空の雲は未だ晴れず
意識を『遠原櫟』に向けなおす。そうだ、目の前の男はただ騙されているだけなんだ。人が死ぬことにもすでに無頓着になっているようなテロリストの言葉に踊らされているだけの無知な子供。オレから見た『遠原櫟』の評価が、それだ。
だから、どうすれば良いのかというのもたった一つのシンプルなものでしかない。目の前の馬鹿の勘違いを正すことが、オレが知らないうちに天木さんから託されていたことなんだということを理解して、相手を見つめる。先ほどの映像の中のガーラッドと同じような、歪んだ笑み。その裏にあるのが真摯で純粋な想いなんだとしても、やろうとしているのは親友殺しでしかない。
その深く根ざした愚考を、引っ張り出して取り除くことがオレにできるのかという不安はある。だけど天木さんとの約束である以上に、自分と同じ顔の人間がこうして自分の知っている人を殺そうとしているのが、我慢できない。
「……? ずいぶん怖い顔をしてるよ? そんなにも気に障るようなことをぼくは言ったかな?」
「いや、そんなことは言ってない。お前のやろうとしてることが心底腹立たしいってだけだ」
その苛立ちが、顔に出てしまっていたようだ。まさか指摘されるとは思っていなかったが、それに対しても「お前がやろうとしているのは間違いだ」という意味を込めて返す。残念ながら向こうはキョトン、と首をかしげただけで何を言っているのかわからないと言いたげなリアクションだ。
やはり今のままではダメなのか。死も、殺すということもうまく理解できないままのあいつにこのまま、非道だとかそういった事を説いても意味がないのか。厄介だな、と舌打ちをしたくなる。
向き合っているだけの状況が動く。『遠原櫟』がキョロキョロと周囲の地面を見た。そして探していたナイフを見つけるとすぐに近づいていって拾っていた。その手にはもう一度鈍色の刃が握られて、オレにそれが向けられている。
そしてその場で身を低くしてこちらへ疾駆してくる。速い。だが、こちらもわざわざ手の内を隠す必要はない。
「『隔て 守れ 包め 我を傷つけるというのならば 我もまた己を護る盾を欲す』」
態勢を万全にする時間を稼ぐために魔力による障壁を生み出した。リアナと戦ったときにも使った下位詠唱の障壁は脆いほうだがそれでも、一般人のあいつと魔王の血族のリアナでは力にも差がある。だから前よりは持つはずだと思っていた。半径2mの見えない壁の目前まで迫ってきて、予想していなかった光景が目の前に現れた。
――カッ。宙で止まった走る際に振り上げた足と、そして響いた軽やかな足音。一つ目が聞こえて、すぐに二歩目の足音が聞こえて、目の前で何もない空間を――ドーム状の壁となった魔力を足場にして上へと駆け上がる。しかしガラスのように脆い下位詠唱で生まれた障壁は力強く踏みしめる足に耐えられず、四歩目であえなく崩壊。しかしその四歩目ですでにやつはオレの真上に近い位置にいた。つまり、図らずも死角をとったのだ。
「ハッハー!」
低空から襲いくる鈍色の刃を、かろうじて頬のかすり傷で済ませることに成功。着地後の至近距離から何とか抜けるために下がろうとしたがそれには失敗し、すぐに接近してきた『遠原櫟』の攻撃で制服に切り傷が大量に、時には制服を超えて肌に当たるときもあった。しかもそれはすべての攻撃ではなく、オレが何発も避けてそれなのだ。短時間に何十もの攻撃を繰り出してくるために、それがどうしても避けきれなかった。至近距離なために那須野との経験もいまいち使いづらい。
「ったく……! 『燃やせ 焦がせ 焼き尽くせ ここにありしは闇を照らし 命をも消す力なり!』」
起死回生の一撃として逆にこちらが懐に飛び込み、火球を生み出してその腹にほぼ直接ぶつける。目の前の現象にも動じていなかったが、その威力はよく通ったようで熱と爆発が二人の間の小さい空間で生まれる。大きく吹き飛びはしなかったが、それでも距離を取ることには成功した。なにしろこっちも爆発の影響を受けて少し後方に下がったからだ。二人ともその爆発が予想より辛かったようでオレも、あっちもともに膝に手を当ててうずくまった。その状態でオレは問う。
「……分かってんのか。殺すってのは今のよりもっと相手に痛みを与えることで、死ってのは一番痛いんだぞ。それをお前は、分かってんのかっ!」
「……なる、ほど?」
