理解の兆し
「さて……着きましたね」
わたし達は五つ先の駅で電車を降りて駅から出た後、しばらくわたしの前を歩きましたが、あるお店の前で樫羽ちゃんは止まった。そこは店頭に常に何十人もの若い女性が頻繁に出入りしており、入り口の上にある看板にはなんだか抽象的な文字のようなものが刻まれている。幸いにも言葉は前にいた世界と同じで通じてきたけれど文字は少し違うようで、その紋様がどういう読みをするものなのかはわたしには分からない。もしかしたら、企業やブランドのロゴでしょうか。
ただ樫羽ちゃんが言うとおりなら、ここは服を売っているところだと言うことらしい。以前には電車に乗らず、遠原さん達と住んでいる街の商店街の方のお店でとりあえず必要な衣服は買ったはずでした。
だけど昨日、樫羽ちゃんから急に買い物に付き合ってほしいとお願いされて、私もここに来たのです。本来なら遠原さんとの関係もちゃんと直していない今、遊びに出るなんてとても出来そうにありませんでしたが、樫羽ちゃんから真剣な顔で私ともう少し二人で話したいからと頼まれては、断るわけにもいきません。
そんなわけで、今日は洋服を買うのはついでのついでのお出かけということです。先程、電車に乗る前に体調を崩したような姿を見せた樫羽ちゃんでしたが、ここまで来た時には快方に向かっていたようでした。私としてはまだ少し心配ですが、大丈夫と言っていたのだから信じておくことにしましょう。
「でも樫羽ちゃん、これ以上は無理だと思ったらいつでも言ってくださいよ?」
「だから大丈夫ですって、さっきも言ったじゃないですか。天木さんは少し心配しすぎです」
樫羽ちゃんは私があまりにそのことについて聞いてくるからか、だいぶうんざりした様子で口を尖らせていました。だけど、心配なのだからしょうがないでしょう。今後もちゃんとこの子の事をよく見ていないといけない、という風に私は気持ちを引き締めます。
そんなこんなで中に入ると、やはり中も人が多くいます。外にいたのは買い物を終えた人達か私達と同じように中に入るつもりの人達でしょうが、やはりそれよりは中にいる人のほうがよっぽど多いようで、賑わいや雰囲気からしても、どれほどの人がいるのでしょうか。想像もつきません。
入ってすぐの、まだ入り口の近くですでに私はそんな風に萎縮しがちになってしまっていたわけですが、樫羽ちゃんはそのまま進んでいるので止まることもできません。私とそこまで背の変わらない彼女の後ろで隠れているようについていく私の姿は、傍から見るときっと情けないものでしょう……自分でもそう思い、顔が熱くなるのを感じます。
自分の姿を思い浮かべて一人そんな風に恥ずかしくなっていると、私の目に前から来た二人組が目に入る。若い男性と女性のようで、男性のほうがここで購入したらしい紙袋等の荷物を持っている。それ自体はなんら目を引くことのないような普通のありふれた光景だろうけど、この時の私は、なぜかそれを見て寂しいような想いを感じてしまった。
それが、楽しそうにしている姿に櫟くんとの記憶を幻視してしまったのか、それとも――遠原さんのことを思い出してしまったのか。どちらかはわからないけど、とにかく胸に空いた穴を思い出してしまったような、そんな空虚な気分。
「どうしました、天木さん?」
そうして気分が沈みかけているところにいつのまにかこっちを向いていた樫羽ちゃんが、不思議そうな顔で声をかけてくる。どうも気にかけさせてしまったらしい。これ以上心配事を増やさせてしまうわけにもいかないだろう。だから、表情をできるだけ笑顔にして返事をする。
「いえ、なんでもありませんよ。早く先に行きましょう」
「もしかして、兄さんのことでも気になっていますか?」
前に進もうとした足が、その言葉で止まる。表情もどこか引きつったようになってしまった気がして、自分でも動揺しているのがわかってしまう。樫羽ちゃんは、あぁやっぱり、というような顔をしていた。
「な、なんですか! 私だって、遠原さんのことが気になる時ぐらいあります!」
「あぁいえ、特に変だなんて思っていたわけじゃありませんよ。とりあえず、今は兄さんのことを気にしていなくても別にいいのではないですか?」
そうやってなだめられているように言われると、なんとか落ち着いてきたような気がする。でも樫羽ちゃんの言葉はどこか、お兄さんである遠原さんのことを蔑ろにしているようにも聞こえそうですが……この子に限って、そういうことを言っているわけではないでしょう。推測でしかないですが、樫羽ちゃんが遠原さんのことを家族として好きなのは、これまででも分かっていることです。
