雨の日の終わり(前)
夕食の後で樫羽は、宿題があると言って二階の自分の部屋へと上がって行った。普段と何一つ変わらない自然な態度だったが、多分自分がいると天木さんがオレに相談し辛いだろうから、と気を回してくれたんだろう。食器を洗うのは手伝ってほしかったが、さきほどの暴走行為での負い目で少々頼みづらかったので、諦めてこうして一人寂しく皿を洗っていた。
天木さんには居間の方で待ってもらっている。お客さんなのに「手伝います」なんて言い出しそうだったから、その辺に転がっていた新聞を読ませているのだが……今となっては失敗だったかもしれない。どう読むのか必死に考えているように、一つの部分をすごく集中して読んでいるみたいだ。そのおかげでこの部屋に他の人なんていないような空気が醸し出されている。そのため特に話すこともなく、ただ黙々と作業が続く。
今この部屋では、食器を洗う音とたまに聞こえる新聞をめくる音しか聞こえない。それが相手の存在を主張しているというような風に思えて、何も話さずにいるのがとてもきまずい。せめてこれが言葉を重ねずに理解し合えるような関係というようなものだったら歓迎なんだが……あいにく、オレと天木さんにそんな関係性はまだ積み重ねられてすらいない。
……しょうがない、こっちから話しかけてみよう。まずは、この重苦しい空気からの脱出が先決だ!
「ねぇ天木さん。それ、面白い?」
「……はい、参考になります」
よかった、答えてはくれるみたいだ。これで何も返ってこなかったら嫌われてるのかと思うところだった。
「へぇ、そうなんだ。よかったね」
「はい……」
「…………」
「…………」
なんか返して! 天木さんお願いもっと言葉のコミュニケーションとって! 洗い物してるのに、手じゃなくて心があかぎれしちゃう! と、表向きは平然とした顔をしつつ心の中で叫ぶ。あまり自分はこういった空気は得意じゃないらしい。今日の夜からでも自分で振れる話題を多く考えておこう。
「………それにしても、樫羽さんはいい妹さんですね。少し、遠原さんとちゃんと血が繋がってるのか怪しく思っちゃいました」
オレの中にある話のタネを思い返しながら悶々としていると、天木さんから助け舟のように、新しい話題が出された。しかしその話は……ちょっと気乗りしない。が、これに乗らねばあの空気に戻ると考えると、話題の好き嫌いをする気も無くなる。なので深いところまで話さないようにすればいいだろうということで、少しだけ話してみることにした。
「まぁ、樫羽のことは長年ちゃんとしつけてきたからね。父さんもそういった事はあまりしようとしなかったみたいだし……大変だったよ」
多分、当たり障りのないであろう答えを返す。そう答えながら思い返すと、本当に大変な日々だった気がする。三年前のあの日までの長い永い時間。それは一日一日がすぐに過ぎていった、本当に激流のような毎日だった。そんな苦労も思い出すと、少しだけ笑いそうになる。過ぎてしまえば、何事も思い出だ。
「でも遠原さんは、ちゃんとしたしつけをされているようには見えませんね」
「……それ、ちょっとひどくない?」
ふふ、と天木さんが軽く笑っている声が聞こえる。冗談だったのだろうか。まぁ、ちゃんと育てられてないのも事実だからいいとしよう。
それにしても樫羽が部屋に行ってから、なんだか天木さんの緊張している感じがなくなったように思える。いいことだとは思うんだが、もしや樫羽に何か原因があったりするのだろうか? ……後でちょっと本人に聞いてみるか。
++++++++++++++++++++
食器洗いを終え、ようやく天木さんから話を聞いてあげられそうになった。新聞を片付けた天木さんの向かいのソファーに座り、息を落ち着けるために深呼吸をする。
「それじゃあ天木さん。ちょっと遅れちゃったけど、どういった事情か……聞いてもいいかな?」
「……はい」
天木さんも一度頭の中を落ち着かせるためにか、しばし無言になる。やがてどう説明をするかがまとまったのか、天木さんが口を開く。
「遠原さん、私は――追われているんです。ある男の人に」
「………………」
そう言った瞬間、天木さんの表情がまた曇る。しかしその表情の重さとは裏腹に、その口からは彼女のこれまでを語る言葉が次々と、それまでどこかに溜められていたかのように一気に噴出していた。
