重なり始めた平行線(中)
――目の前で何が起こったか。それに対して、私は理解が遅れてしまっていたと思う。ようやくなにごとか把握できたのは一段落ついた後。
ここに入ってこようとした遠原さんが先ほどまで私達の近くで座り込んでいたはずの人の、勢いのついた蹴りで横に大きく吹き飛ばされた――そこまでを理解するのには何秒もかかったようなゆっくりとした感覚だったのに、それを全て把握したのは一瞬で、分かった瞬間には世界が一気に加速したようだった。
横に飛んでいった遠原さんを目で追う。床を滑るようにして、遠原さんが横になりながら地面に着く。
「……! と――」
そこでようやく、私は遠原さんの名前を呼ぼうとした。私の勝手な期待通りにここに来てくれたということに思った嬉しさも、大丈夫なのかどうかと心配に思った気持ちも混ざっている、よくわからない気持ちで遠原さんに対して声をかけようとした。
それが、途端に引っ込んでしまう。何故なのか、ということははっきりとわからない。ただ、声を発そうとした喉も、遠原さんのほうを向いていた身体も、そのどちらもが萎縮したようになってしまった。だけど、なぜなんでしょう。遠原さんが私のほうをチラと一瞬見た、それぐらいしか今の瞬間にあった行動はなかったはずなのに、緊張とは違う身体の強張りを感じてしまう。
原因を考えても、似たような感覚のことだけを思い出してしまう。だけど、それはここではありえないはずの事のはずです。なぜなら原因は、今この場にはいない彼なんですから。
遠原さんと櫟くんは違う存在で、遠原さんに対して恐怖を抱くなんてありえない――はず、なんですから。
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床に手をつけたままで思う。あそこで自己複写をしておいて正解だったと、頭の中を痛みがガンガン響いてる中では思わずにいられない。もしもしていなかったら――予測できるのは重傷、重体、即死と実に嫌なワードばかりだ。
その暗い考えを吹き飛ばそうと、先ほど上り切った階段から少しだけ見ることができた天木さんたちの方を見る。頼りになるような明かりはガラスから入ってくる外のものだけで、決して室内は明るいと言えないがそれでも、三人の姿を見ることはできた。手足が縛られていて、動くこともままならなそうな悲痛な姿は見ていて気持ちのよいものと考えられるはずもないが、それでもやっぱり、安心してしまうところはあった。生きて再会できたという事は、安心を得るのには十分なことだったということだ。樫羽はどうも気を失っているみたいだが、どうせなら目を覚ます前に片をつけてしまいたい。
そう思って力が抜けそうになってしまう身体を奮い立たせる。まだこの事態は解決したわけではないのだから、こんなところで安心しきってはいられない。ここまで来ておいて気が抜けて終わりなどとなれば、そんなのは死んでも死に切れないひどい結末だとしか言えないだろう。
今は――オレを蹴り飛ばしたあの大柄なやつをどうにかして気絶か、せめて行動不能にするのが先決だ。その男は今、俺にキックした後に動いていないのか入り口の近くに立ってこちらを見ている。
「……………………」
なぜか、顔全体は隠されていて目元もわからないのだが、ただジッと見つめられているかのような視線を受けている気がした。あの体格からして男なのだが、そんな風に見つめられても気色悪い気分を感じて仕方ないはずなのだが、そこまで嫌気というのを感じないのだ。自分にそっちのケがあるわけはないし、それにそういうのとは、何かが違う。ただ嫌じゃないということだけが分かる……多分初対面のはずなのに、なぜだか、自分の心へと踏み込まれてるような――そうやって考え込んでいると、ようやく男が動いた。
オレと、そして琉院が上ってきたはずの階段のほうを覗き込んだのだ。
「……! マズい……か……!?」
