彼女と彼女は過去を切り離す
二人は先ほどと変わらないまま、琉院が攻め手を続けているらしい。だが疲労は明らかに溜まっていて、見るからにふらつきかけている。このまま行けば、琉院のスタミナ切れのほうが近いだろう。身体強化での疲労だってあるだろうし、ここまで続けられたことだって十分にすごい。しかし、それをこれ以上続けさせるわけにもいかない。
「二人とも、そこで止め――!」
「……遠原、今は口を挟むのをやめていただける!? 勝負はまだついていないのですから!」
琉院と三里さんに少し止まるように言おうとしたら、全部言葉に出す前に琉院に口出しすら却下される。オレに口を挟まれたことで少し感情的になったのか動きが少し速くなったが、しかし見た感じからすでに体力切れは近かったのだ。それは逆に体力の減りも早くなるし、雑になって正確性がなくなる危険もある。
「はぁ……はぁ……!」
事実、琉院はすでに息も切れ切れでなりふりかまっていない動きに近い。あのままだと三里さんには易々と返されてしまいそうだ。以前屋上で見た二人の様子からも、三里さんは普通に技量からして琉院には勝っていたし、このままだと琉院が敗れる可能性のほうが高い。
しかし三里さんは、すぐには動かなかった
「……やむを得ません!」
まるで逡巡したかのような間こそ空いたが、しかし三里さんは琉院に対して反撃に出るつもりになったようだ。全身に火が入ったような気迫を感じさせたかと思えば、一瞬で彼女は琉院の背後をとった。琉院自身が疲労で弱体化しているとはいえ、その動き自体にもとてもキレがあり、オレの目で追うことはできなかった。
三里さんが右手を振りかぶる。狙いはどうやら気絶なのか、首筋に目が向いていた。
「せめてどうか、これで!」
三里さんが、腕を振るおうとする。だが琉院はそれに対して黙って動きを止める事はしない。
「まだ、まだぁ!」
琉院は肺から搾り出したような大きな声でそう言うと、後ろの三里さんに対してある攻撃を仕掛けた。
倒れないようにするためか足腰に力を込め、そしてろくに後ろを確認しないまま自分の背部を思い切り後ろに突き出す。背中からの体当たりという言葉が似合いそうなその攻撃は、三里さんに当たった。三里さんが後ろに倒れ、そして琉院も勢いに耐えられなかったのかそのまま後ろへと倒れていく。
「危ない!」
「――槙波様!」
後ろへと倒れた琉院を、三里さんが仰向けの状態で手を伸ばしてあわやというところで受け止めた。ぶつかることを覚悟してか目を瞑っていた琉院が、ゆっくりと目を開けて自分を支えてくれたものの正体を見る。
「……亜貴?」
「……あのままお嬢様が床にぶつかっていれば、多分ワタシの勝ちになったのでしょうが……どうやら、ワタシにそれを静観するのは無理だったようですね」
琉院の背中を押して立ち上がらせながら、まるでなにかを諦めたように、三里さんは言った。
「槙波様が知ったらなにか言うだろうと思いながら、ただ貴女のためだと自分に言い聞かせながらここまでやってきて……いざ槙波様と正面からぶつかり合うなんてことになったら、結局手出しできないまま迷って……貫く覚悟も無いままにこのような不義理を働くなど、ワタシは本当に従者としても――貴女の傍に居た者としても、失格ですね」
「……そんなことはありませんわ!」
琉院が三里さんの方を向いて、彼女の言葉を否定した。
「貴女は失格なんかではない! それは主であって、貴女の傍に居るわたくしが一番よくわかっています!」
「もうワタシは、あなたの従者でも傍に居られるわけでもありません! ここまで逆らってしまって、ワタシが貴女に仕えることを誰が許して、認めてくれるんですか!」
「当然わたくしが、この琉院槙波が望みますわ。そこに許可や認可などの小さな壁、あるわけないでしょう!」
「槙波様は認識が甘すぎます! ワタシはもう――!」
「……二人とも、ちょっといいか?」
激しく熱を帯びてきた言い合いに割り込むのは気が引けたが、しかし黙って聞いていても埒が明かないような気もするのであえて割り込む。当然のように琉院も三里さんも険しいままの目でこっちを見たが、それから放たれている剣幕に圧されるわけにもいかず、二人に近づいてそのまま続けた。
