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異世界少女来訪中!  作者: 砂上 建
初夏の来訪者
21/53

挑戦者と訪問者

 朝が過ぎて、正午までももうすぐというところ。私は洗濯物とお掃除をした後に昼食の下拵えをしていました。夏らしく、冷やしたうどんを、刻んだ万能ネギの入ったつゆに浸けて食べるものです。遠原さんも今日は夕方ではなく、昼頃に早く帰ると言っていたのでそれも用意して今は冷蔵庫に入れています。私はもう、それを食べて部屋に戻っていました。遠原さんと一緒に食べるのは辛くて、耐えられそうになかったから。


 入念に掃除した自室には、不潔と思えるような要素はあまりありません。ここに来てからほぼ毎日やっているようなものでしたし、当然なのかもしれない。

 毎日やるという理由は至極単純で、私は今、何もやることが無いからだ。遠原さんと樫羽ちゃんは学校に行っているけど、私は行っていない。当然だ。前に行っていた学校はここの世界のものではないし、こっちに来ても編入試験を受けて学校に行こうということを考えもしなければ、それをやる時間もなかった。最初のうちは櫟くんのことで頭がいっぱいで、その次は遠原さんに対する不満のようなものが私の中にあったから。今は前ほどに遠原さんを恨むこともないけれど……それでもまだ、向かい合って話すには時間がかかりそうだった。


 実は昨日の夜に一度、出かけた後の遠原さんの部屋で彼の帰りを待って、戻ってきたら話し合おうかと思っていた。けどその時が刻一刻と迫る内に私はおそらくその時の自分の心を最も強く表していた鼓動に従いました。数瞬ごとにも速度を増す心音の一拍が、張り裂けそうになる胸が、遠原さんと一緒にいることを嫌がっていたのは明白だと思って……駆けるようにして自分の部屋に戻ったのは記憶にも新しい。

 本当は話したいのに、前に出て話すことができない。

 もどかしい。ただそう思う。いつまでもこうして枕に顔を埋めたり、壁にもたれこんで座るようなことをしていてはダメだということも分かる。

 だけど、まだどう遠原さんに言うべきなのかということすら決められていないのに、前に出ることができるのかというと。


「……やっぱり、無理そうですね……」


 そう呟くしか無かった。何度言ったか覚えてはいないけど、話すことを試そうとする度に言った気がする。

 窓から差してくるはずの光はカーテンを通らず、昼なので電気もつけておらず部屋の中は薄暗い。どうにも自分の気分とリンクしているようだな、と思って口元が微かに歪んだ、気がした。

 その時に偶然ながら、ぼんやりとインターホンを押す音が聞こえた。遠原さんも樫羽ちゃんも居ないこの時間にお客様でしょうか。

 自分の服装を確認してから、部屋を出て階段を下りる。その途中にもしかしたら隣の親切そうなおばさまがまた来たのかもしれないと、一番現実的な想像を胸に秘めて玄関に立つ。インターホンを押す音が、再度響いた。


「はーい、今開けます……!?」


 ドアを開けた先にいたのは、自分が見知らぬ人。私はこの男の方のような服装は見たことがありましたが、着ている方は一度も拝見したことがありません。だから、出てきた言葉はきっと、確認のための一言。


「……神父、さん……?」


 その言葉に、穏やかな笑みを浮かべた壮年の神父さんらしき人はこう言いました。


「いいや、自分は牧師だ。名前はグリッツ・ベルツェと言うんだが――一つ、その前に中に上がらせてくれんかな?」


 ++++++++++++++++++++


「…………どういうことだ?」


 前方にいる琉院が、こちらを指差していきなり勝負と言ってきた。その背後でもカーテンが風に揺れ、窓を通った日光が琉院の放つ後光のように見える状態に一瞬だけなった。

 そのまぶしい光の中でも見える琉院の眼光は、鋭くこちらを見ている。どうも冗談ではないらしい。


「率直に申しまして、あなたのような男がわたくしと同じようにできるとは思えませんの。でしたらあなたがこの勝負に負けたなら、わたくしに『魔王の子』関連のことは優先的に譲ってもらえませんこと?」

「……要するに、お前の望む勝負に勝てなければオレの仕事量が減るってことか?」

「そういうことですわ」


 これはどうしたものか。正直に言って、オレはこいつに勝てると思えない。葉一に二年のトップであるということがどれほどのものなのかを聞いているからだ。自分から引く気はないが、できれば向こうから引いてくれるとありがたい。

