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異世界少女来訪中!  作者: 砂上 建
初夏の来訪者
24/53

水場の三人、風呂場の二人

 オレたち二人はすでに昼食を食べ終わった後だというのに、噴水の縁に座ったままでいた。理由は食後の休憩でもあり、ついでに言えばここは気持ちがいいのだ。

 背後には噴水が涼感を漂わせ、爽やかな風が涼しさを全身にまとわりつかせる。座っている姿勢といい、暑い夏の休憩場所としてはもってこいだと思う。

 また風が吹き、髪を揺らした。三里さんの深い紫色の髪が、飛んできた水滴からの光の反射でキラキラと輝く。


「風が気持ちいいって、ここじゃ本当に実感できますよね、三里さん」

「そうですね。ワタシもここまで爽やかな気分でいられるのは久しぶりです」


 座りながら手にあごを乗せて思う。平穏だな、と。

 こうして誰かと横に並んで安らげるような時間は、最近はなかったものだ。吹き抜けとなっている天井から直接注がれる日差しは、暑さを和らげられて今ではむしろ暖かく、全身が浴びても不快になるということもない。

 時折この商店街の中心部分を通っていく人たちがこちらを見るのは、学生服とメイド服の組み合わせが珍しいからだろう。熱くなるとしたらその恥ずかしさで顔がそうなるのかもしれないが、不思議とそんな感じはまるでしない。ここの居心地の良さにしてみれば、それぐらいの噂に晒されるのは特に気にならず足元に吹くそよ風のようなものだった。


 土曜の昼、徐々に喧騒を増していく街の中でオレたち二人はあまり喋らず、ただ穏やかに座っていた。会話が無い状況を、あまり息苦しいと感じずにいられるのは、こうしているのが三里さんの素だとなんとなしに理解できてきたからだと思う。

 横に目線を少しずらして、三里さんの方を見る。視界に入った横顔から感じられる印象はやはり、この人が美人だということだろう。やや丸みを帯びつつも流れるような眼に、薄い化粧でもはっきり綺麗とわかる顔つきとそれを邪魔しないくらいに顔にかかった紫の鮮やかなサラサラとした髪。雰囲気を一言で表すなら透き通った氷、というところだろうか。

 あまり見すぎるのも駄目だよなと、そこで視線を逸らすが頭の中までは即座に変えられなかった。興味は、今の三里さんとしては一番特徴的であろうメイド服のほうにいった。白のエプロンドレスと黒のロング丈のドレスのような衣服。今でも喫茶店で使われたりしているようなそれを、こんな日常の場面で使っているのは直接聞いたわけではないが、きっとこの人が本職のそういう人だからだろう。琉院のこともお嬢様と呼んでいたから、多分それはほぼ確実。

 なのでそれについて聞こうと思っていたのだが、琉院の名前を思い出すと、それより興味深い事柄を思いつく。聞くならばこちらのほうがいいと、質問を変更して話しかけてみる。


「そういえば三里さん。琉院とは、付き合いが長かったりするんですか?」

「お嬢様との付き合い、でございますか? ずいぶんと急な話ですが、そうですね。かれこれ……明後日で十一年ほどになるかと」

「明後日って言うと……琉院の誕生日ですね。二人が初めて出会ったのもその日、ってことですか?」


 こくり、と顔色を変えずに三里さんは頷いた。つまり十年以上、この二人は一緒にいるというわけだ。十年、という言葉に樫羽の顔が少しだけ脳裏にちらついたが、それは今は関係ないだろう。

 三里さんは、いままで以上に饒舌になって話を進める。


「はい。今と比べたら少々劣るかもしれませんが、あの頃からお嬢様はすでに将来は麗人になることを予見させられるようなかわいらしいお方でございました。しかし外見以上にかなり素直でしたから、そのあたりが特によかったものかと」

「琉院が素直、ですか……」


 今の琉院を少ししか知らないから、想像がうまくできない。苦笑いを返すと、三里さんも今は違うと言いたげに、目を閉じながら肩を落としていた。


「……今は確かに少々意地を張りやすいところがありますがそれはとにかくとして、昔はそれはそれは毎日楽しげに過ごされていらしたのですよ。花の冠などを作られてワタシにくれたこともありましたし、本来ならワタシが言葉を弁えなければいけないのにお嬢様のほうがかしこまってしまったりしたこともありましたしね」

「……やっぱり、ちょっとオレには想像つきません」

「そうでしょうね。まぁ、遠原さまからしたらそれでもいいかと」


 いいのか。確かに最重要かと言われるとそんな話でもないような気はするが、まぁいいというのならいいのだろう。現状初めて琉院にいい印象を持てそうなエピソードが山のようにありそうな過去話を軽くすっ飛ばし、しかしそれで新しく興味が湧いた部分について聞く。


「それじゃあ、二人はどういう縁で出会ったんですか?」


 三里さんは少しだけ上を見た。そして何故か、口元を軽く歪ませる。それは生まれて始めて見たような、微笑と呼べるかも怪しいようなものだった。

 それが好意的なものだというふうに理解して、始まった話に耳を傾ける。


「ワタシとお嬢様が出会ったのは、家同士の交流……みたいなものだったはずです。お嬢様のお父上、そしてワタシの母が以前から交流があったとかなんとかで、その子供だったワタシたちも会わせようとしたとか。仲良くなれるかは最初不安なところでしたが、今ではこの通りの関係ですよ」


