最後の主演、舞台へ
人は自分を『狂人』だと言っていた。そいつが指してきた指にはナイフを刺して引き裂いた覚えがある。
また別の人間は自分の顔を見て疑いの目線を向けてきた。そいつが向けた目が射抜くような視線だったから、たしか目を貫いたんだったと思う。
さらに別の人間は自分の手を抑えようとしてきた。そのとき目についたのが首だったからそれを押さえてやったんだったと記憶している。
ああ、なぜこうも自分のやろうとしていることは邪魔されているのだろう。なぜみんなは自分に自由を与えようとしないのだろう。たった一つやりたいことがあるから、それだけのために行動をしているというのに、自分が知らないどうでもいいようなのばかりがまわりにやってくる。
ぼくが捜しているのは君たちじゃない。そもそも君たちなんて日が昇ればどこにでもあって、探すなんて言葉もおこがましいモノじゃないか。捜しているのは一人、たった一人の友達で、ぼくが救わなきゃいけなくて、それでいつまでも一緒でいたいんだと、それだけなのに。
彼女はいまどこに行っているのだろう。いつからだったかもう思い出せないころには一緒にいて、二人の時にはどこまででも行けるような勇気が湧いてきて、いつまででも一緒にいたいという想いが溢れてくる彼女の行き先はどこかなんて、前には手に取るようにわかっていたのに、なんで今は感じられないのだろう。どこか遠いところにいるような、そんな漠然とした感覚はある。けれど太陽の下に近づこうとしても、離れようとしてもその遠いという感覚はまるで変わらない。
なぜなんだ。想いが足りないのか、彼女がもうこの世界にはいなくなった――一人で死んでしまったと、そういうことなのか。だとするならば、このままのうのうと生きることはぼくにとっては無意味なことなのか。そんな昔読んだ哲学の本みたいなことを考えてみたが、そんなものは否定する。生きていないなら、甦らせればいい。一生なんてもう、彼女に捧げていたぼくには決心がすぐについた。
――腕の中で一人、いつものような黒のスーツと黒いサングラスをした男――もはや何人目かもわからないそれが崩れ落ちる。そういえば、今ぼくはこいつの首を絞めていたんだった。殺さないように、死なないようにしていたのについ力んでしまったのをぼくは反省する。
腕の中の男は窒息したことで、じんわりと足のほうから臭いものを巻き散らかし始めた。近くにあっても、ただただ不快。雨が降っているビルの屋上でぼくはそいつを蹴り飛ばした。フェンスに当たったそれはもはや動かないだけだ。でもこんな瑣末なものに構うのは時間の無駄だって、そういうことは分かっている。今のぼくが求めるのは、彼女を抱きしめて一緒にイくことだけだ。こんなやつらに、彼女は渡せない。
天を見上げる。これもどうしようもなく無駄だって思うけど、いつかこんな風に見上げるのを楽しんでいた時期があったような記憶が、覚えていないのにあったような気がする。だけどそれもきっと、等しく無駄。でも、いま空を見上げていたのは無駄ではなかったのかもしれない。
雨が降ってくる以外、何も無い灰色の空。だけどぼくの感覚には雨ではないものがすぐ近くにあるように感じられた。それは水ではなく、どちらかといえば何かに繋がる糸なのかもしれないと、ぼくは思った。
これも昔読んだ本を思い出させた。たしか地獄に落ちた人間を神様かなにかが糸を垂らして、それを登りきれれば苦しみのない地獄から出られるといったような話だった気がする。ぼくはそれを思い出すと迷わずその糸のようななにかを掴んだ、気がした。手のひらには微かに感じられる温度を持った何かがあって、これを登りきれれば、もしかしたらぼくの目の前には――
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目が覚めたときは、リビングのソファで横になっていた。さっきまで騒いでいたときの匂いが残っているのを感じて、今日は天木さんの歓迎会をしていたことを思い出し、さっきまでいたのは廊下だったはずだという疑問が生まれる。朦朧としていた意識が徐々に戻っていき、体を持ち上げた。
「兄さん!」