「……そうですね。遠原さんとは夜にちゃんとお話できそうなんですし、今気にしていてもあまり意味がないのかも」
「えぇ。今は家に兄さん一人、わたしや天木さんの部屋に入るのが容易なのが気になっても仕方ないですからね」
「はい……って、そういうことで気にしていたわけじゃないですよ!」
樫羽ちゃんが冗談めかして口にした事に、私は苦笑してしまう。確かに遠原さんは少々いやらしいところもあるけど、しかしそういう事を私は気にしていたわけではない。それに遠原さんも私達が居ない間に、なんてようなことはしないだろう。いくら遠原さんでも、そこだけは信用でき――
「そういえば以前わたしが固まっていた時に、兄さんが部屋に入っていたなんてこともありましたね」
「……だ、大丈夫、ですよね? 遠原さんが家に一人でも大丈夫なんですよね!?」
樫羽ちゃんがこの前のことをサラッと口に出す。その場面は私も見ていたばかりに、遠原さんへの信用が一気に揺らいでしまう。
悪寒が背筋を走ったような気がして、歩く足が速くなる。今の話のせいかもしれない。昇降機の前でボタンを押すときも、なんだか心臓の鼓動が速くなったままだ。そんな風に焦ったままで頭上にある数字ランプを眺める。
とにかく今は、色々と買い物等をしてしまおう。そうして家に帰ったあと、遠原さんが実際にそんなことをやっていたなら……もう一度、引っ叩いておこう。たぶん今度は罪悪感も何もないでしょうし。
そんなことを考えながら昇降機が来るのを待つ内に、音が鳴った。前の扉が開いて中から人が降りた後で、私と樫羽ちゃんが入る。他に入ってくる人はいなかったようです。
ゆっくりと扉が閉じた。二人だけだとこの中はやけに広々としているように感じられて、落ち着かない。浮遊感のようなものに包まれながら、私はこれから見る物のことを考えると、楽しみになってくる。
だというのに。不安のような悪い予感は、まだ胸の中に渦を巻いて残っていた。
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「…………ん……」
意識が冴えてきて、四肢の感覚も甦ってくる。目をうっすらと開けていくと、あまり刺激してこない穏やかな光が目に入り込んできた。今目覚めたばかりだが、この楽な感覚と背中や後頭部に伝わる感触から察するに、どうやらオレはなにかふかふかとしたものの上で横たわっているらしい。とりあえず、家のベッドやソファよりも上等なものだということはわかるし、ここが自分の家でないということだとも分かった。
ではここは、どこだ。そして、なぜオレはここにいる。それをまずはハッキリさせよう。首筋に微妙な痺れを感じながら、目を開けて起き上がってみる。
「あら、お目覚めですか?」
突然、横から女性に声をかけられて、心臓が止まりかけるほど驚いた。一度呼吸を落ち着かせてそっちを見てみると、なにやら高級そうなソファに座り、編み物をしているらしい妙齢の……給仕服を着ている女性がいた。その光景に、自分が今何をしようとしていたのかを忘れそうになってしまったが、すぐに頭を振って我を取り戻す。どうでもいいが、オレが寝ていたのはあの女性が座ってるものとテーブルを挟んだ向かいに位置する同じようなソファであったらしいことにここで気づく。こんなものがいくつもあるこの家が少しうらやましい。
とりあえず女性を注視してみると、その見た目はある人物にとても似ていた。落ち着いた雰囲気、キラキラとしそうな紫色の髪、メイド服を纏っている姿……さっきまで探しに行こうとしていた人物と、ほとんどの特徴が合致していた。明確に違うところといえば、彼女よりもいくらか年齢を重ねているような大人っぽい声や顔つき、左目に泣きボクロがあることだろう。
「……あ、あの」
「? なんでしょうか」
しかし、それだけの情報でもこの人の素性がある程度分かったような気がする。予想でしかないけれど、違うならばそれでもいい。
「――もしかしてあなたは、三里さんのお姉さん……でしょうか?」
女性の編み物をしていた手が止まる。オレは緊張で、ごくりと生唾を飲んだ。静寂が訪れて、その無音の圧力に身体が更に強張っていく。そんな静かな世界を最初に壊したのは目の前の女性の、小さな笑い声だった。
「ふふっ。お姉さんだなんて、私もまだまだ捨てたものではないということでしょうか」
「……えっ?」
口に手を当ててくつくつと笑う女性の発言に、どういうことか分からなくなる。それはつまり、どういうことだ。目の前の女性は三里さん――三里亜貴の姉ではないということで、実際はそれよりも上の……?