ここで倒れているオレと、そして無傷のはずの琉院だけが上ってきたはずの階段――それはつまり、今のあの男と琉院一人が非常に近い位置にいて、その間に壁となるようなものも無いということだ。琉院は詠唱要らずの上に使う魔術も強いが、もしかしたらあの男はこれまでよりも手こずる事になるかもしれない相手で、それに手の内もはっきりとわかっていない。そんな相手と一人で対峙させて大丈夫なのか。
すぐに自分もそっちへ行こうとするが、いかんせんこの10mほどの距離ですらをも走るには頭痛がひどい。もしもあの男が琉院を軽々沈められるようなら、間に合わない。
その悔しさに歯噛みしそうになった時。自分の考えていなかったような声が響いた。
「――待ってください……!」
どこかで聞いたことのあるような――しかしどこか聞きなれない、女の子の声。男が声のした方に顔だけを向けたのに釣られるように自分もそっちを見る。その視線の先では、天木さんも今の声の元であるらしい一人の少女を――顔を伏せた、三里亜貴を見ていた。
「その方には……手を出さないでくださいませんか……!」
男に対して、必死に手を出さないように三里さんは訴える。男は彼女のほうにその顔らしき部分を向け続ける。そして――なぜかすんなりと、階段の前から退いた。しかも両手を挙げて、はっきり手出ししない意思まで表す。
「なぜだ……?」
オレの口からポツリとそんな言葉が漏れる。それはあの異世界人嫌いの組織の連中が、こうして人質に取った三里さんの願いをあっさりと聞き入れるのは違和感以外の何も感じえないからだろう。階段のほうから恐る恐るという感じで中に入ってきた琉院もオレと同じようなことを思ったのか、男のほうを不可解そうに見る。しかし、手を上げたままで微動だにしない様子を見てとりあえず危険は無いと判断したのか琉院が三里さん達のほうに近づく。
「……申し訳ありません、お嬢様。そこからはこちらに近づかないまま聞いていただけますか?」
三里さんが、すぐ傍にまで寄ってきそうな琉院に対してそう呼びかけた。琉院はこれに対してもまた怪訝そうにしたが、三里さんの言ったことというのもあってかすんなりとその場に立ち止まった。
そして琉院が三里さんのことをしばし見つめている間の沈黙が訪れた後――主の少女が、声を発した。
「……亜貴……」
ほっとした息を吐くような、どこか安らぎのある声で琉院は一言、三里さんの名前を呼んだ。きっと彼女もオレと同じように自分にとって大切な人の安否を確認できたことで安心できたのだろう。その気持ちは、自分にもわかった。
名前を呼ばれたことで三里さんが面を上げる。その顔はここからでははっきりと確認できないが、しかしどこか複雑そうなもののように見えた。
「……お嬢様。なぜ、ここに来たのですか」
言葉だけで見れば、それは琉院を突き放しているのも同然だった。まるでここに助けに来たことを――来た事自体を責めているような口調で、三里さんは琉院と再会した一言目にそれを言ったのだ。少し勝手な気がして、自分の中でも軽い苛立ちが募る。
自分でもこれなのだから、直接言われた琉院はどうなのか。彼女のほうを見ると、驚くことに怒っている様子のない穏やかな顔そのもので、三里さんと向かい合っている。
「もちろん、亜貴を助けに。そんなのは当たり前でしょう?」
「そう……ですか。お嬢様をこのような場所に来させてしまうとは、ワタシは従者失格ですね」
「……それを言うならばわたくしも、主としては至らないところが多々ありましたわ。でも亜貴、あなたは――」
「それ以上の無礼を働いてしまうこと――許されるとは思いませんが、この場ではどうか受け入れていただけたなら幸いです」
三里さんの手足を縛っていた筈の縄が、スルリと床に落ちた。
「なっ……」
琉院と天木さん、そしてきっとオレも同じような顔になったことだろう。明らかに何か細工をしたというわけでもなければ強引なところもなく、ただ自然に三里さんの手足を縛っていた縄が外れ、すっくと立ち上がる。その光景に理解が置いていかれているようなただ驚いた顔を、三者同様に。
そして三里さんは、琉院に対して広げた掌を向けた。
「――――――――」
三里さんの口が動いていることだけは、なんとか見えた。何を言っているのかまでは聞き取れなかったのだが、しかしオレはその内容をすぐに理解することになる。