「とりあえずこのまま二人だけで続けさせても長引きそうだから、さ。ひとまずオレから三里さんに聞きたいことを聞いてもいいか?」
二人、というよりはまず三里さんと話していた琉院に許可を求める。琉院は鋭い睨みの利いたような目でしばらくこっちを見ていたが、やがて刺々しい雰囲気が柔らかいそれに変わった。
「……仕方ありませんわね。よく見ればボロボロのようですし、いいですわ。先に遠原から用を済ませておきなさい」
「すまないな。三里さんも、いきなり割り込んできちゃったのは悪いと思ってますけどそれでいいですかね?」
今度は三里さんを見る。彼女も突然のことで対応できていないのか、困惑した雰囲気を持ちながら感情的になったような目つきをしているままでオレを見ていたが、やがて小さく縦にうなずいた。
「それじゃあまず、オレから一つ。さっき『もう従者でもなんでもない』って言ってましたけど、それはやっぱり、あれでオレに任せたってことですか?」
「……はい。遠原さまは信用できる方だと思いましたし、槙波様とも知り合いでおられて近くに居る、ちょうどいい方が貴方さましかおりませんでしたから。このようなことをしたワタシの代わりという役を押し付けたこと、もうしわけありませんでした」
三里さんはそう言って、小さく頭を下げる。自分のやったこと自体はちゃんと自覚しているようだ。
「そうですか。それじゃあもう一つ聞きます。三里さんは、あの二人を……オレの知り合いだと知っていて巻き込んだんですか?」
二人とは当然、天木さんと樫羽のことだ。この人がもしもあの二人の素性を分かっていてやっていたのだとしたら、もしそうだったのならと考えると、オレは多分それを許せないだろう。だからか質問をしたときには目が細くなり、キツい言い方になったような気がした。
「……どうなんですか!?」
「それは……」
三里さんの言葉が詰まる。まさか、本当に――
「――メイド娘は、なんもしらねぇよ」
遠くから野太い男の声が割り込むように入ってきた。メイド娘という呼び方と声が飛んできた方向から、オレはそれがグリッツさんの発したものだとわかり、すぐにそちらへ顔を向けた。
先ほどまでその姿を隠すようにあった煙が晴れてグリッツさんをはっきりと見ることができるようになっており、先ほど炎を浴び続けていたためか服は相当ボロボロの状態になっている。しかしグリッツさんの声は、さほども苦しさを感じさせないさっぱりとしたものだった。
「メイド娘はこの店での事件とかいう計画を立てたわけでも、実際に嬢ちゃんらを捕まえたわけでもねぇ。ただ『True World』に捕まったふりをしただけだ。自分を犠牲にする以外のことはなんも考えちゃいなかったよ、そいつはな」
「……あんたの言葉、昨日までならともかく今はそう簡単に信じられないぞ?」
通りすがりの、多少信頼できた人だったのは昔のことで、今は敵対している者同士だ。言葉を信じようとするには疑念のようなものが深くありすぎるし、それに、実際騙されていたようなところがあるのも確かだ。人のいい聖職者かと思えばその素性が実は危ない組織にかかわっている人間、というのはただ一日会っただけのオレに話すことでもないだろうが、しかしこうして身近な人物がその被害にあってしまっている。裏切られた、と思ってしまうのは当然なのか、それとも――オレがそれだけグリッツさんを信頼してしまっていた、ということなのか。なんにせよ、その信頼のようなものも今はどこか遠い過去のもののように、消え去ってしまった気がする。
だが、グリッツさんは信じられない、という言葉に嫌な顔一つせず妙な反応を返す。
それは「ククッ」という、前にも聞いた、人を食ったような笑いだ。
「信用できない! そりゃあ当然だ、今さっきまで殴りあうような関係だったんだもんなぁ! だが坊主、自分の言葉は真実でないと思うにしても、そっちのメイド娘はちゃんとしたことを話すと思うのか? ここまで嘘を隠してきたんだぜ、そいつは」