お互いの目が合う。痛みを理解できたのかと思ったが、どうもそうではないようで荒い呼吸をしながらやつは笑いだした。
「つまりこれが、彼女と行くべきところへと、近づくために、味わう必要のあるものでッ……これを乗り越えたら、ずっと、一緒にいられるって事か……いいじゃないか、これぐらい! これでいいんだったら、いくらでも、いくらでも痛みってのを感じて、そして感じさせてあげるさ!!」
「……『吹け 疾れ 荒べ――」
あれで理解できないんだというなら、もう少し痛みを覚えさせなければいけないだろう。火の熱も、爆発と拳の衝撃もだめならば、その手に持っているのと同じような傷で理解させてやる。この時のオレの頭は後で恐ろしくなるほどに頭は冷めていて、冴えていた。
「――其は世界を巡りしものであり 人が触れること叶わず』」
かざした手のひらからは小さな風の刃が飛び、相手の肌のできるだけ表面を切り裂くようにしていく。空気の揺らぎが見えたのかナイフで弾かれたものもあったが、それでも殆どが相手の衣服や体に切り傷を与える。血が流れはじめているというのに、それに対する反応はなかった。
「お前が与えようとしてるのは、そういう痛みなんだよ。肉を切って、血を流させて、それでいて一番鋭い痛みを、お前は天木さんに与えようとしてるんだよ!!」
風の音も、それで生まれる木のざわめきもない公園でオレの声が響いた。いくら見ていても『遠原櫟』に反応はない。やがてようやく見せた反応は顔の傷を撫でて、笑うというものだった。
「……ああ、やられる側ってこういう感じなんだ。なるほど、たしかに身体の中を通られるのは気分が嫌になるね。だけど……おかげでぼくが知る一番の殺し方を、もっと理解できたよ。ありがとう、見知らぬ遠原櫟くん」
その言葉を聞いて、オレは心が折れそうになった。
いくら痛みを教えても、こいつには無意味。ならば、どうすればいいのだろう。天木さんとこいつを無事引き合わせるには、いったいどんなことをすればいいのだろう。
頭を回せと命じても、答えは浮かばない。むしろややこしくて煩わしいとさえ思う。唇をかみ締めると、血が流れて地面に落ちる。そんな風に血を流させても、こいつに届かない理由がなんとなく分かりそうで分からない。けれど記憶を見た限りの結論で言えば、一つだけ。
この男の身近に、死というものは一切無かった。死人も墓も、何一つ写ることはなかった。故に刷り込まれた『親友と心中することで永遠に共にいられる』という荒唐無稽な話も信じてしまった。そんな男にできることが、オレにはもうわからない。
だから、続けることにした。痛みを与え続けて理解させる行為を、このまま。
オレはポケットから取り出した。海山さんいわく殺傷能力の無い『魔』改造品の――黒く光る大き目の拳銃を。狙いをつけて、その引き金を引いた。
消音装置を付けているような微かな音が響き『遠原櫟』は仰け反る。だけど、これであいつに死と、それに準ずる痛みが理解できるなんて思ってはいない。
だからもう一度、引き金を引いた。
もう一度。
もう一度。
何十、何百の魔力弾を撃っただろうか。殺傷能力が無いとして、痛みも衝撃も何度も浴び続ければ身体に悪影響が出るのではないだろうか。そうして射撃をやめてどうなったのかを見ようとした。
彼はまだその場に立って、こちらを見ていた。風の刃を浴びたときよりも血を流して、ただの愛から生まれた追跡者は笑いながら、こちらを見ていた。
「ああ、たしかに、痛い。けど、痛みなんてものぐらい、ぼくらが目指す最高の結果のためならば、いくらでも、増えていい……!」
「……お前はっ、どうしてそこまでして殺すことにしかこだわれないんだよ。どうして、そんなにも痛みに耐えてまで死ぬのを求めるんだよ!」
聞いておいて、オレにはすでにそれに対する答えがわかっていた。もはやそれ以外の言葉が浮かばなかった。
――一緒に居続ける方法をそれしか知らないんだ。その時の『遠原櫟』の笑顔は歪みなど無く純粋で綺麗なもので、殺すということが悪だというのを揺らがせそうなものだった。
それでもここを通して天木さんのもとに行かせてはいけないのだというこ
とを忘れないように、頭を強く振って目の前の笑いを振り払おうとする。振り払って、目の前の男を自分の説得でどうにかできないという事実に目を向けた。
