女が欲しいわけではない
「すみません海山さん。ギャルくださいよギャル」
「……は?」
あの決意から二週間。季節は梅雨が明けて七月に入り、まさに夏の到来を思わせる暑さにまで気温は上昇していた。オレは期末テストやらなんやらを乗り切って久々に海山さんのいる校長室にやってきている。それでちょうどいいから頼みごとをしてみたのだが、言って早々そんな風に軽蔑するような視線で見られる覚えはない。一応ちゃんと調べてきたから間違っているとも思えないのだがなぜだ。
「遠原……あんた、そこまで女に飢えていたのかい……?」
「……あぁっ、て違うそっちのギャルじゃねぇ! オレが言ってるのは前くれた紅茶のギャルってのをもう一度くださいってことです!」
なぜこのタイミングで恩人に向かって女が欲しいと言いださなきゃならんのだ。失礼にもほどがあるというか、まだそういう気持ちにはなれないというか、この先もそんなことをこの人に言う機会はほぼないだろう。海山さんもオレの返答を聞いてようやく納得した、というようなスッキリした表情だ。
「紅茶って……ああ、あれかい。でもなんでまたそんなものを急にほしがる?」
その何気ない質問につい呻いてしまう。あまり言いたいことではないからできれば黙って渡してほしかったのだが、ここでボロを出してしまった以上、きっとあの海山さんだ。しつこく聞いてくることだろう。観念してわけを話すことにした。
「そ、それはそのぅ……天木さんとですね」
「ああ、ケンカしたから仲直りの印にでもってことかい?」
「いえ、ケンカじゃないんですけど……いやでも、そういう感じではあるのかな……?」
そう、今回のことはケンカではない。ただ口を利いてもらえていないというか、あの『遠原櫟』を送り帰した夜からずっとどこか冷たくされているのだ。
話しかけても「はい……」とかばっかりだし、顔を合わせて食事する機会も減って、あっても段々気まずくなっていき……結局会話はほとんど無い。どうしても言っておかなきゃいけないこととかは樫羽を通して伝えてもらっているのだが、このままではどうにもやりづらく、いいかげんなんとかしてしまいたいのであの時の紅茶でももう一度飲んでもらって機嫌を直してもらおうというつもりだった。
しかし、海山さんは残念そうに首を横に振る。
「悪いけど、今は無いね。時間があれば大丈夫かもしれんが」
「そうですか……それじゃあ今日はこれで帰りますね。また来ますんで、その時になにかあれば貸してください」
無いのならばしょうがない。また何か別のものを探すかと思ってオレは、校長室を出るのだった。
「………ふむ、ちょっとばかし状況をかき乱してみるかね」
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海山さんがあの紅茶を持っていたらなんとか貸してもらおうかと思っていたのだが、まさかもう無くなっていたとは。そんなことを考えながら帰っていると、やがて自分の家についた。この二階建ての一軒家に三人暮らしというのはある意味贅沢なのかもしれない。まぁ住んでる一人とちょっとだけ仲がよろしくないような状況になってはいるが、それはすぐに解消してしまいたいところだ。
「ただいまー」
「あ、兄さんお帰りなさい」
家でまず出迎えてくれたのは我がかわいい妹の遠原樫羽。どちらかといえば凛々しい雰囲気だが、たぶんオレの中ではずっとかわいい妹という評価になるのではないだろうか。ちょうど部屋に戻るところだったらしく、階段の上から見下ろすようにして言葉をかけてくれた。
この家には今両親がいないのだが、もう一人の住人がいる。それが天木鹿枝というオレと同じ歳の女の子なのだが、どうやらリビングにいたらしい。急ぐようにしてドタバタとこちらに向かって走ってきた。
息を切らせてその薄茶のショートボブを揺らしながら天木さんはオレに話しかけてくる。
「と、遠原さん! ちょっとお聞きしたいことがあります!!」
いつになく力強い声で天木さんが聞いてくるのでちょっと後ろに下がってしまいそうになるが、久しぶりに話しかけてくれたことが嬉しい。今の気持ちならばなんにだって答えてあげたいところだ。
「な、何かな、天木さん?」
「さっき海山さんから電話があったんですけど、ギャ、ギャルってのを欲しがっていたっていうのは本当ですか!?」
