彼と彼女は信頼を覚える
「――ちぃっ!」
舌打ちが漏れた。そうしたくなったのは、こうも自分の攻撃が当たらなければ仕方のないことなのかもしれない。いくら四肢を振るおうが何一つ打ったという感触も無いままに、男が軽く動いただけで全てが空振りに終わる。しかしそれでも足を止めずに前進しながら攻撃をし続ける。あくまでギリギリ、相手の懐に入り込んで自分のそばにも相手を入れるようなことはない拳がなんとか届く程度の距離を維持しながら。そうしながら、何度攻撃をしたんだろうか。百は放ったのか、まさかそれ以上やっているのか。
なんにせよ、疲労感が溜まるほどの回数は攻撃しているということには変わりない。自分でもわかるほど、拳打が鈍ってきている。相手に近づこうとする脚の動きも少しずつ遅くなってきていた。息だって切れてきている。なぜだか、いつもより身体が重く、言うことを聞かないような感じだった。本当ならそんなはずはなく、むしろ普段よりも動きはいい体のはずなのだが、頭の中にはそういう思考が浮かんできている。そこには違和感をどうしても覚える気もするのだが、今はそれを追及する暇なんて当然のように無い。
ぼくは疲れを覚えるはずが無いという考えを振り払って、攻撃を続ける。男のほうを見やれば、なにかつまらなさそうな、気落ちしているようにも見えるがっかりとした顔をしていた。それに憤慨して、拳にも力がこもる。なんでそんな顔をしている、お前を楽しませるためにやっているんじゃない、という怒りのような感情がふつふつと湧いてきて、それを隠すつもりもなくぶつけようとしてしまう。ぼくがやりたいのは今すぐに、とにかくお前を叩き潰して天木さんのところへと行くことだ。そしてぼくの望みを果たす。だというのにこの男はなんで期待をしていたような、そんな失望した顔をしている。
お前なんて、知らないというのに。
「……さっきの気迫は大したもんだと思ったが、攻撃はまるで逆上したガキそのものだな」
最小限の動きで自分の攻撃を避け続けている男は、ポツリとそう呟いた。まるで冷め切っていて、感情というものをおよそなにも持っていないような声。なにをいきなり、と思った直後のことだった。
振るった腕を掴まれる。まるで手加減を感じない力が、万力のように握られた箇所を絞める。たまらず、痛みを訴える声が漏れた。
「ぐあぁっ!」
「これなら、さっきまでのほうがまだマシだったぜ」
そう言いながら男が懐に入る。腕を引きながら、最大威力を当てることのできる至近距離まで足を踏み入れ、そしてその腕を胸めがけて放ったのだ。
止められるべくもなくそれは直撃し、鉄の棒を撃ちつけられたような威力と衝撃に肺の中の空気を搾り出されたように口から息とうめきを吐きながら後ろへ吹っ飛ぶ。
背中から床にぶつかり、全身に衝撃が走る。身体は痺れたようになって自由に動かせやしない。起き上がろうとして上半身を起こそうとしようが、持ち上がったのは首だけだった。それで変わったことといえば、せいぜい視点が動いて見えるものが変わっただけで、状況は最悪のままいたって変化なしというところだろう。視界に天木さん達の姿と、たった今オレを吹っ飛ばしたグリッツさんの姿が――
――……オレは今、グリッツさんにぶっとばされたのか?
