深根のエリート
天木さんに引っ叩かれた次の日、オレは普段よりも早いうちに学校に来ていた。いつもならHR10分前ぐらいに入ってくるのが基本だが、今日に限って言えば30分前だ。あまりクラスメイトもいないし、こんな早い時間から葉一が居たりするわけもないので単純に暇を持て余している状況である。寝るというのもありではあるがそれはそれでもったいない。せっかくの時間なのだから何かに活かしたいとは思うのだが、生憎その活かす手段をオレは知らなかった。
「ちょっと失敗だったかな……」
そもそもオレがこんな早い時間に来ているのは偶然早起きができたから、という単純な理由なのだが、普段であればある意味確実にやらないであるようなことでもある。いつもならば樫羽と天木さんが起きてちゃんと朝食を食べたことを確認してから出るようにしているオレだが、今日は樫羽が起きるのを確認してからすぐに出かけている。天木さんとは、顔を合わせていない。
要するに今日学校に来るのがこんなに早い理由は、天木さんと顔を合わせづらかった、ということに他ならないのだ。最低とまで言われてしまっては、どんな顔をして一緒に食事をすればいいのかもわからない。
しかし、そんな理由を思い出していても時間は潰れやしない。このままイスに座ってただボーっとしているわけにもいかないので、ちょっと時間をつぶしてくることにした。
オレは立ち上がり教室を出る。そうして向かった先は上へ続いている階段――目指したのは屋上だ。しかし屋上になにか時間をつぶせるようなものがあるというわけではない。ただただ空を眺めたりこれからやってくるだろう生徒たちが校門から入ってくるのを眺めたり……精々それぐらいが限度だろう。それでも机の上に突っ伏しているよりは、何かをしているような気分にはなれるはずだ。
あまり使われていないように見える薄汚れた屋上に続く扉に手をかけて開ける。そうして感じるのはまず夏らしく暑い大気と、激しい日光。つい最近ようやく夏服でちょうどいい天気になったばかりだというのに、もうそれですら涼しさは一抹も感じられない。じんわりと汗が肌に浮かびそうになる中で屋上の開放的な雰囲気を目に入れる。空は快晴とまではいかないまでも晴れていて、屋上には人は二人しかいない……いや待て、人のことは言えないがこんな時間に二人も屋上にいるってどういうことだ。
「ふっ! やぁ!」
「お嬢様、それでは防がれてしまいます。腕力ではだめなのですから動きに緩急をつけて……」
ボリューミーな金髪を左右でまとめた気丈そうな女の子が、もみ上げのあたりの部分を編んでいる紫色のミディアムヘアをした冷静そうな落ち着いた女の子に徒手空拳での攻撃のような動きをして、それをかわされたり受け流されたりしている。二人とも制服を着ているしここの生徒だろう。本気で戦っているようにも見えないのでおそらく訓練のようなことだろうが、彼女らは第二体育棟の運動部に所属しているわけではないのだろうか。所属していないのならばなぜそんな武術を磨くようなことをしているのかわからないが、所属しているならばそもそもここでやることもないはずだ。
予想だにしていなかった光景に屋上へ入ろうとした足が止まってしまうが、30秒たっぷり時間を使ってなんとか意識を取り戻し、むこうがまったく気づいていないこともあったために恐る恐るながら屋上へ入る。
太陽の熱気はやはり強かったが、一瞬冷えかかった頭ではそこまで熱さを感じるというわけでもない。最初は空なんかを眺めようとでも思っていたが、やはりすぐ近くで声を張りながらやっている二人の女子による格闘訓練らしきもののほうが気になってしまう。とりあえず日陰に入ってしばらくそれを眺めることにした。
10分近く見ていてわかるのは、紫髪の少女のほうが金髪の少女よりも強いということと、あの金髪のほうが「お嬢様」と呼ばれていることぐらいだった。二人とも動きは一般的な女性に比べればいいほうだと思うが、時折金髪が出す力の入った拳を軽々といなす紫髪の少女は何者なのだろうか。
ローキックをかわしてそのまますばやく後ろにまわった紫髪の子は、金髪の肩をポンと叩く。それで二人とも全身から力を抜いた。どうやら今日はこれで終わりらしい。見ていて飽きなかったので残念な気持ちもあるが、携帯の時計を見れば朝のHRまで10分ぐらいというところだし終わらせるには妥当な時間だろう。彼女らにも授業はあるわけだし。
