相席の対立者
「よりにもよって、だなぁ……」
やたらと落ち着いたクラシック音楽が流れている喫茶店の中、窓際の席に座って頬杖をつきながら外を見る。道を歩いている人は傘を差しているのが大半で、窓にも水滴がぶつかり流れているのを見てオレは沈んでいく気分をそのまま表すようにため息をついた。
暇を持て余すべく樫羽たちが向かった都市部に比べれば、やや活気に欠けるところもあるが品揃えは豊富な商店街にオレは居た。昨日も三里さんと来たと言うのにだ。商品を眺めるだけでもけっこうな時間を潰せるので、ある程度見ていった後は夕飯になにか凝ったものを出してみるためにゆっくりと食材でも見ながら何を作るか考えようと思っていた、その矢先に雨が降ってきたのだ。
傘を持ち歩いてなかったから肩や頭を濡らしながら走り、雨宿りをできそうなところを探していたらこの西側にあった喫茶店に入ってみたが、危ないところだった。オレが走って来たときにはすでにほぼ全ての席が埋まっていた。残っていたのは窓際の二人用テーブルが一つ、まさにギリギリセーフという言葉が似合う状況。中にいるのもみんなどこかしらに濡れた跡が残っていて、雨宿りのためというのが一目瞭然だ。
ともかく朝は普通に晴れていたのにこうも急な雨が降ってくるとは、休みだというのにツイてない。そんなふうに今日を呪う。ついでに昼食を食べていないことも苛立ちを加速させるように、腹の底から呪いのようなおどろおどろしい……とは言わないまでも主張の激しい音が鳴る。
一応注文はしたのだが、急に客が増えた店内の慌しい様子を見ていると。
「……まだまだかかりそう、だな」
はぁ、と二度目のため息をついていると、入り口の方からカウベルの音が鳴る。また新しい雨宿りだろう。しかし空いてるのはオレの前にある一席だけだ。もしも来るのなら相席になるだろうが、雨の中に返すわけにもいかないし問題ないだろう。
「いらっしゃいませ。二名様……でよろしいですか?」
ん、二人いるのか。いやまぁそれならオレが席を離れればいい話――
「はい。できればこちらの方が座れると嬉しいのですが」
……昨日にもよく聞いた声が聞こえた気がする。おそらく幻聴だろう。確かに横に誰かがいる買い物は楽しかったが、昨日の今日でそこまでその記憶に執着するほど今日が楽しくないわけではないはずだ。ほんと、こんな所にあの人がいるわけないじゃないかまったく。
「一応相席でよろしければ一つ空いているところもありますが……あなたはおかけにならなくてよろしいのですか?」
「ワタシは結構です。それでお嬢様、相席なら空きがあるとのことですが」
「えぇ、わたくしもそれで構いませんわよ。亜貴にはもうしわけないけれど」
「……それではこちらへどうぞ」
あ、そういえば相席ってここ一つしか無いんだったな。どうしよう、あまり会いたくない人物もいるみたいだ。引きつった顔を隠すべく伏せる。見つかって昨日のこととかをねちっこく言われそうなのが嫌なのだ。いつまでもつかは分からないが、とりあえず誤魔化せる限りはこうし続けるしかない。なにせそこにいるだろう二人は――
「お客様。ご注文のクラブハウスサンドとオリジナルブレンドをお一つ、お持ちいたしました」
「あ、はい」
近くまで来た店員さんに呼びかけられつい顔をあげて、湯気がたち昇るコーヒーと香ばしい匂いを放つサンドイッチを受け取る。空腹感を長い間覚えていたのでようやく食事が摂れると思うと表情が綻んでしまう。
「それではごゆっくり」
営業スマイルの眩しい店員さんはそれを崩さないまま店の奥に戻っていった。忙しなく店内を動き回るその様子を眺めながら、さっき運ばれてきたサンドイッチに手を伸ばそうとしたところで、ようやく思い出す。
「……あ」
「………………」
気付いたのは、ようやくだった。横から妙に刺々しい視線が向けられている。それはもう「なんでお前がここにいるんだ」という、むしろこっちの台詞だと言いたくなるような意味がありありと込められているようなものだ。
綻んだ表情が一変、引きつったものに戻ってゆっくりとそちらに首を向ける。
「おや。まだ一日も経たないうちに再会とは、奇遇でございますね」
「え、ええ……そうです、ね……三里さん……」
