濡れ鼠の帰宅
自宅玄関の前まで辿り着いたオレは、自分の住んでいる家だというのに妙な緊張感を持ってドアと向かい合っていた。それは中に俺の家族――この状況では見つかることがもっともデンジャーな事態に陥るだろうと予想できるような人間がいるかもしれないからだ。
身体中がこわばり、生唾が喉を通る。普通なら家族相手に抱くような感情でないことは明白なのだが、正直とても怖い。想像されるのはどうにも憤怒の表情を浮かべてる、とある少女の姿ばかりだ。ふと後ろに振り返ってもう少し時間を置く――もといしばらく逃亡でもしようかという考えも浮かびかけたところだが。
「……くしっ」
背後から聞こえたくしゃみと、後ろで立ち止まっている視線の主のことを考えると、そんな気もなくなってしまう。会って間もない関係だというのに、振り向かずとも弱々しく、どこかに怯えがあることを感じさせている。そんな状態の子を置いていくことはできそうにない。
覚悟を決めた。ノブを握ってゆっくり、少しずつ玄関を開ける。開いた隙間から中を覗いてみれば、そこには誰もいない。
「……ふぅ」
その事実に安堵して、やけに身体を強張らせていた緊張も抜けていくと、次にやってきたのは肌をじんわりと冷やしていこうとする寒気だった。流石にさっきまで雨に打たれていた身体には、そろそろ熱も無くなってきているらしい。早くシャワーかなにか浴びておくべきかもしれない。
少ししか開けていなかった玄関を、今度はちゃんと通れるぐらいに開けたその時だ。
廊下の奥、居間の扉が開いたのは。そして、その扉を開けた人物と目が合ったのは。
「……………………」
「……………………」
「た、ただい」
「――その格好はどういうことですか? 兄さん」
発生した気まずい空気をとりあえず挨拶で誤魔化そうとしたものの、その人物――もとい妹はそれを許すまじとばかりに遮り、詰問する言葉をぶつけながら、近づいてくる。玄関前で消えかけていたはずの焦りは、再び俺の心臓の鼓動を加速させ、雨粒がついた顔に更に冷や汗を噴出させた。
そうしているうちに目の前にやってきたのは、遠原樫羽。まだ中学生だからか幼さをわずかに残した顔つきだが、しかし兄の目線というのを抜きにしてもかわいいと思う。長い後ろ髪を広がらないように二か所縛って垂らしており、眉の辺りの高さで綺麗に切りそろえられた前髪の下から見える目つきは鋭いが、それは普段からだ。しかし雨に濡れた俺を見る今の樫羽の目つきは、このまま射貫いてきても不思議ではない、矢のような鋭さを感じさせる。その理由は多分、オレがこんな姿で帰ってきたからだろう。
しっかり者で綺麗好きなためか、樫羽はこういったことにとても怒りやすい。更に言えばオレが傘を持って行っているのも知っているので、なんで準備ができていてそうなるのかと疑っているんだろう。仮にわざとだ、などと言おうものなら……想像するのも恐ろしいことが起こるのは確かだ。
「……もう一度聞きますよ、兄さん。なぜ傘を持っていっておきながら、そんなにもずぶ濡れなのですか?」
樫羽のとてつもなく落ち着いた、もしくは冷めた口調が濡れた体をさらに冷やしてくる。今日は元々早めに帰ると言っておきながら、普段より二時間は帰るのが遅れてるし夕食の準備だって未だに済ませてない。昨日の内に一応の下準備は済ませてあるが、今の樫羽の料理の腕では恐らくそれでも上手くできないだろう。きっとオレがこの有様で帰ってきたこと以外にも、空腹だとかそういう要因があってこんなにも怒っている、のかもしれない。
とにかくこのまま黙っていても、より立場が悪くなるだけだ。『この後』の事を考えると今の樫羽を怒らせたままというのは非常に悪い。
「……いやな、樫羽。兄さん、傘は差さずに走るのが日本の男らしいもっともかっこいいスタイルなんだって事に気づいてな」
「その濡れたネズミみたいな格好のどこがかっこいいんですか。私にはわかりませんね」
「ふっ……違うぞ樫羽。見た目ではない、その魂こそが」
「そんなことはどうでもいいですから早くシャワーでも浴びてきてくれませんか? 玄関にずっと立たれていても、靴が濡れるだけなので」
「あ、いやごめん待って、そこで待って! 嘘だから戻らないで!」