オレのような、ただ似ているだけの第三者の言葉は届かないのだという現実を思い知る。もしかしたら天木さんの言葉ならばという希望はあるが、彼女を今のこいつの前に引っ張り出すなど論外だ。天木さんを守るためなのに、危険に遭わせてどうする。
こうなると、残ったのは一番使わなければいいと思っていた手段だけだった。それは『遠原櫟』を確実に自分の世界へと送り返せる、オレだけができること。
目の前の遠原櫟を見る。そして頭の中でやりなれたいつもの行動。目の前の男を強く意識し、自己複写の準備を始める。
写そうとしているのは、身体でも技能でも知識でも持ち物でもない――その全てを今ここで、写し取る。
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「……遠原、あんたもしかして射撃の才能あるんじゃないかい?」
学校で海山さんからもらった言葉だ。そう、これまでに頼み込んだのは『遠原櫟』と戦うときに周囲を騒がしくしないような結界を張ることと、例の拳銃の射撃訓練、そして望まれていない来訪者を帰すことのできる絶対の手段を教えてもらうことだった。
結界に関してはすぐに確約をもらい、その後は二時間ほど屋上で海山さんが魔力で作った小石を10m離れた位置から狙うというような練習をしていたのだが、それがよく捗った。反動が軽いのとあまり連射の間を必要としないことがよかったのだろう。
二時間経ったころには、撃った魔力が小石を弾くのがほとんどにまでなっていた。それに対する驚嘆を表すように海山さんがボソッといった言葉だったが、オレは聞き逃さなかった。
「いや、多分これは狙っているのが小石だからだと思いますよ。人相手にやるとしたらちょっと緊張しちゃいます」
「賞賛ぐらい素直に受け取りな。ったく、使ったこと無いって言ってきたときはどんだけポンコツなのかと思ったが、予想以上にやれててアタシもびっくりだよ」
本当に慣れとかそういうものだと思っていたのだが、わざわざこんなことで食い下がる必要もないので引き下がることにした。これで自分の頼んだ三つのうち二つ目まではなんとかなった。最後の三つ目に至っては知っているかどうかもわからないが、いざという時に無ければ困る。
「……それじゃあ海山さん。最後の」
「三つ目――『遠原櫟』を異世界へと帰す方法、か」
それは非常手段と言ってもよかった。あっても使わなくていい事態に――天木さんと『遠原櫟』が元の関係に戻ることができるようなことになっていれば使う必要はない。
だけどもし。『遠原櫟』がその危険な考えを持ったまま、天木さんへと近づくようならば。残念だが、彼をこの世界に居させるわけにはいかない。天木さんを危険には合わせたくないから。そして、天木さんの目の前で彼を叩きのめしたくはないから。
「普通ならば『世界渡り』を行使するかポーターでも借りてくるかぐらいだが……残念ながらあんたも、そしてアタシも『世界渡り』は使えん。ポーターに至っては大規模施設の一部みたいなもんだから、持ち運べるようなもんじゃないしね」
「それでも無いと困ります。異世界を渡る魔術でも、ポーターでもなんでもいいんです。なんとか夜までに間に合う方法を――」
「待ちな遠原。普通なら、って言ったろ。あんたにはそれ以外にできる方法が一つ、この世界だからこそできるものがある。あんたにしかできないこと、分かるだろ?」
海山さんは口の端を吊り上げた笑みを浮かべて、オレに問う。オレにしかできない事といえば、やはりあれだろう。たった一つ、なぜか持っているよくわからないあの力。
「自己複写……ですか」
海山さんは首を縦に振った。正解だったようだが、オレにはなぜ正解なのかという意味がいまだにわかっていない。
「それで、なにをどうすればいいんです?」
「その前に一つ注意しておくが、これはアタシが体験した話じゃない。『世界渡り』を使っていたアタシの師匠が――お前と同じ力を持っていた師匠から聞いた話だ。アタシがこの目で見たものじゃないが、それでも信じられるかい?」
「……その前に一つ。海山さんの師匠って自己複写の力持ってたんですか?」
初耳だ。というか『世界渡り』ができるような魔術師が師匠とかいうのも初めて聞いた。なんというか突付けばもっといろいろと面白そうな話が出てきそうな師匠のようだが……まぁそれはいい。今重要なのはそんな人のことではない。