イスが激しく動く音と樫羽の声が同時に聞こえた。音がしたほうを見ると、樫羽と天木さんの二人が心配そうな面持ちでこちらを見てきていた。痛みが走る頭をひねって、どうしても一つ思い出せないことを二人に聞く。
「二人とも……なんでオレはここで寝てたんだ?」
「……兄さん。人を心配させておいてそれは、随分な質問ですね?」
思い出せないことを聞こうとしただけなのだが、樫羽はそれより先に言うことがあるだろうというのを態度で表していて、天木さんも樫羽と同じようにちょっと怒り顔だった。このまま不機嫌にさせていてもいいことは無いし、何より自分が悪いのだということは、感覚で分かった。
「……ごめん、二人とも」
「――はい。これでわたしたちは兄さんを許します」
「わたしたちはってことは、やっぱり?」
「ええ。当然、来てくれた皆さんにも謝るのが筋でしょう。今日はもう帰りましたが……」
やっぱりそうなるよな。これは明日になったら謝罪で忙しそうだ。葉一に那須野、叔父さんと海山さんも二人のようにすぐ許してくれるといいけど。
明日の心配をしていると、天木さんが「それで」と何があったのかを話しだしてくれた。
「その……遠原さん、廊下でいきなり音を立てて倒れたんですよ。それを神田さんと叔父さまがこっちへ運んでくれて。頭も打っていたみたいで、ちょっと腫れてましたけど……遠原さん、何かしたんですか?」
廊下で倒れた。それだけを聞いてもピンとはこなかったが、天木さんが何をしていたのかを聞いて、それを思い出そうとすると、頭痛は強くなる。だが、それを思い出したときにはその痛みはどこかへと飛んでいき、代わりにオレがさっきしたことを鮮明に思い出すことができた。
ああ、そうだ。オレは――
「……樫羽。ちょっと上行っててくれるか?」
唐突なお願いだとは思った。だけど、今の自分にはそれを気にしてる余裕はない。今の自分を焦らせている原因である天木さんのほうを見ようとした。さっき見たときには少し怒ったような顔。けれど今はいつもと同じように、オレが唐突にこちらを向くとまばたきの間よりも短い時間、彼女の動きが止まったように見えても、それが本当だったのかを疑わせるような笑顔だ。それを眺めるなんてことはできなくて、顔ごと視線を逸らしてしまう。
「兄さん、さっき倒れたばかりなのにそんな勝手なことを――」
「だ、大丈夫ですよ樫羽ちゃん。私が見ておきますから、樫羽ちゃんももう休んでいてください」
やはり樫羽は納得いかないようですぐにオレの頼みを却下しようとしていたが、天木さんは樫羽の体調を心配してか自分が見ておくといって休むように促した。どういった顔をしていたのかは目線が床のほうに向かっていたからわからないけれど、ようやく聞こえた声の調子から多分しょうがなく、といった感じの苦々しい顔をしていたのだろう。
「……わかりました。天木さん、あとはよろしくお願いしますね。あ、兄さんがなにかしてきたら迷わずに叫び声でもあげてくれれば、すぐに来ますので」
フローリングの上を歩くひたひたとした足音が、リビングのドアが閉まる音とともに消える。樫羽にも申し訳ないけれど、今は頭の中だけで謝罪をすることしかできなかった。
静寂はすぐに訪れる。天木さんもオレも、互いに言葉が出てこない。いや、天木さんには言うことが無くて、オレにはいま言わなければいけないことがあるという、それだけだ。だけどそれが喉を超えて、口までにすら上がってこない。上れば上るほど熱い煙のようになって、我慢できずにその言葉を吹き飛ばしてしまう。
胸の辺りでは仄かな熱さのような痛みとなって溶けないまま残り、なんとか喉の辺りまで来ても、その熱が喉全体を枯らすほどになってはりつく。……口の中までいったときは、どうなるというのか。想像する必要なんてない、すぐに試せるもののはずだ。けれど試そうとすればするほど仄かな痛みの、激しい熱の塊が重みを帯びてきて、胸の奥にただただ落ちていく。
そんなにも自分は、怖がっているのか。
「……天木さん」
ようやく出てきた声。それはきっと弱音だった。自分が言おうとした言葉を何一つ出せなかった自分が、謝るべき相手へとちゃんと向き合ってない自分が、その相手に助けを求める情けない言葉。自分が切り出せないからときっかけを頼ったのだ。恐らく彼女はきっと、何も気にせず疑いもないような声で返してくれるはずだった。