なぜならその早回しのように動いていた口が閉じた後の掌には自分にとってもよくよく見知った、下級魔術程の大きさをした、炎の球が生まれていたのだから。
その腕の向いた先には、呆然としているような琉院が居た。
「――本当に、申し訳ございません」
赤く燃え盛る火球が、琉院に放たれる。それは遅くもないが、別段高速であるということもない。しかし――目の前が見えていない、意識が取り残されているような状態の今の琉院には速度も何も関係ないだろう。このままでは直撃は免れない。自分が動いて間に合うわけもないが、できることもないというわけではない。
「琉院! 目を覚ませ!!」
自分に出せる全力で、琉院に怒鳴るようにして呼びかける。
「――!」
その叫びが功を奏したのか、それとも琉院の感覚がすぐそこに迫った危険に対して反射的に応じたのか。彼女の目の前で炎が弾けるように消えた。かなりの近い位置ではあったが、琉院が障壁のようなものを張ったらしい。どうやら、直撃はかろうじて避けられたようだ。
琉院がまだ、わからないというような顔をして三里さんの方を見る。
「……亜貴……貴女は……!」
「……流石ですね。あれを防ぐとは、本当に素晴らしい方です」
三里さんの顔が、この事件の前までのような無表情なものに戻っていた。感情の隠れた仮面そのもののような、しかし綺麗な少女の顔。琉院はそれに向けて、怒りを帯びた叫びを返す。
「亜貴! わたくしが聞きたいのはそんな言葉では無く、なぜ貴女が先ほどのようなことをしたかですわ! はっきりと説明なさい!」
琉院の声が、部屋中に響き渡る。まさかあの三里さんが、琉院に対してこうも簡単に魔術を放ち、あまつさえ反抗的な態度を取るなんて。それは考えていなかった――考えられなかったことだ。オレもその理由は知りたかった。眉一つ動かさないで、三里さんは琉院に答える。
「それは……ワタシのやろうとしている事は、今槙波様に出てこられては困るものだからです。だから、今すぐ帰っていただけるならば幸いなのです」
「……やろうとしている事……困る……? 亜貴、それはなにをしようと……!?」
「詳細を話すわけには。ただ――」
三里さんがオレの方を見た。やはり表情は見慣れた、微動だにしないもののままで彼女は続ける。
「遠原さま。ワタシは、あなたにも謝って済むとは思えないようなことをしてしまいました。申し訳ありません」
「……琉院のことは任せる、ってやつですか? それなら――」
三里さんが首を横に振った。
「それだけではありません。あなたの妹君に、友人と思しき方。この二人をこうして巻き込んでしまったのです。ただでさえ押し付けたものがあるのにそんな方々の身を危険な目に遭わせるなどという不義理、罵られようが蔑まれようが、なんとも返せない最低の行為に他なりません」
「巻き込んだ、って……でも、これは事故みたいなもんじゃ」
「たとえ今回のことが偶発的であっても。ワタシは、責められる側の立場の人間です」
「……だから、さっきからどういうことなんですか? さっぱりわからないですよ」
三里さんははっきりと説明しないままに、自分は許されないと言い続けている。確かに過剰な心配をかけたわけではあるだろうから色んな人から怒られはするだろうけど、しかしそれでもそうこだわる必要はあるものか。ますます、不可解になってきてしまった。
「……口で説明するより実際にどういうことか、見せたほうが早いでしょうね」
「実際に見せる……? 亜貴、あなた本当にさっきから何を言っているのかわかりませんわよ……?」
「――そこの方。その場から遠原様の近くで待っていてくださいませんか?」
「……え?」
三里さんは突然、ある方向に向かって呼びかけた。琉院やオレ、そして天木さんや気を失っている樫羽に向けたものでは無いと、その目が見ている方向からわかる。
そこに居るのは、彼女達を捕らえ、利用しようとした「True World」に属する黒い大男だけしかいない。普通なら、人質であったはずの三里さんの言うことなど聞くはずもない人物だ。