突然にそんな疑問が浮かんだ。たった今起こったはずのことが、どこかオレにとって不明瞭な物事のように感じられる。目の前から槌のような拳が放たれたというのは記憶にある。そしてその時の感覚は、自分に向けられているという意識が無くどこか第三者の視点で見ているような、自分に関わることではなかったような気がしていたのだ。だけど事実としてオレの体には薄ぼんやりとした記憶の中にあるあの破壊力のある拳が打ち付けられたというので納得できそうな痛みがあるし、それになにより、自分の記憶がどこか変だ。
なぜ目の前から拳が来ていて、それを他人事のように見られるのか。そしてそうやって一つの記憶を疑いだすと、他にも怪しいと思えるような、はっきりと覚えられていない記憶があることに気づく。まさかとは思うが、床に落ちたとき頭を強く打ってしまったのだろうか。それとも、失血でもしているのか。麻痺しているような感覚では、それがどうにもわからない。だけどそうならばまずいということが理解できるだけの知恵はまだ働いた。遠くにいる天木さんたちのほうを見る。このまま意識を失ってしまっては、できないではないか――
――天木さんを助けることも、殺すことも。
「……!?」
自分の考えたことに驚くというのは、間抜けなことなのかもしれない。しかしそれでも、意外なことが意識に浮かんでしまえば、誰だって虚を突かれたように怯んでしまうのではないか。それに、内容だって自分が考えるとは思えないものだったのだから。
天木さんを殺そうとするなんて、それではまるであいつ――天木さんの世界にいる『遠原櫟』のようではないか。なぜそんな思考が自分に湧いてくるんだ、そう考えようとしてみるも、そんな時間はないようだった。視界に映るグリッツさんが――男が、ぼくにゆっくりと拳を胸の前に構えて近づいてくるのだから。
その姿から放たれる威圧感と、おそらく意識を刈り取りにきたのだろうという予測からか、まるで死神のようにも見える。本来ならそれは、恐れをなしてしまってもおかしくはないものなのかもしれない。
だが今は別の問題が自分の中にあった。
オレの中で、突然囁くような声が聞こえはじめたのだ。その声が囁きかけてくる内容は、先ほども思い出した「遠原櫟」を想起させる呪詛のようなものだった。ただ一心不乱に、殺したい、殺したいという声が頭の中で響く。そしてその囁き声はだんだんと大きくなってくるのだ。大音量が室内に響き続けることを音が空間を支配する、とは言うこともあるが、今響いてるのは頭の中。もしこの声がそういうように支配をしたら、オレはどうなるんだろう。そんな不安と、目の前からやってくる男の威圧と、そして少し朦朧としてきた意識は、まるでどれが自分から真っ先に希望を奪えるかの競争をしているようだった。
「……オレは……まだ……!!」
頭の中を支配しそうな声に逆らうように、オレは苦しさを感じながら声を出す。しかしその時には既にそれ以外の絶望がやってきていた。自分に拳を向けるグリッツさんが、すぐそこに来て、早速構える。
「……さっきので意識を失えていれば幸せだったろうに。だが、意識があったらまた反抗するかもしれねぇんだ。これぐらいは用心させてもらう」
「ぐぅ……!」
こればかりはどうしようもないという諦めはあるが、しかしそれでもオレは悔やむような声を出す。体を動かせればまだ何とかなるかもしれないのに、それができないとあってはもはや打つ手なしと言われているのも同然だ。避ける術も受けられるほどの余力も無い。なにかあるとすれば、それは精々おかしいほどの幸運で奇跡がおきることを祈るだけか。悔しいとすれば天木さんたちを助けられなかったことだけではなく自分自身には打つ手もなくなにかに頼るだけの自分の情けなさもだった。
そんな情けない自分は、更に情けなくもこの時になって心が折れかけていた。ここをどうにかしなくても、天木さんたちを帰すといっていた三里さんの言葉に逃げそうになっている。三里さんを連れ帰れるかどうかは琉院にすべて任せて、自分はもう、ここで眠ろうかというように天井を見上げて思考を放棄しかけたのだ。
一際大きい声が頭に響き、真上からグリッツさんが拳を振り下ろそうとし、意識が完全に世界から絶たれそうになるその時。
オレの真上をグリッツさんが吹き飛び、そして激しくなにかにぶつかったような音が響く。なにがあった、どういうことだということを考えるよりも前の、ただ驚愕しているだけの自分の耳にある声が入る。
「よくも……よくも、兄さんを!」
それは聞き覚えがあって、だけどあまり聞いたことのないような激情に彩られた声だった。首を持ち上げて、その声がしたほうを見る。