「はい。なんですか?」
予想通りの、明るくてニコニコと笑って言っている姿が浮かぶような朗らかな声。その声のおかげか胸の中はすっと軽くなったような気はする。それでもまだ、言いたいことの全部は外へと出てこない。全部は出てこなかったけれど――
「――ごめん」
断片的な、想いの切れ端が喉の奥でたまりかねた吐息に乗って、風に飛ばされたようにして不意に飛び出してきた。自分でもそれだけが出てくるとは思ってなかったから戸惑いそうになったけど、それ以上に今の一言で、自分の中で沈みきってしまいそうだった言葉が急に浮上してきたことに驚いていた。いや、驚いているだけじゃだめだよな。ちゃんと言葉にして、伝えなければいけないよな。
天木さんのほうを見る。いきなり謝ったからか、なんのことかわからず首を傾げているようだ。姿をもう一度見ると、やはり胸の痛みは増して、どんよりとした重さが甦ってくる。でもそれはオレが言いたいことには適切な重さなのかもしれない。要するにこれは、自分にとって軽くしちゃいけない想いなんだ。
事実に触れて、ほとんどを知って、そうして心に浮かんだのはただひとつ。それはようやく出てくる気になったようで、喉の辺りは熱くなり、口の呼吸も音を立てて速くなっていく。もういつでも、オレはその言葉を彼女に言えるはずだという確信があった。
今考えると、もしかしたらあの雨の日にオレたちは出会わなかったほうが、天木さんにとっては幸せだったのかもしれない。なぜなら――
「君を狙ってたのは――『オレ』だったんだね……」
――オレは彼女が忘れようとしていた男を、思い出させてしまったのだろうから。
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長い長い、そんな時間が流れたような気がした。二人の間に交わす言葉はなく、時計の秒針が刻む音だけが耳に響いてくる。今度顔を伏せたのは天木さんのほうだった。彼女はそのまま話し始める。
「いつ、知ったんですか? 私は遠原さんにあの人のことは、ほとんど教えてなかったはずです」
「……信じられないかもしれないけど、オレは君の言う『あの人』っていうのが今持っている記憶なんかを知ることもできたんだ。てっきりそっちでのオレは君の知り合いかなにかなのかと思ってやっただけだけど……」
そう。最初はただの今後に活かせそうな情報収集をするだけのつもりだった。しかし初めて使った知識の自己複写で最初に流れ込んできたのは、そいつのことを支配している思考だった。
逃がさない、自分の手で殺したい、手で捕まえたい、逃がしたい、守りたい、傍に居たい。そんな、黒い強烈な確固たる想い――天木さんと出会ったときに似たような黒い意識がオレに来たのは、こいつの強すぎる想いが互いを繋げられるオレに逆流してきたということだというのを本能で理解できるほどの膨大な感情だった。その生の感情の激流に吐き気を催し、呑まれそうになりながらも耐えていたんだったと思う。その時にはすでに意識が微かに途切れそうになってきていて、もはや記憶自体も曖昧だった。
あとに覚えているのはその後の、こいつ自身の記憶を映像のように見ていたときのことだった。
最初に見えたと思うのはこいつと天木さんの、幼い頃の記憶。どこかは分からないが広い自然公園のように見えるそこで、天木さんとこいつは向かい合っていた。視点が繋がったほうの自分なので見えているのは幼い天木さんだけだが、目が合っているから恐らく向かい合っているということで間違いないはずだ、背格好を見るに、小学校に入りたてぐらいの年齢だろうか。
「あ、あの!」
意を決したようなうわずった声。スカートの裾をギュッと掴み、紅潮した顔からは緊張しているのがよくわかる。そんな時間が10秒くらい。視界は変わらずに幼い少女のみを映していたが、その少女がようやく顔を上げて、こう言った。
「わ、わたしと友達になってくれませんか!」
はっきりと、目をぶれたりさせずまっすぐにこの視界の当人を見つめていた。視界が高くなって、立ち上がったのがわかる。そして今度聞こえたのは少年の声。見えたのは、差し伸べた手。
「うん。いいよ」
「!! あ、ありがとうございます!」