「うふふ……あぁ御免なさい、ついつい浮かれてしまって。でもごめんなさいね、私は亜貴の姉じゃなくて母親なのよ」
「え……えぇぇ!!」
母親、ということをはっきりと聞かされて、オレは心底驚いた声を上げてしまう。しかしこれは、思った以上に見た目が若い事になる。三里さんのお母さんの姿は、まだ20代前半から後半といえば通用してもおかしくないくらいには若々しいものだ。とてもじゃないが、三里さんのような娘がいるらしい見た目ではない。こういったとても若く見える母親というのが実在していることに動揺を隠せない。
「えっと、それじゃあまずは一度自己紹介をさせてもらうわね。私は、三里瑠香。さっきも言ったように亜貴の母で、長い間アル……こほん、琉院の家に仕えさせてもらっています」
「あ、えっと、オレは遠原櫟と言います。学校のほうでは三里さ……娘さんと、琉院さんとはそれなりの付き合いを少々」
しかし、なんだかこの人を前にすると自分が緊張しているのがわかる。なんというか、年上のこういう優しげな女性というのとはほとんどかかわりを持ったことがなかったからだろう。海山さんは基本的にキツい人の部類だし、教師ですらこういう人は見たことがない。
というか最初の方は穏やかな雰囲気で三里さんと似ているように見えたのだが、お姉さんですかと聞いた後からはにこやかで柔らかい、普段の三里さんからは感じられないような雰囲気を撒き散らしているのだ。あぁ、でも普段は落ち着いていてたまに話しかけてみると楽しんでいる、というような一面は三里さんも持っているかもしれない。あの人は表情をほとんど崩さないけど、目の前の母親はそれに比べると感情豊かなほうらしい。
と、今はこんなことをしている場合でもないか。
「あ、あの、ところでここはどこなんですか? なんでオレはここに?」
ついつい互いに自己紹介をしてしまったが、オレはここがどこかもわからない状態だったのだ。あまり暢気な事をしている場合ではない。三里さんの母……瑠香さんも、それに気がついたらしい。
「そういえば、さっきまで気絶していたものね。ここは私の主……もとい、琉院様の屋敷よ。あなたは確か二時間前に突然家の者が連れてきて、お嬢様……槙波様がこの部屋に寝かせておいたんだったかしら」
瑠香さんは頬に人差し指を当て、思い出すようにその時のことを話してくれる。しかしここが琉院の家か。部屋の中を見回してみると、カーペットが敷かれていて、小さな子供一人なら走り回れそうなぐらい広く、なにかよくわからない絵などの調度品が飾られているというのがわかる。今気づいたが、オレが靴を履かされたままだし、瑠香さんもヒールらしきものを履いている。この家全体が洋風のつくりなのだろうか。この部屋の中で目立つ道具は今は使われていないらしい暖炉に、テーブルとそれを挟むように配置されたソファとシングルソファがそれぞれ一組ずつ、というところだろうか。
しかし、なぜオレがこの家で寝かせられているんだろう。確かトイレで首の辺りを思い切り叩かれて意識を失ったのは覚えているが、それで琉院がオレを自分の家で介抱するなんていうことになるのは想像がつかない。だが、琉院はオレがここにいるということも把握しているようだし……ますます、疑問が深まる。
「えっと……瑠香さん、でいいですか?」
「構わないわ。確かに三里さんじゃ、娘ともごっちゃになってしまうものね。どうせなら亜貴、瑠香って名前で呼んでくれてもいいのだけど、」
「は、はは……それで聞きたいんですけど、琉院……さんはなにか、オレを連れてきた時に変な様子とかありました?」
瑠香さんの提案に苦笑いをこぼしてしまったが、オレはそれをあまり気にせず質問してみる。なんというか、今回のことはこれまでオレが見てきた琉院にしては不自然なように思える行動な気がしたのだ。ならば、更に妙な点があったとしてもおかしくない。おそらく普段から見ているであろう人でさえもおかしいと思ってしまうような点が。