「イエスだ。というかそんな力があったからこそあそこまで強い魔術師になれたというか……おっと悪い、無駄話だったね。それでこの話を信じる気はあるかい?」
「信じますよ。他の手段に比べれば現実的な気もしますし」
自己複写一つでできるというのならば他の気が遠くなるような時間やお金がかかるものよりもマシだろう。第一、もう10時間もないのだから急がずにすむ方法なだけありがたい。
「よし、じゃあまず何をやればいいかだが」
海山さんの言葉に集中する。聞き逃してはいけないと耳の神経を尖らせて注意深く、その続きを脳裏に刻み込むべく、集中。そしてオレが聞いたのは、予想していなかったこと。
「――『遠原櫟』の総てを写し、奪え。それだけだ」
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「? ……ああこのよくわからない何かの主って、きみだったんだ」
頭に繋がったケーブルのようななにかに対して、目の前の男の何もかもを写し取るように強く意識して命じていると『遠原櫟』が唐突にそんなことを言った。まさか、あれが分かるのか? というような懸念が生まれたが、どちらにしろもうこいつとは一生繋がない、写さないと決めているのだ。たとえ何をやっているかを知ったとしてももう何もやらせない。
まず流れ込んできたのは、体を漲らせるような力。次にやってきたのは、左手にだんだんと構築されていくナイフと身に纏う服装と色々なモノ。そして昨日と同じような知識と、身体の中で何かがうごめき身体が変わっていくような感覚。視界には知識流入の影響かまたも毒々しい色の波と世界がやってくる。それは虹色に光っていて、眺めていると次第に気分が悪くなりそうなものだった。しかし瞼を閉じてもその世界は消えやしない。
頭は焼けつくように熱い。身体は何もかも砕けそうなほどに痛い。そして視覚に襲い掛かる色の暴力が、オレの身体を蹂躙している。膝をついて倒れそうにも、このまま意識を失いそうにもなっているがそれでも足を地面につけて立ち、前を見据えようと顔を上げている。
これまで味わったことのないような痛みだが、これは海山さんに事前に忠告されていたとおりだ。実のところ想像を絶していたが……だが、耐えられるだけの痛み。
「んー、大丈夫かい? 遠原、櫟くん?」
さっきと同じような距離から聞こえる『遠原櫟』の声。どうやら向こうから見ても辛そうなようだが……無用な心配だ。これが終わったときに、彼はきっといないのだから。
「……大、丈夫だっての。お前はそこでゆっくり……見物でもしてな……!」
絞り出したような声だったが、それもどこか柔らかいようなものに変化していた。これも自己複写の影響ということか。驚いているだろう顔が見れないのが残念だ。
「……そうしてもよかったんだけどね。なにか悪い予感がするんだ。だから、今すぐきみを殺させてもらうよ」
どうやら様子がおかしいとようやく気づいたようだ。だけどそれも、もう遅い。頭の熱も、身体の痛みも引いていく。そして視界の色もうっすらとしていき、若干ながら本来の世界も見えるようになってきていた。終わりはもう、すぐそこだった。
目の前でぼんやりと見えるのは、疾駆をはじめた天木さんの親友の姿。その手に煌くナイフは、やはりよく目立つ。左手には自己複写したことで得たナイフがあるが右手にはまだ、海山さんからもらった拳銃が残っている。さっきまでの痛みの影響かガタガタと震える腕をなんとかして上げる。銃口は……多分、正確だ。外すとしたら、オレのミス。指までも震えていたが、かまわず引き金を引く。
止まらない。当たっはずなのだが、それでも奴は止まらない。まるで猪か闘牛のようにして突っ込んできている。震える指と腕で、何度も撃つ。どれが当たっていて、どれが外れたのかもまるで分からない。なぜなら彼の足は止まっていないのだから。ただひたすらに、こちらへと向かっているのだから。
後数秒ですむというのに、すでにやつは目の前でナイフを振るおうとしている。時間を稼ぐために何をしなければいけないかということを考えて、オレは左手を握り締める。吐き気が襲ってきていたが、それを吸い込んだ息とともに飲み込んで抑える。鈍色の閃きが襲い掛かってきた。だけど、その速度はもはやお前だけのものじゃない。