ギャル、というとあの紅茶の名前だったな。たしかに海山さんにまだ持っていないか聞いてみたが、なんでそんなに焦ってるんだろうか。ついでに言えば何で知ってるんだろうか。
「うん。たしかにオレは海山さんに頼んだけど……それが?」
「……ほ、本当に……!」
この質問の意図するところが何なのか、オレにははかりかねる。しかし天木さんはその答えに納得したのか驚いたような顔をしていた。
とりあえず自分の部屋に行くかと思って玄関から上がろうとした。その時天木さんのほうは見ていなかった。だからだろう。
何かを叩いた乾いたような音が、オレの頬から響いた。それと一緒に視界がブレる。じんわりとゆっくりにやってきた痛みで一瞬飛んだ意識が我に返って叩かれたのだということに気づき、おそらくそれをやった天木さんのほうを見た。
手を完全に振り切った状態で目尻に涙をためている彼女の姿は、数週間ぶりくらいに見ただろうか。そんな天木さんを呆然と見ているオレにむかって、彼女は吐き捨てるように言った。
「見損ないました遠原さん!! 最低です!!」
そう言って階段を一気に彼女は上っていき、ここまで響くような激しい音を立てて自分の部屋に入ったようだ。それをただ眺めていたオレと、ついでに樫羽もたぶんこう思っていただろう。
――なにゆえ、こうなってしまったのだと。
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『おぉ遠原か。いったいどうした、さっきも校長室まで来たばかりじゃないか』
ひとまず、天木さんに何があったのかを本人から聞くのは樫羽に任せて、オレは先ほど天木さんが電話があったとか言ってた海山さんにリビングから電話をかけていた。憎たらしいことに実はこれで十六回目のコールである。なんだか微妙に笑ってるような声なのでどうせわざと取らなかったのだろうが、そんなに無視して何が楽しいというのだろうか。
「……いやですね、なんか今さっき帰って天木さんの質問に答えたら物凄い勢いで嫌われたといいますか……わけがわからないんで、さっきの電話とやらでなんの話をしてたか聞かせてくれませんか? オレがあの紅茶を欲しがってたって話はしたみたいですが」
サプライズにするつもりだったのにばらされてるのも納得いかない面はあるが、そんな見栄よりも今は天木さんのオレに対する好感度のようなものがだだ下がりしていることのほうが問題だ。これまでの理由もよくわかっていないとはいえ、今日のことに関しては一層わけがわからん。せめてここで何がどうしてこうなったのかぐらいは聞き出さなければいけまい。
『ああ、それは話したな。遠原がギャルというものを欲しがっていると言ったんだが、生憎と天木はその言葉を知らなかったらしくてな。それでアタシが教えてやったんだ』
「……なんだかもうどういう下らないことなのかわかった気がしますけど、どういう意味だと?」
『若い女。あとこの世界では「娼婦」という意味を持つ言葉だとも教えてやったぞ』
フフン、と自慢げで実にウザい調子で海山さんは言った。つまり今の天木さんの中では、遠原が海山さんに対して若い女か娼婦がほしいと頼んだということになってるわけか。なんというか頭が痛くなるような話である。その元凶は間違いなくこの電話の向こうにいる、若さを偽っている年寄りだろう。言葉が出ずに黙り込んでいるとその声が更なる苛立ちを呼び起こすようになって聞こえてくる。
『な、なに遠原、ぷくくっ――そんなに気にする、くくっ、ことじゃあな、ないだろう、ふふふ……』
「趣味が悪い……というか、娼婦とか完全に嘘じゃないですか。ついでに言えばなに笑ってんだおい」
もしかして、さっきまで電話に出てこなかったのは笑いが抑えきれなかったからなのだろうか。だとすれば、やっぱりこの人趣味悪すぎだろう。さっき仲が悪いと話したばかりなのにこんなことを仕掛けるとは、何がしたかったんだ。
『なに、ここまで来たらもういっそ限界まで嫌われたらいいんじゃないか? もしかしたら快感になるやもしれんぞ?』
「そんな簡単にマゾになれるとかねぇよ。とにかく、もうこの問題には関わらないでくれると嬉しいんだ……ですが」
これ以上引っ掻き回されたら修復不可能な段階にまで関係が悪化しそうだ。釘を刺してでも動きを抑えておかなければ安心できない。こんなことになっても最後には敬語に気をつけてしまうのは悲しい性分だと思うが、それだけ恩があるのでしょうがない。