その男が、三里さんの言った「オレに近付け」という指示のようなものに反抗する様子もなく従った。ゆっくりと、こっちに向けて歩いてくる。オレと琉院はそれに対して驚かずにはいられなかっただろう。
「ど……どうして、あの男が亜貴の言うことを……!?」
「槙波様。その理由に大して意味はありません。ですが、理解していただけますか? ――ワタシとあの方は、協力関係にあるということを」
「協力ですって……? 亜貴と『True World』が!?」
「正確には組織と協力しているわけではなく、そちらの方とだけですが。まぁそのように捉えていただけるならば、幸いでしょうか」
「……それのどこが幸いだよ……!」
オレは苦虫を噛み潰したような気分でそう呻く。なぜなら三里さんが言ったことを正直に受け止めるならばそれはつまり――彼女は捕まった側でなく、捕まえた側の人間ということになるのだから。
「……亜貴……貴方、勝手にわたくしの元を離れたと思えばそんな付き合いまでしているなんて……! これは少し、お灸どころではすみませんわよ!」
琉院の周囲に、火球が大量に現れて浮遊し始める。怒りながらなお手を使わずに大量の魔術を安定させるという一般生徒を凌駕しているような技量を密かに発揮させる琉院に対しても、三里さんはまるで表情を変えない。魔術をかじっている人間ならば普通、あれほどの物を見せられて一切引きもしないのは余程の度胸がいるはずだ。三里さんは琉院のことをよく見知ってはいるだろうが、しかしそれでも、自分に剣先を向けられていても動じないというのは少し妙だ。
考えられるとすれば、何か対策があるのかもしれない。そんなオレの思考に対して答えを見せるかのように、三里さんが先ほど魔術を放った手とは違うほうの手を琉院に向けた。しかしその手でなにか魔術らしきものを使っている様子もなければ、障壁を張っているというわけでもない。まさか、ただ腕を上げただけというのはこの状況ではありえないはずだ。
「……今更降参しても、お仕置きはしますわよ?」
琉院は勝ちを確信している余裕からか、三里さんの行動を降伏と予想したらしい。しかし、あれだけ堂々と自分を敵だと言っておいてすぐに降参というのは、いささか納得しづらい話だ。
「余裕がありますね、槙波様」
「当然。貴方と護身術の訓練をして完全に勝てたことはありませんが、それでも魔術があればその微妙な力の差を完全に、歴然としたものにできますもの。別に魔術の使用を制限されているわけでもないこの状況、貴方に勝ち目があると思って?」
「では、私に完全に勝てないというその状況にすればいいわけですね」
三里さんが事も無げにそう言うと、琉院に向けた手にある指の一本が妙な輝きを放ち始めた。
「……なんですって?」
「『今この時より、不浄たる魔の力を祓わん 白銀の輝きを以て、この地を清廉なる場へと浄化す』」
「! まさかこれは……魔術詠唱……!?」
突然、詩めいた言葉を三里さんはスラスラと読み上げる。琉院はその光になんらかの危険を感じたのか、周囲にあったいくつもの火が揺らぐ。しかしすぐに立ち直ったのか、三里さんに向けて琉院が腕を振るうと、周囲に浮く数十もの火が振るわれた方向に飛来していく。
そして三里さんに当たる直前、紙一重のところにまで炎が飛んでいった時。
先ほどから輝きを放っていた三里さんの指から銀色の光が拡散するように、この空間を満たした。薄暗い場所に慣れてきていたところには眩しすぎるその輝きに顔を伏せ、目を閉じてしまう。
やがてゆっくりと、光が収まってきているような気がして瞼を少しずつ開いてゆく。薄っすらと開けた視界には、強い光など入ってこなかった。それを確認してから目を思い切り見開く。すでに銀の輝きは消え、元の薄暗い空間へと戻っているらしい。
「そうだ、琉院は……」
伏せていた顔を上げて、再度琉院と三里さんのいる方向を見る。三里さんは傷一つ無い姿で先ほど琉院に向けていた手をすでに下げており、更には指からの妙な光もすでに消えていた。琉院もどうやら無傷なようで、オレと同じように銀の輝きから目を守ろうとしたのか顔を腕で覆って光を防いでいる様な姿勢だった。ゆっくりとその腕を下ろし、彼女もまた目の前の状況を見る。
