聖職者は酒を好む
今、オレは初めてこの目で本物の聖職者というか宗教関係者を見た気がする。以前見たのは旭さんの家に押し入ろうとして旦那さんに拳で追い返されていた怪しい宗教団体ぐらいだったが、こうしてカソックを身にまとった実にそれっぽいのを見るのはこれが初めてだ。
しかし出会うならばできればもっとこう、かわいいシスターさんとかのほうが良かったかもしれない。オレの前にいるのは黄土色のとても短い短髪で顎髭を生やし、モノクル(片眼鏡)をかけた大柄な壮年の男性だ。その雰囲気はとても落ち着き払っており、まさに聖書でも持って教会に佇んでいればそれだけで絵になりそうな男。だが、それがある程度歳をいった男をかなりの勢いで蹴り飛ばし、あまつさえ――
「まぁ水でも飲めよ、坊主ども」
コトン。金属らしき軽い音を立てて置かれたそれは、外観を見れば缶であり、ラベルを見れば黄金にあわ立つ液体のイメージ画像に、アルコール飲料の文字……どう考えてもビールだということが分かる。どう見ても言った通りの水ではない。そして学生服の日本人高校生に勧めるのはちょっと危険なものだ。以前『遠原櫟』と殴りあったりした公園のベンチに連れてこられて、なぜビールを飲まされなければいけないのだろうか。そして聖職者がやっていいことなのだろうか。
「いえ、お気持ちだけで結構です。とりあえず、オレたちとしてはお礼を言えたらそれで」
「まぁまぁ、とりあえず飲めよ? 話はそれからでもいいだろ?」
もしかしてこの人、日本の未成年は飲酒禁止だということはご存じないのか。それならしょうがないなんてはずも無く、葉一もさすがにそこは守るようで苦笑いだけを返す。
「あの、じゃあオレたちは別の飲み物で参加しますんで、このビール三本はあなたが飲んでくれますか?」
ひとまず腹をくくって何かを一緒に飲むっていうのには参加することにしよう。だが、ビールだけは丁重にお断りさせてもらうことにした。聖職者さんは残念そうな顔をしていたが、とりあえず一本飲んで気を紛らわせることにしたようだ。オレと葉一は泡の立つ音を背にして近くの自販機まで向かう。
そこであのおっさんに聞こえないように、どういうことなのか推測を始めた。
「よし、どういうことだと思うかまずはっきりと述べろ、葉一」
「あのオッサンは同性愛者で俺たちをトイレに連れ込もうとしているんだ、そうに違いない」
「もう黙ってろバカ」
推測終了。聞いた俺がバカだったな。とりあえずもう横のアホには頼らないことにしよう。いくらなんでもあの気のよさそうな人がそういった人だとはさすがに思いたくない。
葉一が選んだ炭酸飲料を手に取った横で、オレは考える。まず、なぜあのおっさんはこんなところにまでオレたちを連れてきたのか。別に話があるならもうちょっと別の商店街にあった喫茶店とかでもいいはずだが……いや、喫茶店じゃ酒が飲めないか。じゃあなにか、単純に一緒に飲みたかっただけなのか?