「お嬢様に変な様子? うーん、そうねぇ……」
瑠香さんはさっきまでのことを思い出そうとしているのかうんうんと唸っている。この辺りもどうやら娘のほうとは似ていないらしい。多分彼女ならば、こうして考えるときでも静かに没頭して、たまにぶつぶつ呟くぐらいなんじゃないだろうか。
……なんだか今は、三里さんのことを考えると気持ちが逸るように、外に飛び出せと命じているような錯覚に陥る。まだ帰ってこないのであれば早く探しに行かなければいけないのも確かだが、落ち着かなければ。
「……やっぱり、特におかしいとかそういうところは無かったような気がするわねぇ。ただあなたをちゃんと無事な状態に、とだけしかおっしゃってなくてあまり心中を察するような暇も無かったから」
「オレを無事に? あの琉院が?」
瑠香さんの答えに驚いてしまって、ついつい聞き返してしまう。だってそれはまるで、オレを心配しているような言葉だ。だが、口を開けば憎まれ口ばかりだったあいつがなんでそんなことをこの人に言ったんだろう……って、まずい。
「す、すいません! その、勢いで琉院なんて呼び捨てにしちゃって……」
いくらなんでも、自分が付き従っている人をいきなり呼び捨てにしたりしたら気分はよくないだろう。それで一応さん付けしていたのだが、驚きのあまりそれを忘れてしまっていた。頭を下げて、瑠香さんの返事を待つのだが。
「いやいや、謝らなくてもいいのよ。別にそれくらいで腹を立てたりなんてこともないもの、だから頭を上げて、ね?」
返ってきたのはまるで意にも介していないようなあっけらかんとした返事で、言われるがまま顔を上げる。だが多分、その時の自分の顔は気の抜けたような呆然としたものだっただろう。
「さて、それじゃとりあえず遠原君は目覚めたわけだし、お嬢様に知らせておきましょうか。遠原君はここで待っててもらえる?」
特に何か苦言を漏らすわけでもなく自然に他の提案をする瑠香さんを見るに、どうやら本当に気にしていないらしい。ならばオレもこれ以上そのことについては何も言わないようにしておこう。実際、琉院に色々とどういうことか、どうなっているのか聞いておくのも必要なことだ。
「お願いしま――」
「いえ、その必要は無いわ」
瑠香さんに任せようとした矢先、扉が開いて聞き覚えのある声が室内に響いた。その声がした方を見れば、さっきまで喫茶店に居たときと変わらぬ格好のまま、腕を組んで堂々とした仕草で入ってくる琉院槙端の姿が目に入る。横の瑠香さんが彼女に向けてゆっくりとお辞儀をした。深いそれを数秒ほど続けた後、瑠香さんが顔を上げる。
「お嬢様、連れてこられた方はこのように無事目覚められました。お嬢様の方から彼になにかあるようなら、私は席を外したほうがよろしいでしょうか」
「……えぇ、すみませんが少々この男と込み入った話がありますので。瑠香さんは普段通りのお仕事に戻っていただいて構いませんわ」
「かしこまりました。それでは――」
そう言って瑠香さんはツカツカと、小さな靴音を立ててこの部屋から出て行った。さっきまで優しげで暖かみのある口調だった瑠香さんがこれまで見てきた三里さんのように、平坦なやたらとかしこまった口調と落ち着いた雰囲気になって琉院とのやり取りを行ってる姿に少しだけ驚く。なんだかここで目覚めてから驚くことばかりな気がするが、瑠香さんのその変わり身の早さには舌を巻いてしまう。多分これがこの人の業務用の姿勢なのだろう。琉院は見慣れているだろうから動じたような感じもなく話していたが、やはりこの辺りは自分との生活の違いを見ているようだ。
とりあえず、琉院は先程まで瑠香さんが座っていたソファに腰掛けた。その間彼女は深刻そうな表情で何も言わないでいたので、こちらから声をかけることにする。