「……なるほど。どういうことかはわかりませんがどうにかして全て防いだみたいね、亜貴。でも……今度は先ほどのようなことをさせる暇なんて与えませんわよ!」
琉院はそう言って腕を振る。確かにさっきの輝きが琉院の放った炎すべてをどうにかして防いだ、あるいは消したというのならそれはすごい事だが、しかし一々あの詠唱のようなワンアクションを仕込まなければならないなら琉院の速度とはとても対抗できないだろう。これは最早、三里さんに別の切り札がなければ彼女は詰みも同然という状況。
そう思えたのだが――琉院が先ほど火の玉を放ったように腕を振っても、周囲にはなにも生まれた様子が無い。
「……こ、これは一体どういうこと……!?」
琉院はその事に気づくとうろたえて周囲を見る。薄い闇になにかが隠れている、という様子でもなく、本当に何もないらしい。まさか、琉院がなにか失敗したのだろうか。琉院は動揺を隠さないまま、今度は安定のしやすい掌中に魔力を集めようとしているが、しかしそれでも、微かな炎さえ生まれない。
「無駄ですよ、槙波様」
三里さんが動く。突然のことに動揺しきっている琉院の足を軽く引っ掛けて、容易く前に転ばせる。意識が掌に向かっていたのか、琉院は床に顔がぶつかるギリギリまでほとんど動けなかったが、重力にしたがって叩きつけられる前になんとか手を床につけて衝突を阻止する。だが、三里さんが今度は倒れた琉院の背中に跨り、右腕に自身の腕を絡ませると、琉院の右腕を締め付けるように力を入れた。
「たとえ魔術を使おうとしようが、今のこの場には魔力なんてものは塵一つほども残ってませんから。抵抗は、できません」
「あっ……ぐぅ……亜貴……!」
「申し訳ありません、このようなことをして。ですが槙波様、今帰っていただけるならワタシもこうするのをやめます。聞き入れてはくれませんか?」
「……嫌、だと……言えば……!?」
琉院が絞り出すような声でそう言うと、ふと、三里さんが悲しげな顔になったように思えた。しかしそれは見間違いか錯覚を疑うような一瞬だけであり、はっきりそうだと認識できたのは無表情で無慈悲な雰囲気だけだ。そして三里さんがそうなった瞬間に、琉院のうめき声がより大きくなる。
「あぐぁ……!」
「――聞き入れていただけないのなら、片方の腕はしばらく使えなくなるかもしれませんね」
淡々とした喋りで、三里さんは琉院に対してそう言った。実際に肘を極められている琉院も似たようなことを思っているだろうが、オレもこの光景は信じられなかった。オレの中では琉院のために行動していて、琉院を大事にしているというのが、三里亜貴に対して抱いていた印象だ。しかし目の前の光景では、明らかにその琉院に対して彼女は反抗をしている。
「……なにやってんですか、三里さん!!」
そんな違和感をはっきりと持ったからか、オレはそうするつもりで言ったわけでもないのに三里さんに怒鳴ってしまう。しかし彼女はそれに対して表情一つ変えないままでこちらを見た。
「遠原さま。ワタシとしては、あなたさまにもこの場を立ち去っていただければ幸いなのですが、聞き入れていただけますか?」
「……いろんな人に協力してもらってまでここに来たってのに、ただそう言われてわかりましたで帰るわけがないでしょう」
ここまで来るのには琉院の家の人物に協力してもらったし、それにこの下の階では友人達が体を張っている。至れり尽くせりという言葉が似合うほどに色々なことをしてもらっているのに、それですげすげ帰れるわけがない。
だが、次に三里さんの言った事は――
「――天木さまに樫羽さま、この二人はお返ししますけど、それでもですか?」
「!」
――オレの心を、大きく揺らしてきた。
「なにせ本来ならば今回のことに必要なのは、ワタシだけのはずだったんです。だけど予定外で巻き込んでしまったお二方を、最後まで付き合わせるわけにもいきませんので」