その時の女の子の表情はまさに花開いたような笑顔といっていいものだった。最初にこれが見えたのは、忘れようのないほど心に残っているからか。そんなふうに思えるほど、鮮明な顔だった。
そこでオレの視界がまたも光に塗りつぶされる。眩しさについ目を閉じたが、それはすぐに収まり今度見えたのは、どこかの学校の屋上のように思える。制服を着た女の子が視界に入っているがその顔つきは今の天木さんとほとんど変わらない。今度は中学生ぐらいのころの記憶だろうか。
「天木さんは本当に準備がいいなぁ。こうしてシートを持ってくるなんて」
「ふふっ。これだけじゃないですよ、櫟君」
彼女は不敵に笑いながらがさごそとカバンを漁るようにした。そして取り出したのは、数人で使うことを想定されたであろうサイズの弁当箱だった。そして蓋を外して中を見せてくれるのだが、彩りがあって見てるだけでも食欲をそそる。ただこの前に食事会で十分なほどに食べていたから見ていた時はそんな気にはなれなかったが。
「うわ、すごいねこれ! もしかして天木さんが作ったの?」
「はい、そうですよ。ぜひ食べて、味の感想も聞かせてくれるとうれしいです」
「もちろん。それじゃあまずは……」
受け取った箸でまずつまんだのは卵焼き。ひょいと持ち上げられたそれはすぐに視界から消える。少しした後で「おぉっ」という感嘆のような声が聞こえる。
「おいしいよ天木さん! 甘さは控えめだけどその分出汁の味わいが出てるというか……」
「本当ですか!? よかったぁ……ちょっとでも美味しくなかったらどうしようかと……」
「そんなことないよ! この唐揚げも、おにぎりも……どれもとっても美味しい!」
「そ、そんなに褒めてもらえると恥ずかしいですけど……じゃあ明日も作ってきていいですか?」
「え、いいの!? むしろお願いしたいくらいだよ!」
二人の目線がまた合った。どちらともなく笑い出す声が聞こえたが、そこでまた映像は切れる。今度見えてきたのは今のものよりさらに後の方の記憶だろうか。
どれも他愛のない日常のように見える。けれどそんな日々の一端のようなものでも、彼らにとっては大事なものだったという事だろうか。うららかな陽気が残っている頃に行った、二人が出会った自然公園での思い出話。激しい日差しが辛くとも楽しんでいた海水浴に、夜の縁日。外が寒くなってくると室内で二人でコーヒーやココアを脇において本を読み、二人でたまに談笑をしたりする。木が寂しくなってくるころには二人揃って机に向かって勉強会をしていた。そんな光景が、視覚を通して頭の中に入ってくる。
そんな二人の姿はオレには恋人同士にしか見えなかった。けれど天木さんは一度もそうは言わなかった。「あの人」「友達」……それは、本当にそれだけだったのだろうか。今のオレでは、推測することしかできない。そしてそんな推測はやはり的外れでしかないのかもということを、次の映像で思い知らされる。
今度見えたのは、雨の降る夜の街中。だけどそこは大通りやアーケードのような人の多い場所ではなく、狭苦しい路地裏だ。この細い道をすばやく通り抜ける。走っているからか乾いた足音が夜の街に響きながらも、息を切らした様子はない。
視界は何度も右へ左へと動き回る。それは何か――いや、誰かを探しているようで目線は注意深く街を眺めている。そうこうしているうちに住宅街のほうへといくもそこでもまだ見つからないようだ。
……ちなみに何を探しているのかは、オレにはすでに分かっていた。その時の思考までも知ることができるから。
持っている意思は殺意で、求めているのは――天木さん。またも路地裏に戻ったこいつは手に持ったサバイバルナイフを見ながら、小さくとも確かな声で笑いながら言った。
「……ああ、天木さん。ぼくは……キミを、早くキミと会って……そのままキミを……あ、あああああ、あああ……」
そうしてまた歩き出したところで、オレが今思い出せる記憶の映像は無くなった。もしかしたらこれ以外にも見たものがあるかもしれないけど、それが今は思い出せなかった。一気に入ってきた情報で頭が混乱しているのだろう。ノイズが走るような音だけが聞こえる。
「えっと……天木さんは最初から、オレが君を追っている人と同じだって気づいてたの?」