『あー分かった分かった。それじゃあ切るぞ、アタシは忙しいんだ』
「この短時間に状況を悪化させたその口で言うか……まぁもういいですよ、今回のことは。それじゃあ」
通話を切って電話を元の位置に戻す。原因はわかったが、これでどうすればいいのかとテーブルの上で頭を抱えてしまう。悪いのはあの白髪だとしてもその前にオレが天木さんからすでに避けられているのは変わらない。樫羽に頼んで誤解を解いてもらうにしても根本的な解決には至らないだろう。その根元の部分に潜んでいる原因がわかりさえすればなんとか謝ったりすることもできるのだが、樫羽にすら天木さんはそれを教えてくれない。
「どうすりゃあいいのかなぁ……」
そんな呟きが漏れたとき、リビングのドアが開く音が聞こえる。天木さんかとも思ったが、そこにいたのは申し訳なさそうに立っている樫羽だけだった。その表情から察するに、今回も何事か聞きだすことはできなかったのだろう。
「すみません兄さん。天木さんからはなにも……兄さんのほうはどうでした?」
「うん、今回のことについてはわかった。海山さんが適当なことを抜かしてたのが悪いみたいだけど、まだ最近のような態度になったのがなんでかはやっぱり分からないな」
「そうですか……それで、海山さんが入れ込んだのはどういう話ですか?」
さっき聞いた話の全容を思い返すと、あまり話したくないな。嘘八百なのだから樫羽は勘違いしないと信じたいが、そもそも娼婦とかそういうものを交えた話をしたくはない。そんなものは教育に悪いだろうが、教育者めと、さっき電話を切ったばかりの知り合いに悪態をつく。
「あ……ところで兄さん。さっきしきりに天木さんの部屋の中から「ギャルが悪いんです、ギャルがぁ!」という声が聞こえたんですが、ギャルってなんですか?」
「……わかった、そこから説明してやるからちょっとそこに座れ」
あれか、うちの女の子らは世間知らずなのか。オレはそう嘆息しながら妹に紅茶の種類の一つだったり若い女の子を指す言葉だと説明した後で、海山さんが天木さんに電話で教えた嘘の内容(娼婦の件はさすがに抜いて)を教える。それを聞いた樫羽も、頭痛がしているような顔をして頭を抱えた。さすが兄妹。
「……なんというべきか兄さん。胸中お察しします」
「ああ、思い出すだけでもやるせない」
下らないことではあるのだが、天木さんはそれを信じてしまっているわけでその誤解を解かなければいけないのも事実だ。ひとまず今は弁解しても逆効果だろうから、それは今度樫羽に任せるとして今後のことを考えるべきなのだろう。が、なんだかしょうもない話を聞かされたせいかやる気が湧いてこない。
「どうしようかねぇ……」
本日二度目の呟きだが、もうどうしようもない気さえしてきた。やる気が削がれた状態でだらーっとソファに座っているとテーブルになにか置かれる音がする。それを見ればカップに注がれたコーヒーだ。どうやら樫羽が淹れてくれたらしい。
「兄さんはもう少し頭の回転を早くさせたほうがいいかと思いまして。お望みなら砂糖とミルクも持ってきますが」
「いや、い――」
そう言って口をつけてみたのだが、予想より圧倒的に苦い。紅茶はストレートでも飲めたが、こっちはそこまでいいものじゃないな。多分こっちも海山さんが持ってきたものだろうが、紅茶のほうがオレは好きかもしれない。
そんな風にまさしく苦い顔をしてしまったせいか樫羽は何も言わずにキッチンからスティックシュガーと牛乳を持ってきていた。一を見て十を知る、気が利くというかよく見てくれていると感心してしまう。
「……すまんな、樫羽」
「いえ、謝ることじゃないですよ、兄さん」
今度はそれらを混ぜて飲むことにする。スティックシュガーは一本、牛乳は色が変わる程度にしてかき混ぜて、それを口に入れる。こっちのほうがとにかく飲みやすく、半分以上を一気にあおって飲みきる。苦味だけというわけではなく、うま味のようなものもたしかにあるみたいだが微かに感じられるかどうかという程度だ。個人的にはやはり、紅茶でいいかもしれない。
樫羽は新聞の夕刊を取りにいったのでカップは自分で洗い、戻ってくるのを待つ間にやることも無いのでなんとなくテレビをつける。ちょうど夕方帯のニュースが始まったころだったらしく、今日も名前を覚えられないような地味なアナウンサーが淡々とした様子で今日起こった事件を説明していた。