後半にいくにつれて声が小さくなっていくオレが見たのは想像通りの二人で、昨日の間に見慣れた服装で律儀に恭しい挨拶をしてくれる三里さんと――
「…………チッ」
華やかなレースやらが多く付いたワンピースっぽい私服に身を包みいつものような綺麗さを惜しげもなく出していながら、舌打ちして敵意をも完全に表出させている、三里さんの主様がおりました、とさ。
それからしばらくしても、店内の空気は重苦しかった。まるで外のように湿気がひどいんじゃないかと思うほどじめじめとしたような雰囲気に、店内にかかっているクラシックも重々しい曲に変わっている。サンドイッチを食べきった後でも、辛うじてコーヒーが未だ熱を保っているのが幸いか。
周囲が少しだけこちらを気にするほどのここの雰囲気の原因は、オレと琉院だ。知らない人間同士の相席なら普通だろうが、一応知り合い同士となると一切話さないようにしているとどこかおかしな雰囲気が流れるものだ。何より琉院がやたら刺々しい敵意を放っているので、どう見ても険悪なのだろう。そりゃあ注目されても仕方ない気がしてきた。
お互いに居辛そうにしながらコーヒーを飲み、時折窓の外の状況を眺めている中で、三里さんは琉院の右後ろで両手を下のほうで合わせながら立っている。さっき二人が入ってきたときに応対していたお店の人が予備の席を持ってきたときもすげなく断っていたのだが、何故なのだろうか。不思議に思いながらコーヒーカップを傾ける。クドクドしいものがなく、飲みやすい苦味が喉を流れ落ちていった。
「……遠原櫟、あまり亜貴のほうを物珍しげな視線で見ないでいただける? 腹が立ちますわ」
「……そうかよ、悪かったな」
「ふん」
ちょっと突っかかるような言い方だったとはいえ、謝ったというのにこの態度だ。声を荒げて怒りそうになったものの、それをなんとか抑える。しかめっ面になりそうなのを隠すために頬杖をついて窓に顔を向けた。
「お二人とも、ここであまり事を荒立てないようにお願いいたしますね。お嬢様も遠原さまも、面倒事になるのは嫌でしょう?」
「……わかっていますわよ。少し席を外しますけど、亜貴。遠原櫟は何をしでかすかわからないから、ちゃんと見張っておきなさい」
三里さんに軽く窘められ苦々しげな表情の琉院は立ち上がって、どこかへ向かった。どこへ行ったのか気にはしないとして、張り詰めていた空気が一時的に無くなり、重圧から開放されたような気分だった。
「ふぅ」
「お疲れ様です、遠原さま」
一息ついていると、三里さんはねぎらいの言葉をかけてくれた。相変わらず表情は硬いが、三里さんは基本的にそれが自然体だと分かってきているので嬉しいことだ。
「ありがとうございます。しかし本当……オレ、あいつに嫌われてますね」
それだけが本当に不可解だ。オレとしては琉院にここまで突っかかられるようなことをしたつもりもないのだが、なぜかあいつは目の敵にしてくる。理由も分からなければどうすればいいのかも当然分からず、フラストレーションも溜まるばかりだった。
「お嬢様にも色々思うところがあるのでしょう。昨日も少々誤解が生まれていたようでしたし」
「少々どころじゃないですよ、多分。逢い引きだって正面切って言っちゃったんですから。それはいつかちゃんと弁明しますけど」
後が大変そうだなぁ、なんて他人事のように気楽に思っていると、三里さんは顔を逸らし、ボソボソと何か言いにくそうにしてつぶやいていた。
「……それだけでは――――いえ、なんでも」
よく聞こえなかったが、誤魔化されたことでどういうことかはなんとなく分かってしまった。どうせまたオレのあずかり知らぬ所で面倒事でもあったのだろう。なんというか、ため息をつくどころか笑いそうになってくる。都合のいいように回らないのが世の常とはいえ、悪いほうに偏りすぎだろう。
「取り繕ったって、なんか厄介なことがあったってことぐらいはわかりましたよ……」
「それについては、一応解決したと言えるのですがね。どうもまだ尾は引いているみたいですけど」
「なんなんすか、それ……いえ、やっぱりいいです。これ以上色々と考え込みたくないんで」
「そうですか」
三里さんはあっさりと引き下がる。特に詳しく聞かせる気もなかったのだろう、それで幸いだ。
「ところで遠原様、気付いていらっしゃいますか?」
「何がです?」