 海山さんも実力差はわかっているはずだ。うぅん、と喉を唸らせてオレと琉院を見比べている。


「おい、琉院。遠原がお前に勝てるわけがないだろう、こいつは正直言って凡人だぞ」


 海山さんの言っている事は、おそらく正解だ。少なくとも、オレがこのエリートに勝てる要素はほとんどない。しかし琉院はそんな馬鹿な、とでも思っているような悠々とした態度だった。


「何を言っていますの、校長? 上位詠唱魔術の一つでも行使できれば十分認められますわよ。それで、あなたには何が使えますのかしら、遠原櫟?」

「最高でも中位詠唱で火球を飛ばせるくらいだが?」


 高笑いをして当然でしょ? と言いたげだった琉院に、こちらもまたそれが当然であるように答えを返す。笑う声がやみ、引きつった顔で琉院はこちらを見据えた。そしてまた急に慌てはじめた。


「……じゃ、じゃあこれまで運動能力でやってきたのかしら? 実は那珂川さん以上だとか」

「そんなことができるならオレは今頃運動系の部活か何かに入っとるわ。むしろ下だよ下」

「あなたどうやってこれまでやってこられたんですのぉ!?」


 事実を淡々と伝えていたら、琉院が驚いたように声を張り上げていた。まぁたしかに魔術は並で身体能力も平均的で、どうやって仮にもあの『魔王の子』を捕らえる事に成功してきたのかと言われると納得いかないこともあるだろう。事実、オレにとって特に頼ってきたのは叔父さんの持ってくる魔術使用を制限する装置と特殊警棒、とりあえずの能力の底上げに使う自己複写コピーの三つだ。しかしどれも正しく言えば自分の力ではないということになるし、表現するのも難しい。


「どうやって、と言われてもなぁ……オレには言いづらいし、なぁ葉一。ここは一言、詩的な表現で説明してくれないか?」

「無茶振りにもほどがあるな!? それなら俺は那須野に甘美な雰囲気を漂わせた説明を頼むわ!」

「神田も中々に無謀な要求を……! 校長殿、ここは一つ助太刀願う!!」

「お前らはアホ丸出しか! まったく、遠原にはちょっと人に説明しづらい特殊な能力があるってだけでいいだろうが……まったく」


 次々に説明を友人たちにたらい回しにしていると、海山さんのところでようやくその流れが止まる。呆れ顔になって二度もまったくと言っているが、説明できたならそれでいいだろう。

 琉院は特殊な能力というところに反応したのか、怪訝そうな顔をしていた。


「お嬢様、今は考えても時間がかかるだけだと思われますが」

「……そうね、亜貴。遠原櫟、一応聞かせてもらいますがその能力は見せてもらうわけには?」

「勝負するって言うんなら見せられないな。しないんなら今でもいいが……」


 まだ戦うのなら、おそらく自己複写は絶対に必要になる。やめてくれるというのなら、見せることもやぶさかではないという簡単な取引だ。これで引いてくれるのならば重畳なのだが。

 琉院は長く逡巡をするかと思っていたが、さっぱりとした顔に戻るのは早かった。


「……いえ。どうせなら条件抜きでもあなたと戦ってみたいですし、能力とやらはその中で見切らせていただきますわ」

「さすがお嬢様。自分の要求を両方通すことの出来るほうを取るとは流石です」

「ひ、人聞きが悪いことを言わないの!」

「……そうか、そっちは戦う気になってるのか……」


 悪いことだとは思わないし、オレとしてもちょっとは学年トップの実力に興味はある。追いつけるとは思っていないけど、トップクラスの実力を目の当たりにして自分の糧にするのも悪くはないだろうと思う。だがしかし、即決していいものか。


「――よし、葉一、那須野。二人とも、ちょっとこっち寄れ」


 相談をするべく二人に近づくよう呼びかける。そのまま三人で円を作るようにして顔を近づけ合わせた。後ろにいる琉院たちが聞かないようにしていることを確認してからはじめる。


「……オレとしてはやってもいい、ぐらいには考えているんだが……二人が反対するようならオレもやめておくつもりだ。聞かせてくれ、二人の意見を」

「俺はまぁいいんじゃねぇの、ぐらいには思うぜ? 貴重な体験そうだしなにより、見ていても面白そうだ」


 葉一は軽く、多少曖昧ながらも賛成という意見だった。自分のことじゃないし、楽しめればいいぐらいの考えだろう。

 となると、次に聞くべきは那須野の意見だ。彼女の方に視点を向けると、ひどく真剣な顔をしていた。ただの方向性を聞こうというだけで、何をそこまで真面目になっているのかと思うが、それを言って何になるというわけでもない。