『本日午前九時、異世界人の排斥を訴える過激組織「True World」の構成員が奈良で鹿に餌を与えていた異世界人に暴行を加えようとしたということで警備員に捕らえられ、警察に引き渡されました。なおその構成員は「正しき世界を取り戻せ! 異世界人はいてはいけない!!」と取調べ中にも頑なに主張を続けており……』
「またか……最近よくやるな、あいつらも」
「True World」とは異世界人の存在が気に食わないらしい人間が集まってできた一種の秘密結社やテロ組織のようなものだ。マンション破壊や大型車による突貫行為など、異世界人を追い出すためならなんでもやるような超過激派。しかもその規模はいまだに未知数で「もしかしたらあなたの隣に構成員がいるかもしれませんよ?」という安物のホラー映画のオチのような扱いをされるぐらいには秘密が多いらしい。といってもうちの隣はあの旭さんだし、そもそも異世界人だと知っているからそんなわけは無いのだが、以前このあたりでも3件ほど連中絡みの事件は起こっている。那須野が来るよりも前の話だが、誘拐未遂や傷害事件などだ。
そんな中、樫羽が新聞を持って部屋に戻ってきた。しかしその表情は浮かない。
「兄さん、夕刊を持ってきましたが……また、あいつらがなにかしたみたいですね……」
「ああ、今テレビでもやっていた。だけどこの辺はもう何年もあいつら関係の事件は起きてないし、大丈夫だろ」
「……はい、そうだといいのですが」
ぎゅっと胸の前で手を固く握りしめる樫羽。それはなんとか自分を安心させるためだろう。表情の浮かないところは変わっていない。
――何を隠そう、その誘拐未遂事件の時にさらわれそうになったのが樫羽だったからだろう。人通りの多い道で横にオレがいたにも関わらずまだ10歳だった樫羽の手を突然引っ張って連れていこうとした男がいた。樫羽はすぐに抵抗したが男は20代前半のような若い男だ。体力にも差がありすぎてどうしようもできなかったのだが、自分がそれにすぐ気付けたのは幸運だった。
そして何より、人通りが多い道での犯行は大胆すぎた。大柄な熊のようなオッサンにそいつは一発でのされてあえなく逮捕だ。オッサンが気付いたのはオレが撒かれずることなく誘拐犯を追っていたからだとか。直接的には役立てなかったが、間接的には役立てたことは今なら誇りに思える。だけどその頃は樫羽が泣いている姿を見て自分の弱さを呪っていた。樫羽を自分で助けられなかったことが、とにかく悔しかったんだろう。その辺りは視野が狭かったんだなと反省している。
なんにせよ、そのせいで樫羽にとって「True World」とはトラウマとまではいかなくとも苦手な存在だ。今回は奈良なんて遠い地とはいえ、そこで活性化しているのを知っただけでも幼いころの記憶が蒸し返されてしまうのだろう。
「……大丈夫だ、樫羽。お前は守る、絶対に」
しかしそれはオレも同じだ。あいつらが樫羽を連れて行こうとしたときにただ追うことしかできなかったという昔の後悔は、今でも胸に残っている。客観視すれば視野が狭かったというのは、確かに自分でもわかっている。けどこれは忘れてはいけないものだということも感じられるのだ。過去の嫌な思い出ではなく、今の自分が決めたことの一つの礎だから。樫羽はなんとしても絶対に守るという、誓いを形作らせたものであるから。
「守る。そんなことになったら今度こそ、オレは……樫羽を守ってみせる」
「兄さん……」
オレはオレの決意を言葉に、もう一度自分の心に言い聞かせるようにして言う。忘れないために、より強く胸に刻み込むために。それが樫羽の目にどう映ったのかはわからない。彼女の顔は見ず、分かるのは兄さん、と呼ばれたことだけ。それが嬉しいからなのか心配してくれているからなのかは、オレには分かりそうもないことだ。
「……そういえば、兄さん」
「どうした、樫羽」
「天木さんも異世界人ですが、あの人にもそういう組織の存在は伝えておくべきでしょうか?」
そういえば天木さんも異世界人なんだった。あまり文化の違い等もなかったし、それでほとんどこれまでに違和感がなかったので忘れそうになっていたが、彼女だって異世界から来た人間であることに変わりはない。あいつらは異世界人とそうでないものを難なく、とまではいかないがその違いについてはかなり敏感だ。もしかしたら天木さんも外を歩いているだけでバレるかもしれない。