「……おはよう、琉院」
「……おはようなんて、よくそんな暢気なことを言えますわね……っと、今はそんな事を言うために来たわけでは無いのでした」
一瞬呆れたような顔になった琉院だが、すぐに咳払いをひとつしてさっきまでのような暗い顔に戻った。その様子は、やはり自分には妙にしか見えない。
「なんだよ、そんな改まって。なにかオレに言いたいことでもあるのか?」
「えぇ。その……今回のことは、ごめんなさい。この家の者が、貴方を気絶させてしまったようで」
「……ちょっと待て」
少し琉院の言っていた言葉への理解が遅れたが、よく把握するとオレは頭を抱えてしまう。俺の首筋を打った人物がこの家の人間というのは、初耳だ。なんというか、さもオレが知っているように琉院は謝罪してきたが、いきなりそんなことを言われても困惑しかできない。
「ど、どうしましたの? まだ打たれたところが痛むとか?」
「あぁいや、違う。お前からはじめて聞いたんだよ、オレを襲ってきたやつらの素性。それでちょっと混乱してるだけだ」
顔を上げて半目でそう言うと、琉院がビクンッ、と身を震わせたように見えた。どうしたんだろうか。身体や顔がやけにこわばっているようだ。
「……その、瑠香さんからそういう風に聞いたりとか、しませんでしたの……?」
「いや。あの人とはちょっと世間話をした程度で、そのことについてはなにも……」
もしかしたら瑠香さんは伝える気だったのかもしれないが、もしかしたらオレが最初に三里さんの姉と間違えて瑠香さんを上機嫌にさせてしまったから、あの人もついつい忘れてしまったのかもしれない。だとしても、この琉院の身内がオレを襲ったという話が唐突であることになんら変わりはないのだが。
「……はぁ……なんだか緊張して損した気分ですわ……」
琉院は疲れたような声で大きなため息をついた。その姿にオレは苦笑してしまう。そりゃあ嫌いな相手に恥を忍んで謝ったら、相手がそのことをまったく知らないんだもんな。謝られた側だが、その気持ちはなんとなくわからないでもない。
だが、気になることが一つ。
「というか、琉院。その様子だと、もしかしてお前は最初から知ってたわけじゃないのか?」
「……えぇ。貴方が席を立ってからすぐに、わたくしの家の車が外に来まして。わたくしを迎えに来たという事で支払いを済ませて車の中で待っていたのだけれど、そこに気を失った貴方が突然運び込まれてきて、そこでようやく今回のことを知る事ができたわけですわ」
琉院は申し訳なさそうな顔をしてそう説明した後、軽く頭を下げた。それを見る限り、今回のことを本気で悪いと思っているのだろう。だが、その事情を聞いても不快な気持ちや怒りなんてものは湧いてこなかった。
「とりあえず顔上げようぜ、琉院。それを聞いてもオレからはお前に言うことも言えることも何もないし、むしろ謝られても困るから、その話はもう無しってことで」
いくら身内の恥とはいえ、知らなかったことをほとんど無関係な琉院が謝ったとしてもオレとしては許す許さないどころか、どう答えればいいのかもわからないのだ。
しかし琉院は、少し慌てた調子で「で、でも」と言い始めた。
「この家では誰か個人の失敗も家全体の失敗であるというのが代々の家訓、それをあなたの、遠原櫟のいいかげんな考えで壊されるわけには――」
「ならとりあえず、一々そんな『遠原櫟』なんて長々とフルネームで呼ぶのをやめてくれよ。今回のことは、それでもうチャラにしようぜ」
琉院の家にはめんどくさいしきたりがあるようだが、それでもオレがそれに捕らわれる必要はないし、琉院も今回はそこにこだわる必要はないだろう。だが、なにも無いままに琉院が納得するとも思えないので、前から思っていたそんな他愛もないようなことを改善するよう要求してみた。