三里さんは、店主の方を向いた。それに釣られてオレもそちらを見る。
こうなると、三里さんはあの店主について何か言いたいのだろうか。しかし、どう見ても落ち着いた雰囲気をしている、特に目立つところもない普通の男性だ。何があるというのだろう。
「遠原さま、あの店主さまですが……どうやら異世界人のようです」
「そうなんですか?」
まったく気付かなかった。完全にとけ込みきっていて、どこを見ても立派に喫茶店の店主をやっているように見えるが……本当にあの人が異世界人だとすると三里さんはどこで判断したのか。そんなオレの疑問を見透かしているかのように、三里さんは続ける。
「えぇ、はい。こちらに来る際少しだけ見えたのですが、この店で使われてるコーヒー豆の形、それをコーヒーにするための器具の形が共に奇妙なものでしたから」
「勘違いとかじゃないんですか? それぐらいなら」
見たことのないものなんて、この世界でもいくらだってあると思う。それだけでは決め手にかけているはずなのに、三里さんは自信があるようだった。
「たしかにこれだけでは確証ということはできませんが……はっきり言うと、ワタシがそう思った大きな理由は一つ。直感ですよ」
「……直感、ですか……」
「ええ」
念を押すように強く三里さんは頷いた。オレはコーヒーカップを持ちながら少し考える。女の勘、という言葉は昔から伝えられているように侮れないものだが、いくらなんでも勘の比重が大きすぎやしないか。店内の物が見たことない以外は、全部勘じゃないか。
自分も、あの人は異世界人なのか? と疑ったのは流石に失礼だった気もし、名も知らぬ店主さんの方を見て心の中で密かに頭を下げる。特にそうだったからなにかあるわけでもないが、けじめの問題だ。
「とりあえず、三里さんがそう思うならそう思ってればいいんじゃないですか?」
「……遠原さまは信じていないみたいですね。ワタシも、それならそれでいいですが」
さいですか、と素っ気無い言葉を返し、三里さんが言うところの見た事がない豆とやらで作られたかもしれないコーヒーをもう一度、軽く一口飲む。まぁ、普段飲むようなものとも味わいは違う感じはするが、特に大きな違いがあるということも感じない。
「あぁ、それはそれとしてなのですが――遠原さまに聞いてみたかったことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
表情を一切変化させないままに、三里さんは新たな話題を振ってきた。この人への最初の印象は寡黙そうというものだっただけに、ここまで饒舌なのも意外だ。だが、話し相手になってくれるというのならそれは嬉しい。
「無茶な要望とかじゃなければ構いませんよ。ところで、椅子に座ってもいいんじゃないですか? 今は琉院もいないんですし」
「お心遣いのほうもありがとうございます。ですが、何らかの有事が起こった時にすぐ動けるように備えてこのようにしておりますので……それでは聞きますが、遠原さまは異世界、特に異世界人についてどのようにお思いで?」
「……異世界のことですか」
先ほど店主さんのことを異世界人なのではと言ったり、三里さんは異世界というものに何かしらの執着を抱いているのだろうか。過去に比べればブームのようなものが去ったというのに、中々珍しい人だ。それが良いものなのか悪いものなのかは判断できないけれど、意識しているということはなにか嫌悪感を抱くということもなく、むしろ好感を抱ける。
それはともかく、三里さんの質問は今の世界に生きている人間としてははっきりしていたほうがいいものなのかもしれない。今や異世界人が存在するのは日常に埋め込まれた常識のようなものなのだから。もっとも、それらに関わる事は非日常といってもいいものだが。
そしてオレは、それに対しては聞かれて一々考えるまでもなく、答えなど出切っていた。
「オレは……異世界人のことは、好きなほうですよ」
三里さんの目が、わずかに見開かれたように見えた。そうなった理由は分からないが、オレはその顔を見て少し楽しさを覚える。普段表情をほとんど動かさない人の顔色を変えられたことは、一本頂いたような痛快な気分だ。
「……遠原さまがそこまで素早く答えるとは、驚きました。いったいなぜ?」
「理由なんて単純なもんですよ。異世界人とは付き合いが長いですからね」