意地の悪い言葉だ。ねちっこく、しかしあながち間違っているというわけでもないだけにそれには反論というものを返し辛い。
「……確かに三里さんは、みんなに今回のことを悟られないままこんな事をしたな」
「あぁ、そうだ。メイド娘はここまで隠してきた。そんなやつが言うことは、信じられるのか? お前達は、それを信じることができるのか?」
「――偉そうに、貴方が亜貴のことを語らないで下さる?」
グリッツさんの言葉に対して即座に切り返したのは、後ろに居た琉院だった。彼女は冷徹に、これまでで最も強い怒りを感じさせるような睨みをグリッツさんに向けている。傍から見てるだけの自分でも、その眼に自分の心臓の鼓動がおとなしくなるような恐ろしさを感じさせられるほどのものだった。
「わたくしは貴方と亜貴の関係も知りませんし、それにどうやら遠原とも知り合いのようですが、それでもその程度の言葉しか吐けないような方には亜貴のことを語ってほしくなんてありませんわね」
「……気が強い娘っ子だな、メイド娘が言ってたような弱々しいところなんて微塵も見えやしねぇ」
「あら、当然じゃありませんこと? 弱味を見せるのはあくまでわたくしが信頼している者の前だけなのですから、貴方のような敵に見せるわけがあるはずないでしょう?」
傲岸不遜といったふうに鼻で余裕げに笑う琉院に対して、グリッツさんは大して反応もしない。まぁしかし琉院は過剰に強がる癖があるみたいだし、三里さんが言っていたような様子の琉院なんてあまり――
……待て、そうなるとまさか。
「……琉院、弱味を見せるのはさっき信頼している者の前だけって言ってたが、屋敷の時とかお前、オレの前でもわりと――」
「す、少し黙りなさい」
足に軽く蹴りが当てられる。蹴り、というよりはただ足を当てた程度の本当に軽いものだったが、そこは恐らくボロボロなオレに対しての気遣いだろう、なのでそれ以上は要望通りに黙ることにする。わざわざ逆撫でするようなこともないし、それにオレが言ったことは間違いとも言われてないのだから、黙るだけなら別にいいだろう。
「なんとも聞いていた話からだいぶ変化してる主様だな。もしかして偽者かと疑いたくなるぐらいにズレがある」
「残念ながら本物ですわよ。今ここにいるわたくしも、過去に亜貴が貴方に聞かせたわたくしも、本当に嫌になるくらい残念ながら、ね」
「……つまり、自分は変わったっていいてぇのか? お前は」
「そこまで大それたことは言いません。変わったというならば、一つ――躊躇することはやめた、ぐらいでしょうか?」
琉院がそう言った後、沈黙が場を占めた。誰もなにも言わないまま、時間だけが過ぎていく。
やがて口を開いたのは、やはり琉院と話していたグリッツさんだった。
「なんだそりゃ」
短く、それでも呆れているのが分かるような口調で琉院の言ったことに対しての反応を返す。しかし、琉院はそれに対しても動じず更に続ける。
「なんだと言われても、今のわたくしにとっての変化はこれぐらいですから。急なことに躊躇って、わたくしはこれまで色々な後悔をしてきたからそれを止めた、単純な話よ」
「へぇ、それでその躊躇わなくなったっていうお嬢ちゃんはいったいなにを躊躇わずにやるっていうんだ?」
「勿論、亜貴の無事を信じて助けること。ここに来た時から、今もそれはわたくしの中で変わってませんわ」
琉院がそう言った瞬間、三里さんは声を上げた。
「槙波様!? 貴女はまだワタシを助けるつもりなんですか! ワタシは貴女方を騙すなどという下劣な行いをして……!」
「いいかげんに駄々をこねるのはやめなさい、亜貴! たとえ貴女が何を言おうがわたくしは貴女を連れて帰るし――」
三里さんの言葉を遮って琉院は、更に己がやろうとしていることを叫ぶように口にする。そして一瞬、息を吸って三里さんに最早決定的になってしまっているあることを告げる。
「――それにもう、あなた達のやろうとしている事は失敗しているも同然よ!」