 弾みそうでギリギリ地を転がり続けてるような、微妙な調子の声で三里さんは教えてくれる。

 どうやら昔から仲は良かったらしい。それはいいことだと思うが、それならばなぜと思う箇所もあった。


「……それじゃあ、なんで今では主従の関係みたいに?」


 聞いている限りでは、昔は極々普通の友達だったという風に察せる。それが気づけば片方がお嬢様と呼び、もう片方はその敬称をあてられている。気づいたら、というようなうっかりでは無いはずだ。


「それはですね、ワタシが母とお嬢様のお父上に頼んだのです。どうか、槙波――お嬢様と一緒にいたいので、彼女に仕えさせてくださいと」


 その声はよく通って聞こえた。それだけに、想像していなかった言葉は心を殴りつける力が強く、衝撃を受けたような気に陥る。その状態から何とか復帰して聞き返した。


「……三里さんが言い出したことなんですか? それって琉院は……」

「親たちにはなんとか許していただけたのですがね。お嬢様の方はそれはもう、これからも一緒ですよと言ったときの喜びようと、従者としてと言ったときの怒りようはすごい落差でした。天国から地獄、未来文明異世界から原始文明異世界と言う言葉がよくお似合いになっておりました」


 最後のたとえはよくわからないが、それはまた、琉院も最初はずいぶん喜んでいたんだろうなぁ。そこに友達じゃなくて別の方向で一緒にいることになったのだと伝えれば怒るのも当然か。首を縦に数度振って頷いてしまう。


「でもここ数日の様子を見てると、二人ともそんなに険悪というわけでもなさそうですよね。ちょっと三里さんが悪ふざけをよくしている気もしますけど」

「それはもう、いっぱい可愛がって、そして同じくらい可愛がられましたから。寝床の中で」

「いや、そういう冗談はいいです。そのシーンに興味はあっても、本当だなんて思うほど脳内がピンク色の花畑にはなってませんから。それで、実際はどうしたんですか?」


 じっとりと、肌に張り付くような視線を浴びた。それの発生源である三里さんは半目になったままで、それを直さずに話を進めていく。その手のものに興味があることぐらい、いいじゃないか。


「遠原さまもこの短時間で冷たい顔してあしらうようになるとは、つまらない男になったものです。それはとにかく、実際はワタシが必死になって謝り倒しましたよ。毎日毎日、お嬢様にきちんと納得してもらおうとしていたら、その内に折れてもらえまして」

「それで今ではこんな関係になっていると」


 はい、とだけ三里さんは短く肯定した。なんともシンプルなように思える話である。それで問題が出ているわけではないようだし、口を出す必要もないだろうと特に気にすることもなく、これ以上の質問は無しにした。三里さんも特に聞かれないなら話す気はないらしい。

 またしても風が吹いた。三里さんの編まれた髪を揺らし、どこからか飛んできた葉がいくつか目の前を通り過ぎる。そろそろここを出てもいい頃だろうと腰を浮かせる。


「――よぉ、坊主じゃねぇか!」


 耳に入ってきた聞き覚えのある野太い声が呼び止めてきた。頭に浮かんだのは以前東のほうで会った壮年の大柄な牧師の姿で、声がしたほうを振り返ればそこにはまさしく思い浮かべた姿そのままの、グリッツ・ベルツェがいた。ビール缶を持った右手を上げて、こちらに近づいてくる。


「いやぁ、まさかまた同じようなところで会うとは思ってなかった――」


 こちらに向かって歩いてきたかと思えば、何かに目線を合わせたままの状態で突然その歩みを止めた。確かにこっちの方を向いているのだが、なにか恐ろしいものでもあったのだろうか。

 不思議に見ていると、急に指を向けてきた。指先はこっちの方を指しているのだが、何に向けているのだろう。そうも思えぬうちに声が上がる。


「――ってぇ、なんでメイドがここにいやがる!?」


「え?」

 慌てた様子のグリッツさんに、つい抜けたような声を上げてしまった。それほどに、まさかその口から出るとは思っていなかった単語が出たことに驚きを隠せなかったからだ。

 メイドっていうと、多分三里さんのことだよな。そちらのほうを見ると、三里さんのほうもグリッツさんのほうに手を振っている。相も変らぬ愛想のない顔でだが。

 そういえば、ここに来る前の会話で神父がなんとか、と言っていたような。まさか、とは思うが。


「……三里さん? あの人は……」

「えぇ――ワタシの知り合いの神父ですね」

「牧師だっつってんだろ、いい加減覚えろ!」


 三里さんの発言をすかさず訂正しているが、それでいいのかアンタは。いや、確かに牧師と神父は違うんだろうが、それでも今言うことじゃないだろう。

 ……しかしかくいうオレも。


「……マジかよ」


 それだけしか、出てくる言葉はなかったのだが。


 ++++++++++++++++++++


「信じられねぇ。お前、こいつと行動共にしててよくやってられるな。しかし、今からでもやめたほうがいいと思うぞ? これ、牧師的忠告な」

「遠原さまもこの駄目大人と過ごしたことがあるのですか。ならば分かると思いますが、日中から酒飲むわ女性を引っ掛けてくるわで実に堕落しきっているので目に入れないほうがよろしいかと。あ、これメイド的アドバイスです」