それに、何人とも出会ってきていて、嫌いになった人間などほとんどいない。これまであった魔王の子らとは捕まえる者と捕まえられる者の関係だが、どいつもこいつも素直だったし、樫羽も、那須野も、それに天木さんもみんないい人だ。嫌いだと言えるわけがない。ただ例外は――異世界にいる別の遠原櫟だけだ。
「どうしました遠原さま? なにやら嫌な事でも思い出したような顔をしていますが」
「……嫌な事を思い出してたんですよ。すみません、質問の最中なのに」
「よくは分かりませんが、妙なものを思い出したのなら仕方ないでしょう。そして付き合いが長いというのは、那珂川那須野さんのことでしょうか?」
すんなりと那須野の名前を出されたオレはきっと、驚いた顔をしていただろう。那須野は自分を異世界人だとべらべら喋るような奴じゃないはずだが、そうなるとなぜこの人が知っているのか。
「三里さん……なぜ、那須野がそうだと?」
「彼女の身のこなしや言動を見ていれば、なんとなくは気付けますよ。クラスメイトでもありますし、よく見ることで困るというのもありませんから」
「動きと言動……」
普通なら一蹴してもいいところなのだが、那須野だと多少強引でも納得してしまうのが恐ろしいところだ。武士口調、刃を潰しているとはいえハルバード持ち込み、他にも裏付けられるものは色々とある。
改めて列挙してみると、本当にすごい。どういう意味かは言いづらいけど。
……まぁ、とにかく。
「確かに、オレが異世界人に好意を抱く一因は那須野のこともありますよ。それだけではないですけどね」
「……ふむ。深くは追求しませんが、それだけあなたは異世界人と関わりがあるということですか」
「そうですね。琉院と同じように魔王の子供を捕まえていたりもしましたが、だからといって嫌いになるような相手も特にいませんでしたし」
ふと、先月に出会ったリアナとユゥナら姉妹の顔が浮かぶ。この二人は特に純粋だった気がする。ユゥナはまだ幼いからいろいろな倫理などを理解できているか気になるところもあったし、リアナも極度の人嫌いのようだった。だが、その二人にオレが勝利した後は、どちらも気楽そうに接してくれた。力の行使ができないからだとかそういう理由もあっただろうが、打算であんな天然ボケが出来るはずもない。
だから、あれは本心だったはず。あいつらだけじゃなく、これまで出会ったやつもきっとそうだったんだろう。戦うことになるから、危ないからという理由で嫌いになるには、未来の魔王様たちは純真すぎる。
だが。
「……琉院は、どうなんでしょうね。琉院もあいつらと戦ったりするんなら、なにか思うところは――」
「お嬢様はっ」
これまでの会話の中でもひときわ大きい声が、三里さんから出された。突然の変化にオレは三里さんの方を見ると、彼女は立ちながらも机に身を乗り出しかけていた。そのことに気づいたのか、表情がハッとする。
三里さんは体勢を戻しながら、さっきとは正反対の絞りだすような声で、
「……お嬢様は……なにも考えないようにしている、はずです……」
そう、否定した。顔を下げながら、わずかに歪んだ表情で。その姿に、細い針が刺さったようなチクリとくるものを感じた。そして、オレの中に三里さんへの一つの疑念が生まれる。しばらくの沈黙の後で、オレは訊ねる。
「それじゃ、オレからも聞かせてください。三里さんはもしかして……異世界人とかそういうの、嫌いなんですか?」
「……それは答えなければいけませんか?」
「こっちにだけ聞くなんてズルいですよ。まぁ、ちょっと質問の内容は変わりましたけど」
まぁ、本来なら聞き返すつもりもあまり無かったが、わざわざ聞いたのには理由がある。もしかしたら、ということの確認だ。
三里さんは少し考え込む様子を見せる。
「ワタシは……ワタシが嫌うのは、お嬢様に害をなすもの全てです。その基準の前に異世界人もそれ以外も関係などありません」
「……そうですか」
……はぐらかされたな。まぁ、これを聞くのは別に今じゃなくてもいいか。
聞けなかったことの落ち込みを見せまいとするべく、オレは三里さんの返答に乗ってみる。
「それじゃ、オレはどう見られてるんですかね? 三里さんからすると」
「遠原さまですか? 遠原さまは別に、お嬢様に害を与えるようなことも無いでしょう?」