「……私はそれまで、あの人からそんなことを考えられないほど仲良くしてきたんです。まだ歳を両手で数えられるようなころから……ずっと。ずっと、ずっと一緒にいたんです。あの人がどんなにも優しい人か知っていたし、ケンカをするようなことも無かったんです。それなのに、最後に見たときの彼は何かを見失ったように私にナイフを向けて……あの日は、久しぶりにあの人に会えると思って楽しみにしていたのに…!」
「最初は何かの間違いか、冗談のつもりかと思ってました……! でもあの人は何も言わず、私にいきなり切りつけてきました。そこから先はただただ、彼のことを恐ろしいものとしてしか見ることが出来ないんです……! 逃げて、逃げて、逃げて逃げて……! そしてその度に彼は追いかけてきて!! 自分がここにいることを教えるように私が逃げる先に……切り刻んだ動物の死体を……!」
「それを何度も繰り返していく内に、どこまで逃げても無駄で、きっといつか彼が私に辿りついてしまうだろうと思いました……今でも彼が私を追ってきているのではないか、すぐ近くで見ているんじゃないかと不安です。怖いです、恐ろしいです! でも、絶対にあの人にはそんなことをされたく……殺されたくなかったんです!! だから……私は……」
天木さんは一言一言を震えた声で発し、そして語調をどんどん強くしていく。そして言葉を続ければ続けるほど、彼女は自分の心の傷に強く乱暴に触れて、痛みを感じているのだと、体が震えだしているところから分かる。その内に涙が、天木さんの目から流れ落ちた。過去の記憶が刃となって自分を切り、涙を血のように流すその姿は、まるで自分を傷つけているかのようで……見ていられなかった。
「それで、私は!!」
「天木さん!」
その様子をただ見ていることが、できなかった。考えるより先に天木さんがその自傷行為を続けようとするのを遮るために彼女の名前を叫ぶ。天木さんはそれでビクッと小さく身を震わせ、しゃべるのをやめた。オレは言葉を続ける。
「……もう、やめなよ。何をそんなに悩んで、悔やんでいるのかはわからないけど……だからって、天木さんが自分を傷つける事はない」
話を聞いていても、彼女が悪いところはひとつも無いように思えた。なのに、なぜ彼女はこうも泣き、自分を傷つけようとするのか。オレには、それがわからない。
「……遠原……さん。私は……自分を傷つけてなんか……」
天木さんは自分の行為を認めようとしないで、そんなことを言う。なぜだか、それが無性にイラついた。
「いないって? それはないよ。じゃあ、なんで最初に自分とその追ってくる男とのそんな過去を言ったりしたのさ。そんなことをしても、昔を思い出して余計に悲しくなるだけだ」
今度はオレの語調が強くなってしまう。傍から見ればそうとしか見えない自分の行動を否定するのは卑怯で、ズルいと感じたから。
でも、きっと彼女が話した過去は、オレには分からない彼女のこと。その男と歩んできた人生で、彼女が積み重ねてきたものなのだろう。今日会ったばかりの自分には、決して全て見通せないような、そんな高く、巨大な積み重ね。
「……違うんです、遠原さん。そういうことでは」
「ごめん、こんなこと言って。でも天木さん。そんな風になるのなら、これ以上事情を聞こうなんて思えないよ。それに……これ以上そいつのことは思い出さない方がいい」
だからオレは――彼女が積み重ねてきたものを崩そうとした。数年か、それとも十数年か。長い間彼女が積み上げ、そして、彼女の中に残せばきっとこれから先も長い間、彼女を苦しめるであろうものを封じようとした。
しかし、天木さんは考える時間も無しに、ただ一言――
「……忘れることなんて、できません……!」
限界まで絞られているような苦しい声で、そう漏らした。天木さんの思い出を無かった事にしようとしても、オレにはできなかった。きっと、それで苦しむはずの彼女が許さなかったのだ。
オレはどうすればいいのか――それが浮かばないまま、彼女に聞く。
「……こっちも強制するわけじゃないけど……それで、君は本当に大丈夫なの?」
「遠原さん……私が最初にあの人とのことを言ったのは、ほとんど無意識でした。でも……遠原さんの言葉を聞いて、なぜそんな事を言ったのか分かった気がします」
「……それは、どういう?」
彼女はそれまでの口調よりも軽く、口元を歪め、自嘲するように言う。