「両方耳に入れるなって言いたいのはわかった。とりあえず……二人とも、仲悪いんですか?」

「え?」「そう見えます?」


 右に三里さん、左にグリッツさんと二人に挟まれた形で座っているオレは、今のような言い争いと呼べるかどうかも微妙ないがみ合いを間で聞かされているわけなのだが、いまだに関係がどうも掴めないでいた。嫌いとはハッキリ言わないのに相手を悪くいい、しかも時折「先日はどうも」「いやいや」みたいな会話をしているので好意的なのかと思えばどうもそうではないみたいだし。


「しかしメイド娘、お前外に出てまでその格好とか恥ずかしくないのか? 滅茶苦茶浮いてるぞ?」

「それは神父様も同じでは? 正しくゴキブリと見まごうほどの黒さでございますよ」

「だから牧師だっての。おい坊主、このメイド娘と自分、どっちがまともな格好してるかお前ならわかるだろ?」

「遠原さま、お体などいかがでしょうか。今なら胸、肩、唇、お尻など1タッチでワタシに一勝と遠原さまの一生を捧げてくれるだけで問題ないですよ」

「魅力的な提案ですけど一生を捧げるのが警察相手になるだろうから遠慮しておきます。ついでに二人とも一昔前なら通報されても文句は言えないからドローです。というか二人ともやっぱり仲悪いでしょう」

「まさか」「ねぇ」


 やはりこうして合わせてきてるあたり普通に仲は良いんじゃないだろうかと疑いの目を向けてると、少し前にも聞いたような電話の音が鳴り響く。たしかこれは三里さんの携帯電話の音だ。

 三里さんはポケットから取り出した電話を確認して立ち上がった。


「……申し訳ありませんが少々席を外します。遠原さま、この神父には騙されぬようご注意を」


 牧師だって何度言わせりゃいいんだ、というグリッツさんの叫びを無視して三里さんはこの場を離れていく。噴水の縁に座っているのはオレと酒臭い牧師の二人だけで、むさくるしい。まさか唯一の女性が少し場所を離れただけでこうなるとは、夏の男っ気というのはすごいものだ。

 このまま自分もトイレとか言っておいて逃げようかと思っていたら時すでに遅し。肩と首の辺りにグリッツさんの腕が回されてきた。傍目から見るとただちょっと寄りかかってきただけのようだが、実際は腕ががっちりと俺の身体を押さえていた。逃がさないというのを力だけでオレに伝えてくるとは流石だと思うが、そこまでして引き止めるかというような戦慄すら覚える。


「……で、メイド娘が居ない今だから聞くが、坊主はあいつとなにしてるんだ? やはり若い男女二人だし、逢引きでもしてたか?」

「違いますよ、ただの買い物の付き合いです。オレとしてはさっきから何度も聞いてるんですが、二人の関係をいいかげん教えてほしいですよ」

「自分とメイド娘の関係ぃ? そりゃあ……」


 そこでグリッツさんは持っていたビール缶を一気にあおった。口元からビールを離して一息、ぷはっ、と吐いてから――


「昔に自分が話を聞いてやったってぐらいだな。ああ間違いねぇそれぐらいだ。その後たまに会うこともあるけどな」


 そう、一言で説明を終えた。やけにこざっぱりとしていて詳細はよくわからないが、なんとなく二人の関係性はわかったような気もする。自分も前にこの人に少し相談をした身だからだろうか。


「その割には、ずいぶん二人とも慇懃無礼に話し合いますよね」

「そりゃあのメイド娘、出会ったときからそうなんだぜ? 夜中にここの商店街でひっそりと相談室まがいのことをして稼いでいたら、いきなり中学生ぐらいのガキがやってきて「そこの酒臭い神父の殿方、今は何も言わずワタシの愚痴相談を受け付けていただけませんか。何か言うとお酒の臭いが漏れるので」とかなんとか言ってきやがったんだからな……あ、もう入ってねえや」


 再度ビールを飲もうとしていたようだが、さっきで全部飲み干してしまったのだろう。今日はビニール袋を持っておらず、残念そうにしているので今日はもう無いということらしい。


「まぁとにかく、坊主が妬くようなところは微塵もないってことだな。安心してあのメイド娘とでもなんでも付き合っちまえよ」

「いや、そういう理由じゃないんですが。単に気になっただけですよ、知り合い二人が知らないところで繋がりがあるってのも不思議ですし」

「いやいや、それでもなぁ。自分としてはやっぱり、あのメイド娘を抑える男でもいてくれるとやはり楽なんだよ、これが」


 それをオレにやらせようっていうのかこのおっさんは。二日前には話を聞いてもらった身で色々助かったと感じるところはあるが、それでも限度があるぞ。

 グリッツさんはオレが否定しようともなお、強引に三里さんを薦めてくる。


「坊主としても……あー、あの服装じゃわからねえかな? 最初に会ったときに比べりゃずいぶんと豊満な、女らしい体になってるぞ? 坊主も男なんだし、そういうのは好きなほうだろ」