「ほらほら、櫟も早くなんか買っとけよ。あのおっさんに怪しまれるぜ」
「すまん。適当に買っといてくれ、今は考え事で忙しい」
「お、そうか? 任せとけよ、いいもの買ってやるから!」
バシバシと激しく背中を叩いてくるアホは無視しよう。ただの気前のいいおっさんだとしたらこちらとしても手放しで喜べるが、あの身体能力は「ただの」という言葉を外すには十分なほど、異常に高い。それが不安の種でもあるのだが、同時にあれに手助けされたというところもある。そうなるとオレはおっさんを信用すればいいのか、それともしないほうがいいのか。この二つのどちらかを選択しなければいけないという――
「おらっ、買ってきてやったぜ、櫟!」
「あのな、今考え事をしているとオレはさっき言って……!?」
……オレは手渡されたそのジュース缶を見て驚愕、そして恐怖に震えていた。先ほどまでの思考なんぞすべて吹っ飛ぶほどの衝撃的な名前をこいつはしていたのだ。
『磯ジュース』。ラベルに書かれた説明を見ると磯の匂いと磯の風味を缶の中に詰め込んだということらしい。海の匂いを内地に届けたかったのか何なのかよくわからない商品コンセプトで作られたことがわかる説明が、変態的なまでに小さな文字で詰めて書かれてあった。なんというか、これは絶対に飲んではいけないものな気がするのは勘で分かる。缶ジュースだけに、とつまらん洒落をためらわず思いつけるくらいには怖気が心を支配してきていた。
「葉一、なぜこれを選んだ? 他のものもいくらでもあったよな?」
「興味を引く名前ではあったが自分で飲むのは嫌だし、だから櫟のために買ってきただけだぜ?」
「オレのためじゃないよなぁ!? 間違いなくそれは自分のためって言うもんだよなぁ!?」
ちょっとこれはオレも退くことのできない防衛線だ。さすがにこんな得体の知れない飲み物を飲まされるぐらいなら、自分で飲まずに目の前の友人に全部飲ませてやるほうがいいだろう。あっちもそれに気づいてか抵抗する気十分な戦闘体勢だ。くそっ、こんな人に与えてはいけなさそうな飲料は即刻――!
「おいお前ら、いつまでかかってるんだ? もう一缶飲みきっちまったじゃねぇか」
背後から誰かに抱きつかれた。自分よりも大きい重量と、なにより酒臭い吐息が背中にかかる。あまりに時間をかけたからかおっさんがこっちの様子を見にきたようだ。そのおっさんが目ざとくもオレの手にあるそれに気づく。
「ん、二人とももうなにか買ってるんじゃねえか。ほら、さっさと開けろよ坊主」
「!? ちょっ、それはやめてー!」
おっさんによって、オレの手にある磯ジュースという悪魔の飲むようなものでしかなさそうなそれのプルタブは一気に解放された。パンドラの箱、いや缶は今ここに開け放たれてしまったのだ。
飲み口から溢れるような、市街地にはとても似合わないあの磯の香りが周囲に瞬く間に広がる。
「…………」
「…………」
「…………」
全員その匂いに口をつぐみ、鼻を塞ぐことになったのは、言うまでもない。
「あー、なんというか、とてつもなく貴重な体験だったな」
二缶目のビールを手に持ち、聖職者のおっさんは苦笑いをしながらそう言った。
「最悪だった。葉一ももう少し考えて買えよな」
「もういいじゃねーかよー、代わりにちゃんと飲めるもんを買ってやったろ?」
磯ジュースなんていう街中に災いをもたらしかねないような飲み物はもう無い。今のオレの手に握られているのは至ってノーマルな果実系の炭酸飲料だ。磯ジュースも少し飲んでみたのだが、その主張の激しい匂いに比べてみればやたらとさわやかな飲後感に戸惑いを隠せなかった。しかしあの匂いはやはり無理だった。その辺の馬鹿そうな小学生にあげたのだが、喜んでいたのが救いである。
「じゃあ坊主ども。今からご婦人を守った者同士で杯を交わすとしようか」
「その前にあなたの名前を知らないんだが、教えてはくれないんですかね?」
聖職者のおっさんは豪快な声をあげて笑った。もう酔ってるんじゃないかと思ったが、そうでもないらしくすぐに元の顔に戻る。
「おぉ、そうだな。自分は名をグリッツ・ベルツェという。ドイツ生まれの牧師だ。そっちは?」
「遠原櫟。日本生まれのただの高校生です」
「神田葉一。隣の遠原と同じようなもんだな」