琉院は三里さんの方に振り向きながら、人差し指を勢い良く彼女に向ける。彼女が突きつけたことはオレもそんな気がしていたようなくらいに、明らかなものだった。三里さんがやろうとしていたのは、あくまで自分の身を犠牲にして世の中の同情を買うことだ。何かが違うということだけが分かっていて、接し方のわからない対象として見られてきた琉院を悲劇に巻き込まれた人物として仕立て上げようとした。それはすでに――そしてオレから見れば最初からも、破綻していたと言ってよかった。
三里さんのやろうとしていることをするにはあくまで『True World』という組織に与する人物が彼女を手にかけることが前提だ。しかしその組織に属する人物はここにいるグリッツさんを除けば、後は下に居る連中が全てだ。そしてそれは二人の友人が抑えてくれているし、それに多分彼らは勝ってしまうだろう。買いかぶりというところが無いわけではないが、そうなると考えられる程度の実力をあの二人――特に那須野は持っている。
「もう貴女を手にかけられる役割を持った人間はいない! ならばこのまま馬鹿なマネを続けようなんてほうが間違っているわ!」
琉院は更に諦めるよう三里さんに言うが、三里さんは琉院の指をぼんやりと見ながらか細い声で吐露するように返す。
「……たとえ、ワタシがやろうとしていたことが失敗だったとしても。もう貴女様の元へ帰ることは、できません。許されるわけがないんです」
「そうだぜ。それに、まだ自分がいる。メイド娘のやろうとしていることが終わった、とは言い辛いんじゃねぇのか?」
そして更にグリッツさんも同調して、まだ諦めていないという姿勢を琉院に対して示す。だが彼は口でそう言いながらも、身体は立ち上がることもなく壁に背中を預けて座り込んだままだ。動こうとしている様子はわかるのだが、しかし先ほどの炎が思った以上にダメージとなっているのか動作が不自由な状態のようだ。しかしそれ以外にも、違和感のようなものを覚える。見た目や動作にではない。雰囲気的なものにそれがあるのだ。はっきりとはわからないが――一言で言うならば、やる気が無い。オレの目はグリッツさんの雰囲気をそう捉えていた。
「――せっかく、メイド娘がやるっていったことなんだからな……!!」
まるで弱った自分の体を無理にでも奮い立たせるように搾り出したその言葉。それが一つの予想へと変わった。もしかしたら、彼もそう思っているのかもしれない。オレと同じようにその結論に行き着いた可能性は、無いというわけではないのだ。
「なぁ、グリッツさん……あんたは、これが成功すると思って手伝っているのか?」
立ち上がろうとしていたグリッツさんの動きが、ハッキリと止まった。しかし真っ先にオレの言葉に反応したのは彼ではなく、オレの後ろに居た彼女だった。
「……どういう意味です、遠原さま」
オレに向けられた三里さんの声には、なにか冷たさを感じさせるものがあった。オレが言ったことは裏を返せば三里さんのやろうとしていることは成功しないということなのだから、当然のことだ。だけど、オレからすればその成功させるつもりでいる三里さんの自信を裏付けるものの方がよっぽど謎だった。オレは振り返って三里さんの方を向いて答える。
「言葉通りの意味ですよ、三里さん。あなたが犠牲になっても変わることなんて精々周りが悲しむぐらいで、それで琉院の身の回りの関係がいい方向に変化するなんてことは、実際に起こったら珍事でしかないってオレは言ってるんです」
「それだけの事を言える根拠が、どこにあるというのですか? ワタシがいなくなれば槙波様に対して攻撃的な目を向けるものもいなくなり、それに槙波様も……もっと周りを見ることができるようになるはずです」
「ならオレは、その都合のいい予想を全部否定してあげますよ。そんなことは起こりえないって」
オレは三里さんが口にした予想に何一つもしかしたら、なんて曖昧な言葉をつけたりせず切った。言葉を濁す必要も無く、自分は確信を持って言えるのだから。
「どんな悲劇だろうが、それで生まれた『かわいそうな子』に好意的な目なんて向けられる方が稀だ。三里さん、あなたは琉院をそんな人間に仕立て上げようとしていますけど、それじゃあ周りの環境はいい方向に変わったりなんてしない」