「豊満て。でもまぁ一応……一応ですけどそれは知ってますよ、ええ」

「……ふぅん?」


 グリッツさんの表情がわずかに下卑たものになっていく。この時やっぱり言わないほうがよかったかと気づいたのだがもはや手遅れだった。

 少し、肩にかかる重量が上がった気がする。グリッツさんが少し力を込め始めたのだ。身を乗り出すような体勢になって、乗った腕が肩に押し付けられる。


「坊主、あの服はけっこうダボッとした面もあるからその辺りをうまく捉えることはできないはずなんだが、どうやっていい身体してるってわかった?」

「……なんか楽しんでません?」


 牧師はニヤリ、と歯を見せて笑う。それは楽しいと思っていることを証明しているようで、要するにこの牧師オレで遊んでやがるなこの野郎、という話だ。純粋な若者を玩具にすんな、というつっこみはグッとこらえて真面目に思ったことを聞いた。


「というかグリッツさんに娘がいたら同じ年代ぐらいであろう歳の女の子にセクハラとか、許されざる行為ですよね、だから肩痛いんで力抜いてくださいいやマジで」


 娘がいたら、という言葉のあたりでオレにかかる重みが爆発的に増幅した。どうやら地雷にでも触れていたらしく、グリッツさんの手には血管が浮かび上がっている。


「……自分な、まだ独り身なんだよ。そんなままこの歳になって娘だとか息子だとか嫁だとか、そういう単語を聞かされる身の気持ち、分かるか?」

「ああ――大変なんですね」


 パッと肩に乗っていた重みが抜けて、身体が軽くなり、近くを漂っていた酒のにおいが消える。グリッツさんが腕を離して、元の位置に深く腰を下ろしたからだ。

 その状態で、彼はため息をついた。


「……ま、そういう話はともかくとしても、メイド娘も結構変わったもんだな。身体だけじゃなく、顔つきも」

「なんだかまるで、昔は今よりも綺麗じゃなかった、みたいなことを言ってるように聞こえますよ?」


 いやぁ違う違う、とふらふらと手を左右に動かして否定される。そういうことじゃなければどういう話だと、聞く前に話は続いた。


「あのメイド、昔は相当辛気くせえ顔してたんだよ。自分の前に初めて顔見せたときは驚いたぞ、なんだこのやたらと不幸そうにしてる娘っ子はってよ」

「三里さんが……?」


 あの人はてっきりこれまでも無表情を貫いてきた人だと思ったが、グリッツさんと出会ったときにはそんな顔をしてたっていうのか。意外という言葉がぴったり当てはまり、同時に謎という空き部分が新たに生まれる。

 オレは三里さんの方を横目でチラッと確認しつつ、グリッツさんに聞く。


「あの……あまりこういうことを聞くのは常識知らずなのかもしれませんが、三里さんがその時した質問っていうのはなんだったんですか?」


 意を決した質問に、グリッツさんは喉を唸らせ、顔を渋くする。教えていいかどうか、迷っているのだ。

 彼もまた、三里さんが行った方向を少しだけ見た。そしてそのままこちらに目を向ける。


「……仕方ない。詳細は話せんが、おおまかな事は話してもいいか。あのメイドが言ってきたのは『お嬢様』とかいうやつの生まれと……まぁ、自分の事に対する苦悩みたいなもんだったかな。これ以上はあのメイド娘の個人的な部分に関わることだから、聞きたきゃ後はあいつに聞け」

「それだけでも聞ければ……今はいいです。もっと気になるようなら、どうにか自分で調べますから」


 それでいい、とだけ言ってグリッツさんはこの話の終わりを宣言する。先ほどのようにだらけきったものでは無いが、崩した姿勢で座って三里さんを待つようだ。

 オレは指を合わせつつ、座りながら腰を前に倒してグリッツさんの言っていたことを考える。

 『お嬢様』。つまり三里さんにとって琉院の生まれが、三里さんの悩みになっていたということか? だがそれはなぜ、という肝心の部分はプライバシーということで隠されているので、考えるかどうにかして答えを知るしか方法は無い。

 考えるというのは、与えられた情報を組み合わせることで初めて成り立つものだ。しかし現状で情報になるものはまるで無い。

 そうなると自分が選ぶのは答えを直接聞くか、もしくは正解に近づける情報を得ることだ。もっともこれは興味であり、わざわざ詮索する必要は、と問われれば――


(まぁ、無いんだよな)


 なので、この件は一時保留ということにしておこう。もしも近づける状況があれば聞いてみようかとは思うが、本人には聞きづらそうな問題だし、あとの関係者は家族や琉院なのだろうがそちらにも聞けるだけの繋がりは無い。

 事実上無理だな、とお手上げのイメージを頭に浮かべていると、隣から「……しかしまぁ」と呟く声が耳に入った。


「そんな辛気くさい顔も、坊主に見せてないってことはきっとなんとかうまくやってんだろうなぁ……」


 心から安心したような、穏やかで優しげな声。呟く声の小ささからわざとというわけじゃなく、どうも勝手に漏れてきたものらしい。

 さっきまでメイド娘だのなんだのと言っていたわりに、心配性なんだなという風に感じるその姿を、一言で形容できそうな言葉を一つ見つけた気がする。

 言えば怒られそうなものだが、やはりお似合いだよなと思いつきに納得していると、むさくるしい中に吹く風のような、涼しい声が聞こえる。


「遠原さま、そろそろ市場に向かいたいという連絡を待機させていた車の方から受け取りました。ここでの買い物をできれば少しでも済ませておきたかったのですが、仕方ありません。北の出口近くに車を停めてあるのでそれに乗って移動することにしましょう」