「ふむ。それでは、日本じゃ『カンパイ』っていうんだっけか? カンパイ!」
おっさん、グリッツさんが缶ビールを掲げオレと葉一はそれぞれ自分の持ったジュースをそれに軽く当てあう。軽い音が響き、そして一斉に自分の飲み物を飲みはじめた。聖職者のおっさんが気持ちよさそうにビールを飲む音が特に聞こえる。
「……ッカァー! やっぱり酒はうまいもんだ! 坊主どももこっちにしときゃあよかったろうに……もったいない」
「あいにくとオレたちはこっちで十分なんですよ。酒はあと数年ほど遠慮しなきゃいけない身なので」
本当にもったいない、と言って更に一口飲んでいる姿は、やはり聖職者然としているものではないように思える。どちらかと言えば休日に寝転がって野球中継でも見ているほうが似合うだろう。
「なぁなぁグリッツのオッサン。オッサンもどっかの教会にいたりすんのか?」
「いぃや、今は違うな。昔と違って、今は見た目だけの牧師だ。経典なんかは今でもあるがどこかに所属しているとか、もうそういうのじゃない」
「……違うのにその格好を?」
「着ていて一番落ち着くからな」
笑ってグリッツさんは答える。ひときわ目立つ格好だと思うが、それは本当に落ち着くのだろうか。人のことに口出ししたくはないが疑ってしまう。
「そういえばさっきのことだがな、自分があいつを無力化できたのは坊主どものおかげだ。注意をひきつけてくれて随分やりやすかった。感謝する」
「いえ、こっちとしてもグリッツさんのおかげであいつを止めるのが早くできましたから、ありがたかったです」
「まぁ、あの勢いで飛んでくる人間を受け止めるなんて思わなかったけどな」
今は葉一もからからと笑っているが、その言葉には自分もほぼ同意である。失敗しなかったからよかったが、もしもダメだったらどうなっていたことか。グリッツさんもその辺りは反省しているのか申し訳なさそうだった。
「いやぁ、それについては悪かった。あれを無力化しようとしてたらつい力が入ってな」
「もういいって。何事もなかったんだし」
葉一はそう言い、缶を思い切りあおって一気に飲み干したようだ。揺らして残ってないか確認しても音はしない。
「それで、グリッツさん。何でオレたちをここまで連れてきたんですか?」
葉一に感化されたのか一気飲みをしようとしているグリッツさんに対して、ここに連れてこられてからずっと頭を巡っている疑問をぶつけてみた。動揺することもなく、グリッツさんはビールを存分に堪能してからこれまた笑顔で答える。
「なんでって、そりゃあ正しい行いをした若人を労ってやるのは当然じゃないか。自分も楽しめてるし坊主どもも気にせず楽しめ、なっ!」
「……そうですか」
疑う必要はどうもなさそうだ。ここまで楽しんでる様子のグリッツさんに裏があるようなら、きっと舞台役者やミステリの犯人役のほうが聖職者よりも似合っている。
心が軽くなり、自分も手に持ったジュースを一気に飲み干す。まだ夕方前なのに子供がいない公園で飲むそれは甘く身体に染みとおる。『遠原櫟』と出会ったときの夜に比べると、日が出ている間のここは陽だまりのように明るく優しい空間だった。
「ん~、ついでだ。なにか相談事があったら聞かせてくれてもいいぞ。そういうのは言うだけでも気が軽くなるからな。生活のこと、学校のこと、それから――女のこととか」
三つ目のビール缶の蓋が開き、泡の音だけが響く。オレと葉一は揃って神妙な顔をしていただろう。葉一は那須野のこと、オレはそれに加えて天木さんのこともあったのだから。
「ん? どうした坊主ども、まさかそろって女絡みの厄介ごとか!? 若いってのはさすがだな」
「揃ってというかオレたち二人ともが悪いというか……まぁ、あとは頼んだ、葉一」
「そこで俺に振るのかよ! でもまぁオッサンは信用できそうだし、それならオレから話すけど……」
葉一は今日の昼にあったことをほとんど話した。グリッツさんは真面目な顔をしながらそれを聞いて相槌を打ったりする。
葉一の話が終わったところでグリッツさんは一度ため息をつき、オレたちの顔を交互に呆れ顔で見やってから言った。
「あれだな、坊主どもはデリカシーが無いというか、とにかく配慮が足りてないようだ」