「……主にめちゃくちゃ嫌われてるようなやつを放っといていいのか、という話なんですが」
未だに理由はよく分からんが、琉院にオレはかなり嫌われてるようだ。会ったのなんてこの前の屋上が初めてだし、その時のことは一応謝っただろうに、なぜ目の敵にされるんだか。
そんな風にどうしてなのかオレには分からないとしても、琉院の元に仕えている侍女の三里さんが、主が嫌悪感を抱いてる相手を敵視しないでいいものなのか。
「嫌われてるといいますか、ワタシから見れば多分、お嬢様は遠原さまのことを単純に敵視しているわけではないと思いますよ?」
「もっとオレにも察しがつくくらい、単純な話のほうが嬉しいんですけどね……」
すまし顔での対応に戻ってきた三里さんに苦笑いを返すと、不思議と肌に走っていた弱い痺れのような痛みは無くなっている。こじれている話ほど、関わりたくないものはないところだ。なんにせよ、ただ嫌われてるわけではないということらしいが、どういうことなのやら。
「遠原さまには感づけないかと思いますよ。お嬢様は意地っ張りでもシャイでもありますから、明確な気持ちを表に出すことはあまりしないでしょうし」
「つまり、オレに心を開かない限りはわからないと」
そんな日が来るもんかね、という嘆息は押し留めるも肩は落ちる。今のところ、あいつのオレに対する心の壁はどんどん分厚くなるばかりのようにも感じられてしょうがない。
「そう落ち込まないでください遠原さま。全て話せた時にはお嬢様もお礼を言うやもしれません」
「『言うやも』って……」
これまた実に曖昧な言葉だ。ついでに自分がやったことと言えば本人を騙して買い物に付き合っただけだし、これに礼を言われても逆に困る。
「ところで遠原さま、ご提案があるのですが」
「……今度は何ですか?」
「大したことではありません、ただちょっと携帯電話のアドレスなどを交換しましょうというだけですよ」
三里さんは懐から、昨日にも見た携帯電話を取り出した。確かに大したことじゃないけれど、また唐突な申し出だ。それに、昨日で琉院を騙すのは終わったはずではないのか。
「なんでまたそんなことを……」
「遠原さまは嫌なのですか?」
「……そういうことじゃないですよ。あぁもう分かりました。とりあえずなぜとかどうしてとか、もうそういうのは気にしないことにします」
呆れそうになる顔を締めて、自分の携帯電話を取り出して通信を開始する。程なくして三里さんの番号とアドレスと思わしきものが画面に表示された。無事に届いたらしい。
「えーっと……はい、こっちは確認できましたよ。三里さんのほうはどうですか?」
「こちらも大丈夫そうですが……一度メールを出してみましょう」
用心深いというべきなのか、三里さんはオレにメールを送るつもりらしい。本文の無い空メールのようで、指先は送信をしたと思われる一回しか動かなかった。
手に握られた携帯に反応は無く、代わりに近い誰かの携帯の着信音らしきものが聞こえる。
「あ、い、今は……!」
音が聞こえるほうから、ついさっきにも聞いたような声がする。三里さんと二人でそちらを見れば、物陰でこそこそと携帯をいじっている琉院が居た。席を外す用事は終わったのだろうか。
「ふぅ……」
音が止んでなぜか琉院は一息つく。安堵の色を見せている表情が、オレ達を見た瞬間、悪戯が大人に見つかった時の子供のようにビクッと硬直していた。
三里さんは琉院の発したものとは明らかに含むところが違う、ふぅ、という声を出す。
「お嬢様……だからお嬢様は隠れて行動することなんてできないと、昨日にも言っておいたではないですか」
「ち、違うわ! 今、そう、今戻ってきたところなのよ!!」
「はいはい。盗み聞きは楽しゅうございましたか?」
「……あ、亜貴ぃ……」
ばつの悪そうな顔で近づいてきた琉院は言い訳をするも、三里さんの返事はもういいとでも言いたげなつれないもので、琉院も終いにはほぼ涙声になりそうなくらいであった。盗み聞きというのは褒められないが、少々不憫にも思える。
「あー、まぁ気に病むなよ、な、琉院?」
「あなたなんかに慰められても、まるで元気が出ませんわよ……」
それは遠回しな悪口ではないだろうか。今までのように激しくはないけれど結局オレに当たってくるのは変わらないらしい。そんなにも嫌われているのか、オレは。