 もうそんなに時間が経っていたか。立ち上がって、別れを告げるためにグリッツさんのほうを向いた。


「ん? お前らは用事があるんだろ。それじゃあ自分が引き止めるなんてできないだろ、さっさと買い物でも逢引きでもなんでもやってこいよ」

「それではお言葉に甘えて、この神父はほうっておいて行きましょうか、遠原さま」


 だから牧師だと……とまでいいかけたところで、グリッツさんはやれやれ、と言いたげな呆れた表情になって言葉を発するのをやめた。最早訂正するのもあきらめたらしい。


「それじゃあオレたちはもう行きますね。いつかは分からないけど、また会ったらよろしくお願いします」

「ああ。しばらくはこの辺りにいるつもりだから、もしかしたらまた明日にでも会うかもしれんが……それじゃあな」


 それだけ告げあってから、オレと三里さんはその場から離れていった。グリッツさんは軽く手を振ってからその場を立ち上がり、同じように去っていったのが、チラッと目に入る。

 やがて、噴水の位置から北に30mほど進んだあたりで横を歩く三里さんに尋ねてみた。ここなら多分、オレ以外には聞こえないだろうから。


「三里さんはグリッツさんのこと、どう思っています?」


 考える必要があったらしく、横を行く三里さんは小さくふむ、というような声を出して、数秒ほど小さく俯いてから答えを出した。


「……駄目な大人、というような上っ面の評価の話ではないのでしょうね。そうなると――頼りない恩人、というところでしょうか? とにかくただの知り合いと断じるのは心苦しいですし、あの牧師にも悪いですから」


 ……牧師、ねぇ。どうもこの二人はお互いが素直になれないらしい。いつかちゃんと話し合えるようになるといいけどと、将来的にもあるのかどうだか分からない光景を夢想しながら、オレは商店街の北出口のそばにある黒塗りのワンボックスカーを発見して、駆け寄っていった。


 ++++++++++++++++++++


「……ふぅ……」


 視界に白く薄い湯気と、清潔感のある淡く優しげな色の天井を収めながら、一息。

 身体に暖かさがじわりと入り込み、神経を通るようにして伝播していく。

 この感覚は生まれてからいくら経とうとも変わらない、私にとってはお湯に入る時の通過儀礼のようなものだった。

 湯の水面に大きな波紋が生まれていた。年々大きくなってるようなそれを眺めつつ、湯により深く浸かる。安らぎが沁みとおる、というのか疲れが抜けていく、というのか。身体に入るという表現と身体から抜けていくという表現のどちらもがあるのはなかなか面白いかも、と思いつつ私はゆったりとした気分で入浴をしていた。


「……遠原さん、今日はまだ帰ってこないなんて……」


さっき時計を見たときは午後の六時を回ろうか、というところだった。普段なら夕食がそれより少し後となるのだが、遠原さんがまだ帰ってこないので樫羽ちゃんが「では兄さんが帰ってくる前に、先にお風呂だけでも済ませてしまいましょう」と言うので、こうして一番風呂を堪能させてもらっているんですが。


「……今日の内に、ちゃんと伝えてしまいたかったんですけどね」


 顔が少しだけ湯に入り、耳に近い位置でちゃぽん、という水が揺れる音がした。顔は少し熱く、しかし頭はどこかすっきりとしているような感覚。のぼせる、ということがこれまで無かったので分からないが、これなら心配無いだろう。自分はお湯には強い方だと言うことを自覚しながら、今日やろうとしていたことを思う。

 遠原さんが夜に出ていったあの日から今日までのことの謝罪と、その理由と。言いたかったことは多いのだが、それだけに頭の中でまとまりきらない。だから一つずつ、この休日の時間を使ってでも伝えようと思ったのだが、当の本人が帰ってこないとなると何も出来ない。電話で伝えるのは長くなりそうだから電話料金の問題でやるわけにもいかない。

 そこでふと、そういえばということを思い出す。樫羽ちゃんや遠原さんが時折、携帯電話という機械でメールというようなものを使っていたことだ。

 ……あれを使えば、なんとか……? というような希望が少しだけ湧いたけれど、それも薄霧のようにすぐに吹き飛んだ。

 理由は一つ、文章にしようとしたところ、一行目から何も浮かばずつまずいたのです。単純に何から書けばいいのやら、という具合に書くことが多すぎた。

 いい案だと思ったのに、とため息を湯気に呑まれながら出していると、不意に脱衣場の方の扉が開く音が聞こえた。浴室と脱衣場をつないでいる戸の窓に、一人分の影が浮かんだ。遠原さんは帰っていないし、樫羽ちゃんだろう。いえ、遠原さんが入ってきていたら大問題ですけど。


「天木さん、湯加減のほうはどうですか?」

「はい、大丈夫ですよー」


 それの確認に来たんですねと納得して、またお湯に身を委ねる。そうですか、という返事が返ってきて、出ていくのかと思えば聞こえてきたのは扉を開く音じゃなく、閉じる音。

 影はまだそこにあって、するり、というようななにかが脱げる音が聞こえ始める。


「――それでは、わたしも入りますので」

「……はい?」


 今何か、とてつもなく不穏当な発言が聞こえたような気が。ええっと、樫羽ちゃんがここに入るってことは、ええっと。

 ……なるほど、こういうことですか。つまり私がのぼせたばかりにそのような聞き間違えをしたと、そういうことですね。そうでないと困る、ということもありますし、これ以上はお風呂に入っていないほうがいいのかもしれません。