琉院は過去に異世界人の血を引いているというだけで遠ざけられていた。しかし別に異世界人というものだけがそうやって遠ざけられるなんてわけではなく、昔から変わらず近づきにくい人間なんていくらでもいる。それこそ気が短いやつ、陰気なやつ、それにさっき言ったようなかわいそうな子など様々いるが、今の三里さんがやっているのは琉院をそのかわいそうな子とすることに他ならない。だけど三里さんはオレが言ったことに一切引いた様子もなく、感情を顔により強く表していた。
「そんな……! それは遠原さまが勝手にそう考えてるだけではありませんか!」
三里さんの強い反論も、間違っているわけじゃない。なにせオレが言っているのは確信を持っているだけの予想なのだから、三里さんが求めた結果のように琉院にとっていい変化が起こるというのが起こりえないと誰も彼もが言えるわけでもないのだ。
だけど、オレには根拠――というよりも考えを曲げるに曲げられない理由があったりする。それがどうしても、三里さんの考えた良い方向への変化という可能性を有りうると認めることを拒んでしまう。
「……確かにオレは一般論だとかは考慮しないで自分の考えで語っています。でも……オレは知っているんですよ、そういう実例を」
「実例……?」
「オレ自身です、三里さん」
三里さんと琉院の目が、同じように見開かれる。オレはその驚いた様子を気にしないで続けた。
「まぁ少し家庭の事情が珍しかったってだけなんですが、でも周りから見てとても哀れだったよう……と言いますか、オレも自分の置かれた環境はとても悲劇的だ、なんて酔いしれていたのを周囲に見せ付けていたんですけどね」
二人に語りながら、その頃の事を思い出す。家庭の事情、というのは両親がその頃すでに居なくなっていたことだが、それでオレを近寄りがたいかわいそうな人間と見るやつはあまりにも多くいたのだ。そしてオレ自身もそのかわいそうという扱いに、半ば満足してしまっていたのだ。拠り所がなく、ただそれぐらいしか自分の心を埋めることができずにいた、本当にかわいそうな人間。周りが近寄ろうとしないのも当然だし、周りから誰かが離れていくのも必然だった。残ったのは葉一ぐらいでその後何人かとはまた仲良くもなったが、しかし以前よりも交友関係は減っていたのは確かだ。
「でもちょっとした事件がありまして、その時に少し自分の性根を改めた結果が今のオレがあるわけで……と、まぁそれはともかくオレは実際にかわいそうな子、という立場になったこともあるし、それに見たこともあるんですよ。でもそっちを話さずとも、どういうものだったかわかるでしょう?」
自分ではなく誰かがそう扱われてるのを見た記憶は、自分のそれ以上にあまり思い出したくない。ただこれで、三里さんも少しはわかってくれたのか、反論をすぐに返すということはしなかった。
更にオレはもう一人、自分以外にもこう考えていたであろう人物のほうを向く。
「それにあんたも、そうなるだろうとは薄々感づいていたんじゃないか?」
オレは視線の先にいる人物――グリッツさんに向けて問いかける。グリッツさんは、動きを止めただけでなく返答すら返さないでいた。ただ一言、そうは思っていないと返せばいいのに、吐息の音ひとつ漏らさずにいるのだ。
「……牧師様……?」
その様子に不安を覚えたのか、三里さんはまるで縋っているかのような声を出す。ここまで一緒にやってきた人間が、実は失敗すると考えていたということは考えたくないのだろう。
だけどグリッツさんはやがて覚悟を決めたかのように頭を下げ――
「…………すまん……!」
――三里さんに対して、嘘をついていたことの証明をするかのように謝罪をした。三里さんはそれを見て呆然としていたのだが、やがてゆっくりと放心していくような顔になっていく。
「……ワタシがしてきたことは……最初から間違っていたということですか……」
ふふふ、と気が抜けたような笑い声を出しながら三里さんは上を向いた。まるで表情を隠そうとしているように、静かに笑いながら顔を持ち上げていく。琉院は不安げな顔になりながら三里さんの方を見る。
