟』と名乗っていた男。その男と殴り合って、奇妙な攻撃をされて、最後には光に包まれて。
「……ダメだ、思い出せない」
ぽつりと呟いたのは、諦めざるを得なかったからだ。彼の中にそれ以降の記憶が無く、おそらくそこから今日までほとんど眠っていたのだという結論が彼の中で出た。実際それ以外になにか納得いくことが浮かんでくるというわけでもない。本来なら、そこで彼は考える事をやめるはずだった。
それを止めたのは、頭に何かが注ぎこまれるかのような感覚と一瞬の頭痛。
一瞬だったとはいえ、突然走った痛みに身体が反射的に丸まるかのように起こしていた上半身が前に向かって倒れかかる。頭痛がすぐに消えてもその勢いは止まらずに彼は布団に顔を沈めるようにぶつけた。
「どうした?」
皿を洗っていた最中の女がくるりと振り返り、突然頭を布団に叩きつけた少年に何事か訊ねる。しかし少年は返答せず、そのまま何事もなかったかのようにゆっくりと顔を上げた。女は返答が無い事を訝しげに思い、水道の蛇口を閉め少年のそばに近寄って腰を下ろすが、彼の顔を見て驚いたように目を見開いた。
「……本当にどうした?」
女は心配そうに声をかけるが、少年は反応しない。ただどこか遠くを見ている様な目を前に向けながら――涙が一つ、目から落ちる。
彼は、泣いていた。声一つ上げずに、表情も変わらないままに。
反応の無い少年にやれやれ、とぼやきながら女はハンカチを取り出すと彼の目元を拭う。そうしてようやく気がついたかのように少年はハッとなり、苦笑している女の方を見る。
「やっと気付いてくれたか。我は少し寂しかったぞ、無視されているみたいで」
「……その」
少年が申し訳なさそうにして女になにか言おうとするのだが、彼は顔の目の前にいきなりやわらかそうな手のひらを突き出されて口をつぐんだ。もちろんその手は自分のものではなく、目の前にいる女のもの。突然の事でどうすればいいのかわからない彼が何か言うのを待たずに女が言う。
「何があったかはわからんが、別に何も言わなくてかまわんよ。どうせ我とお前、この場限りの知り合いだろう?」
少年はこの場限り、という言葉にハッとする。そうだ、自分とこの女はこれ以降きっと縁のないどうでもいい間柄だったのだ。その事に彼は気付くと軽々立ち上がる。彼はこれまで寝たきりだったが身体の反応が鈍いという事もなく至って正常、むしろ先ほどの頭痛が起きてからさっきよりも楽に動けるようになった気分だった。
「ふむ、もう行くのかえ?」
「……えぇ。ろくにお礼もしていないですが、急がなければならないので。介抱してくれてありがとうございます」
「それも礼には及ばんよ、お前は要なのじゃからな。我が助けるのは当然じゃ」
少年は怪我が無いか自分で確認するために腕や脚をある程度動かした後で玄関に向かって歩いていく。彼は今ある事実を確認したかった。そのためか、この部屋の外へと向かう足の動きは焦りが見えるほどに速い。すぐに扉を見つけて、きちんと揃えられた状態で置いてあった自身の靴を履く。寝ている間に着ていた服も寝間着というわけではなく外へ出ても奇異の目で向けられることは無いだろうと少年は結論付けて、ドアノブに手をかける。
「要というのがなんのことかは分かりませんけど……ぼくは急いでいますので」
――先ほどの頭痛の時に増えた「自分を拒絶し、『遠原さん』と呼ばれていたやつへと呼びかけていた天木鹿枝の声」という、おぼろげな記憶が本当なのかどうかを知るために。
少年はそれでは、と言い残して乱暴にドアを開けると足早に出て行った。
ぽつんと一人残された金髪の女は叩きつけられるように閉められたドアを見ながら、大きく息を吐く。
「……なんというか、恋は盲目とは本当の事なんじゃのぉ」
呆れるような口調で一人ぼやく。ただ、あの二人に手を貸しているのは罪悪感があったからで、たとえぼやいても彼らが最悪な結末を迎えないように動くのは罪滅ぼしのつもりなのだからやめるわけにもいかなかった。
それに、何かに必死になってもがいている姿は永い時を生きてきた彼女にとっては見ていてとても微笑ましく、応援したくなるというのもあった。何より最後に愛が勝つような、ある種クサいともいわれるような物語は昔から彼女の好きなものでもある。自分を愛してくれた人間を放置して今はさすらってしまっているような状態だが、それでもなおその気持ちは昔から変わってない。彼女はそう思っている。
ただ――どうしても、絶対に許されないだろうと思えるところもあった。
「……あっちの怪我人は、どうしていることかのぉ」
締め付けられるような胸の痛みを覚える中、女――魔女ベアトリスは一人天井を仰ぎながら呟いた。