 そうです、今から樫羽ちゃんが入るのなら私がいては狭いでしょうし、ここは早く上がってしまうべきですと、はやる気持ちで立ち上がろうとしたのですが、その判断を下すのが遅かったといいましょうか。

 浴室と脱衣場の間をつなぐ戸は綺麗に開かれる。そこには堂々としたような立ち姿で全裸の樫羽ちゃんがいて、私のほうを見た。


「さぁ。それでは、兄さん抜きで女同士の話し合いを始めましょうか」

「え……えぇっ!?」


 樫羽ちゃんがいきなり伝えた内容に、私はさらに困惑する。ただでさえ急にお風呂に入ってきただけでも頭を一気にかき乱されているのにそこに話し合いを持ち込むとは、まさかこの子は私に正常な判断をさせる気がないのでしょうか。いえでも、樫羽ちゃんはそんなことを自分からするような子ではないと思いますし……単に、やってることがそうなってるだけですよね。

 現に今、浴室に入ってくる際も特に悪そうな顔はしておらず、不自然な動きはまるで無い。多分、私の想像は当たっている。

 そうしてボーッと眺めていると、流石に樫羽ちゃんも恥ずかしかったらしい。顔を赤くしながら、体を洗い始めていた。


「や、やめてください天木さん。そうやって見ていられると、少し恥ずかしいので……」

「いえ、恥ずかしがる必要は無さそうに見えますよ? 樫羽ちゃん、綺麗ですから」


 本当は樫羽ちゃんがなにか思惑を持っているのかということを確認しようとしただけなのだが、それでも目に入る身体は綺麗なものだった。

 縛りを解かれた黒髪には艶があり、何も纏っていないその細い身体はゆるやかな曲線を描き、それを見るだけなら誰かに抱きしめられれば折れてしまいそうだ、という儚げな印象になるのかもしれない。

 だけど樫羽ちゃんの顔つきと、常に放っているように思える、凛とした真面目そうな雰囲気が、その弱々しさを打ち消す。そこに残るのは、単純に綺麗な樫羽ちゃんだ。嘘偽りの無い正直な感想を、しかし正確には伝えたりしない。樫羽ちゃんは案外褒められるのに弱く、そこまで賛辞を送ってしまうとお風呂に入る前からのぼせてしまいそうだからだ。

 それでも綺麗という言葉には焦りを隠せないようで、いそいそと身体を洗う準備を進めるもシャワーの温度を上げるのを忘れ、冷水に襲われていた。


「うっ、つ、冷たっ!?」

「樫羽ちゃん、もう少し褒め言葉にも慣れておきましょうね?」

「……はい」


 まったくと思いながら、目の前で反省した樫羽ちゃんがシャワーの温度を上げていくのを眺める。そして今度こそ、浴びるのに相応しい適温のものが出てくる。

 まずは髪の毛を伝い、顔を流れて、そして身体から足下へとお湯は行く。先ほど誤って冷水を浴びたのが結果オーライというやつなのか、気持ちよさそうだ。

 水気をまとい、さらに艶を増す黒い髪を見ていると、遠原さんの知り合いにいる、もう一人の黒い髪の方を思い出した。


「こうして素の状態の髪だと、二人並んだら那珂川さんとは少し区別が付きにくいかもしれませんね」

「……そうでしょうか? 以前そんな話をしたときに兄さんは『髪下ろしたお前と那須野の見分け方? そんなの余裕余裕、誰でも分かるって』というように言っていましたが」

「そうなんですか? 遠原さんは樫羽ちゃんのお兄さんですから分かるだろうとは思いますけど誰でも、というと何か決定的な特徴が……?」


 髪の毛を洗い始めた樫羽ちゃんを、記憶の中の那珂川さんと照らし合わせるように見る。

 二人とも、髪型に違いはあるが下ろしてしまえば普通の黒い長髪だ。それにどことなく、雰囲気も似ている気はする。顔を見ていても、余計同じに見えるだけだと思い、今度は目線を身体の方に向けた。

 あまり同性の裸体を眺めている、というようなことを強く思わないようにして眺めてみると、自分にもなんとなく分かった。確かに、見分けられるだろうというものが見つかったのだ。


「ふふ、私にも分かったような気がします。髪を下ろしてるときの樫羽ちゃんと那珂川さんの見分け方」

「本当ですか? わたしもできれば知っておきたいのですが」


 驚きを少し含んだような顔でこちらを見てきた樫羽ちゃんに私は、そうですねと一言だけ前置きをし、浴槽の縁に乗りかかって自分の発見を教えてみた。


「やっぱり体格でしょうね。樫羽ちゃん細い方ですし。だからといって那珂川さんが太いわけじゃないですけど、それでもやっぱり差があります」

「……細い、ですか……」


 私が言ったことを反芻したあと、なぜかそこで樫羽ちゃんは黙ってしまった。顔を下に向けて自分の身体を見ているかと思えば、時折こっちのほうも見てくる。実に不可解だけど、多分悪いことじゃないでしょう。