――キィンッ、とナイフ同士がぶつかった音。相手が縦に振り下ろしたナイフを、オレが水平にして防いでいる形だ。力だけならば今は漲るほどに残っている。負けはしないし、それに相手に追撃の暇を与えるつもりもない。
手の拳銃の銃口を腹部にねじ込むようにして叩きつける。目の前の男と同じ力で叩き込んだその一撃で、カハッ、といううめき声が聞こえる。だけどそれで終わらせはしない。ねじ込んだまま銃口でググッと持ち上げて、そこで引き金を引く。
零距離での射撃に外れはなく、当然のようにして相手は空中へと少し吹き飛ぶ。しかしそれではまだ、ダメだ。もっと距離をとる。二度といわず三度、三度といわず四度、何度も魔力を撃ってその度に『遠原櫟』の身体は宙へ浮き。そして、地上に落ちた。大の字のようになって仰向けに倒れて、人目でわかるほどの大きい呼吸をしている。
そして地上に落ちたとき――こちらの自己複写も、完全に終わった。海山さんが言っていたことが本当ならばきっと彼はここから居なくなる。
“遠原。なぜこの方法で天木を追っているやつをここから追い出せるか教えてやろう”
『遠原櫟』の倒れている地面の周囲に青白い光が浮かび、そこだけが青い光に包まれ始めた。それはまるで、傷ついた子供を包み込む母親のように柔らかい。
“……はい”
地面の光が空中へと伸びる。それは光のタワーのようで、上を見上げてもどこまで続いているのかわからない。
“それはだね。同じ世界に、全く同じ存在が居るというのは許されないからさ”
“……許されないってどういうことですか?”
“簡単だよ。世界は親のようなもので、その親は、自分の子――自分の世界で生まれた存在と同じ物が自分の中に存在することを許さないっていう……アタシにも、よくわからない話さ”
そして天木さんを追うことを続けようとした彼は――その光が収まったときに、ここから消えていた。何も残さずに――まるでここに、その男が居なかったように地面にあった血も、何もかもが消えていた。
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「……どうやら使ったみたいだね、遠原」
遠原櫟が戦っていた公園から少し離れたところの空中から、海山奏子は黒い双眼鏡でその様子を眺めていた。空中に居るのは遠原がよく魔王の子が宙に浮くと言っていたからやってみたのだが、思いのほか簡単にできたと海山は思っていた。
「……やはり辛そうだな。できるだけ速く行ってやるか」
双眼鏡の奥に見えるのはもはや、立っているのがやっとというぐらいに疲労している遠原櫟の姿だ。すでに自己複写も解き、その姿は普段通りのものとなっている。
とりあえず風で飛ぶかと、海山は手に力を込め、詠唱のために口を開く。
「『軽やかなる――』」
「おお、奏子よ。久しいの、元気にしておったか?」
海山はその声に衝撃を受けた。まず宙に浮いている自分の背後から聞こえたことにもだが、何よりその声は自分にとってもっとも聞きなれた一人の敬愛している師の声。
たまらず後ろを振り返ろうとしたが、足下の魔力バランスを取るのを忘れて落ちそうになってしまう。
そんな自分の手を、声の主は掴んでいた。昔と変わらない、繊細そうだが確かな力強さを感じられる手。
「おいおい奏子? いまさらそんな初歩的なミスをするようでどうする?」
「……誰のせいですか。いつもろくに帰って来やしないくせに、こんな時に突然後ろに現れられたら驚きますよ」
落ち着いて、もう一度足下の魔力バランスをとる。綺麗な下向きの円錐をイメージしてできる限りその通りに魔力を動かし、程なくして維持することに成功した。手を離してもらい、ちゃんとした姿を見るために顔を上げる。
流れるような金の髪に、貴族のようなドレスと白手袋。どこか意地の悪そうな笑みを浮かべているがそれは外見と似つかわしくない子供らしいもののように見える無邪気なものだ。師の――ベアトリスのその姿に何一つ変わったところはないと、奏子はその姿を見るだけで安心感を覚えた気がした。
「久しぶりです、師匠」
「うむ。しかし奏子のその白い髪、変わっとらんのう。顔つきも相変わらずじゃ」
「師匠もその後お変わり無いようで何よりです。それで今日は何の用で?」