視線だけならず、言葉まで冷徹そのものの調子で居間に戻ろうとするのを懇願するようにして引き止める。それが効いたのか、はたまた聞いてくれたのか、樫羽は嘆息して呆れ顔で俺のほうに向き直る。
「……まったく、冗談を言うならもう少し場を考えてください、兄さん。それで、なにか用でもあるんですか?」
用があるとは言っていなかったはずなのに樫羽はそう聞いてきたが、オレは特に驚かなかった。察しがいいのは昔からのことだし、むしろ今回は少しだけ期待していたところもある。
だから少し気が楽ではあったのだが……いかんせん、内容が内容だけに言い辛い。どういうべきか迷って、つい頬を掻いてしまう。
「あー、いや、その……ちょっと、人を紹介しないといけなくてだな」
「人……?」
樫羽も流石にそればかりは予想できていなかったようで、不思議そうに首を傾げている。自分の知り合いとはすべて知りあっているのだから、無理もない。
「まぁよくわかってないだろうけど……ひとまずここに連れてきていいか? こんな雨が強く降ってるような外に出しっぱなしってわけにもいかないだろ」
とりあえずこのまま考え込まれても埒が明きそうにない。外に放置していても良くないというのも本音だが、まずは対面させてから話し合うのがいいだろう。樫羽は「すぐそこにいるのなら……」と了承したので、玄関を開けて外にいるはずの彼女をちょいちょい、と手招きする。
オレがこうしたら中に入っていいということだと先ほど彼女には言っておいたので、彼女は傘を持ったまま近づいてくる。入るには邪魔になるだろうと思い、その傘を玄関に入る前にもらいついでにそのまま、屋根が雨を防ぐ範囲より外に身体がはみ出すことの無いように傘を出して、それに付いた雨粒や水滴を払って外に落とすことにした。
そして、オレとすれ違うように中に入っていった彼女の声が、背から聞こえてきた。
「あ、あの、お邪魔、します……」
玄関の外で傘を振りながら、ちらっと背後を見る。そこにいるのは先ほど道で出会った少女が樫羽に軽くお辞儀をしている姿と、オレと同じもう一人の濡れネズミを見た樫羽が呆然としている姿だった。
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「遠原さん……お願いです。私を――助けてください……」
土砂降りの雨が降り続ける道の上。オレに抱きついてきた一人の少女は、今にも消えてしまいそうなか細い声で、そう訴えてきた。いったいこの子は? どうしてオレの名前を? 考えることは多くあったが、頭がうまく回らない。しばらくしてから少し冷静になって、どうすればいいのかを考えようとした時。
「――っくしゅん」
目の前の女の子と自分、ほぼ同時にくしゃみが出た。
「……………………」
「……………………」
二人して一瞬だけ顔を向かい合わせたが、それをすぐ横に逸らす。なんだかとても気まずかった。6月のこの時期、腕を半分以上は出している夏服で雨を浴び続けていたんだから身体が冷えていてもおかしくはないはずなのだが、なんというかタイミングが悪かったと思う。それはそれとしてもオレはまだいいが、女の子が体を冷やしてしまうのは良いことではないはずだ。
「あー、あのさ」
「は、はい。なんですか……?」
彼女はおどおどと、怯えているようにしながらこちらに顔を向ける――よく見ればこの子、相当な美少女だ。身長は自分よりも少し小さく、目はパッチリとしていて顔も小さめ、今は泣き顔だが笑顔が一番よく似合いそうな可憐な女の子。雨で髪が潰れてしまっているが、首にかからないぐらいの薄い茶色で、髪の長さはだいたいショートぐらいだろうか。とりあえずそれぐらいのことは分かった。
そこでさっき見た、涙を流していた顔を思い出す。
雨がきらめく露のように髪の上を流れ、目からこぼれた涙は真珠のように透き通り、雨粒と混ざりあって落ちていく。そんな姿を綺麗だったと頭の中で考えそうになるが、それはすぐに振り払う。人が泣いている顔なんてそう見ていて気持ちのよいものではない。それに突然のこととはいえ助けてくれなんて言ってきた人にそんなことを思ってしまうのは、最低だと思ったから。
彼女の腕を掴み、引っ張っていこうとする。
「ごめん、とりあえずちょっと付いてきて。そこでタオルと、よかったらシャワーとかも貸すから」
「え? あ、その……」