こくり。彼女は言葉ではなく、頷くことで肯定した。
「……私も、最初に遠原さんを雨の中で見たときは……櫟君と出会ってしまったのかと思ってしまいました……けど……」
ぽつぽつと呟くように天木さんは話してくれる。きっと遠い場所へ逃げてきて、それまで逃げていた相手と同じ顔をした男が目の前に現れたら……どんな恐怖が湧いてくるのだろうか。それは本人にしか分からず、オレには分からなかったはずのもの。
天木さんはそこで顔を上げた。そしてまた、分かったことがある。天木さんは、泣いていた。彼女の心の悲しみはまだ残っていた。
「最初は遠原さんも櫟君と同じ感じがして……でも傘を投げ捨てて……それで、だんだん櫟君のような感じが抜けていった遠原さんに近づいて……でも、目を見たらわかったんです」
――ああ、この人は昔の櫟君と同じ眼をしている。 天木さんは、そう言った。
「色や形の話じゃなく……長年見てきた、櫟君の眼。優しさがあって、濁りがほとんどない生き生きとしていた、私が好きだった頃の櫟君の眼は、遠原さんの眼と同じでした」
彼女は泣き止まないままで、そう話してくれた。天木さんだって、最初はオレが怖くて怖くてたまらなかったんだ。それでも彼女は、自分を追う者と瓜二つの男に近づいてきてくれた。そしてその眼に、自分の友達だった者の面影を見て助けを求めてくれた。
天木さんは、まだ出来てなかったとしても乗り越えようとしたんだ。今は顔を見ただけでも恐怖するような、昔の友達の写し鏡のような男を相手に頼みごとをして。殺そうとしてきたことを水に流して、もう一度やり直すために。一人の友達を許すために。
「天木さん……」
「……でも、ごめんなさい。遠原さんはあくまで別人の遠原さんで、私が知っている櫟君のことを話しても混乱しちゃうだろうからって、話せませんでしたけど……これって、そこまでしてくれた遠原さんに対する裏切り……ですよね……?」
「……そんなことない」
――そんなことは、ない。
「違いません、裏切ってます! 遠原さんは倒れてまで手を尽くしてくれたのに私は言いたいことを言って、願望だけしか遠原さんに教えませんでした!!」
「だからって、それは裏切りなんかじゃないだろ!? たとえ隠したかったことがあったとしても、自分が望むことだけを相手に押し付けようとしていたとしても、それぐらいは頼っていいんだ! 少なくともオレは今、天木さんに理不尽だなんて印象は持ってない!」
大声を出したからか、頭に強い痛みが響く。だけどこれくらいは必要経費みたいなものだ。相変わらず自分を勝手に卑下するような目の前の女の子は、普段が謙虚な分をそこでバランスをとればいいのにそれを身勝手だと自分で決め付ける上に頑固なのだ。それは客観的に見れば美徳と思える人もいるのかもしれないけれど、今目の前で正面から向き合ってるこっちからすればそんなのは腹が立つ。
「困っているのを知っていて頼られないことの辛さを、自分が原因だと知っていてそれで何もできないことの歯がゆさを考えろ! オレは『おれ』が天木さんを殺そうとしていて、それを知った上で手を抜いてなんていられるような人間じゃないんだ!! だから天木さんはいくらでも頼っていいんだよ! 天木さんのいうところの願望なんて関係なく、天木さんが困っているから、その原因のようなものでもあるからこそ助けたいんだから、むしろ押し付けたいことはどんどん押し付けてきていい!!」
何度も怒鳴り続けて頭にがんがんと響くような痛みがさらに広がっていた。だけど血が上っている頭は鈍すぎて、それにまったく気づけない。見ているのは天木さんの顔だけだ。自分から身勝手になるのが嫌なら、オレが身勝手にさせてやる。天木さんはもう少し自分に頼ってもいいのだと、刻み込むように宣言してやる。
天木さんの目は泣き腫らしたようになっていて、どれだけ彼女が心の内に悲しい涙を溜め込んでいたのかが想像できる。けれど、それはもう――流れずに止まっていた。
「……それこそ、勝手です。遠原さんの勝手です。傲慢です」
「そうだよ。天木さんがもう少し頼ろうとして勝手になってくれれば、君の友達をオレに無理矢理にでも助けさせようとしてくれれば、いくらでも手を貸す。力を貸すって、最初のほうに言わなかったっけ?」