ベアトリスは今、何か目的を持って異世界を渡っていたはずだ。それがなんなのかは海山も聞かされていないが、少なくとも終わったということはないはずだ。それならば余裕が出来た時点で伝えてくるのがベアトリスだ。海山はそう理解している。
「んーむ、まぁそれより今はひとまずの再会を喜び合おうではないか、奏子」
「……手をわきわきさせずに視線を胸から外して言ってくださいそういう台詞は」
やりたいことが丸わかりだと、海山は嘆息する。なぜかそういうスキンシップを過剰に求めてくるのが昔からの頭痛の種だった。ベアトリスは残念そうにしていたが、やがてからからと、そういう反応も楽しんでいるように笑う。
「なに、奏子は昔から発育がよいからのう。いいかげん男の一人くらいは楽に捕まえられておると」
「うっ……それは……」
海山はベアトリスの目に見えるくらいひどく落胆した。それもその筈で、彼女は確かにスタイルがよい。だが彼女の想い人がそれに対して一切手をつけようとしないので、自分は魅力が無いのかというふうにどうしても気分が暗くなってしまうのだ。
地雷を踏んだことを直感したベアトリスはあたふたしつつもなんとかフォローをしようとする。
「な、なに、奏子も我と同じように外見は時間が経ってもそんなに劣化しないようにしたであろう? まだ時間は残されておる!」
「……すいません。師匠」
なんとかどん底から弟子の気分を引っ張りあげることに成功したベアトリスはふぅ、と一息つく。歳をとった分面倒になったと、その倍は生きている自分のことを棚上げしつつ、話題を変えることにした。これ以上触れるともっと面倒になりそうだったからだ。
「奏子。我がここに来た理由はな、見届けるためじゃよ」
「見届ける……ですか」
海山はその言葉を反芻する。その言葉の意味を考えようとしたが、時間はかからなかった。二人して空中から公園の方を見ながら、海山は聞いた。
「どっちを、ですかね?」
「両方……と言いたいのだがのう。今回は帰った方を優先しておる」
「となると、天木の小娘をこっちに送ったのも師匠ですか」
「そうじゃな」
特に躊躇う様子もなくあっさりと答えをもらえた。海山の中で『世界渡り』を行える人物と言えば横にいる師しかいないので最初から師の介入を疑っていたのだが、こうもすぐに正解が出るとは思わなかった。
「……しかし、そうなると何が目的だったんです? 今回のことは」
それは単純に疑問だった。天木を助けるだけならばそもそも、この世界に来させるはずがない。海山はそう思って横を見る。そこにあったのは母性を感じさせるような優しげな笑みを浮かべた師の顔があった。
「今回はな、あの娘と幼なじみの『遠原櫟』の現況をあそこで倒れておるのに見せつけてやるというのが主目的だった。これであいつにも重さが伝わったろう」
「なるほど。それでもし死なれていたらどうしましたか?」
「そうだのう……」
ベアトリスはここに来て初めて考える。負けたりするようなことは絶対にないという信用があったから考えていなかったが、それでも今聞かれたようなifの結果が万一にも起きていたら。
ベアトリスはその笑みを崩さずに、それに答える。
「そうなったら速攻で治癒魔術をかけて叩き起こしてやるわ。我にかかればすぐに治ろう。そしてもう一度『遠原櫟』のもとに向かわせておったかの」
「死人に鞭打ち、鬼のような所行ですね。師匠らしくはありますが」
ふふん、と鼻を鳴らして得意げな表情。別にそんな褒めたわけではないのだが、と海山は内心で呆れている。
「そうじゃろうそうじゃろう! まぁ『黒鷹』も持っておったしそんな事態にならないで当然じゃがの!!」
胸を張ってそう言うベアトリス。『黒鷹』というのはあの魔改造品の拳銃にベアトリスが自分でつけた名前である。そういえば、と海山もその名前を久しぶりに聞いたような気がした。そして更に思い出すのが――
「あー、師匠。そういえば遠原に『黒鷹』の名前を初めて教えたときになんですがね」
「なんじゃ!? 深根の校舎全体に響き渡るような声で「かっけぇぇぇぇぇぇ!!」とでも叫んだか!?」
「いえ、確かうんざりしたような顔で――」
“……すんません、詠唱ですら厳しいのに流石にその読みは恥ずかしいっす勘弁してください”
「――と頭を下げて拒否されまして」
それを聞いたベアトリスはその得意げだった顔を一気に曇らせた。そして公園に倒れている男に向けて憎憎しげな視線を向けて歯を剥き出しにして、口汚く罵倒する。