このまま腕を引いていこうとするも、少女が立ち止まったのか、それに釣られてすぐにオレの歩みも止まる。少女のほうを見てみると、顔を少し伏せて頬に手を当てている。それはまるで何かを恥ずかしがっているような姿に見えた。
「そ、そのですね、いきなりはちょっと、私も……」
「……いや、まぁ確かに家に行くけど、多分家には妹もいるから。安心してほしいかな」
とりあえずこうなったのは突然家に連れて行こうとしたことが悪かったかと思い至る。だが家には家族もいるので心配するようなことは無いと伝えて、緊張を解きほぐそうとしてみた。それで少女は平静に戻ったようだ。しかし今度は訝しげな顔を向けられる。
「……妹さん、ですか?」
「うん、まぁ、妹。だから君が心配するような事態は――へくちっ!」
できる限り笑顔で説明しようと思ったが、二度目のくしゃみが出る。これはそろそろ家に向かったほうがいいかもしれない。ポケットから取り出したハンカチで鼻の辺りを拭いてから、もう一度語りかける。
「まぁとにかくさ、一度身体を暖めたほうがいいと思うんだ。じゃないと、二人とも風邪をひくだろうし」
さっきはこんなに寒いと雨水も暖かいなんて思ったが、今はもう無理だ。そんなことを言える元気なんて無くなっている。どうせなら、お湯をかぶりたい。そんなことを考えながら先ほど放り出した傘を拾って、壊れていないかどうかを確認する。ひとまず大丈夫そうだったから、これは女の子のほうに持たせることにした。遠慮していたようだが、それは無理矢理持たせることで強引に納得させた。二人ともすでに思いっきり濡れてしまった後だから、いまさら効果なんてあるんだかわからないけれど。
「それじゃできるだけ早く行こうか。話もそこで聞くよ」
「あ、はい…………?」
了承はしていたが、なんだかボーっとしているようだった。なにか深く考えているようだが、それがどうにも危なっかしく見えてしょうがない。このままでいても埒が明かないだろうしひとまず、家まで手でも引いていこう。そう思ってその細い手を掴むと暖かく、柔らかな感触が伝わってきて、少し自分の心臓が高鳴った気がした。こういった女の子らしい女の子というのに、どうもオレはまだ慣れていないらしい。
そして一人で盛り上がっていたのもオレだけのようで、手を掴まれたことも彼女は気付かず、その場で考え込んでいるままだ。
「――彼にそんな人、いましたっけ……?」
辛うじて聞こえたそんな言葉を、オレは一切気にしないまま、その手を引いて歩き始めるのだった。
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――ここに彼女を連れてくることになった理由を、ある程度かいつまんで樫羽に聞かせた。だが、なんだか反応が薄い。というか、先ほどから何も喋っていないような気さえする。嫌な予感がして、試しに目の前で手を上下に動かしたり、頬を引っ張ったりしてみるが、やはり反応がない。そうしていつもの『あれ』かということに思い至って、嘆息。
多分この状態なだけならすぐ元に戻るだろうと思い、俺は横でなにやら困惑している様子の少女に顔を向けて話しかける。
「……うん、問題なさそうだ。ちょっとタオルでも取ってくるから、待ってて」
「え? あの、妹さんは……?」
更に困惑したのか動きを停止した樫羽の方をちらちらと見ながら、少女はオレにそれを尋ねてきた。しかし、特に心配することがないのでオレはとりあえずそれを教える。
「大丈夫だよ、樫羽は――妹は、時折こういうことがあるんだ。特に悪いことがあるわけじゃないから、今は無視していいと思うよ。すぐ元に戻るだろうし」
「はぁ……」
とりあえず靴を脱いでバスルームのほうへ行き、二人分のタオルを取ってくる。廊下に水が垂れてしまっているが、その辺はあとで雑巾ででも拭いておけばいい。持ってきたタオルを玄関にいる少女に渡して、オレも服を脱がずに拭ける部分を拭いておく。
少女は水滴などが目立たなくなったあたりで一段落ついたのか「ふぅ」と一息漏らしてから、口を開いた。
「あの、それで、お願いしたいのは――」
「その話の前に、シャワーでも浴びてくれば? 体も冷えてるだろうし、ここだと樫羽もいるしさ」