「そうだな。知っておいたほうが危険も少ないだろうし、樫羽に任せるよ」
「はい。じゃあ今すぐに」
そういって樫羽はリビングから出て行った。テレビはこれまでずっとついていたが、特に真新しいようなことは伝えていないのでリモコンで電源を切り、もう一度ソファーにもたれかかる。
今のオレが守らなければいけないのは樫羽だけではないんだ。天木さんだって、守らなければいけない人だ。
天木さんは、ぼくが守らないと。決意がまた一つ、自分の心に刻まれていた。
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私は今、とある家に居候をさせてもらっている。逃げてしまったことがあったからだ。私は今、ベッドに顔を埋めている。いやなことがあったからだ。
原因は多分、この家の主でもある遠原さん。あの人は私の初めての友達に酷く似ていて、そして、その友達に――櫟君に最後に会った人。私はその櫟君から逃げていた。10年近くを共に過ごしてきた彼から、私は逃げることしか選ぶことができなかった。けれど遠原さんはそんな風に逃げてきた私を受け入れて、助けてくれた。さらにもう一度櫟君と向き合えるようにもしてくれたあの人は、私にとって恩人といってもいい存在のはずだ。
だけど、それでも許せないことがあった。遠原さんは私と櫟君をもう一度会わせるために行動してくれていたらしい。それは私も嬉しかった。しかし遠原さんは、私に会わせる前に櫟君と自分一人で会って――そして櫟君は私に会うことなく、私の実家や私たちが通っていた学校のある世界へと帰った。私には、それがまだどうしても納得できていない。だから最近、遠原さんにやたら冷たくなってしまっているような気が、自分でもする。そんな状態だったところに、以前遠原さんに紹介された海山さんからの電話がついさっきあった。
「はい、遠原です。ただいま家の者は留守にしていますが」
『海山だ。問題ない、今日に用があるのは遠原ではなくお前だ、天木』
「海山さん、ですか? 私に用とは、いったい……?」
『お前、遠原とちょっと仲違いしてるんだって?』
その時、ちょっと胸が痛んだような気がしました。ですが、私はそれを無視して海山さんの言葉に答えました。
「……はい、そうですがなぜそれを……?」
『それで遠原が今日私のところに訪ねてきてな。その時に「ギャル下さいよギャル」と言ってきたんだ』
「……ギャル?」
私には、それが何を指すものなのかまだ分かっていませんでした。しかし海山さんの説明で、私は脳を直接揺さぶられたような衝撃を受けたのです。
『知らんのか天木。若い女や娼婦を指す言葉だぞ?』
「――え、しょ、娼婦って、えぇっ!?」
その後はパニック状態になってしまいましたが、そんないやらしいことを遠原さんはしないと信じていました。ちょうどその時に遠原さんが帰ってきたので真実を聞いてみたのですが、そこであったのは裏切りのような答えでした。
私の質問に、遠原さんが肯定していたからです。どういうことかを理解したその時――私は、遠原さんの頬を思いっきり叩きました。私を助けてくれた遠原さんが、そんな人だと思いたくはなかったけれど、本人が肯定してしまっては私が信じていてもどうしようもありません。その悔しさで私は泣きそうになりましたが、二人の前でそんな姿を見られたくなかったので自分の部屋まで戻ってからこうしてずっとベッドに顔を当てています。
こうしていると涙も抑えられる気がしたから、私はもう泣きたくなかったんだと思います。それでも頭はパニクっていて部屋の前まで来てくれた樫羽ちゃんにも意味不明なことを返してしまいました。それの恥ずかしさもきっとこうして抑えていれば無くなるはずだと願います。
そうしていると、部屋のドアを二回叩く音が聞こえます。この間隔はたぶん樫羽ちゃんです。遠原さんとちゃんとした会話をしなくなってから何度も聞いてしまっていたせいか、ドアを叩く音で樫羽ちゃんかそうでないかが分かってしまうようになってしまいました。
「天木さん。その、今入って大丈夫ですか?」
ドアの向こうから聞こえる樫羽ちゃんの声。私は遠原さんの頬を打ったのに、樫羽ちゃんがこうして気遣ってくれるのがとても嬉しい。けれど、それとこれとは話が別。