その場を立ち上がろうとしていると横に誰かの気配がした。見てみればそこには金髪が飲み物が入っている容器とタオルを持って立っていた。どうやらオレに用があるらしくその目線はこちらを見て離さないでいる。
「お待ちなさい。あなたはなぜここにいるのです? 鍵はかかっておりませんでしたの?」
「鍵なんてかかってなかったぞ。とりあえず暇だからここまで来たってだけだが、なんか問題でもあったか?」
「そう……亜貴がかけ忘れたのかしら。とにかく、問題というわけでもないのだけどここに近づかれると困りますの。今後暇つぶしをするときは別の場所で――」
こういう時に不謹慎かもしれないがこの金髪はけっこうな美人さんである。柔らかそうな唇で目鼻立ちもくっきりとしており、華やかな印象を思わせる姿は煌びやかな宝石と似た印象を思わせる。態度はどこか偉そうに感じられるが、不思議とそこまで不快感が出てくるということもない。おそらくは雰囲気や声がそれにあっているためだろうなどと思っていると、風が吹いてきた。ずっと日陰にいたがそれでも夏の暑さはいかんともしがたかったところには丁度よく涼しい風。朝の爽やかさもあいまって体が軽くなったような気分のオレの目にそれは飛び込んでくる。
それはなんとも心を昂ぶらせる形であった。空に浮かぶ雲のような白に、乙女を飾る装飾品やドレスのようながらも華美だとかそういった嫌みったらしい派手さをまるで感じさせないレース。さらにはそこから伸びる脚もまた健康的で、オレが見たそれをより一層引き立てて喉を鳴らさざるを得ない。そう、具体的に言えばオレが見たのはパンツ――
「!? キャアアアアアア!!」
「へぅぁぶ!!」
甲高い悲鳴を上げた目の前の金髪のハイキックがオレの側頭部に入り吹っ飛ぶ。打ち所が悪かったのか立ち上がることもできずそこで倒れながら痙攣してしまう。なんとか金髪の顔を見ると若干紅潮した顔でこちらをキッと睨んできたのでついつい顔を逸らしてしまう。こわい。
言い訳をするならばオレが座ったままで彼女が立ったままだったというのも悪かった気がする。それでも最初は見えなかったのだが、風のせいで丸見え状態である。なんというか事故のような気もするのだが、もしかして立たなかったオレが悪いのか? ……しかしこの一発で済むなら安いもののような気もす――
「お嬢様。ハイキックをしてはまた下着が見えてしまったと思いますが」
「!? こ、この、不埒者!」
倒れた身体が思いっきり何度も踏みつけられる。ヒールじゃないだけマシだがぐりぐりねじるようにやってきていてめちゃくちゃ痛い。しかも今度は完全にスカートを抑えているために目で体力や精神力の回復を図ることもできやしない。いらんことを、と思ったがそれはだんだん踏まれた箇所の痛みで消えていた。今はせめてこの状況が終わるのを祈るしかない。
「不埒者、不埒者、不埒者!!」
なんとか声を押し殺して耐える。途中何度もタンマと言いかけたがそれも何とか抑えた。金髪は十何回と踏みつけてせいせいしたのか、「フンッ!」とだけ言ってようやくどこかへ行ったようだ。なんとか立ち上がろうとしてみるが、力が入らない。どうも踏まれすぎたらしい。
「……大丈夫でございますか?」
ひょっこりと上から現れたのは心配そうにしてくれている紫髪の少女だった。こちらも金髪のほうに負けず劣らず、だが対照的な美人だ。あっちのようないるだけで周囲を明るく照らすような感じではないが地味というわけではない。あちらが太陽ならばこっちは月、いや、夜空に輝く星といったところだろうか。目のキリッとした鋭さは金髪のほうがしゃんとしているように見えるが、この丸い眼にもそれに負けない確かな意思は感じられる。それがなんなのかはわからないが、その落ち着いた立ち居振る舞いも含めてどこか陰があるような美少女、といった感じだ。
「? ワタシの顔に何かついていますか?」
「ん、あぁ、ごめんつい……よっ、と」
手を差し伸べてくれているので、起き上がるのを手伝うということだろう。その心遣いに感謝して、不用意に顔を眺めていたことを謝ってからオレはその手をとってなんとか立ち上がる。制服の汚れをはたいて落としていると、少女はオレの背中を弱く叩いてくれた。背中のほうを手伝ってくれるのは助かると礼を言うと少女はなんでもないようにして気にしないでいいと言ってくれた。