琉院はオレが提案した当初はまだ少し渋っているような感じだったが、やがて10秒ほどじっくり考えたあとでようやく納得したらしく。
「……仕方ないですわね。わかりましたわ、遠原。今回のことはこれでひとまず終わりにしましょう」
そう告げてから、ふぅ、と一息ついていた。とりあえずオレは想定していなかったことだが、これで琉院と話すべきことのひとつが終了というわけだ。だがまだ一つ、こいつとの間には話さなければいけないことはある。
「それで……琉院。三里さんの方は帰ってきたか?」
もしかしたら琉院に迎えが来たということで、彼女はすでにここに帰っているのかもしれないと思った。だが三里さんの名前を聞いた琉院の顔色は、そんな明るい希望を消し飛ばすように暗くなって――
「…………いえ」
ただ一言を漏らすように、そうポツリと返してきた。それだけで、まだ三里さんが琉院の元に帰ってきていないということがわかり、自分の心もどこかに沈んでいくようになっていくことを実感する。
「……電話は繋がらないしメールは帰ってこない、GPSでもろくな反応がないなんて……本当に、亜貴はどこへ行ったの……!」
苦しそうな声で、琉院が顔を伏せてそう語る姿に自分の胸が締め付けられるように痛んでいる気がした。今まで手を尽くしていたのだろうが、まるで効果もなく手がかりもつかめていないらしい。それが歯痒いのか、琉院は座った状態のままでスカートを掴んでいた。無意識に力を込めているのか、やけに強く握っているように見える。
「……ひくっ……!」
更には、そんなうわずった嗚咽のような声が聞こえてくる。まさかとは思うが――
「琉院お前、まさか泣いて……?」
自分の想像とはいえ心配になってそう声をかけると、琉院は一度大きくビクリと震えた後、伏せた顔の目元あたりを手で拭った。
「そ、そんなわけ無いじゃない。わたくしは……そんなに弱く、ありませんわ」
顔を上げないまま、琉院はそんな風にオレに言い返してきた。だが声はだんだんと小さくなっていて、発言とは裏腹にどこか弱々しい雰囲気。
それで誤魔化されるわけがない。やはり、琉院槙波は泣いていたのだ。もしかしたら、さっきまでオレに見せていた姿はいつもより強がっていたのかもしれない。そうなると、自分がどうするべきか。それは、考えるまでもなく決まっていた。
「琉院。なにか三里さんが行きそうなところの手がかりとかあるか?」
「……そんな事を聞いて、どうするつもりですの? まさか、貴方が探しに行くとでも?」
「そうだ。オレは今すぐにでも、三里さんを探しにいくつもりだ」
もとより、三里さんがまだ戻っていないなら探すつもりはあった。しかし目の前でこんな姿を見せられたら、ここでソファに座って安穏としている時間さえ惜しいとしか思えなくなってしまったのだ。琉院になにかいい印象ができたとか、そういうことはない。だがたとえあったこともない見知らぬ少女だろうが、出会って早々蹴られた相手だろうが、助ける理由なんて簡単に生まれるものだ。
――悲しみや苦しみが理解できた相手を助けようと思うのは、少なくとも自分にとって当然なことだ。だからこそ、オレは今の琉院を助けようと思った。そこに、これまでの悪印象を介在させるつもりはない。そのためにはっきりと、三里さんを探しにいくと琉院に告げたのだ。
目の前で、いまだ項垂れたままの琉院をまっすぐに見る。彼女がどう思っているかはわからない。元々こいつには嫌われていた自分だ、こんな行為は疎ましいとさえ思われているかもしれないけど、力を貸したいと思ったのだから助ける。言葉で直接願われなくても、オレは今そうしたい。
「……それは、そうですわね。よく考えれば、貴方と亜貴は……そういう仲でしたものね……」
顔を伏せた琉院を見つめていると、彼女が震えながら寂しげな声でそう小さくこぼした。