「……ごめんなさい。まだ、ちょっと入られるのは……」
「……そうですか。ではこのままで」
私の身勝手なお願いでも、樫羽ちゃんは嫌そうな声を出さずに聞いてくれます。このドアを開けたときに顔を見たらどうなっているかは私にもわからないけれど、声だけだからまだ優しさだけを感じられるのかもしれません。
「これは兄さん関係ではないのですが、天木さんの耳にも入れておいたほうがいいかと思いまして。「True World」という異世界人排斥を掲げる組織のことです」
「……異世界人排斥、ですか?」
私はちょっとびっくりしました。話の内容、異世界人排斥というところではなく遠原さんの話ではなかったというところにです。これまで樫羽ちゃんとの話はほとんど遠原さんについてのことだったから、今回の話は虚をつかれたようなものでした。
最初はなぜ私にその話をするのかと思いましたが、聞いているうちになんとなく、その恐ろしさのようなものがわかりました。特にその人たちの恐ろしさに関する部分は体験してきたもののように情がこもっていて、私の心にもうひとつ、暗い闇を落としそうになります。
「――と。とにかく彼らは異世界人の見分け方が非常に上手いです。天木さんは比較的この世界の人に似通った感じですから、もしかしたら大丈夫かもしれませんけど万が一ということもありますから」
「なるほど……今後は気をつけますね。でもなんだか樫羽ちゃんの話だと、過去にそんなことがあったように思えますが……ちょっと考えすぎですかね」
「いえ、その通りですよ? わたしは過去にあいつらの誘拐未遂事件に巻き込まれたことがありますから」
その時の私はどんな表情だったんでしょうか。ただ、樫羽ちゃんの昔のこと――樫羽ちゃんにとってはトラウマになりかねないようなものを掘り返してしまったことを後悔して、言葉を失っていたのはわかります。そんな顔をしていることなどわかる筈もなく、樫羽ちゃんはその事を私に話します。街中で突然だったということ、大きなおじさんが助けてくれたこと。そして、遠原さんが必死に追ってきてくれたこと。
「まぁ、こんなことがあったからわたしは今のように彼らの怖さを語っていたわけです。天木さんにも気をつけてほしいですから」
「あ、は、はい」
樫羽ちゃんの過去には想像よりも暗いものがありました。もしかしたらこれ以外にもなにかあるのかもしれませんが、今の私の思考を鈍らせるにはさっきの話だけで十分でした。私は生返事だけを返してしまいます。
「それと天木さん。ギャルという言葉なんですが、天木さんが聞いたのは海山さんのウソだそうです」
「……え?」
ウソってどういうこと? と思っていると樫羽ちゃんが説明してくれました。確かに似たような意味も持ってはいるが、遠原さんが海山さんに頼んでいたのは以前もらった紅茶のことだったと。つまり私は勘違いをしていたと。
「信じる信じないは自由ですが……多分、これで合っているはずですよ。それではわたしはこれで」
「あ、はい、またどうぞ……」
私は放心したようになってしまいました。遠原さんを勘違いで叩いてしまったことや、最低とまで言ってしまったことに対する罪悪感が、重すぎたからです。だんだんとはっきりした意識を取り戻していくごとにベッドに顔をより押し付けてしまいます。
「あぁもう、どうやって遠原さんに謝れば……」
本当にそれだけで頭がもう一杯になっています。遠原さんはただ紅茶をもらおうとしていただけなのに、海山さんの冗談を真に受けてしまったばっかりに余計に悪くなったような気がします。謝ったとしてもこんな私を遠原さんは本当に許してくれるのでしょうか。これまで会話もしようとしてこなかった私を許してくれるような優しさを、期待してしまっていいんでしょうか。
考えればもっとこんがらかってしまう。それがひどくぐちゃぐちゃで、私にはもう何をどうすればいいのかわからなくなってしまいます。そしてつい、今の私の中で渦巻いているもっとも大きな想いだと思えるものが口から出てきました。
「――――櫟君に、会いたかった……」
私にとって、これまで最も大切だった人。怖くてもそんな櫟君の姿をもう一度、ちゃんと前から見てあげたかった。だからこそ、私は今、遠原さんにどう向き合えばいいのかが分からなくなっている。
ため息がベッドに吸い込まれて、私はついに、眠ってしまいました。