「……某も賛成だ。だが遠原。戦うならば琉院に勝て。勝って、あいつの鼻をあかしてやれ」

「また難しいことを言うな……オレとあいつの実力差、わからないわけじゃないだろ?」


 言葉通り、オレと琉院槙波の実力差は恐らく段違いと呼べるほどに開けているだろう。かたや、研鑽を積み重ねていない凡人。かたや、それらを積み重ねている天才。明白すぎて、比べようもない。

 しかし那須野はオレの目を、槍のようなまっすぐとした眼差しで見ている。そして言葉は強要ではなく、望みになっていった。


「……それぐらい、一応分からないでもないさ。だからといって、それで某は認めるわけにはいかん。琉院が自分が遠原より上だと言っているのを聞くのは、我慢できそうにない」


 朝となんら変わらず、那須野は琉院に対してどこか含むところがあるらしい。原因はどうもオレを貶すような発言に苛立っているからのようだ。しかしどうも、別の可能性を疑ってしまう。


「なぁ、お前ってもしかして、前から琉院のことが嫌いだったりするのか?」

「そんなことはない。まぁ、あいつらも普段はマトモなんだが……遠原を軽視したことは後悔させてやりたいと思ってな」

「なるほど」


 酷く簡単な理由だ。それだけ、それだけとは言っても全員が賛成を示していることに違いはない。そしてせっかく頼まれた勝利の獲得もついでだしこの際、頑張ってみるか。

 組んだ円を解き、振り返って琉院に向き直る。彼女は髪をかきあげて不敵な微笑を見せた。


「どうするか決めました?」

「ああ。あんたの挑戦、受けてたつさ」


 それを聞いた琉院はふふん、と鼻を鳴らした。横の三里さんは相変わらず大きな反応をしていないが、表情が僅かに綻んだように柔らかくなった気がする。二人とも喜んでいるとみていいかもしれない。


「いい心意気ですわ! それなら日程は、来週の月曜の放課後というのはいかがかしら?」

「それでいい」

「決まりましたわね。それでは校長、今日はこれで失礼を。行きましょう、亜貴」

「はい、お嬢様」


 琉院は校長に挨拶をしてからそのまま三里さんを従わせてこの部屋から出て行った。今ここにいるのは全員自分の身内といってもいいはずの人間だけだ。


「……すんません海山さん。ちょっと頼みが」

「なんだい?」

「なんか琉院の情報みたいなものって、無いですかね」


 つまりなにか攻略法を聞こうが聞かまいが、まるで問題はないということ。いや、必勝法みたいなものがあるかどうかはあまり期待していないが。


「お前は本当にセコいな。まぁ、あるにはあるぞ。ちょっと見づらいだろうが…………ほらっ」

「ちょっ、急に投げないでくださいよ! ってこれ……デジカメですか?」


 机の中を漁った海山さんが取り出して投げてきたのはデジタルカメラだった。なぜ執務机の中からデジカメが出るのか、そしてこれに情報がってまさか写真にして撮ってあるのだろうか。海山さんはうんざりとしたように嘆息。


「……琉院のバカ親父がねぇ、なんかやたらと「娘はこんなに成長しました!」みたいな手紙を添えてそれをこっちに送ってくるんだよ。いくら送り返してもまた送ってくるんだ……」

「……成長、だと? さぁさっさと再生だ櫟、早くしろ!」


 なんでそこに反応するんだ親友よ。そしてなんではりきってるんだと、言いたいことはあるがとりあえずポチッと動画を再生する。なにか情報があるのなら、さっさと見るにこしたことはない。

 まず画面に映ったのは主に紅く、巨大な炎の球体だ。画面越しながらも威圧感はこちらにまで感じられる。いったいどういうことだと思っていると、画面下端のほうにチラッとだけ琉院の顔が見えた。デジカメの画質では表情はよくわからないが、画面を占拠している炎が彼女の手の上で燃え上がっている。そのことだけはわかった。

 そしてこの炎は魔術だということを、たった今理解した。しかしこの規模はオレが使う中位詠唱のものとは比べ物にならない。つまり中位詠唱よりも高度なもの、上位詠唱クラスの魔術だということだ。これを見るだけでも自分とあいつの実力差はひしひしと実感できる。