「亜貴……」
「……もうしわけございません、槙波様。ワタシはあなたの益になるようなことを何一つできないまま、こうして貴方様を貶めるようなことをしてしまいました。もうワタシは、傍にいるどころか貴方を思うことも許されるような立場では――」
三里さんがゆっくりと喋っている最中、突然にその言葉が途切れる。琉院が三里さんの肩をつかんで前後させて、彼女が上を向いたままでいるのを無理やり元の正面に戻したからだ。
そして次に響いたのは、空気が小さく弾けたような軽い打撃音。オレの目に入ったのは、琉院が三里さんの頬を叩いた姿だった。そしてその後も3回ほど交互に琉院は三里さんの両頬を張った。三里さんはまたも呆然として琉院を見る。
「亜貴、いいかげんにしなさい! 最初にわたくしの傍から離れようとして、今度は……!」
涙声になって、琉院は大声で喚くように三里さんを叱っている。まるで子供みたいに稚拙だけど純粋な言葉は三里さんもどうするべきかわからないのか、手元が覚束ない様子になりながらも聞いているだけだった。
「……槙波さま?」
「――貴女は、そうまでしてわたくしから逃げたいの!?」
琉院は大きく吼える。空気が震えて室内全体にその震えた声が響き、そして一拍ほどの間があった後。
「そんなこと……あるわけ無いでしょう!!」
今度は感情的な声がはっきりと、震えることもなく室内を支配する。その声の主は三里さんだった。彼女は右目から一筋の涙をこぼしたかと思えばそれを即座に服で拭き、琉院の顔を正面から呆然とすることなく、毅然とした顔で見る。
「ワタシだって傍にあることが許されるならば、そこに居たいですよ! でもこんな大事になってしまって、それにワタシは共犯者の側で……そんなことになってしまえば、今度は異世界人側の立場も悪くなってしまいます! それは即ち槙波様の、引いては琉院の家そのものが苦境に立たされるということです! そんなワタシが傍にいては、より苦しい状況に……!」
「それは、貴女がわたくしの事を思って……いえ、貴女に微塵ほどでもそのようなことを考えさせてしまったわたくしが負ってしかるべき咎、罪ですわ! わたくしはそれを背負うことになんら躊躇いなどありません! だから帰ってきなさい、亜貴!」
「勝手なことを申されないでください! 槙波様がそれでよくても当主様や周りがそれを認めるわけが……!」
琉院が三里さんの肩を掴みながら、喧々囂々の言い合いが始まった。オレは二人の周囲を取り巻く環境を、よく理解はしていない。断片的に聞いたりはしているのだが、それが全てというわけでもないらしい。そんなややこしい二人の少女の言葉のぶつけ合いは、その実とてもシンプルなものの応酬だった。
帰って来い。帰れない。この二つが延々と繰り返されて、互いにちゃんと聞いているかどうかも少し不安になってくるような速度で言葉を返しあっているのだ。割り込んだら邪魔者として即座に殺されそうなぐらい、二人の雰囲気は剣呑といってよかった。
だがオレは、黙ってはいられなかった。
「……わがままばかり、いいかげんにしろよ!」
口から出たのは、そんな言葉だ。琉院の声よりも、三里さんの声よりも大きく部屋の中に響いて、二人の言い合いが止まる。視線が自分に集中しているのは、辺りを見ずとも感じられた。
「三里さんがさっきから言ってることは、ただ責任を放り投げてるだけじゃないか! ただ色々と言い訳をつけて逃げて、甘ったれるのもいいかげんにしろよ!」
自分の中でもやもやと渦を巻いていたような苛立ちが、一気に噴き出してきた。さっきは自分の中だけで済ませていたものの、なまじ一度でもはっきりそういう事を考えてしまったせいか、余計にそういう激しい感情が頭の中にはスラスラと浮かぶ。
「遠……原……?」
琉院の呆然とした声が耳に入る。突然こんな激しい言葉をぶちまけたりするのを見れば、当然の反応か。三里さんの方も同じように気の抜けた表情をしてこっちを見ていた。
「今回の事を悪いと思ったなら、逃げるんじゃなくて他にまずやることがあるはずだ! それをしないで逃げたら、琉院も――それに三里さんも、後悔してしまうかもしれない!」