やはりか、とその声の主を見て思う。先ほどは気を失っていたはずの樫羽がどうやらいつの間にか目を覚ましていたらしい。こっちを見ている、ということは今の自分のひどい醜態も見られている、ということなんだろう。この前は樫羽には怪我を見せたくないと叔父さんに言っていたのだが、早速こうして見られてしまった。多分近いうちに怒られるだろうなぁ、などということをふと考えてしまう。
しかし、そんな取り留めのない考えを吹き飛ばすようなことが起こった。
手足を縛られて地面に座り込んだままの樫羽の前の空間に、膨らむようにして自分にとって見慣れた火球が現れたのだ。そのサイズはサッカーボール大くらいで、規模としてはあまり大したものではない。だが、この状況で――この部屋の中に魔力がない状態で、なぜあんなものを魔術学校の生徒でもない樫羽が生み出せるんだ。無詠唱、というのはオレの周りにも葉一や琉院などがいるからすんなりと納得できる。でもここには魔力が無いはずなのに、それを生み出せるというのは異常だ。無いはずのエネルギーをどこから持ってきてその魔術を作ったんだ、疑問がそうやって頭の中をぐるぐると渦巻いていると、樫羽が叫ぶ。
「わたしは、絶対に許さない!」
その言葉とともに、ひとつの火球がこちらへ飛来する。それは自分の寝そべった身体の上を通り越していく。頭の向きを変えて飛んでいった方向を見ると、そこには意識が無いのか顔を伏せ、壁にもたれかかり座り込んだグリッツさんがいた。そのグリッツさんに、火球がぶつかる。そのサイズには見合わないほどの炎が広がり、グリッツさんの体を赤く包み込む。
――これはまるで、魔術で作った偽物ではない本物の炎のようじゃないか。
「許さない……許さない……!!」
樫羽がそう言っているのが聞こえ、そして、燃え盛る炎に向かって更に同じような火球が5つ飛ぶ。そしてまた5つ、炎が広がった。そして今度はグリッツさんだけでなく辺りに散らばっている服にも火がつき、煙が幽かに見える。間違いなく、これはただの熱だけではない炎そのものか、もしくは限りなく同じに近いものだ。このままでは火事が起きることも考えられるし、そんなものでグリッツさんが包まれているのだとしたら死んでしまう可能性だってある。
すぐに樫羽のほうを見る。遠目からだが、目を見開き全身から怒気を放った状態でこっち、というよりおそらくはグリッツさんの方を見ながら、周囲に現れる火球を放つ姿が目に入る。天木さんも必死な様子で樫羽に呼びかけているようだがそれでもなお止まらずに樫羽はグリッツさんに向けての攻撃を続けていた。怒りを露にしている様子と先ほどの言葉から察するに、なぜああなったのかはわかった。
とにかく妹を止めるために自分も彼女に声をかけようとすると、頭の中の囁きがまたも騒がしくなる。
――あの女を止めることも無い。天木さんに手を出したあの男を殺してくれているんだ、このまま寝ていればいい。
それを聞き、湧いたのは怒りだった。
「……ふざけんな……くそったれ……!」
ポツリと、毒づくように呟いてしまう。オレにとって樫羽はあの女などと言い切れるような軽い存在でもないし、ここにはグリッツさんを殺しに来たわけでもない。むしろ敵になったとは言え、グリッツさんとも三里さんともできれば戦いたくない。大事、と言ってしまっていいのかはわからないが、とにかく傷つけるという気にはなれない、どうにも憎みきれないことだけは確かなのだ。だから殺すなんてもってのほかで、生きていてもらう以外は考えられない。
そんな怒りを抱いてしまったからか。
「……樫羽……! それ以上は、やめろ!!」
呼びかけが、怒鳴るようなものになってしまう。胸の奥が少し苦しくなったが、妹の周りに浮かんでいた火球と、そして服などに引火して燃え盛っていた炎もやはり魔力で作られたものだからか煙だけを残してふっと消え、そして樫羽もハッとなにかに気づいたような顔をして、オレの方を見る。
「兄さん! よかった……」
「遠原さん……」
天木さんもなにやら安心したような顔をしているが、とにかく火は収まった。グリッツさんの方を見るも、どうも煙が晴れないままで彼の姿はよく見えない。だがそこから何かが出てくるような気配も無いので、もしかしたら気を失っているか、それとも――最悪の場合をイメージしそうになってしまったが、頭をぶんぶんと振ってそれを掻き消す。
だが出てこないというのなら、ひとまず天木さん達の方に行くとしよう。少しずつ身体も動くようになってきており、腕を使って上半身を起こした後にそのまま立ち上がる。そしてゆっくりと、小さい歩幅で、二人がいるところに向かって歩いていく。
歩きながら少し視線を上げると、天木さん達の後ろでは琉院と三里さんが戦っていた。どちらかと言えば殴る蹴ると力任せで乱暴なやり方をしていたオレとグリッツさんとは違い、二人の戦いは手や足で払うような動きが多く、そしてどこかちゃんとした技術があることを感じさせるような構えを大きく崩さないようにしながら戦っているみたいだ。