 私もできる限り話しかけないようにして、現在一緒に入浴中の相手を眺めている。あまり近しい女の子とお風呂に入るような経験が学校の宿泊行事以外になかったので、少しだけ照れがあるけれど、不思議と一緒にいるのが樫羽ちゃんだということを意識していると、どことなく穏やかな気分になっていくような感じがして落ち着く。


(……だけど、樫羽ちゃんの視線を追っているとどうにも羨ましくなってきますね……)


 手を動かして髪を洗いながら、彼女は己の身体をやけに眺めている。それが気になって、私もついそっちへと目線を動かすのですが……なんというか、本当に羨ましいとしか言えません。

 細くて、それでいてしなやかな動きをする身体。白すぎず、それでいて焼けたような感じがあまりない肌には憧れを抱いてしまいそうで、一般的な――ええ、きっとほぼ多分大体一般的なほうの体つきをしているはずの私には無いものでしたから、目つきは当然のように羨望になっていたと思います。

 ふと、私も顔を落として自身を眺めてみた。さっき焼き付けた樫羽ちゃんの腰……ではなく身体と比較してしまうと……た、確かに差はありますが、ほんの少しですよね。最近食べ過ぎてるかも、だなんていう心配を昨日の夜にしていたりもしましたが、それでもほんの、ほんの少しです。ええ、絶対に。もし太……ではなくて、食べ過ぎていたとしても、それは美味しく作りすぎる遠原さんが悪いんです。


「? どうかしました? なんだかキョロキョロして少し慌てているような……?」


 先ほどまで無言で自分の身体や私のほうを見ていた人に心配されていますが、絶対にその人との差はわずかだと、そういう自己弁護的な逃避思考を重ねながら声をかけられたほうを向きました。

 ……やっぱり、こういった自分を擁護するような思考はいけないですね。なんであんなにはっきりとしたくびれがあるんでしょうか羨ましい。多少の毒を吐いても罰は当たらないような気がするほど開いている差がそこにはありました。天は与えるばかりじゃなく、もう少し預かるということもしたほうがいいんじゃないでしょうか。


「……本当にどうかしました? まさかのぼせてるんじゃ」

「いえいえ、ちょっと自分を騙すようなことはしてはいけないなって思ってただけでなんでもないですよ? あ、後で体重をちょっと量りたいので、どこにあるのか教えてくださいね」

「は、はぁ」


 さっきまでの考えを反省してできるだけ笑顔をつくって樫羽ちゃんに大丈夫だと伝える。表情を見るに少し困惑しているようだが、すぐに髪を洗う作業を終わらせにかかっていた。そういえば長い髪は洗うのが大変だと、昔誰かが言っていたのを聞いたことを思い出しました。今からでも手伝うべきかと思いましたが、そんな暇もなく、十も数えないうちに樫羽ちゃんは作業を終わらせてしまいました。

 そして、シャワーのスイッチを切ると、彼女も湯船に浸かった。撫でたら滑りそうなほど綺麗な足先が、少しだけ波を立てて入ってくる。黒髪が浸からないようにしつつ、まずは右足が入り込み、そして左足が、身体全体が入った。この湯船に二人は多いのか、お湯が少しだけ溢れた。それを気にして、私たちは端に寄ることになりましたが、それでギリギリ二人入れるところになるでしょうか。お互いに端へと寄り、真ん中のほうを空けて向かい合う形。最初に樫羽ちゃんが言ったことにはちょうどいい、対面している状態で。

 向かい合ってから程なくして、樫羽ちゃんが切り出してきた。


「……それでは、まずわたしが言い出したことなので、わたしから言わせてもらいますが、いいですね?」

「……はい」


 先ほどまでシャワーの流れる音があったが、今はそれが無い。ほんのわずかなお湯の揺らぎが聞こえるか聞こえないか、その程度だ。樫羽ちゃんが入るまでは安らぎを与えているように感じられたそれが、今は重苦しい。反響する声が、濡れた髪のように張り付いてくる。

 では、という前置きが入った。それで心が軽くなったのは、そういう意図があったにしろなかったにしろ、感謝したい。だけどそれも、一瞬で飛んだ。


「――いつまで、兄さんとまともな会話をしないつもりなんですか? はっきり言って……少し、苛立ちがあります。このままでは……兄さんがかわいそうです」

「それは……!」


 今日にはしようと思っていた、という言葉を出そうとして、しかし止める。できてない今、それは結局のところ言い訳で、なんにもならないからだ。やろうとしていたから、自分は悪くない。そんなことは絶対に言ってはいけない。自分が望んだことは遠原さんに頼り切って、自分が重要なところにいなかったからと怒って、そして今は、私は悪くないと言いそして張ろうとして。


「……それは……」

「それは、なんですか? 何が言いたいのか、浮かんできませんか? ……

なら、まずはわたしの考えと立ち位置を先に言わせてもらいましょうか?」


 答えに窮していた私に、樫羽ちゃんは次々と言葉をぶつけてくる。どこか苛立たしげで、怒りがあるような声に、私は何も返すことができずに聞くことしかできないでいた。


「まずわたしは、基本的には二人とも、せめてこの前までのようにまともに向かい合って会話ができるくらいの関係には戻ってほしいと思っています。ですが、このまま向き合えない関係が長く続いて兄さんが傷つくのなら……わたしは、お二人の間を引き離すこともいといません。それだけは嘘ではありませんから」