「要するに諦めが悪かったんです、私。逃げていたのに、あの頃の彼を取り戻すって心のどこかで考えていたみたいで……だから、私が覚えているあの人の姿を忘れないために。私がいつか取り戻そうとしているものを忘れないために……その想いが、彼を思い出させていたんだと、今分かりました」
「天木さん……」
「おかしいですよね。逃げている人間が、追っている人を恐がっているのに助けたいなんて。そんなバカみたいな矛盾を抱えて逃げ回っていたって、なにも変わらないのに――」
「……おかしな事なんて、何も無いと思うよ」
彼女の顔を見つめ、オレは彼女の言葉を遮る。彼女は目を見開いてオレを見る。目つきは笑っているように見えたが、目は赤くなっている……やっぱり、おかしいことなんて何もない。
こんな風になってまで助けたいと思うことがおかしいとか、間違っているなんて、オレには言えるわけがないんだ。
「その人のことは知らないし、オレがそこまでされても助けたい人っていうのは、すぐ出てこないんだけど……自分の気持ちが矛盾しているとか、それが正しいか間違っているかどうかも分からないけどそんなの関係無しに認めればいいじゃないか。かみ合っていないと思う気持ちも、その理由も全部さ。そうして考えて、考えて、考え抜いた後ならきっと、逃げても救おうとしても咎めようする人なんてどこにもいないはずだよ。少なくともオレは、そう思う」
「でも私は……逃げたんです……! 彼が来る事の無いような、私を襲ってくる彼のいないところへ逃げようと……!!」
彼女はまだ、自分の本音に気付いてもそれに従って行動するということができないでいるみたいだった。だけど今度は少しだけ、その気持ちがわかった。一度逃げたものと向き合うのは、覚悟を決めなければならないことだろうから。それをすぐに決めるのは難しいだろう。
だけど――
「それは……分かってる。だけどオレは――天木さんの今やりたいっていうことを助けるだけだ。それしかできない。だから、決めてほしい。今の君が助けを望むのはその彼を助けるためか、それとも……君自身が助かるためか」
我ながら、強引なことを言っていると思った。それに何よりも卑怯だ。彼女が自分より周囲を取りそうな、優しい人であるということを知っていて、人を見捨てるかどうかという二択をかけた自分がとても汚く感じる。
1分、2分と言葉の無い時間が過ぎていった。けれどこれは、さっきの会話をしないだけだったときとは違う。彼女が自分で答えを考える時間を、そんなものと一緒にすることはできない。そして、時間を数えることを忘れた頃に。
天木さんは目に溜めていた涙を拭き取って、はっきりとした顔つきになり――
「決めました、遠原さん。私はあの人を……いえ、『私が一緒に過ごしてきた』あの人を……取り戻します」
そう、宣言するように。オレに告げたのだった。
++++++++++++++++++++
彼女の顔にはもう自嘲するような笑いも、後悔の涙も無い。胸の奥のつかえが取れた――そんな晴れ晴れとした顔つきの彼女に、オレからは図々しく、偉そうに何か言うような事も無さそうだ。
ただ一言。オレが彼女に返すのはそれだけで十分だ。
「そう。じゃあとりあえず……しばらく二人で一緒に、がんばろうか」
「……はい!」
これからは逃げてきたころまでのように天木さん一人で問題を抱えるわけではなく、オレもそれを手伝うことになるわけだ。だから一人ではなく、二人で。分かれることはせず、一緒に。そんな励ましに、天木さんは笑顔を向けてくれた。だけどそれは、その答えに無理やり導いたような自分にはとても眩しくて、照れるように顔を背けるしかできなかった。
しかしそこで、天木さんが「あ、でも」となにかを不意に思い出したように言い出した。
「あの、少しだけ、なんですけど……遠原さんのこと、信用できなくなっちゃいました。ああいう質問は……ちょっと、ズルイじゃないですか」
……どうやら、オレのセコい考えは気付かれていたらしい。やっぱり下手なことはやるものではない。だがしかし、それならなぜ。
「なら、別に助けるっていうほうを選ばなくてもよかったんじゃ……しかもこんな、自分で言うのもなんだけど人を追い詰めてるようなやり方に乗るなんて」