「言ってません……言ってたかもしれないですけど……そんなはっきりとは言ってません……」
「そうか……じゃあ改めて言うよ。オレは絶対、天木さんとその友達をもう一度繋ぎとめる。また一緒に公園で昔話をしたり、外に遊びに行ったり家の中で笑いあったり勉強したりできるようにする。これを、約束するよ」
目元の涙を拭っている天木さんと向かい合って、今度ははっきりと誓う。前に天木さんと話し合ったときは二人でどうにかして解決しよう、という姿勢だけを決めていた。
だけど今度は天木さんの問題に自分が関わっていると知って、彼らのこれまでを断片的ながらにでも見たから。知ったからこそやることがはっきりとした。いつかこの二人が向き合って話し合える日を作る。今はまだ天木さんを追っているという『おれ』には会えていないけど、いつかそいつとも会ってそいつが天木さんを追う理由も解消すれば、きっとそんな日は来るはずだから。
「遠原、さん」
天木さんは座っている姿勢と、泣いている最中に乱れてしまった薄茶の髪を直して、こちらと向かい合う。
「――櫟君と私のこと、どうかよろしくお願いします」
「――もちろん。まずは二人だけだけど、一緒にがんばろうか」
言葉は無し。近づいて手を握り合うだけで、今のオレたちには十分だった。
「……それで、その、遠原さん」
「ん? なに?」
とりあえず二人で今日の歓迎会用に買ったが余っていたドリンクでもう一度乾杯してそれを飲んでいたのだが、不意に天木さんが話しかけてきた。
「その、寝るときで構わないん、ですけど……」
「?」
なにやら歯切れが悪い。言いづらい事なのだろうか。でもそれなら話さなくてもいいような気もするし、いったいなんだろう。
「――ね、寝るときに私の横にいてくれませんか?」
「――もちろん。とりあえず今行こうすぐやろう」
オレは彼女の手をとって今すぐに天木さんの部屋に向かおうとする。
エロティックに一番興味関心が向く種族、男子高校生。それに類する者の前で、美少女が顔を赤くしながら恥ずかしそうに「私と寝てください!」と言ってこようものならそりゃあもちろん理性なんて吹き飛んで当然でしょうよ。
そんな挑発的な行動をとってきたというのに天木さんはなぜか拒否するようにしてその場に留まろうと足に力を込めて踏ん張る。
「と、遠原さんそうじゃなくて……!」
「あれでしょ? さっきちょっと言い争っちゃったのを二人で並んで横になりながらちゃんと仲直りしようってことでしょ? まぁとにかくそんなことより急いで上に――」
ガチャッ。
「兄さん、さっきからうるさいですけど何が……」
扉を開けて入ってきた樫羽を見て、オレの心はエロティックへの興味などドライアイスに覆われたように冷めた。ついでに目も覚めたおかげで自分の状況を俯瞰的に見ることができる。ドアから樫羽、その目の前に興奮気味だったオレ、そしてオレに無理矢理手を引っ張られてどこかへ連れて行かれそうな天木さん。
状況証拠は完璧に揃っていた。
「……兄さんがそういう年頃だというのは理解しているつもりでしたが……天木さんに足して、しかもそんな乱暴に手を出すとは、見損ないました」
「ちょ、違う、違うんだ! 天木さん助けて! なんか犯罪の疑いがかけられてる!」
嘆息するようにしながらも袖を捲くってナニカする準備を整える樫羽。このままでは有無を言わせず罰を受けることになりそうだったので、やむなくオレはここで状況を知っている証人に助けを求める。天木さんならば助けてくれると踏んだのだけど、見ればその表情はムッとしていた。
「……私は昔の櫟君みたいに寝るまで横にいてほしいってお願いしようとしていただけですのに……遠原さんのバカ」
証人はまさかの出席拒否だった。このまま検事しかいないような裁判で勝てということなど無理に等しく、樫羽はなぜか清々しく笑顔でこちらを見ている。腕がすでにアイアンクローの構えになっているので許してはくれていないようだ。
「では兄さん。なにか最期に言うことは?」
「しばらくなんでも言うこと聞くんで許してください」
「じゃあ今日のお仕置きを全部耐え切った上でしばらくは毎日アイスでも買ってきてください。天木さんもなんでも言っていいですよ」
「じゃ、じゃあ私は――」