「……他に……やること……?」
か細い声で三里さんはオレに聞き返す。少なくとも、ほんのわずか程度なら三里さんは逃げない道に興味を持ってくれたらしい。オレは三里さんのそばに屈んで、彼女と同じ高さに目線を合わせる。
「逃げないなら、立ち向かうしかないですよ。謝罪をして、償いをして……周りを納得させるんです。自分がこういう事をしたというのを隠さず、それでもちゃんとけりをつけて終わりにする。嫌な事を嫌な事で終わらせず、乗り越えてこそ終わりになる……んだと、オレは思います」
オレはゆっくりと、目の前にいる気の抜けた少女に語りかける。最後には少し気恥ずかしくなってしまい、曖昧な物言いになったのは少々情けない気持ちもあるが、言いたい事は伝えられたと思う。
三里さんはやがて口を開き、またボソボソとか細い声を出す。
「……恥を背負うのはワタシだけでなく、槙波様たち琉院の家全体なんですよ? ワタシがのうのうと帰っては、槙波様たちにも尋常ではない迷惑をかけてしまうんです。それでもワタシに、槙波様の元へ戻れと言うんですか?」
「えぇ。戻ることだって、ちゃんとした償いの一つですよ。ただ迷惑をかけるだけじゃなく、帰る事で喜ぶ人間だっているはずですから」
オレは琉院の方を見る。彼女は心配そうにこちらを見て、手を祈るように合わせていた。
「――例えば、あいつとか。それを三里さんは、無視出来るんですか?」
「……例え槙波様がよくても、遠原さまはそれでよいのですか? ワタシは、あなたの身内をこんなことに巻き込んでしまったんですよ? それが何食わぬ顔で戻るのを、納得出来るんですか?」
それはこれまで聞いてきたような、こうなるだろうから帰らないという言葉ではなく、オレに対して問うものだった。なぜ突然そう言い始めたのか分からなかったのが顔に出ていたのか、三里さんは自分からその理由を語り始める。
「槙波様も遠原さまも、二人して大丈夫だと言い続けるものですから……もう、立場がどうこうという問題では引き下がらないのだと諦めてしまいました。でも、気持ちの上ではどうなんですか? ワタシを助ける事に、ほんの少しでも迷いがあるのではないですか?」
「……まぁたしかに、今のところはまだ完全に納得した、とは言えませんけどね」
「なら、ここでワタシを連れ帰ったら遠原さまは後悔するかもしれませんよ? ワタシを見る度に、今回の事を思い出してしまうのかもしれないのですよ?」
三里さんは、そう言ってオレの気持ちを変えようとしたがっているらしい。確かに、三里さんが本当に敵だったのならオレはここで助けようなんて思わなかったかもしれないし、助けようと思っても今のでそれを迷わされたかもしれない。だけどオレの考えは、何一つ変わらなかった。
「構いません」
三里さんは俯いた。表情を隠すように顔を伏せ、どういう事を思っているのかは読み取れない。だけどオレは、返答を返し続ける。
「たとえ今の自分の気持ちが迷っていても、それは三里さんが琉院のところに戻って、あいつのちゃんとした友人に戻ってくれるなら充分納得できますから。そうしてくれるなら、オレは三里さんと琉院の味方です。三里さんが戻ることに文句を言うやつがいたら、オレも一緒に納得させられるよう、協力しますよ」
三里さんの肩に手を置いた。手のひらに収まるような小さくて丸い、そして沈んだ肩は何かが抜けていくかのようだった。肩の上の手に力はこめず、できるだけ優しくつかむ事を意識する。
そしてやがて、ぽつりと声が聞こえる。
「……そうまで助けようとしてくれるのですか、あなたは、このワタシを」
「はい――助けたいですから」
助けたいのかと言われて、オレは自然と忌むように嫌っていた言葉をすんなりと出す事が出来た。そして何かを思い出すから嫌だ、なにかのようだから嫌だと思ってしまっていた言葉への嫌悪感が自分の中から消えたようにどこかへと消えた。
本当に助けたいと思うのなら、そんなややこしい理由を頭に浮かべることもできないんだろう。きっと、考える余地も無いということだ。