「これで終わりですね。それではワタシは行きますので、失礼いたします」
「ん、本当にありがとう。よかったら名前を――」
彼女は行くといってそのまますぐに走って行ってしまった。なにやら事情があるのかは知らないがせめて名前を聞いておきたかったところだ。今度ちゃんとしたお礼をと考えていたのだが……あ、そうだ。
「まずい、オレも急がなきゃヤバいんだった……!」
蹴られ踏まれて散々だったせいか忘れかけていたがHR10分前だったのだ。今はもう7分前。これ以上ここにいるのはまずいだろう。オレはまだ痺れが残る身体を鞭打って屋上から階段を、階段から屋上を一気に駆け下りた。
「いよっ。どうしたんだよ、そんなに焦って?」
オレの椅子には腕と足を組んで座っていた葉一が暢気な顔をしてそう言ってきた。相変わらず頭の軽そうな雰囲気をしているところを見るとどうも心が落ち着く。走ってきたために呼吸を整えてから葉一に話しかける。
「おはよう。お前はいつも学校に来るの後のほうだな。那須野は部の朝練がある時とかは早いけど」
「んー、まぁいいじゃねえか。遅刻は基本的に無いだろ?」
「そりゃそうなんだがな……」
まぁ、暇だったことの八つ当たりはここまでにしておくか。それより、もしかしたらこいつは屋上にいた二人のことを知っているかもしれない。こいつは女好きだし、二人ともけっこう美人だったからもしかしたらということもある。
「なぁ葉一。お前、金髪の女子と紫髪の女子のこと知らないか? 二人とも相当の美少女なんだが……」
葉一はそれを聞いてなにか信じられないものを見るような目でこちらを見てきた。どういうことなのかと思ったが、そこで予鈴が鳴り、担任の古賀が入って「座れー」といつもどおり、気だるげに生徒たちに促す。葉一も自分の席に戻るべく立ち上がった。
「んぁー……とりあえず、昼休みにでも詳しく教えてやるよ。なんでお前がそんなこと聞くのかわからねぇけど、一言で言えば――その二人はエリートだぜ?」
それだけを残して、葉一は自分の席に戻っていった。
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「櫟。お前が朝言ってた二人のことだがな」
昼休みに教室にやってきた那須野と一緒に弁当をつまんでいると、葉一が思い出したようにその話を引っ張り出してきた。食べ終わってから聞こうと思っていたが、早い内に聞けるならそれでもいいだろう。那須野は突然の葉一の切り出しにキョトンとしているようだが。
「? なんの話だ?」
「あぁ、那須野は別に聞かなくていいんじゃないか? オレの興味本位みたいなもんだし」
「そうか。それじゃあ某はその間に遠原の弁当を」
「いや、自分のか葉一のでも食えよ。悪いな葉一、話の腰を折って」
気にすんな、と葉一は笑っていた。それでもとりあえずカジキの照り焼きを一切れ、お詫びとして渡すと葉一は遠慮なく受け取り一口で食べきる。飲み込んだところで葉一は話を再開した。
「そんじゃ、例の二人のことな……て言ってもこの学校で金髪と紫髪の女子生徒の二人組つったらほぼ確定なんだが」
「前置きはいらないから、早く教えてくれよ」
「わかったわかった。金髪は琉院槙波で、紫髪は三里亜貴。同じ二年で二人ともC組だ。聞いた話じゃ琉院の従者……専属メイドみてーのが三里さんなんだと」
「琉院槙波に三里亜貴、か。しかし二人とも同じ学年だったんだな」
意外だった。金髪――琉院の方は同じぐらいかと思っていたが、三里さんというほうもだったとは。てっきり三年かと雰囲気で感じていたのだが……まぁ、三年の教室に行くより二年の方が行きやすいか。
葉一はこちらを見ながら意地の悪そう笑みを浮かべていた。
「んで、そんなことも知らない櫟くんが、なんであの二人のことを聞くのかなぁ~?」
「なんだよその言い方は。まるでその二人を知ってるのが常識みたいじゃないか」
「常識だ」
「常識だな」
二人揃って即座にオレを非常識認定してきた。まさかあまり積極的に人に絡まない那須野ですら知っていたことだったっていうのか……自分が社交的だとは思っていなかったがショックだ。
「いや、那須野もC組だしな。で、結局どういうことなんだよ?」