三里さんはそう説明して、更にオレを揺さぶる。ここで帰るならば助けようと思っていた三人のうち二人を、数字にすれば3分の2をすぐに連れて帰れると彼女は言ったのだ。それも自分にとっては最も近しい人物と、それの次に近しい人物。もしもオレが自分の身近な人物のためだけにここに来たのなら、その要求を呑むということも考えたのかもしれない。二人とも倒れているという危機的状況だったなら、折れてしまっていたかもしれない。
しかし――
「……それじゃあ、琉院も来た意味が無い……!」
そうだ。オレと同じように琉院にとって、あの映像の中で助けに行こうと思っていた身近な人物は三里亜貴で、もしも彼女が仮に優先順位をつけるならば三里さんがもっとも重要になるに決まっているのだ。もしここで自分が三里さんの言ったことを聞き入れたらその琉院が報われないし、それでは琉院が立ち直れなくなる。更に言うなら、三里さん一人助けられなければ、一つ条件を満たせなければ、今回の事は一つも解決なんてしない。最初に決めた、三人全員助けるというのを破ってしまう。
そんな風に理由を並べ立てるのなら色々とあるのだが、一番大きいのはやはりあれだろう。
まだ琉院が諦めていないのだから、オレが先に諦めるなんてのは下で頑張るオレの友人と同じようなことを言わせてもらえば、格好がつかないのだ。
だからオレは、三里さんの方を思い切り睨んで答える。
「三里さんも連れていくまで……オレは、帰りませんからね……!」
「……そうですか」
それはまるで失望したかのような落胆を隠さない落ち込んだ声だ。これまでは期待を裏切らないようにがんばっていたつもりだったが、とうとうそれを裏切ってしまったらしい。しかしこの場合では仕方のないことだ、三里さんもそのままでいることはなくすぐに平然とする。
「それでは、遠原さまにもどうにか気を失っていただくことにするしかないですね。一応お二人はどうなろうとお返しいたしますので安心してください」
「それは、ありがたい話ですね。もっともそれで気を抜くわけにもいきませんけど」
「……そういう人でしょうね、遠原さまは。では――」
三里さんが俺の少し横に視線をずらして、横にいる黒い大男のほうを見る。
その時の三里さんはこれまで見てきた中で一番感情の無い、非情な顔をしていた。
「――遠原さまの方は、頼みました」
「――――!」
三里さんが命じた瞬間に横の男から、汗が噴出しそうになるほどの威圧感がやってくる。このまま寝転がっているのはまずいと身体中をバネのようにして跳ね起きながら距離をとる。
起きながらではあまり距離は取れなかったが、しかしそれでもなんとか危機は脱せたようだ。大男を見れば、さっきまでオレが転がっていたあたりの床スレスレで拳を止めていたのだから。あと少し遅れていたらどうなっていたのか。少なくともさっきのキックを味わった限り、プレス機械に潰されるような痛みを味わうことになったかもしれない。
「…………」
ゆっくりとその男は顔を上げてこっちを見る。顔を黒い覆面で隠しているからか、凄まじい威圧感を覚えてしまう。それに入室一番にもらった蹴りのパワーは、二度と受けたくないぐらいのものだ。更に三里さんがさっき琉院に言ってたこの場に魔力が残っていないという言葉――あれをこの部屋全体と捉えるなら、オレも魔術を使えないということになる。幸い階段でしておいた自己複写の効果は残っているようだが、しかし今の自分なら使えるかと思った一か八かの手も魔力がなければ使えない。今のこの男は戦わずに済むなら出来る限り戦うのは避けておきたい相手だ。逃げ回ろうにも、自己複写は時間制限つきだ。
「……腹を決めるしかないか」
魔術無しでこの男をさっさと沈める。それは難しいかもしれないが、やるしかないだろう。呼吸を整えて、拳を握る。その一連の動きがなぜか不思議としっくりきたが、その事に感嘆していられる場合でもない。
「てりゃあッ!」
右腕を振りかぶって、互いの腕が届く距離に踏み込む。前から空気を貫くような音を伴って、握り拳が弾丸のように飛んでくる。普段だったら目視することもできないだろう全力で高速の一発を、上半身を思い切り捻って避ける。相手の男がそれでたじろいだ様に微かに身を揺らすが、構うことなく右の拳を相手の胸に全力でぶつける。踏み込んで、かわして、半身の捻りもくわわった全力の拳打は、恐ろしいほどすんなりと決まった。胸板は服越しにも相当堅かったが、しかし微かに呻き声を漏らして大男が後ろに少しだけ下がる。