「周りからもそう言われたんですけど……いまいちどういう事なのか分からなくて。あの人は綺麗だな、とかそういったことを話してただけなんですが」
「それがいけないんだよ。お前ら、女友達数人が近くで「あの人はかっこいい」だのとすぐ近くでお前らを無視して自分も知っている同性をべた褒めしていたらどう思う?」
「数人もいないんですが」「同じく」
「……じゃあ身近な若い女でもいいから。とにかくそういう状況を考えろ」
身近な若い女性ねぇ。海山さんは若くないから除外として、那須野に樫羽、それと天木さんってところか? ものすごくそういった場面がありえない面子に思えるが、とにかく考えてみよう。かっこいいって言われてるのは……そうだな、クラスでもイケメンと言われている寺内くんにしよう。あの寺内くんに三人が熱を上げて、オレが疎外感を感じている状況。三人とも寺内くんだけを見て近くにいるオレをまったく見ようとしない……なんだ、それは。ありえないと言いたいが、もしもそんな場面に遭ったら……
「どうだ? どう感じた?」
「……なんというか、惨めだったな。自分は劣っているって、つきつけられてるようなそんな感じだ」
「俺もだ。近くにいるのに見えないのかって、そう言いたくなった。那須野もこんな気持ちだったのかねぇ…」
なるほど、こういうことだったのか。オレ達が大声で琉院のことを褒めていたから、那須野はこんなもやっとした苛立ちを感じてしまったのか。自分たちがやったことはどうも想像以上に失礼なことだったようだ。
「そういうことだ。まぁ、フォローを加えようとしたのはいいが……最後のはねぇよなぁ」
グリッツさんも苦笑いをしていた。そりゃそうだ、なにを真剣な悩みのときに胸がでかいなどということを二人して言っていたのか。セクハラでもなんでも殴られて当然である。これにはオレも葉一も反省するように俯いてしまう。
「とりあえず、その辺りが分かったのなら二人とも早めに謝っておけよ? まだ若いんだ、それくらいの失敗は取り返せる」
グリッツさんは温くなったであろうビールを一気に傾けた。もう無くなったようで、振ったところで音は何一つしない。
「……じゃ、自分もそろそろいくとするか。どこかでまた会ったらその時はまた何か聞いてやるさ。じゃあな、坊主ども」
「――あ、あの!」
飲み干した最後のビール缶を数m離れたゴミ箱に投げ捨ててその場を立ち去ろうとしたグリッツさんを、オレは呼び止めた。葉一とオレの抱えていた問題はこれでなんとかなりそうだった。これ以上頼っていいのかはわからない。だけど今は、猫の手でも借りたい状況でもあったし、オレにとって多分、グリッツさんは信用できる。
「――ちょっと、家に来てくれませんか? オレはそこでもう一つ、相談をしたいので」
だから、今抱えてる問題のことを話すと決めたのだ。グリッツさんはオレの申し出に――首を縦に振って、頷いてくれた。
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「おじゃましますっと……随分あそこから近いところにあったんだなぁ、坊主の家は」
グリッツさんが家に入ってからの第一声はそれだった。丁寧にブーツを脱ぎ揃えてからグリッツさんは上がっているので、日本の家には何度か上がったことがあるのだろうか。外国では脱がないのが基本らしいし。
「それじゃグリッツさん。ちょっとリビングの中に家族がいるかどうか確認してきますんで、ちょっとだけ待っててください」
そう言い残してからオレはリビングのほうへと走っていった。ドアに張られたガラスから中を見てみると、誰もいないようだ。グリッツさんのほうを見て手招きし、大丈夫そうだということを伝える。
リビングに入ってソファに腰掛けてもらい、自分はとりあえずお茶の準備をしていた。さっき飲んだばかりかもしれないが、もしかしたら長くなることもありうる。
「あの、日本茶とコーヒーならどっちがいいですかね?」
「それならコーヒーでいいぞ。コーヒーは好きだからな」
それならよかったと、棚の中から以前海山さんに勧められたインスタントコーヒーをカップ二つに入れてから、沸かしたお湯を注いだ。湯気が消えないうちにソファの前のテーブルまで運ぶ。
グリッツさんは置かれてまもないそれをすぐに口元に運んだ。まだ何も入れていないブラックコーヒーだが、気にせずに飲んでいる。