踏み込むと同時にさまざまな方向からチョップのように腕を振るったり掌底を突き出す琉院を、時に体を動かして避けたり琉院と同じように手を使って攻撃そのものを逸らしたりして三里さんはあしらっている。しかし反撃もできるはずなのに、三里さんはそれをしないまま受けにまわり続けているのは、どういうことなんだろう。
そう思いながら、もう一度天木さん達の方に視線をおろす。歩く速度は非常にゆっくりではあったが、二人の元につくまであと少しのところに近づいていた。頭の声が騒がしくなる。軽い頭痛もやってきて苦しさに悶えそうになったがそれを耐え、さっきよりも1テンポ近く遅れた速度でなお一歩ずつ、踏みしめながら歩く。
一歩進むごとに身体が揺れ、視界はブレる。一発が重い攻撃をすでに数回もらっているのだ、それは仕方ない。だがそれに加えて、今は例の囁き声の影響も考えられる。あれをはっきり自分でも認識できてから、やけに身体が重くなったような気がした。
それでも前に進むのは、ちゃんと二人の無事を確認したかったから。ここに来てからも遠目からしかまともに視界に入れることもできずにいたし、それに、どうせなら――今ここで、彼女に謝りたかったから。
そう思ってさらに一歩、先へと進んだ瞬間――囁きが、叫びに変わった。何か引っかいたような時にあるような特有の不快な音が大きくキーンと響き、二人のすぐ近くにきたというのに思わず耳を塞いで膝をつく。
「兄さん!?」
「遠原さん!」
耳を塞いでいても、少しだけ二人の声は聞こえた。だが肝心の頭の中の声にはまるで効果などなく、気分の悪くなるような音が鳴り続け、さらに声が聞こえはじめる。
――手を伸ばせ! すぐそこには、ぼくの悲願がある!
――伸ばせ! 掴め! 殺せ!
――殺せ! 殺せ! 殺せ!
(やかましい……!!)
まるで全方向から直接頭の中に叩き込まれてるような声の量に吐き気を感じながらも、内心でひっそりと毒を吐く。
オレではないお前がまるで自分の身体のようにオレの身体を使おうとするな。そして、天木さんを殺そうとなんてするんじゃない。この胸の内が聞こえているなら少しぐらい応えろよ、異世界の『遠原櫟』――ぼくとやらよ。
――手でもいい! 足でもいい! 何を使ってでも、天木さんを――!!
まるで聞いていないように声はさらに熱を帯びてきていて、より強く殺せ、と命じてくる。頭痛が強まり、頭をより大きく抱えた。返答はなかったがしかし、これはこれでまたある意味、オレに黙れと命じてきているようでもある。それはつまり、聞こえている可能性はあるということだ。ならばとオレは、口を開かないまま叫ぶように声を出したつもりで、ある言葉を思い描く。
黙っていろ。今はお前のくだらない欲望のためにこの身体を明け渡すなんて時じゃない。
お前が見ている天木さんだけじゃなくオレの妹が、樫羽が呼んでくれているんだ。兄さんと呼びかけてくれているんだ。
そしてまだ琉院と三里さんの間のことも解決していない。琉院はどう思うか知らないが、三里さんをこっちへ引き戻したいというのは、オレだって同じだ。言いたいこともあるし、手伝わなければいけない。
――知ったことか。 頭の中に響く声はそう言い切った。本当にこいつは天木さんだけしか目に入らない、盲目なやつだ。その想いの出所はオレも記憶を見たことから知っているし、少しだけわかるようなところはあった。だが今この場でも、どこだろうとそれを尊重なんてしてやらないし許容なんて絶対にしない。なぜかなんて、問う必要もないだろう。
目の前にいる少女を、守るためだ。『遠原櫟』のように救うなんて偉そうなことは言えないし、助けるというのもどこかその言葉と似通っていて、それに以前思っていた助けるというのもオレにはこの男をどうこうできるわけでもないのだから助けといえるほどのことはできるわけでもないのだ。繋がることができても結局は他人で、別の生を歩んできたのだからあいつはオレの言葉を聴くわけでもない。だからオレにできることといえば――あいつを助けたいという天木さんを守ることが、協力するというのではもっとも正解に近いんだと思う。彼女のことでできるのは、きっとそれぐらいなんだろうから。
「兄さん! 兄さん!!」
樫羽がより大きな声で、オレを呼んだ。心配なんだろうが、申し訳ないことにまだ言いたいことはある。たとえ答えなくても聞いているのならば、これは言っておきたい。
「死」なんてお前の思ってるような幻想的なものじゃねぇんだよ。そこをわかってから出直せ、このバカ。
――そんなはずがあるもんか。あの男の言葉は嘘じゃないはずだ。共に死ねば、永遠に一緒になれるんだろう?