どうやらオレは幸運にも今の状況にぴったりの人物を自己複写したようだった。あの拳を避けられたのも、自分の一撃が通ったのも、それはきっと格闘技を使っているらしい『遠原櫟』の能力を写したからだろう。そうでなければすでにやられていると考えていい。元々は頑丈な体ということで一番条件に合致していたから選んだ写し先で、琉院の壁にでもなれればということで選んだのだが、なかなかどうして素手での戦い、それも一対一ならばこの身体はかなりの相性を発揮するらしい。さっき息を整えるのがやけにしっくりきたのは、この能力の本来の持ち主の感覚だろうか。
内心で今の流れの理由をそうまとめる。正直をいえば自分でも想定していなかったので、避けた時も殴った時も驚いてしまっていた。だがこれならば、まだまともに勝ちを得られる可能性がある。
「……いくぞっ!」
勝利を期待できるということがわかって気分が高揚したからか、思わず自分からそんなことを口走ってしまう。だが構うものか、それこそ速攻で終わらせてしまえればそんなことは関係ないともう一度相手と殴り合える距離内に入る。
今度は重い一発だけでなくできる限り手数を多めにして攻めようと構えたままでの踏み込み。大男もさっきので比較的大振りな攻撃はしないことにしたのか向こうも両腕を自由にしている。距離が互いに攻撃の届くものになっても、その開始は先ほどのものと比べれば一瞬だけ遅いものになった。
まずはこっちからまっすぐな軽い拳打を試しに打ってみれば、それは太く硬い腕がすぐに受け止めて、しかも払われてしまう。木を殴ったような感触は攻撃が通ったと考えられるはずもなく、むしろ片方の腕が払われたことで軽く体勢が崩れてしまい、自分の体を守るものは大男のそれとは比較できないもう片方の腕だけだ。その隙を見逃されるはずもなく、向こうももう片方の拳を飛ばしてくる。それは様子見の軽いものなどではなく、全力で仕留めに来てる一撃だ。崩れた体勢では直接避けることなどできずに、思わず腕を盾のように立てて向かってくるものの前に出す。
衝撃はそう遠くなく訪れた。腕にかかるのは押し潰そうとしてくる、あまりにも攻撃的な重量の衝撃。盾のように前に出しても防ぎきれるはずもなく、腕を押し出して拳は体に届く。ただでさえ腕に響いた衝撃が、今度は胸から全身に回った。崩れた体勢では耐えることもできずにまたも地面に転がった。しかし先ほどのような不意打ちではないためか、体はすぐに言うことを聞いて立ち上がる。
だが相手は一撃入ったからか攻め続けるべく懐にやって来た。次をもらうわけにはいかないと、避ける事を全力で意識して動く。相手が大柄なことから生まれる体格差も働いてか、冷静になれば何とかその攻撃を避ける事はできた。
しかし動き続けるとなると、今度は別にある問題が出てきた。床に散らばった服などが、足の動きをたまに阻害するのだ。
大きく体勢が崩れるとかそういうことはないが、しかし避けることに集中していると足元に時折引っかかるこれは中々厄介で、紙一重になることが多々あった。さらに相手の攻撃が避け続けている内に気づけばフェイント交じりのものになっていた。それも数回ほどなら避けることはできたのだが、しかし疲労は確実に増える。ただ避けるだけでなくそれが来るかどうかということを考えさせられるようになるのは予想以上の疲労で、それゆえに目先ばかりに意識がいってしまい足元を掬われてしまった。地に落ちた服がやけに固まって溜まっている場所に、オレは自らの細く切れそうだった糸のような生命線を差し出してしまったらしい。
がくん、と身体が後ろに傾く。
「…………!」
その隙を見逃さない、そう言わんとばかりに大男は腕を振りかぶって踏み込んでくる。どうやら全力も全力、勢いまで加えた一撃を食らわせるつもりのようだ。これをもらったなら、自分はおそらく意識ごと吹っ飛んでしまうだろう。どうにかできないかと自らの頭を必死に働かせ、身体を動かす。そうしている間にも大男は飛びこんでくる。男がさらに腕を引き絞り、最早避けるのは難しいかと諦めそうになった――そんな時に、両手が床に触れた。