「それでお嬢様。こそこそとやった成果はありましたか?」
呆れた調子の三里さんの質問にも俯いたまま、琉院は何も答えなかった。はっきりとはしないが大声で話していたわけでもないし、音楽の流れている店内では聞こえないと考えていいだろう。聞いていて面白い話というわけでもなかったから、それでもいいとは思うが。
三里さんも問題無いと思ったようで、雰囲気をいくらか柔らかくして琉院を諭すように、肩を優しく触る。
「とりあえずお嬢様もお掛けください。雨は止んでいませんから、もう少しここで休むとしましょう」
「……あ、そ、そうね」
琉院は我を取り戻したようにハッとし、三里さんに促されるまま座る。その時の琉院はともかく、三里さんは優しげなものだったのに――二人の表情から、妙に物悲しさを感じたのは何故なんだろう。
ぬるくなったコーヒーは飲み干すとともに、そんな疑問をも連れて流れていった。
++++++++++++++++++++
しばらくして、また空気は重くなった。しかし今度はオレと琉院の対立が原因ではない。
雨が弱まらないのだ。恐らく傘を持っていないだろう、この喫茶店で屯している人たちはその事実を窓から眺めているだけでも、不安になったり苛立ったりしているのだろう。その感情が店全体に渦巻いてるようだった。流れる陽気なクラシックだけが場違いな状態だ。かくいう自分も二杯目のコーヒーを時間をかけて飲んでいるのに、安定したペースで降り続ける雨に少し嫌気が差していたりする。
しかしそんな中で、それとは無関係な空気をまとっているのも居る。
目の前の席で頬杖をつきながら、窓の外を眺めてどこかうつろとしている琉院と、その後ろで相も変わらず行儀良く立っている三里さんだ。
一見すると琉院も雨に嫌気が差しているように見えるのだが、この状態になったのはなんと、さっき戻ってきてからずっとだ。三里さんとの会話も無しにただこうして窓の外を眺めているだけの姿は、深窓の令嬢という表現も似合うかもしれない。しかしどこか虚しさがあり、それが近くで見ているとやたら不安だった。
「……琉院、大丈夫なのか?」
思わず、心配だというのが口をついて出てきた。逆に言えば、さっきまで険悪だったとしても聞いてしまうほどに琉院が平常に見えなかったのだ。
彼女はゆっくりとこちらを向いたかと思えば、鋭く睨みつけようとしてきた。それが今までのようなものだったら、琉院のことは杞憂だったと思えたかもしれない。だがそれは弱々しく、とてもじゃないがたじろげもしない。
「……大丈夫とはどういうことかしら? なにか言いたい事でも?」
「いや、なんと言えばいいのか分からんが……お前が疲れてたりしてるんじゃないかとな」
「あら、今度戦うことになる相手を心配してくださるの? でもお生憎、疲労は溜まっておりませんから手加減無しの全力をぶつけられそうですけどね」
余裕そうに見せようとしているらしいが、やはり不安だ。しかしこう強がられると、取り付く島も無いな。
三里さんからも何か言ってほしいと、彼女の方に目線を送ってみたが動こうとしてくれない。
気付いてはくれているはずなんだが……。
「……お嬢様」
「なに?」
念を込めたつもりで見つめ続けていると、三里さんが琉院に話しかけた。ようやくオレの助けを求める心の声が通じたらし――
「このままここに居ても埒が明くとは思えません。家の者に連絡して近くまで迎えに来てもらうか傘を持ってきてもらいましょう。ワタシは連絡のために少々席を外しますので、しばし失礼させていただきます」
「――え、あれ?」
三里さんは早口で琉院にそう告げると足早にこの場を立ち去った。その場に取り残される呆然としたオレと、特に興味の無さそうな琉院。
自分にはまるで、三里さんがここから逃げたようにも思えてしまう。
「…………」
「…………」
一人抜けただけでこんなにも居辛い空気に早変わりだ。緩衝材、中間役、そんな役割が居なくなればこんなにも体が重くなるのかと、個人的な新発見である。
言葉を重ねる必要も無く、これは単純に言って……気まずい。
そんな雰囲気に飲まれそうになる事を耐えるのを十分ほど、三里さんはまだ戻ってこないままだった。琉院の家に連絡を入れるのはそんなに時間がかかるのだろうか。