長い話になるという予測もあるし、玄関先でやるような話でもない気がしたのでそう提案してみる。彼女は少しだけ顔を赤くして軽く俯きながら、か細い声を出した。
「いえ、き、着替えがないので、それは……」
それを聞いて、オレは「あぁ……」と呻き声を出す。正直忘れていたからだ。これはさすがにどうにかしないとまずいのでなにか案は浮かばないかと頭を捻ってみる。
「……あ、なら樫羽の服を、って……今は意識が飛んでるんだったな」
うーむ……それによく考えるとこの娘は樫羽よりも年上のように見える。サイズが合うかどうかも心配だ。下着はこの際我慢してもらうにしても、服がないとあっては彼女もその濡れに濡れた服を脱ぎ捨てて体を暖めるなんてことはできないだろう。かといって、家にはあとはオレしかいない。少女に貸せそうなものといえば大き目のYシャツが何個かあった気がするが……だめだな。イメージしてみたがどう考えても恥ずかしい格好だし、樫羽が目を覚ましたらなにをやられるか。となるとやはりここは、最初の手を試してみるしかないか。
「とりあえず一つだけ思いついたから、ちょっとここで待ってて。君が着れるような服を探してくるよ」
「え? 妹さん、気を失ってますけど……もしかして、遠原さんのお母さまの?」
「……いや、樫羽の服を」
ダッシュで階段を上り、二階にある樫羽の部屋のドアを力強く開ける。思春期だからか、13歳ぐらいになったと同時に「兄さんは入っては駄目ですよ?」なんて言われてからこれまで入ることは無かった場所だが、今再びこの部屋へと入る時が来たのだ。この時のオレの気分はさながら遺跡を潜るトレジャーハンターの如く、無謀な冒険心に満ち溢れていたと言ってもいい。
部屋の中を見回してみる……ふむ、散らかってないし、壁にアイドルのポスターを貼ってたりするようなこともないし、友達が来たような跡もない。が、それは今の状況ではどうでもいい。問題は彼女に着せることのできる服だ!
部屋全体を見回すと、目的の衣服なんかが入っているであろうタンスを発見。それに近づいて、ひとまず落ち着こうと、胸に手を当てて深呼吸。
樫羽の部屋に入るような機会なんて、滅多に無いものだ。なので当然、樫羽の部屋のどこに何があって、何がどう配置されてるかなんて知るわけがない。オレが今こうしてその前に座ったタンスには洋服があるのかもしれないし、それ以外のものがあるかもしれないのだ。
例えばここでこのタンスの一番上を開けて下着を引き当てたような場合。オレは樫羽に殺される。
それ以外の何か恥ずかしいと思われるようなものを引き当てた場合。オレは樫羽に殺される。
見事服を引き当てた場合のみ、オレは半殺しで赦されることになるわけだ。冷静になると割に合わないと思っていたかもしれないが、この時の俺はなにより暴走していた。
とりあえず、なにか一段開けてみてから考えよう。殺されるようなものを引き当てても、土下座すれば許してくれるよねっ、という楽観的ポジティブシンキングな明るい考えを持って、意気揚々とタンスに手を伸ばしかけた――その時だった。
――手をかけた瞬間、脇腹に槍のように鋭く、鉄球のように重いドロップキックが炸裂した。それに耐え切れずぶっ飛んで、床に倒れながらも意識が飛びそうになるのを必死で抑えていると、首根っこを掴まれて部屋の外に放り出された。この肌がビリビリと来るような、鋭く、激しい怒気には覚えがある。どうも予想より早く樫羽が復活したらしい。しばらく廊下でボロ雑巾のようになってうずくまっていると、部屋の中から両手で服やらを抱えた樫羽が出てきて、その冷え切った目で俺を見るなり、
「おや、ゴミクズ兄さんではありませんか。そんなところで寝そべっていないで居間で正座でもしていて待っていたらどうでしょう? ……わたしもすぐに行きますから」
そう言って下の階へと降りていってしまった。
……どうやらオレは、ボロ雑巾ではなくゴミクズだったらしい。
その後、ゆっくりと休んでから居間に向かうとすでに待ちかまえていた樫羽から「遅い」と言われてアイアンクローをもらい、その後床に正座で30分ほど説教をされていると、恐らく樫羽の服を着て、ほのかに湯気を漂わせている少女が入ってくる。そのタイミングを好機と見て樫羽から逃げるようにシャワーを浴びに行く。浴室にはまだ、微かにシャンプーの匂いが漂っていた。しかしそのことを深く考えると、どうにもここであの女の子がシャワーを浴びていたということをイメージしてしまうので無理矢理その思考を打ち切る。流石に、先ほど馬鹿をやって怒られた身ではそういう考えはできない。