 響いて聞こえる声は、私の耳から体の中へ、のた打ち回るようにして入り込んでくる。そしてそれを実感していくうちに、段々と胸の奥から鈍く冷たいものが広がっていく感じがした。

 それを誤魔化そうと、もう少し肩からお湯に沈んでいく。暖かいお湯に包まれながら、底冷えを忘れられないのを更に誤魔化すために、苦し紛れに言葉を発する。


「……樫羽ちゃんは本当に、お兄さんが好きなんですね」

「ええ、当然です。だって今のわたしにとって一番大切なのは兄さんですから。こればかりはきっと変わるようなものではありません」


 冷えていく身体の芯のほうに、ほのかな暖かさを感じられたような気がした。

 ……本当に。本当に、遠原さんを羨ましく思う。この兄妹の二人ともに、自分は憧れてしまった。樫羽ちゃんは、その細く美しい身体に。遠原さんは、いい妹に好かれているということに、私は羨ましいという気持ちを隠せない。

 樫羽ちゃんはいい子だ。突然ここにきた私がここに泊まることになったり、遠原さんと言い争ったりしても、深く詮索するようなことはしたりしないし、嫌な顔もほとんどしない。だから、嫌われていないとは思う。ただそれが逆に、好きということの証明にはなったりしないことも分かっている。きっとこのままの態度を貫いたりすれば、彼女はきっと私を嫌いになるんだろう。

 身体の奥は、どこか柔らかさをを感じられるほどに暖かい。だけど、現状を続ければどうなるか理解したときから目元が熱い。お湯ではない、されど熱を持ったようなものが目尻に溜まっていく感覚に、私は反射的に顔を伏せた。

 こんな顔を見せるなんて、今は絶対にだめだ。言い訳をしそうになった上に、その癖自分から泣き出すなんて、そんな嫌な女だと見られたくない。

 突然どこからか現れた女が私だ。でもまだ離れたくない。

 急に彼女の好きな人と言い争いをはじめるような女が、私だ。でも、嫌われたくない。

 たとえ好かれていたわけではなかったのだとしても、これまでよくしてもらっていた人からそんな目で見られるというのは耐えられそうになかった。水面に映った自分の顔が見える。

 ……ぐちゃぐちゃですね、これ。泣かないと食いしばって耐えようとしている顔は、目元に溜まった水滴と合わさってぐちゃぐちゃ、という表現が似合う。これで必死ではなかったら、笑いそうだった。

 そんなことになっているとは知らないだろう樫羽ちゃんは、気にせずに続けるようだ。しかし、さっきも言われたように私は彼女の中で、遠原さんとは並べないようなただの客人だとしても、これ以上それをハッキリ聞かされるのかと思うと、溜まりきった涙がついに噴き出そうとし――


「しかし、今のわたしには大切に感じられる人はまだいます。それはあなただって――天木さんだって、その一人なんですよ?」

「……ぇ?」


 不意に聞こえた言葉に勢いよく顔を上げたときに、両目に溜まっていたものはどこかへと吹き飛ばされていた。突然の言葉を、理解もできないままに樫羽ちゃんは更に続けていく。


「だって、兄さんがちゃんと話をして、それでここにいていいって言ったんですから。そんな人が、悪い人だなんて最初は思いませんし……それに、これまででも十分わたしは気にかけてもらいました。そんな人をただの客人だなんて思ったままにしませんし、第一それぐらいならわたしもここまで待ったりしませんよ。本当なら、もう少し待ってもよかったんですが……そうするためには一つ、天木さんのほうにどうにかしてもらいたいこともありましたから」


 ……私が、どうにかしなきゃいけないこと。樫羽ちゃんがもう少し私たちを見守るために、必要なもの。それがなんなのかを考えれば、自ずと一つの答えが導かれた。

 つまり、樫羽ちゃんは私への信頼が足りていないんでしょう。どこかに一つ、どうしても気が置けない部分があって、それがためにこうしてここまできて二人で話すことになったのだろう。

 そして私にとって後ろめたい部分というと、一つ……一人のことに絞られてしまう。ならば、私はきっとそれを教えなければいけない。数十秒前まで焦っていた頭は、彼のことだと捉えた瞬間に恐ろしいほどに落ち着いた。そして深く呼吸をする。

 覚悟は、不思議にもすんなりと決まりました。それは多分、顔を上げた私に見えた樫羽ちゃんの顔が厳しく見えて、だけどこちらにゆっくりと手を差し伸べているような、そんなものだったからで。

 その顔のまま、彼女は言った。


「無理に聞きたいというわけではないのです。ですが、このままなにがなんだか分からないままでも不安なんです。だから――どうかわたしにも、あなたと兄さんがやろうとしていることを教えてくれませんか?」


 それを聞いて私は、少しだけ考えました。まず浮かんだのは一抹の不安。果たして彼女に、遠原さんと櫟くんと私の関係と目的を伝えて、事態が好転するのかというものが浮かびましたが、それでは決心を鈍らせることができませんでした。

 だって、さっきにも誓ったばかりなんですから。自分を騙すようなことはしてはいけないんだと、戒めたのはついさっきの話で。それはもちろん、騙している自分を見せることもしてはいけないのだということのような感覚がして。

 だから――


「……長い話になるかもしれませんから、のぼせないよう覚悟して聞いてくださいね?」


 ――どうか樫羽ちゃんが理解を示してくれることを祈って、私は自分のことを話し始めることにしました。

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