 ……しかも、だ。オレは今朝になって葉一からひとつ、琉院について聞いたことがある。それは彼女が――無詠唱での魔術発動ができるということ。葉一と同じ、と言ってしまうとしょぼっちく感じてしまうが、ここも大きな実力差が開いている、ということだろう。無詠唱でこれだけ大きな力を使えるというのは、正直驚きだった。

 映像の中の炎は恒星のように、時折小さな紅炎を噴出しつつも徐々に小さくなっていく。萎んでいくのではなく、外側の炎が火の粉のようにして大量にどこかへ飛び散っていくのだ。おそらく本物の火ではなく、元が魔力だからこそ危なくないのだろう。火の粉のように見えるそれも多分、炎にした魔力が元の無色透明な魔力に戻っていく過程のうちのひとつ。

 そしてやがてその炎は手のひら大まで縮み、そして火の粉を撒いて消えた。


『いやぁー槙波は本当にすご――』


 ここで映像が終わった。最後に途切れた声は……まぁ、さっき海山さんが言っていた「琉院のバカ親父」という人だろうな、多分。

 横で食い入るように見ていた葉一が肩を落としてるのを無視して、海山さんに借りたデジカメを返した。


「それで? どうするんだい、遠原?」

「……ひとまず家に帰りますよ。ちょっとそろそろ戻ったほうがいいかもしれませんので」

「そうかい」


 それだけ言って、オレは那須野と葉一を連れて部屋から出た。

 ――これ以上、天木さんを待たせるのも悪いからな。


 ++++++++++++++++++++


 ……えっと、これはいったいどういう状況なんでしょう。まず――


「いやー助かったぜ嬢ちゃん。日本の夏は暑くてなぁ……」


 ――目の前で神父、いえ、牧師の人が麦茶をがぶ飲みしています。リビングのテーブルで、なにやらここに来る前に買ってきたのか、お惣菜の焼きそばを広げてすごい勢いで食べています。クーラーをガンガン効かせています。寒いですがリモコンは牧師の人のそばにあって手が届きません。

 ……なぜこんな駄目っぽい人を入れてしまったのかというと。


『ん、坊主はいないのか? ってあぁー、あいつは学校か……すまん、とにかく中入れてくれないか? 知り合いだってのは坊主が帰ってきたらわかるし、それに外は暑くてな!』


 ……という風に勢いに押し切られたり、どうやら遠原さんの知り合いでもあるみたいなのでとりあえず中に入れた、という感じです。

 3杯目の麦茶を飲み干した牧師の人、グリッツさんはようやく落ち着いたようで一息ついたように手を動かすのをやめましたが、正直その量は飲みすぎなんじゃないかと私は思います。


「……あの、遠原さんとはどういう関係なんでしょうか? 私、ここに来たばかりで……」


 思い切ってグリッツさんに質問をぶつけてみました。グリッツさんは寒い中、涼しい顔で答えてくれました。


「どういう関係かといわれると……昨日始めて会った同士ってところか?」

「…………はぁ」


 その返答に思わずため息が口から出てしまった。何一つわからないどころか謎が明後日の方向にひたすら加速していった気がします。


「まぁまぁ、そううんざりしたような顔するなよ嬢ちゃん? 坊主の時みたいに相談に乗ってやってもいいんだぞ?」

「……遠原さんが、あなたに相談を?」


 それは意外だった。遠原さんが初対面の人になにか相談するだなんて、あまり無いことだと思う。確かにこの牧師さんはいくらか話しやすいようにも思えるが、それでも他の人と比べてちょっと、というぐらいだ。納得するほどのものではない。


「坊主はしたぞ。なにやら――最近の悩みなんかを、な。嬢ちゃんも言ってみるか? イラつくことでもなんでも話してみりゃあ気が晴れるもんだぞ?」

「悩み……ですか」


 ……どうしよう。今の私には確かに悩みはある。確かにあるが、それをそのままこの人に話してしまっていいのか。

 だってあれは、もう収縮していってるような問題だ。きっとあと数日経てばいつも通りに接することのできる日が来るのが分かる、それくらい解決に近いはずのもの。それを今更掘り出して、わざわざ問題を表面化させることは嫌でした。