そんな少しもやもやした気持ちを抱えたままシャワーを上がって、居間に行ってみれば……はて、一時間近く前に自分に助けを求めた時の縋るような目とは真逆の、敵を見るような目で少女がこっちを見ていた。思い至る節はただひとつ、樫羽がさっきのあれの事を教えたのだろう。
「……遠原さん、最低です」
「ああ、最低野郎のクズ兄さん。ゴミ……いえ、雨は洗い流せましたか?」
二人のこちらを見る目がとても冷たい。少女のほうは樫羽よりも比較的女の子らしく、冷たい視線も弱く感じるのだが、樫羽のそれがブリザードやツンドラ気候級の極寒レベルの冷視線なのでそれと合わさると、さっきまで熱いお湯を被っていたのに恐ろしさで冷や汗が出そうだ。オレは弱気になって頭を下げてしまう。
「……いや、その、さっきは本当にすんませんでした。どうか許してください」
その言葉に樫羽はふむ、と思案するような顔つきをする。視線によって与えられる畏怖感は弱まったが、少女はまだジーっと、オレを疑うような視線で見ていた。胸が痛い。
「ならまずは、夕食を作ってからですね。その後なら話を聞いてあげます……えっと、あなたもそれでいいですか?」
そんな樫羽からの提案に少女は不本意そうな表情を見せたが、まぁいいです、と頷いてくれた。
「……寛大な処置をありがとう。それじゃあ急いで作ります……はい」
それにしても随分と優しい提案で助かったとオレは胸を撫で下ろす。いつだったかの時みたいに一ヶ月間、樫羽の身の回りの世話をするみたいなのじゃなくて本当によかった。だからさっさと準備に取りかかろう。もう午後七時をまわっている。樫羽が空腹でキレたりする前に急いで作るか……
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「いただきます」
「い、いただきます……」
午後八時ごろ、普段より遅いが夕食が完成した。少し煮込む時間が足りなかったが今日のメニューはクリームシチューだ。全員がイスにつき、いただきますと言ったことを確認したあとで、まずは樫羽が丁寧にスプーンを使って一口。その表情が綻んだのを見て、オレは手を握り締めて「よっしゃ!」と思う。美味しそうに食べてくれるのも嬉しいが、今回は許されたという確信が持てたこともあった。
「……よいですね。合格点です」
「そりゃ、必死で作ったからなぁ。でもそんな肩肘張らずに、気楽に食ってもいいんじゃないか?」
「いえ、いつもこういう食べ方ですから。むしろ兄さんの食べ方がみっともないのではないですか? ご飯ではないのですよ?」
「左手で皿を持ちながら食べても良いのが家庭料理だ。それが駄目ならどこか料理屋でも行って食ってくればいいんだよ」
家でまでそんなマナーを気にしてもストレスにしかならないだろう、と言ってやりたいが説教くさいから止めておく。そんな小さいことにこだわるより自由に食べさせるのが一番だ。オレも腹は減っている。
「わざわざどこかのお店に行かずとも、兄さんの料理なら満足できますよ」
「……へいへい、お褒めの言葉、ありがたく頂戴しますよ」
樫羽がこちらに笑いかけてくる。笑ってる時は本当に無害なんだよなぁ……としみじみ思う。しかし、褒められたのは気分がいい。もう一人にも聞いてみようと視点を樫羽から少女のほうへと変える。
「君は……どう……?」
そちらを見た瞬間、目を見張った。すでに器の中が空だったからだ。自分の手元を見てみる。数口程度しか手がついておらず、ほぼ初期状態だ。対して女の子の皿はすでに空。そこから浮かんでくる可能性は、あまり現実味を帯びていないが、それしか出てこない。この少女は多分おしとやかな方だと思うんだが……それとも食事の時だけそういうところがあるのだろうか。まぁ、とてもご満悦そうな顔をしていらっしゃるのは嬉しいが。
少女はオレの方に気づくと、笑顔を崩さず、少し興奮した様子のまま返してきた。
「あ、はい、とっても美味しいです! 何か特別なこととかしてるんですか!?」
「いや、特にはしてないけど。というか……食べるの、速いね」
「……あ」