「なんじゃなんじゃ、我のセンスを理解できんとは! あまつさえ我が一日かけて考えついた読みを恥ずかしいとまで呼ぶとは恥を知れこの童貞が!!」
「夜ですしそんなに大声を出すと迷惑になりますよ。あと生徒の一部にも詠唱がダメで抜けていったのもいたりしますが」
「そんな低センスの人間はいなくなって当然じゃ! まったく、みな我のセンスに追いついてないとはのう……魔術が深く根ざすようにとあの学校につけた名前も、これでは台無しじゃ」
やれやれと嘆息している師匠を見て、そうしたいのはこっちだと弟子は思う。海山にはどうしてもそうできない理由があるためにやらないのだが。
「……はぁ。とにかく、怪我ぐらいは治してやるとするかの。後でお前がやったことにしておけよ、奏子?」
「わかりましたよ、師匠」
それを聞いてベアトリスはうなずく。そして次の瞬間、海山の視界から消えた――そして5秒後、元の位置にすぐ戻ってきた。相変わらず速いというか、もはや瞬間移動では? と自分を遥かに超えている魔力の行使技術に対して嫉妬することもバカバカしくなるような感想を抱く。
「それでは、次はあっちの方を治しに行ってやるとするかの。それじゃあ奏子。我が愛する隣人ならば、きっとまた会えるだろうて。しかし、そちらから会いに来てくれると嬉しいのじゃがなぁ」
「すみません、まだ『世界渡り』は習得できていないもので。でもいつかきっと、アタシもあなたに追いついてみせます」
「……そうか。我も奏子と旅してみたい場所がある。それまでは気長にやらせてもらうとしようかの。ではな、奏子。良い暮らしを」
「――良い旅を、師匠」
先ほど公園に浮かんでいた魔法陣のようなものがベアトリスの前に現れる。ベアトリスはそれに入ると魔方陣が消えたと同時に、この世界からも消えた。
海山は久しぶりに師と再会できたことを祝おうと、空を見る。生憎とまだ雲があるようだが、それでも隙間からは月がくっきりと見えていた。
一人で祝うならどちらかというと酒のほうが好きな海山も、ここまで持ってきているわけでもないし何より先日の失態が思い出されてしまい、しばらく自粛中だ。なのでここは煙草を吸うことにする。懐を漁っているとちょうど残りが一本しかない箱が一つ。ライターは無いが、魔術を使えば煙草に火をつけることぐらい楽にできる。最後の一本に指先で火をつけた後で、箱も灰のように燃やし尽くす。前に吸ったのはいつだったかということを考えて、煙を吐き、しかめ面になる。
――もう煙草はやめるか。そう思わせるくらい不味く感じる。こんなのでは祝った気分にはならない、やはり酒だと、もはや三日坊主のように早くから誓いを反故にする気になっていた。
なんにせよ。海山には今はあそこで寝てるバカをたたき起こすほうが先だった。このまま放置して帰ってしまっては悪いし、何よりこのままそこで朝まで寝られても困る。ゆっくりと公園に向かって降りていきながら、海山はこれからのことを考える。
遠原と天木は、きっとこれからが本番になるだろう。遠原は天木の問題と直にぶつかってそれをちゃんと認識した。そして天木も、遠原という人間がどういうやつかを知った。ようやく糸口が見え始めてもそれが閉じるか、そこから解決まで持っていけるかどうかは多分ここからの二人次第だ。どうなるのかは分からないが、ベアトリスがいなくなった今、見届けるのは自分の役割だと海山は思う。
公園に着地。海山はそのまま魔術結界を解き、足元で寝ている遠原の前にしゃがんでその顔を眺める。寝顔だというのに、随分と暗い印象を持たせたその顔を、海山はつい指で弾く。
「……寝ているときくらい幸せそうにしとかんのか、このバカは」
まだ解決したわけではないから、それもしょうがないのかと思う。きっとこの顔が明るくなるのは、少しでも状況が好転しない限りは無理なのかもしれない。海山はそれが少し心配になったが、それも大丈夫な気がした。自分の師だって信用していたのだから、自分も信用してやるべきだろう。うぅん、と目を覚まし始めたこの、弟子のような存在のことを。
「ほら、遠原。いい加減家に帰る時間だぞ。地面で寝たりするな」
だから今は、もっとちゃんとした場所で休ませてやろう。例えばこいつの妹と待ち人がいる家で――海山はそう思って、遠原を引き起こした。