「……ふむ、自分はインスタントはあまり好きではなかったがこれは嫌いではないな。いいものを選んだじゃないか、坊主」
それを買ったのはオレではないのだが、それは伏せておいてもいいだろう。重要な話でもない。
オレはグリッツさんの向かいに座り。満足したような彼がカップを置いたのを見てから、オレは相談を始めた。
「それでグリッツさんに相談……というか聞いてくれるとありがたいことがあるんですけど……」
「よし聞こう。だが、もう一人の坊主を帰すくらいにはプライベートな話なんだろう? それを自分に話していいのか?」
今から話すのは、あまり多くの人に聞かれるのはよくないかもしれない。せめて相談する相手ぐらいまでが自分には譲れるところだったので、葉一にはすまないが家に帰ってもらったのだ。多分近いうちには話せるかもしれないので、その時には謝ることにしようと思う。
だが、グリッツさん相手でも一応確認しておかなければいけないことはある。
「大丈夫です、でも話す前に一つグリッツさんに聞きたいことがあります。今から話すことは絶対誰にも言わないと、相談以上に干渉したりさせたりは絶対しないとだけ約束してほしいんです。お願いする立場で言うべきではないかもしれませんが、これだけは守ってもらえなきゃ困るんです」
オレと天木さんの問題は誰かに首を突っ込んだりされると非常にまずい。警察でも直接の介入でも、そういったことをしてきそうな人に話すわけにはいかない。
もっとも、さっきまで話したところでこの人はそういうことをしそうにないだろうということはなんとなく分かっているからここまで来てもらったのだが。これは最終確認みたいなものだった。
「ああ、主に誓って約束しよう。自分はすでに正規の牧師をしているわけではないが、自分をここまで導いてくれた教えに背いたりするほど、罪に堕ちた覚えは無い。誓って、坊主を裏切ったりはしない」
このとおりだ。予想していたこととはいえ、ちゃんと約束は守るとここまで言ってくれたことは嬉しい。おもわずほくそ笑みそうになったが、それを抑えるためにひとつ咳払いをした。
「……ありがとうございます。それじゃあまずは……ある女の子の話から始めましょう」
休む間もなく、オレは話を始めることにする。頭は緊張で冴えわたり、秒針が動いたり、心臓の鼓動のような小さな音も大きく聞こえる。目の前で神妙な顔をしているグリッツさんを見て、心を落ち着かせた。そしてようやく、相談事の口火を切った。
「突然だったんですけど、一人の女の子に助けを求められたんです。オレはそれをなんの疑いもなく引き受けました。助けるっていうことがどういうことなのか、出会った時は分かってなかったんですけど……それはその子と変わってしまった親友をもう一度、会わせることだと、話を聞いたときは思ったんですよ」
だから、まずは天木さんの擦り切れそうだった心をできる限り時間をかけてでも元に戻そうと思っていた。ゆっくりと、ゆっくりと、それは着実に進んでいたと思う。
だけど。
「でもある日、興味本位で探って、その親友の真実を知って、それでまず自分一人で会いに行って、そして説得したんです。お前が彼女に会いたがっていても、そんなふうに危険なままでは会わせることはできないって。それで説得できると信じていたんですよ。そいつが本当にその子を思っているからこそ変わってしまったんだっていうことは知っていたし、何より間違いを正すためのこともやりました……けれど、それはできなかったんです。失敗したんですよ、オレは」
天木さんを歓迎したあの日。もっと早く問題を解決させられると思って知識の自己複写を使ったあの時に、自分の心は焦り、はやってしまったんだろう。そのミスが早すぎる段階で『遠原櫟』を呼び、結果は自分がただ現状を目の当たりにしただけ。大失敗もいいところだった。
「オレは今はまだどうにもできないことを悟って、その友達をもう一度女の子から遠ざけるために帰したんです。そして、今はできれば二人で今後どうするかを話し合いたかったんですが……どうも、嫌われちゃったのか避けられてるみたいで。どうすればいいのか、分からない状態でして」