ブリッジをするようにして、オレはなんとかそこに倒れるまえに着地のようなものをする。しかしこれでは両手両足が封じられているのと同じだ。少し顔を男に向ければすぐそこで拳を放とうとしているやつがいる。万事休すかと思ったその時に、ある一つの考えが浮かぶ。成功するかはわからないが、それでもこのままやられるよりはましだ。
「一か八かだ……!」
そう口に出すことで、オレは自分のやろうとしていることに挑戦する勇気を得て――腕に、思い切り力を入れた。立ち上がるためではない。そもそもそんなことをしていてはその前に殴られて終わりだ。これは立ち上がるためでなく、軸の代理のようなものだ。ほぼ垂直な腕で床を押すと、男のほうに少しだけ自分の体が近付いた。
「……!?」
目を見張ったような、そんな頭の動きを男がしたように見えた。攻撃を仕掛けられていて近づくのは、想定していなかったのだろう。それにオレが片足をわずかながらにも振りかぶっているからというのもあるのだろう。振りかぶった足は地に着いておらず、片足だけで支えるのは当然のように苦しい。だが腕が地面を押すことで少しでも近付けた、ならば次にやるべきなのは――
「と……りゃぁ!」
――相手よりも先に、攻撃することだ。
全身を捻る勢いで振りかぶった片方の脚を振る。狙いは腕よりも前に出ている頭だ。こんな不完全な状態ではあまり威力もないかもしれないが、それでも相手の全力をどうにかして避けるにはこれしかもはや手はない。ただ頭部はデリケートだ、下手なところに当てればそれだけで致命傷になる可能性もある。当たることと、それでも死なないことを祈りながら振るった足先には、骨を砕いたりしたような重すぎる感触というものはなかった。
そもそも何かを蹴ったような感触というものを、感じられなかった。
「くそっ、外れか!」
命中しなかったことにそう愚痴りながら、全身を捻って放った薙ぐような蹴りが床に当たり、ドンというかたい音を立てる。そのぶつかった勢いでオレは蹴りを放った足を軸にして回るように立ち上がり、大男のほうを見た。どうやら攻撃を加えるよりも後ろに下がって頭への一撃を回避することを選んだようで、距離が少しだけ開けているところでしゃがみこんでいた。だがオレは、それ以外のある部分が気になった。
あの黒い覆面が、無くなっている。オレはもしやと思い先ほどの蹴りを放った足の先を見ると、やはり予想はあたっており、黒い布切れのようなものがまとわりついていた。どうやら避けたとはいっても布一重程度にはギリギリのことだったようだ。これならば――そう思い、大男のほうをもう一度見た。
「……ん?」
もう一度視界に大男を捉えると、なにやら既視感のようなものを覚える。しかしオレの知り合いで、この組織とかかわるような人間は居ただろうか。覆面から露わになったくすんだ金色のような短髪で、こんな大柄で、黒い格好をしていて、それでいて――
「……ったく、もう少し楽な相手かと思ったんだがなぁ……坊主は」
こんな朗らかでそれなりの年を経てきているような声の人物が――目の前には居た。既視感を持ったのは、間違いではなかった。確かにオレも会ったことがあるし、それに、少しでも信頼していた人物でもある。だが――ここにいることが、そのような格好をしていることが、今の三里さんに協力していることが、信じられない人物でもあった。
「……なんでここにいるんだよ」
思わずそう口から漏れる。その声が聞こえたのか、その大男はこちらを見る。壮年で少し皺がある顔をしており、酒をかっくらって笑ってるのが似合っていたそれが、今は冷酷に鋭くなった目を向けてきている。
「なんでって、そりゃ坊主……ここまで来たならもう分かるだろう?」
そう言って大男は立ち上がり、肩をぐるりと回してオレの方を見る。威圧感を身体中から噴出して見据えてくるその人物は、一昨日に会って以来の、酒を好んでいた聖職者。
グリッツ・ベルツェだった。