葉一はヒョイッと自分の弁当から炒められたブロッコリーを取って食べながらそう聞いてきた。オレも上に海苔が乗った白米を口に入れて、その味を適当に噛み締めてから答える。
「いや、単に見かけたから気になってな。二人とも綺麗だったしさ」
葉一はその言葉に目を閉じ、何度も首を縦に振って頷いている。正直に全部話すのは嫌だったので適当に答えたのだが、どうやら納得できる答えだったらしい。まぁ美人のことを知りたい、ってのでもこいつには十分な理由だったか。
「確かにそんなもんだよなあ、理由なんて。実家は金持ちで実力もこの学校でトップクラス。住む世界が違うようなもんだし、接点があるなんてのもありえねぇわな」
そうやって笑った後で葉一は弁当を食うのに戻っていた。鶏の唐揚げに玉子焼き、ごまがかかったご飯と一般的なメニュー構成ながらも美味しそうだと思わせられるそれが羨ましいところだ。自分で作ったものは作るときに考えて全部分かってしまってるだけにそのあたりの楽しみはまるで無いし。
ふと那須野の弁当も見てみようとそっちを向こうとすると射すくめようとしてくる視線を感じる。その主はこっちを冷めたような視線で見てきている那須野だ。
「……えーっと、なんだ?」
「うるさい。つべこべ言わずに何か差し出せ」
「なんで!?」
突然のジャイアニズム開眼か何かか、と続けようとすると黙らせるようにこちらを見ながら那須野は買ってきたお茶の缶を握りつぶした。スチールでやることじゃねぇよそれ。おとなしく弁当の箱をそのまま差し出してしまうくらいの恐ろしさだわ。
那須野はオレの弁当からヒョイヒョイとおかずやご飯を取っていくもその顔つきは変わることはなく、半分ほど食い尽くされてようやくオレの昼食は開放された。しかし開放されても雰囲気は刺々しく、クラス中の視線がこちらに集中していた。気づいてないのは横のアホぐらいである。
「…………」
「あー、その、那須野。なんでそんなに怒っているのかな……?」
那須野は何も答えずに葉一に視線を向ける。葉一はそれでようやく気づいたらしく「なんだ――」と言いかけたが、その槍のように鋭い目にたじろいだ。ここにいたってようやくこいつもなにかおかしいと、周囲を見て状況が悪いことを察した。
ちなみに以下、周りの会話。
「いくらなんでもなぁ……」
「ちょっとデリカシーが……」
「やっぱあの二人バカだよな……」
「那珂川さんってやっぱかわいいよねぇ……」
こんな感じでオレたちを責める声が三、なぜか那須野を褒める声が一という謎な状況である。葉一としばらく二人で顔を見合わせていると、那須野の口がようやく開いた。どこか重くて鈍い、けれど刃のように通る声が聞こえる。
「お前らに期待するのも無駄だとは思ったけどなぁ……それでも、少しは気ぐらい使え……」
「き、気?」
那須野以外の二人の声がハモる。こいつはいったい何を言っているんだという表情を葉一はしている。おそらくそれはオレも同じで、那須野にも理解していないということが伝わったらしい。ため息が聞こえる。気のせいか目つきがさらに鋭くなっているように見えた。
「……某だってな、一応女子なのだぞ? あまり無視されて、目の前で誰かが絶賛されているのを見せられるのは……いらつく」
あ、なるほど。つまり那須野のことを忘れて琉院たち二人のことを話しすぎていたのが気に障ったのか。よく見れば弁当は空だし、聞いているだけで相当暇だったのだろう。葉一もようやく合点がいったという顔をしている。頭を下げて謝るしかないか。
「あー、那須野、悪かった、反省している」
「それはもう神田の言葉で何百と聞いた」
思わず葉一のことをぎろりと睨んだかもしれない。お前は何度謝るような事態を起こしてんだと、おかげで別の謝罪を考えなきゃいけなくなったじゃないか、恨むぞ。しかも当の本人は引きつったような乾いた笑いをしているだけだ。葉一はなんとか「ぁー、ぇー」と呻いていたようだが何か妙案を思いついたような顔になった。
「い、いやいや、俺は那須野もかわいいし、美人だと思うぞ?」
「……ほぅ?」
脈アリ! 葉一が始めた褒め殺し作戦はどうやら効果が出ているようだ。それに自分も乗るべく、思いつく限りの那須野の美点をとにかく挙げてみることにした。
「び、美人と言っても特に分かりやすいのはその雰囲気だよな。なんというかこう……凛としてて、かっこよさもあるっていうかな」