これで終わりだと言う事を告げるために、用意したコーヒーを軽く一口。途中で自嘲するように笑ってしまったが、ほろ苦い味に思わず顔が歪んだ。グリッツさんは相槌を打つこともなく、ただ真剣な顔で悩んでいるようだった。
「…………それは、自分一人ではどうにも口出ししづらい問題だな」
「いや、何を言ってくれてもいいんですよ、全然。ただ方法が浮かばないんです。なにか小さな案でも聞かせてくれればオレとしては嬉しいんですが……」
このままではどうしようもなさそうだから。なにか一筋でも光明が見えたり、話を聞いて何らかの助言をくれるだけでもオレにとっては縋れる藁になるかもしれないから。
グリッツさんは深く息を吐いて、座る姿勢を一度正す。そして数秒の沈黙ののち「……とりあえず」と始めた。
「時間が解決するっていう言葉もあるが……なによりまずは、話し合えるなら二人で話し合うべきだろうな。自分も坊主の話を今聞いているが、それでもうある程度気は軽くなったろう?」
「……はい」
確かに、不思議なくらいに晴れたような気分だ。そしてこの人を目の前にしていると自然に敬語になってしまうのは、何故なのだろう。それは謎ではあるけれど、今気にするべきことではない。
なにより……その辺りを探るのは怖かった。知らないほうが幸せだと、本能が告げていた。だから一言、肯定の意を返すだけに留める。
「ならその女の子とやらと、今度は腹を割って話してみるんだな。避けられているんならその理由をちゃんと考えてみろ。坊主はそれもできないほどの子供じゃないだろ? できないって言うんなら……そもそも、お前には助けられなかったっていう、それだけの話だ」
最後には突き放すように、グリッツさんはオレに答えを返した。グリッツさんは何食わぬ顔でコーヒーを飲み、オレもそれをできる限り平静に努めてそれを見ていた。
だけど心の中では、最後の言葉がリフレインを続ける。お前には助けられない――その言葉はオレでは否定も肯定もできなくて。ただ、胸の中で重く重くのしかかって、自分を潰そうとしてきている。これまで優しく入り込んできたグリッツさんの言葉に、オレは油断して彼の言葉を自分の深いところにまで入れてしまったようで、気にしないでいるというのは不可能だった。
「……そうだな。それがダメなら坊主も女の子とやらも二人して昔自分がいた教会で懺悔でもするか? 今の牧師は自分の教え子だったはずだから、頼めばなんとかなるかもしれんぞ?」
それは助け舟なのかはわからないが、グリッツさんはオレにそんな言葉をかけてきた。懺悔といわれるとすこし惹かれるところはあるが、それはできない相談だった。だから手を左右に振って、それはできないということを示した。
「……それは無理ですよ。オレもここにいて守らなきゃいけないものがありますから、一人で離れることはできません」
まだ樫羽を置いてどこかに行くなんて事は、オレにはできそうになかった。せめて父さんが帰ってくるまではオレはここにいなくてはいけない。どうしても行かなければいけないなら、その時は樫羽も一緒だ。そしてそれは天木さんだろうと同じことだ。
グリッツさんがオレの行動に見せた反応は、軽い笑いだった。人を食ったような、そんな笑い。
「くくっ……それならいい。とにかくな、坊主。お前らはまだそんなにややこしくなる年齢でもないんだ。まずはちゃんと話を聞いて、悪いと思えば謝り、酷いと思えば怒って、楽しいと思えば笑うぐらい素直でいい。ハイスクールに通いだしたばかりのやつにはひねくれたり知識を持って大人に近づこうとするようなのもいたりするが、大人なんてのは自分から見れば責任と酒とタバコを身体で実感してその重さを理解できればなれるもんだ。坊主も悩みすぎると頭が禿げ上がっちまうぞ?」
グリッツさんはそれを言い切ると残っていたコーヒーを一気に飲み干して立ち上がった。どうやら、もう帰るらしい。
「自分から言えることはもう無いからな。コーヒー美味かったぞ、坊主。それじゃあな」
「……ありがとうございました。グリッツさんの言ったこと、できる限り忘れないようにしてあの女の子とも早いうちに話し合ってなんとかしてみせます」
「おいおい、できる限りか? ……まぁ、とにかくだ」
素早く手で空に十字を切り、グリッツさんは目を閉じて穏やかに――
「――Amen」
そう言って、この部屋を出たのであった。