三里さんが琉院についた嘘。これは的確だったとは言えないが、その時の為には仕方の無い事だったのかもしれない。その嘘には自分の中にも少しだけ、嬉しいような喜んでいたような感情が産まれてもいた気がする。
だけど――
「琉院。それは嘘だ。オレと三里さんは別に、そういう仲じゃない」
琉院の震えが、その言葉で止まる。さっきまで伏せられていた頭がゆっくりと上げられると、呆然とした表情が露わになった。真っ正面からそれを見ることはできず、左手で頭を少し掻いてしまう。三里さんには少し申し訳ないかもしれないが、今の状況で琉院にあんなか細い弱々しい声に出させるようなら、どんな方便だろうが何もかもを明かしてやる。
「……お前も色々聞きたいことはあるだろうが、それは三里さんを見つけた後で全部話す。土下座だろうが何しながらでも謝る覚悟だってある。だからまずは三里さんを見つけよう。お前にとっても、あの人を探す方が先決だろ?」
琉院が三里さんとオレの嘘の関係に騙されていたこの二日間をどんな気持ちでいたかは知らない。しかし昨日に三里さんが語ってくれたように二人、特に琉院が互いを友達のように思っていたのだとしたら。突然に現れたオレという存在も、恋人同士という関係性も、多分何もかもが疎まれて仕方ないものだっただろう。自分がついた嘘ではないといえ、胸は痛んでいた。今は少しだけ、楽になったようにも思える。
琉院がこの事を聞いてどうなるかも知らない。さっきまでの姿から予想するならもしかしてまた泣き出すようなこともあるんじゃないかと思えた。
だが、これまで見てきた彼女の姿や三里さんの言っていた通りなら――
「……えぇ、えぇ。最初から、最初っから! あなたたちの関係がただの口だけのもので、嘘八百であることなど見抜ききっていましたわよ!! ただ、ここまでしてわたくしをコケにしてくれたのだから、亜貴を見つけたら二人まとめて、相応の罰を受けてもらいますから覚悟していなさい!!」
こんな風に立ち上がって、オレを指差して強がるように意地を張るのが琉院槙波という少女だろう。
内心は怒っているのか、嬉しいのか、悲しいのかも分からないけれど。
その顔が少しだけ晴れやかになっているように見えたのはきっと、気のせいじゃないはずだ。その顔を見て、少しだけ自分も笑いが零れた。
「? な、なんです、突然笑い出すなんて……少し気持ち悪いですわよ」
「――ん、いや、特に悪い意味とかじゃない。ただ、お前って本当に三里さんの言った通りだったんだなって」
――本当に、琉院槙波という人物は素直だったのだ。言葉はあれでも、表情が隠しきれていない。三里さんが言っていたことは、本当だったらしい。
「亜貴が……? 遠原、教えなさい。亜貴はわたくしのことをどう言っていたのかしら?」
琉院は三里さんが言った、ということに興味津々らしい。さっきも言ったように悪い話じゃないし、多分言っても問題ないことなんだろうが……少しだけ、三里さんに影響されてしまったのだろうか。意地悪なことをしてみたくなってしまった。
「んー、いや、だから悪いことじゃない。一応褒め言葉だったし、それで十分だろ? どうしてもっていうなら三里さんに直接聞けばいいし、今は早く行こうぜ」
「ちょっ……教えなさい、遠原! 亜貴がわたくしをどう言ったというの!?」
そんな風に言葉を濁すと、琉院が詰め寄るように近づこうとしてきたので、オレは適当に部屋の中を逃げようと立ち上がった。
そんな時に。
コツコツ、というようなノックの音が二回鳴る。その音がしたドアの方をオレと琉院の二人して見ると、やがてギィ、と扉が開く。そこには、よくよく見知った――
「…………なんでここにお前がいるんかねぇ、遠原?」
「……それはこっちの台詞でもありますよ……海山さん」
――深根魔術高等学校校長、海山奏子が呆れたようにしていた。