『遠原櫟』の信じてきたものへの否定をしたからか、突然オレの考えてることに対して反応をしてきた。だけどもう、いいだろう。これ以上今のオレからこいつにできることなんて何もない。頭を抱えていた腕をゆっくりと元の位置に戻す。
「……兄さん? 大丈夫……ですよね?」
頭を抑えなくなったが一向に顔を上げないのでやはり心配になったのか、樫羽は不安そうにオレに呼びかけてくる。ここまで心配をかけてしまったとなると、後でどれだけ反動として怒られることになるのやらこっちまで不安になってくる。
「遠原さん……?」
天木さんもだいぶ心配してくれているようだ。この二人は長いこと不安な時間を過ごしていたはずなのに、それでもオレの心配をしてくれているのは、悪い気はしなかった。だけどこれ以上怯えさせることはあまりしたくない。
「……大丈夫、だ……心配いらない……」
強がりかもしれないが、それでもオレはそう言った。安心してほしいし、自分でももう大丈夫な気がしたから、意地を張ったとかいうつもりはない。二人とも信じてくれたのかふぅ、と安堵したような吐息の音が重なって聞こえる。実際は頭痛も続いているし頭の声は――
――天木さんを悪意から守るために、いつまでも二人でいるために彼女を殺せ! そして自分も死ぬんだ! そうやってぼくたちは、あの世界から自分たちを守るんだよ!
と、激しく喚いているようにしてオレに訴え続けている。だがそれも、いいかげん終わりにしたい。できるかどうかはわからない、というかそれで本当に終わるかどうかもわからないけど、それでもこいつを自分の中から追い出してしまえるならば、それでいい。追い出せなければ、それで終わりだ。ただ、乗っ取らせるということはしないようにするが……まぁ、ごちゃごちゃ考えるのは後でいいか。
「あの……遠原さん」
不意に、天木さんが声をかけてきた。
「……なにかな?」
「今回のことが終わったら、遠原さんと少し話したいことがありまして。それを約束してもいいですか?」
「……オレもあるよ、天木さんに話したい……というか、謝りたい事。むしろオレの方からお願いしたいくらいだ」
「なら、決まりですね」
ふふっ、と小さく笑ったような声が聞こえる。久しぶりに彼女が嬉しそうにしている気がして、自分の口元も少しだけ緩んだ。
「……やっぱり一つ、言わせてください」
ふと、天木さんが今度は何かを決意したように、重く堅苦しい雰囲気のある声で言った。
「私が話をしたいのは、遠原さんです。今、私の近くにいて、これまで助けてくれた遠原さんと私は話したいんです」
「? 天木さん?」
彼女はしきりにオレと話がしたい、ということを言い続ける。しかしなぜ彼女は今、そんなことを言うのだろうとオレが不思議に思っていると、天木さんは「だから」という前置きを一つする。
「――だから、貴方は遠原さんでいてください。いつもの遠原さんの雰囲気に戻ってください――櫟くんでなく、遠原さんと私は話したいんですから」
その言葉に驚いたオレは顔を上げて天木さんを見た。彼女はまっすぐに、毅然としてオレを見ていた。弱々しいとかそういう印象は無く、むしろ力強さをも感じる。しかし少女の雰囲気というのが無いわけではなく、今の天木さんには「真面目にがんばっている女の子」という印象をオレは抱いた。だけどそれが驚いた原因というわけではない。彼女はまさか、オレの中の異変に気づいているのだろうか。でなければ、突然オレがオレでいてほしいと言い出すだろうか。
……違うか、今考えるべきなのは。今も彼女は言っていたじゃないか、オレでいてほしい、と。それならば気付いている事を事に気付くよりも先に、自分が自分でいるために、あいつの意識のような何かを自分の中から消すことをするべきだ。
「……大丈夫だよ。オレはまだ、妹がいて、葉一や那須野や琉院みたいな友達がいて、別の人間と繋がれて、今の天木さんの近くにいる遠原櫟のままだ。むしろ、そう簡単に変わってなんてたまるか」