「そうですね。ちょっと……私も遠原さんにイラッときました。知らないくせに、なんでこんなにも偉そうなんだって。でも、自分で考えてみた答えも結局それでしたから。彼を助けたい……今までは知らなかったけれど、さっき気付いたら、考える以上にその想いってのは大きかったみたいで。だから……私は、遠原さんの下手な誘導に乗ってもいいかと思いまして」
天木さんは笑顔のまま、そんな風に経緯を語ってくれるのだが……なんというか、オレはそんな彼女に軽い呆れさえも覚えてしまう。
「……うん、でも君もある意味、オレの予想以上だったよ……」
そう。予想以上に、天木鹿枝という少女は「いい人」だった。
単に優しいというわけではない。優しすぎるというのが彼女にとって普通なのだ。しかし、なんだか騙したと思ったら逆に騙された気分だ。疲れと呆れの籠もったため息が口から漏れ、天井を仰ぐ。安心もしているのだが、力も抜けてしまった。
「でも遠原さん。なんでああも無理矢理に、私を手伝おうとしたんですか? ……遠原さんは、私のことを知らないみたいですけど」
「……まぁ、父さんがやってることの真似、みたいなものかな。もしかしたら血筋なのかもしれないけど……」
天木さんの話が一段落ついたと思うと、心にどっと疲れがわいてきた。話の内容が重かったのもあるが、途中で少しかっこつけすぎたかもしれない。体を伸ばして疲れを取ろうとする。
「遠原さんのお父様……ですか?」
天木さんは訝しげに、そう聞いてくる。今初めてオレが父親のことを話したから、気になっているのだろうかと思ったが……なんだか完全に雑談モードに入ってるな、二人とも。当事者ながらさっきまでまじめな話をしていたとは思えない。
とりあえず頭の中に残ってる虚像を思い返しながら、それを思い出すまま、語り聞かせるように口に出していく。
「そう、父さん。紳士的とはいえないんだけど女性に、助けて、とかいわれたら二つ返事でOKしたりして。しかも困っているのを隠していてもなぜか分かるみたいでさ、ほとんど無理矢理に近いぐらい手助けしてたよ。確か、樫羽を拾ってきたのも父さんで――」
「え? 拾ってきた?」
……やっちまった。気を緩めすぎて、ついついいらんことまで話してしまった。これも結構面倒な話だからあまり言いたくはないんだが……もう言っちゃったし、話したほうがいいか。どうもかなり気になっているみたいだし。
今度は樫羽と始めて会った日のことを思い出す。一番身近な家族の記憶はすぐに浮かび上がってきた。
「あー…うん。確か十年ぐらい前、オレが六か七歳ぐらいのころのこどもの日に父さんがいきなり帰ってきて、女の子を連れてきたんだよ。五歳ぐらいの。で、オレのところにくるなり「この子うちの娘にしないか?」とか言いだして食べ物を与えだしてね。その時は何事かと思ったよ」
その辺りまで話したところですでに天木さんは呆然としているように、口を開けてポカーンとしていた。だがこの話、まだ終わりではないのだ。オレは過去のことなのにあきれつつ、更に続ける。
「それで樫羽が父さんにすごく懐いちゃって、ちょっとその言葉を本気にしていたみたいでね……だけど、いくらなんでもそんな身内の行動で誘拐犯扱いされるのもごめんだから、樫羽の本当の親のところに帰そうとしたんだけど、それでもなぜかどこかの異世界から来たっていうことしかわからなくてどこの世界なのかは特定できなくて、樫羽も元々の名前は覚えてないって言うから、とりあえず色々と手を回してもらって家で引き取ることになったんだ。で、今のところのあいつの戸籍は遠原樫羽――オレの妹として登録されてるってことかな」
血だけは繋がってないけどね、と最後に付け足しておく。しかし、昔の父さんの行動には驚きよりも呆れしか出ない。オレが幼い昔だったからまだ良かったが、今やられたら確実にグレて父子間戦争をおこすことも考えるレベルだ。
ちなみに、樫羽と言う名前は樫羽が父さんからもらっていた柏餅の「かしわ」という言葉の響きをいたく気に入ったため、名前の分からない樫羽のために名前をつけるということになった時、父子で「樫羽」でいいんじゃない? と適当につけた結果だ。最近になって自分の名前に違和感を持ち出した樫羽には絶対に言えない話である。
「……え、えーと……」
天木さんが理解のできない、と言いたげな顔をしてる。まあ、息子のオレでもあの父親は未だに理解できないからしょうがない気もするが。
「あの……遠原さん」
「ん、なに?」
「異世界って、どういうことですか?」
…………え、そこから説明しないとだめなの?