自分の皿が空になっているのに、今気づいたようだ。顔を赤くして恥ずかしがっている。聞けば、食事を摂るのが一日ぶりとのこと。それなら恥ずかしがることはないと思うのだが、彼女にとってはどうでもよくないらしい。どんどん顔が紅くなっている様子は子供のようでかわいらしく、ついつい頬が緩む。
「す、すみません。家に上がらせてもらって、更にはシャワーと食事まで……」
「頭を下げることはありませんよ。時間も時間ですし、兄さんを頼ってきたらしいのに何もしないまま帰すわけにはいきませんから」
「あぁ、そうだな。謝ることじゃないと思う。頼るっていっても、結局まだなんのことかは聞いてないけど。ねえ……」
……ああ、そういえばまだあれを聞いてなかったことをようやく思い出す。最初に聞いておくべきだったろうが、その後いろいろあったせいで聞きそびれていたんだった。
少女が急に言葉を止めたオレに首をかしげている。
「? ……なんですか?」
「……そういえばさ。まだ、名前聞いてなかったよね?」
そう言うと、隣で樫羽がため息をついたのが聞こえ、なにか軽蔑されているような視線を隣から感じるようになる。
「兄さん。普通は最初にそこを聞くと思いますが?」
「いや、ちょっと間が奇跡的に外れてだな……そういうことだから、ダメな人を見る目をしないでくれ……」
誰だって、シリアスなところでくしゃみが出たら調子は狂うだろうと思うんだ。これには少女も苦笑いをしていた。やはり実態を分かっている者同士、詳細には語りたくないというのも同じらしい。樫羽も追求はする気がないようだ。
「そうでしたね、本来なら最初に名乗っておくべきだったのに、すみません」
「いや、それは謝……った方がいいのかな? よく分からないけど、礼儀みたいに聞いたことがあるし。まぁそれはいいとして、君の名前は?」
少女はそこで少し暗い表情になって軽くうつむいて、口を重そうに開いた。
「私は……天木、鹿枝といいます」
……やはり、知らない名前だった。少なくとも、ここ十年以内に会ったことのある人ではないし、それ以前の記憶も曖昧だが、その中にも彼女の名前や姿、雰囲気などを断片的に表すようなそれらしい情報は見当たらない。となると、本格的にどこで自分の名前を知ったのかに俄然興味が湧いてきた。
「天木さん、か。それじゃあ天木さん。オレに助けてもらいたいことって――」
「その話は後にしましょうか、兄さん。食事の場で話すような内容でもなさそうですし。それに、折角のシチューも冷めてしまいますよ?」
オレは彼女――天木さんが出会った時に言った「助けてほしい」という言葉にどんな事情があるのかを聞こうとしたが、樫羽がそれを止める。たしかに、今は焦って聞かなくてもよかったかもしれない。手元のシチューを見れば、さっきまで立ち込めていた湯気も少し薄くなってきてしまっている。せっかく暖まれるようなメニューを用意したのに、冷めてしまっては意味が無い。
なにより、名前を聞いてから天木さんの表情が少し暗いままだったのが、事情を聞こうとするオレの心を咎めた。
「……それもそうだな。じゃあ話は夕飯の後ってことで、いいかな?」
「はい、私は構いませんよ」
天木さんは素直に頷いてくれた。しかし、彼女には一つだけ忠告しておいたほうがいいかもしれない。これまでの行動を見るに、言っておいたほうがいい気がする。
「先に言っておくけど、おかわりはしてもいいからね? けっこう多めに作ったし」
「ぅ……はい、わかりました……」
天木さんは痛いところを突かれでもしたのか、オレの言葉にビクッとして顔を赤くしていた。礼儀正しいのはいいんだが、遠慮しがちというのも少し問題な気がする。打ち解けられるといいのだが、最初からそこまで求めるのは難しいか。そう思いながら自分の作ったシチューの味をもう一度舌先で感じる。鶏肉は少し咀嚼するだけでほろほろとほぐれるように切れ、ごろりと転がるニンジンやジャガイモの甘味、まろやかな中にほんのりと塩気を孕むシチューの三つがハーモニーのように重なる。しかし、急ごしらえだからか個人的には一味足りないように思えてしまうが、同じ食卓を囲む二人は美味しそうに食べてくれてるし、今回はこれでもいいかと納得する。
そしてこの日、シチューの入っていた鍋はものの見事に空になった。