「そうそう、でも女の子らしいってのがよくわかるところもあって、本当に目に入れるだけでも心が癒されるっていうかな」
「…………」
「ついでに制服もめちゃくちゃ似合ってて、それがまたかわいいんだよな」
「ああ。ちょっと過剰かもしれんが、写真があったら宝としてとっておいても罰は当たらないぐらいだよな」
「…………」
言葉は無いが聞いている、いや効いている。さっきに比べれば雰囲気は柔らかくなったし、表情もどこか緩んできている。
あと一押しだ。葉一のほうをチラッと見やれば、なにかこちらに伝えようとしているような意味ありげな目線。それが何を意味するのか、長年の付き合いの俺にはわかる。最後の一押し――それは二人で一緒に言おうってことだろう。
確認するように向こうを見るとそれでいい、というようにコクンと頷いた。どこを褒めるか? そんなもの決まっているだろう。あれしかない。
タイミングを合わせるのに、わざわざ顔を見る必要もない。長年の感覚は息遣いだけで合わせることを容易にさせてくれた。那須野のほうを見て、今のこの空気を完全に正常化してみせる気持ちをこめてそれをぶつけるために、葉一と声を重ねて言う。
「なにより那須野は、胸がでかいからな!!」
「……なぁ、葉一」
「なんだ、櫟?」
今、オレの目には白い蛍光灯のある教室の天井が見える。オレはもはや脱力しきってしまい、立ち上がる気も湧かないでいた。周囲から感じる刺さるような視線を気にせずに、ひりつくというよりもじんじんと痛む頬を撫でてみる。やっぱり痛い。
「……こういう時って、平手でモミジができるとかそういうもんじゃねぇの?」
「蹴りよりマシだろ」
蹴られたことがあるのか、とは聞かない。なぜなら今日は自分も同じようなものだから。頬は撫でていても痛いだけだったので、ぶつけたかもしれない頭に触る。少し痛むが、大事には至っていないようなので安心した。
が、ある意味別の方向では大変なことが起きたような気がする。オレと葉一は那須野に送れるであろう最高の賛辞を、最高の笑顔で言った……そして、最高のパンチを見事にもらった。何かが切れたような音を聞いた気がしたがそれを言及する前に高速の一発を頬にもらって椅子ごと後ろにぶっ倒れて、それでこのざまである。葉一が殴り倒されてから誰かが走っていくような音が聞こえたが、それは多分那須野だろう。
「……そろそろ起きないか?」
「そうだな」
むくっと起き上がってイスを直す。そして那須野のところまで行こうと思って走り出そうとしたのだが、そこで時間切れのように昼休み終了の予鈴が鳴る。舌打ちをしたくなる気持ちを抑えて弁当をしまう。そこで目に付く、オレと葉一のものではない空の弁当箱。
「……忘れたか。ほら、ちゃんと家で渡しとけよ、葉一?」
「おぅ、了解」
葉一は慣れているのかあまりダメージを感じさせない動きでそれを受け取り、包んでカバンにしまう。しかし葉一にこのまま全部押し付けるのはよくないな。せめてちゃんとした謝罪の言葉を考えておこう。聴いているだけで心が削られるような周囲のひそひそとした声から耳を閉じつつ、自分の席についた。
++++++++++++++++++++
「まさか、もう教室からいないとはな……」
放課後になって葉一と一緒に2-Cまで急いで行ったところ、那須野はそこにはもういなかった。おそらく武道部の部活に向かったのだろうということで、今日は一度家に戻ることに。あのまま校内に残って待っていてもやることはまるで無かったので、今は葉一と一緒に商店街を通って下校中である。
「ああ。とりあえず、那須野が帰ってきたら俺はちゃんと謝ることにするぜ……さすがにここまで怒られると俺にも自分がとても悪いことは分かるからな」
両手を頭の後ろに持っていきながら葉一はそう言った。こいつはまだ家で時間をかけて謝れるからいいかもしれないが、オレの場合は学校で会うかどうかというぐらいなのでそれだけ時間をかけられるのが羨ましい。しかも那須野だけでなく天木さんのことも今のオレにはあるのだ。やることがいまだに多いと思うと憂鬱だ。
「そういえばよ、櫟。那須野と最初に会ったのってこの辺じゃ」
「キャアアアアアアアア!!」
「大人しくしなぁ、そこのねえちゃんよ!!」