「本当に、それでいいのですか? ワタシはあなたに自分のこれまでやってきた役目を押し付け、あまつさえ家族を――」
「それも充分に納得できましたよ。と言いますか、あの二人の姿を近くで見たら怒ることもできそうに無かったですから」
「…………?」
三里さんは何のことかわからないというように、不思議そうな視線をオレに向けた。もしかしたら、この人は気付いていないのかもしれないけど、オレからすれば礼を言いたくなるような事を、多分この人はしてくれていたのだ。
「妹も天木さんも、どこかケガをした様子は無かったですから。多分、三里さんがそばに居て……」
さっき見たところ、二人は精神的な疲労は確かにあったように見えたのだが、しかしどこかを痛がったりや目に見える傷は無いようだった。それだけなら普通にいいことなのだが、最初にここに来た時、三里さんは同じように手足を拘束されていたことを思い出すと話も変わる。正確に言えば拘束されていたふりをしていたのだろうと思うが、大事なのはそれでなく一緒に捕まっていたという事だ。
捕まえたのが極端なほど異世界人嫌いの連中で、捕まえられた最中などに何も――たとえば、暴力をふるわれるとか――そういうことが無かったというのは、嫌な事だが少々考えづらいことでもあった。実際、そういう事件は過去にもあった。
だけど実際はそういう事も無かった様子で、三人とも無傷で元気な姿だ。それ自体は単純に喜ばしい事だとしても、裏では何がしかの事態が起こっていたのかもしれない。オレとしてはどうにもそんなことがあったのかどうか、気が気でなくなるほどに気になってしょうがなかった。もしも本当にあったのならオレは当然「True World」への憎しみは募らせるが、それでなぜ三人無事なのかという疑問も出る。だけど、あまり深く考えるまでも無く一つの予想にたどり着く。偶然でも無いのなら、恐らく誰かが守ったのだろう。そしてそれができたのは、天木さんと樫羽を除いた二人だけだ。
しかしオレの予想は外れたのか、守ってくれたのかというオレの言葉に、三里さんは首を小さく横に振った。
「……違います、ワタシではありません。ワタシ達を守ったのは……牧師さまです」
三里さんが言ったのは、もう一人の人物が守ったという事だった。申し訳なさそうな様子なのは、自分が守ったと期待されていたのを裏切ってしまったとでも思っているからか。
……そうでなければいけなかったわけでもないのだが。
「ワタシは遠原さまの思ってくれたように誰かを守ったわけではないのです、ですから――」
「別に二人を守ってくれたからって、それだけが助ける理由じゃないですよ」
三里さんの言葉が、また止まった。
「実際、身体を使って守ってくれていたのはあのおっさんかもしれないですけど……でも、三里さんだって二人のそばにいてくれたんじゃないですか。それだけで充分に、オレからすれば助ける理由になりますよ」
「……それだけで助けるなんて、遠原さまはお人好しかなにかですか?」
返された言葉は、なにか隠してるようなものを感じた。しかしその隠されてるものは、決して悪いものだとは思えなかった。むしろ明るい――笑いを抑えている様な声だったから。
ついつい自分も明るい声になって、
「お人好しとは、よく言われます」
そう返してしまう。
すると三里さんは――隠すことなく小さな声で、ふふ、と笑った。
初めて聞いたそれに自分は一瞬だけなにが起きたのか理解が追いつかない。目の前の三里さんが笑ったのだと気が付いたのは、彼女が顔を上げた時だ。満面の笑顔と言うわけではなく、軽くほほ笑む様な表情が目に入り、オレはようやく理解できた。なにせ初めて聞いて、初めて見たのだ。三里亜貴が笑っている姿を。
その姿に驚いているオレに、三里さんは言ってくる。
「遠原さまも槙波様も二人してワタシを強引に連れ戻そうだなんて……なぜそこまでしてくれるのかは分かりませんが……もう、逃げる事は出来そうにありませんね」
「……それじゃあ、戻ってきてくれるんですか? 琉院のところに」
三里さんはオレの問いに、ゆっくりと頷いた――