 グリッツさんは焼きそばを啜って飲み込んだあと、私の顔を見る。


「……なぁ、嬢ちゃん。嬢ちゃんの考えてること、当ててやろうか?」

「え?」

「まぁ考えてることの内容まではわからんが、なんだか今は言いたくないって顔をしてたぞ」


 当たり、とは言えなかった。その代わりに私は黙ってしまった。そんな誤魔化しのようなことをしていると認めたくなかったのだと思う。

 グリッツさんはそれを否定と受けたのか肯定と受けたのか、気にせず続けた。


「時間が解決する問題があれば、お互いがぶつかりあわなきゃ解決しない問題もあるそれはまぁ、分かるだろう。だが……時間が解決したように(・・・・・)見えるだけの問題ってのもあるんだよなぁ」

「……それはつまり、その問題は本当は解決していない、ということですか?」

「そうだなぁ」


 焼きそばのほとんどを食べつくしたかと思えば、グリッツさんは野菜の切れ端のようなものや麺の欠片を外国人にしてはずいぶんと器用に箸を使って口に運びはじめた。

 私はそれが終わるのをぼんやりと眺めて待つ。果たして私が抱えているのは、本当にこのまま時間に放っておいていいものなのか――この人に言われたことで生まれたそんな不安を考えながら待つ時間は、心が落ち着かないでいた。

 完全に食べ終わったグリッツさんは手を合わせて小さく何か――おそらく「ご馳走さま」――を呟いてから、また話を再開させました。


「――嬢ちゃん。さっき言った人と人の問題の鎮静後の三分類。嬢ちゃんが特に聞きたいのは、解決したように見えるパターンかね?」

「……はい」


 考えた時間は短かった。二つは確かに解決しているけど、一つだけ解決できていないものがあればそれが気になるのは当然だろう。


「解決したように見えるってのはとりあえず、燃え上がっていた想いをくすぶらせてるようなもんだ。はっきり言えば解決とはほど遠い。嬢ちゃんにも分かるな?」


 私は頷く。グリッツさんはそれでいい、というように続けた。


「これも結局はお互いの気持ちをぶつけ合うことをサボったばっかりにこういうツケが回ってくる、って話なんだがな……まぁ、とにかく煩わしいのさ。お互いに大事な話だったのなら、そりゃあ言わなきゃダメだ。むしろスッキリしないだろう、そんなの。……そうだな、たとえば仲の良かった夫婦が離婚するのだって、そういうのを怠ったりしたツケだったりすることが多いだろ?」


 ――気のせいでしょうか。たとえばと言う前に考え込んだグリッツさんの顔が、一瞬だけ暗くなったように見えました。けれどすぐ元の真面目な顔に戻っていたので、私はそれを気にしないふりをします。


「ま、要するにそうならねえようにするためにはどうするべきか……嬢ちゃんには分かるか?」

「……ちゃんと、話しあえと?」


 グリッツさんは私の問いかけに答えず、もう一度麦茶をなみなみとコップに注ぐ。私は自分の悩みをこのまま放置していたらどうなるかを想像して、息を飲んだ。

 ……もしかしたら。万が一だと信じたいけれど、もしも私が自分の悩みを放置して、今の話のように悪い結末になったとしたら。

 その悪い結末がどんなものなのかは想像ができない。恐ろしくて考えたくない、というのもある。けれどそれには間違いなくきっと――遠原さんと私だけの結末に終わらないだろう。


「まぁ、これは……例え話だ。嬢ちゃんの問題がどういうものなのかは知らんが……あまり話さずにいるのは、よくないかもしれないぞ?」

「……私は……」


 寒いな、とグリッツさんはクーラーの電源を切った。パックの焼きそばをビニール袋にいれ、コップを洗い場に持っていく。立つ鳥は跡を濁さないという言葉のように、多分もうすぐこの人は自分がいた証拠を残さずに帰るのでしょう。


「自分には話したくないってことなら、それでもいいぞ。一番に話し合うべき相手は、自分じゃないからな」

「私は……遠原さんに……」


 水で一通り洗い流したガラスのコップの水を切って、グリッツさんは棚にそれを戻していく。私はうつむいていた。遠原さんにどう話すかということを今まで以上に頭の中で巡らせますが、はっきりとした形にはならないでいました。


「……はぁ。とりあえず、坊主にはよろしく言っといてくれ。自分はちょっと用事があるし、もう行くぞ」


 そう言ってグリッツさんは空になった焼きそばの容器を入れたビニール袋を頼りない音を立てながら持ち、部屋を出て行きました。


 私は次に玄関の扉が開いた時まで、俯いたままでした。

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