「……そ、それにしても、ちょっと遅いな、三里さん」
「…………」
沈黙に耐えきれず、何か言われること覚悟でこうして話題を振ってみたのだが、さっきから物憂げに外を眺めるばかりで琉院は何も答えないし話さない。その姿は、先程よりも空虚なものに見えた。
少しの間とはいえこれまで見てきた彼女の何かが、足りていない、抜け落ちているような感覚。そして今、この場で無くなったものといえば言えば――
「…………ねぇ、遠原櫟。ひとつ、聞いてもいいかしら」
琉院槙波はようやく口を開いた。寂しげな目を外に向けたまま、いつものような覇気を感じさせない声。その様子は、雨が降り続けてどんよりとしていた気持ちを更にひどく不安にする。
「随分と改まって、なにが聞きたいんだ?」
「……その、あなたと亜貴は本当に……好きあっているの?」
その言葉に、オレは沈黙してしまう。元々それは、三里さんが自分達のやっていることを隠すために言った嘘、出任せだ。自分はそれをなんとなく流して、あの人の言うままに従ってきた。だけど、これは嘘であることに変わりはない。
悩む。まだ三里さんの目的である、琉院の誕生日は終わっていない。明日か明後日になれば真実を話してもいいだろうが、今嘘だとばらしたらどういうことなのか、目の前の琉院に追求されてしまうだろう。しらを切りとおすのは難しいだろうし、それでは本来三里さんがやろうとしている事を台無しにしてしまう。
そうやって考えた末に、決めた。ならば、後で自分が泥を被ることになろうとも今はこの場を乗り切ろう。
「……それは――」
「――いえ、ごめんなさい。今聞いたことは、忘れてちょうだい」
オレは、そうだと答えようとした。だが琉院は答えを聞くのを拒否する。理由はわからない。
ただ、彼女の表情はやはり憂いているようで、なにか悲しさを感じているように見える。その顔が意味するところは、なんなのだろうか。
しかし本当に三里さんは、いつになったら帰ってくるんだろう。琉院の家への連絡なら電話でもいいはずだ。それでこんなにも時間がかかっているというのは、なにかおかしいように思う。
「琉院。悪いが、少し席を外させてもらう」
「……かまいませんわよ。むしろ、あなたがいなくなれば清々します」
憎まれ口だが、どこか切れの悪い言葉。これまでのような強い態度でなくなったのは少し嬉しい気もするが、同時に不思議だ。しかし、今はそれ以外に気にするべきものがある。
席を立ち、男用のトイレの中に入る。中には誰もいないようだった。鏡の設置された手洗い場の前で携帯を取り出して、メールの送信画面を開く。宛先は、先ほど手に入れたばかりの三里さんのアドレス。用件は、今どこにいるかだ。
文面を考えて、文字を打ち始めようとした時。
携帯電話が震え、画面にはメールが届いたというように表示される。こんな時に、と思いながらも、受信したメールを読んでみるために、受信ボックスを開く。
そのメールの送り主は、三里さんだった。たった今連絡しようとしていたところに、本人からメールが送られてきたことに驚いたが――それよりもそのメールの内容のわけが、わからなかった。
『遠原さまへ。
お嬢様の事、よろしくお願いします』
それは、普通に見れば深い意味なんて無い、ただのあいさつなのかもしれない。この不安は、オレの考えすぎなのかもしれない。
だけど。それは、十年以上を共に過ごしてきたという琉院槙波を大事にしてきた、三里亜貴という人物の言葉にしては他人任せすぎるように見えて。
まるで、この文章の前には「私がいなくなっても」とついているように感じられて。携帯から顔を上げると、鏡の前でそのような想像をして震えている自分の姿が見えた。
不安な気持ちが心の中を占めて、今すぐここから駆け出してあの人を探しに行かなければ行けないと思った。そのためか、自分の身に迫っていた危険に気付けなかったのだろう。
メールを見て、このトイレから駆け出そうとした時。首筋を背後から強く打撃されたような感覚が走り、意識が一気に薄くなっていく。立っていることもできずに倒れながら朦朧としていく視界の中、チラリと鏡に見えたのは怪しげな、身なりの整った黒いスーツの男達。
それを認識した直後に、オレの意識は何も見えず、何も感じられない闇に閉ざされた。