そのために頭を働かせるんじゃなく、頭そのものを動かす。できる限り軽口めいた言い方で、オレは天木さんにそう返した後で、自分の顔――というか、頭を上げる。視界にはライトが点いていないために暗い天井が入る。
その天井を見ながら、オレはいつもの自己複写をするつもりで意識を集中させる。だがしかし魔力が足りないためか繋がったような感覚が起きない――それでよかった。今のオレにとっては別に誰かと繋ぐなんてどうでもいいことだ。重要なのはオレと誰かの間をつなぐものではなく、その繋ぐものを繋げるための入り口だ。ケーブルの挿入口、コンセントの挿入口のようなものがあるならば、そこから意識をたたき出す。あるかどうか、できるかどうかもわからないが、入り込む場所があるならばそこから出すことだってできる、かもしれないのだ。
……かもしれない、と推測ばかりだが、他になにかできることが浮かぶわけでもない。だったら、やれるかもと思ったことからやる。それがオレのやり方だ。それに――たとえ相手が意識でも、散々イラつかされているのだ。せめて殴れるなら殴ってやりたい。
だからオレは、意識を集中させたままでそれをやる。今、ここに居ることを求められているのはオレであり、決してお前じゃない。だから――
「今は、お呼びじゃないんだよ!」
床に向けて自分の頭を思い切り、全力で叩きつけた。ぶつかった瞬間に視界が白く染まりかけ、頭の中が震えたような錯覚をする。プツン、と頭の中で自分の意識が切れそうな、ギリギリの状態。
それを耐えるために、拳を握る。力強く握り続けることを、頭に命じさせ続ける。
「っつ……! らぁぁぁぁぁ!!」
更に、床を叩く。叫びながら叩いた。息が苦しいというのを無視して、痛みがある腕を軽く上げて、床に握った拳をぶつける。そして、自分の乱れた呼吸音だけが聞こえはじめた。まるで意識が飛ぶようなキーンという痛みと耳鳴りのようなものが襲ってきて、そして次にはズキンという、重い頭痛へと変化する。その痛さは、これまでにもらったものよりもキツいものかもしれない。だけど頭の中は――スッキリとしていた。なにか混ざっているなんてまるで思えない、スッキリとした感覚を脳で直接感じる。
「……兄さん、今のは……」
「……二人とも、もうちょっと待っててくれ。次は、あの二人のところに行ってくるから」
「なっ……ちょっと兄さん! 今、思い切り頭を……!」
樫羽は狼狽して、その場で立ち上がろうとしたオレを止めようとする。樫羽からすればオレは、急に頭をたたきつけたことになるんだから、心配なのも当然だ。それ以外のことがあったのだとしても、分かるわけがない。だけど自分では大したケガを負っているような気がしなかった。
「大丈夫だ。すぐに終わらせるし、ちゃんと後で病院にも行くよ」
「後でではなく、今すぐ行ってください! 兄さんがこのまま……!」
「今すぐは無理だ。まだ……終わってないからな」
琉院達のほうを見ると、まだ二人は拳を合わせている。ただ、琉院のほうには疲労の色がはっきりと濃く見えた。
そう。今回オレが関わってることは、まだ終わってはいない。そしてオレはそれを終わらせるために、琉院達の方へと意識を向ける。
「兄さん! なんでわたしの言ってることを――!」
「……樫羽ちゃん、大丈夫です。遠原さんならきっと、大丈夫です」
「天木さん!?」
「今の遠原さんはちゃんといつものように何食わぬ顔で帰ってきてくれる、そんな遠原さんのはずです。なら私たちは、信じて待ちましょう?」
樫羽はそれにしぶしぶ了承したらしい不満げな声を出していたが、それ以上は何もいわなかった。後ろから聞こえたそんなやり取りに、フッと口元から軽い息が漏れる。信頼してくれているのだと思えば、まだまだ自分の身体は動くことを止めたりなどしないだろう。そんな自信を抱いて、オレは琉院達の方に向かった。