突如オレたちの前から絹を裂くような女性の悲鳴と、どこかガラの悪そうな声が聞こえてきた。この時点でどういうことなのか、隣の葉一も悟ったようで二人して走り出す。
ついてみれば人ごみがあって見づらかったが、女性に対して日焼けしておりアロハシャツを着た似合わない金髪の若そうな男がナイフを向けているのが見える。女性は怯えたような表情で男を見ており、それを男はなめまわすようないやらしい表情で見ている。周りにいるのはほとんどが40を超えてそうなおばさんばかりで、とりおさえられそうな男が来るのにも時間がかかりそうだった。ならば、やるしかあるまい。
「葉一。一応言っとくが、魔術は無しだぞ? あまり人前でみだりに使っちゃいけないって話だからな」
「分かってるっての。どうせあんなん、ちょっとボコにしてやれば問題ねえだろ」
人ごみをかき分けて男のいる中心まで入り込む。ナイフを向けて男は女性ににじりよって舌なめずりをしている。見ていても汚らわしいな。
「おい、そこの頭の悪そうなパツキン野郎! おまえ、そんなみっともないマネしてどうしたんだよ!?」
大声で葉一に呼ばれてようやく気づいたのか、男は拍子抜けしたような顔をしつつもこちらを向いた。
「んだぁ、ガキがでしゃばってくんじゃねえよ! すっこんでろ!!」
「……あれだな葉一、あいつどうせふられた腹いせとかにやってんだろうな」
「ああ。あんな頭の悪そうなのに言い寄られても誰も付き合うとか言い出すはずがないのにな」
「聞こえてんぞそこのガキどもぉ!! だぁれが女にフラレタってぇ!?」
「お前だろ?」「むしろお前しかいない」
男はこめかみに青筋を浮かび上がらせてピクピクと痙攣しているようにこちらを見ている。とりあえずそのままこっちに敵意を向けて突っ込んできてくれるとありがたいのだが、もう一押ししたほうがいいか? いや、下手をすれば逆上してそのまま近くにいる女性を先に殺すということも考えられ――
「いいぜ、まずはてめぇらからぶっ殺してやる! その後で女はオイシクいただいてやっからなぁ!!」
「……心配要らなかったようだな」
「ああ、やろうぜくぬ――!」
こちらにナイフを向けて、男が突っ込んでこようとしたその時だった。人ごみの中から黒い人型が飛び出て男の背後にまわり、その背中に回し蹴りを叩き込んだのだ。その威力は分からないが、こちらに男が吹っ飛んできている。人に当たれば怪我をしそうな勢いのこれを、後ろの人ごみに当てるわけにも行かない。
「葉一!」
「右は任せたぜ、櫟!」
吹っ飛んできた人体を受け止めた経験などもちろん無い。しかし今はやらなければいけない。葉一に左半身を任せて、自分は右半身を受け止めるように構える。やがて飛んできたそれを受け止めると、まず手に走ったのは体重の乗った衝撃。人を吹っ飛ばしてまだこれだけ勢いがあるとは、どれだけ重い蹴りを放ったんだ、さっきのやつは。
とにかく踏ん張って耐えるしかない。腕が下がっても、足がずり下がっても、こんなの後ろに飛ばしたら大惨事なのは確実だ。
「おぉぉぉりゃぁぁぁ!」
気合を入れるべく、腹から力を入れて叫ぶ。やがてそれが前に来ようとする力は無くなり、男の身体はオレと葉一の腕にだけ支えられてぶら下がっているような状態になり、ナイフを落とした。
意識だけはギリギリ残っていたようで、うめき声を上げながらオレたちを見比べている。なんともニヤけた面が苛立たしい。
「……へっ……へへっ……ガキども、おめぇら、俺達「True World」に手ぇ出して、ただで帰れると――」
「黙って寝てろ、このクソ野郎」
うだうだと香水だかなんだかわからない臭気を近くでまき散らかせて、気分の悪くなる顔でもっとも嫌いな名前を言われてまで落ち着いていられるほど、こっちは寛大ではない。なので葉一と同時にその顔に一発だけパンチをさせてもらった。それで完全に意識を失ったようなので男は地面に寝そべっていてもらうことにした。じき、警察か何かが来るだろう。
「……っと、忘れないうちに礼かなにか、言っとかないとな」
そうだ。さっき飛び出してきた黒い人型に挨拶だけでもしておくべきだろう。地面で寝てる迷惑な男から目線を外し、さっき男が飛んできた方向に顔を向ける。
そこにいたのはモノクルをつけてカソックを身にまとい、十字架を首から提げた、いわゆる――聖職者だった。