「おい待て許してって言ってるのに許されてないとかそれはちょっとズルいんじゃ」
五月蝿いですよ、と開いた口が完全に樫羽に閉じさせられる。その間に二人は好き勝手な要求をしていて、もはや回避不可能であることを悟った。どうも今夜オレに残るのは命と後悔だけらしい。
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そして、翌日の朝。
昨日の夜はやりすぎたと反省して朝から二人に土下座をすることで大量の要求を撤回してもらったが、それぞれ一つずつの、合計二つの要求はどうしても残されてしまった。樫羽はアイス。天木さんは保留らしいが、できれば忘れてくれると嬉しいものだ。
そして家を出て、目についたのは学校まで行く途中にできた騒がしい人だかり。つい興味を持って中を覗きこもうとしたが、人の壁はなかなか通れない。だけど、鼻では何か異変を感じた。ツンとくるような、腐りかけの不快な臭い。
「あんな風にしちゃうなんて、ひどいことをする人もいるものねぇ……」
「本当にねぇ。子供たちには見せられないわよこんなの……」
みな口々にむごい、残酷だというような感想を述べている。悪寒というものを、この時ようやく感じた。人をかき分けて中心部分へと近づく。そして、ようやくそこを見ることができた。
脚はそれぞれ真ん中から一本のラインで裂かれるようにして切り口から広げられて、その顔もところどころに刺し傷がある。一番目立つのは切り落とされた尾や、掻っ捌かれてこれまた開かれた腹部。
それを見て思い出したのは天木さんの言葉。路上に転がって独特の模様の毛を散らしてすでに息絶えているであろうそれは。
“自分がここにいることを教えるように私が逃げる先に……切り刻んだ動物の死体を……!”
野良猫の、惨殺死体だった。
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この日の授業にはまるで集中できていなかったと思う。朝の内に葉一や那須野の二人には昨日のことで礼を言ったのだが、それ以降は耳を言葉が通らない。というよりも、頭が一つのことに支配されていた。今日の朝に近所の路上で起きた非道な行為の犯人が捕まっていないということで生徒たちは早めに帰されたのは不幸中の幸いといったところか。
動物を切り刻んで目立つところに捨てる。異世界のオレが天木さんに対し、自分が近くにいることを証明する時によくやったことだと天木さんは言っていたが、もしそうなんだとするとやつはいったいどうやって来たのか。最大の疑問はそれだ。天木さんが住んでいたのは異世界も知らないような、移動手段たるポーターがあることがありえない世界。ではポーター以外の方法となると、ここから先は魔術、しかも秘術とよばれるような歴史からも隠匿されているほどの高難度の術しか方法はないと言われている。それを行使しようとするのは、ベアトリスと同レベルの魔術師でないと無理だろう。
ではそのベアトリス、とまではいかずとも実力のある魔術師の弟子ならば今回のことに関してどういった見解を見せてくれるのか。オレはそれを確かめるためにここに来た。ここ数日で三度目の訪問になる。
「……あん? 何やってんだい遠原」
目の前で暢気に座って茶なぞ飲んでる海山さん。そう、この人はそういった過去の実力派魔術師の弟子、それも唯一のだ。本人は師匠はベアトリスだと言っているが、ベアトリスが弟子を持ったというトップニュースを飾れるような話は聞いたこともないので嘘だろうと睨んでいるが、とにかく俺の近辺での魔術知識に関してはトップクラスの人材だといえる。リアナの体質についてわざわざ聞いたのもそのためだったからだ。
オレは海山さんの前に立ってまず、頭を下げた
「聞きたいことがあります。緊急事態なんです」
「……緊急、ね。それじゃあ、まずはどういう話か聞かせてもらおうか?」
今回ばかりは、天木さんの事情を隠すということはできなかった。異世界のオレがここへ来て舞台に上がった以上、それらに関することを隠したら情報の認識に齟齬が生まれるかもしれない。天木さんが来た理由、オレと天木さんの現在の関係、そして今回も異世界の『遠原櫟』が絡んでいることを、できる限り詳細に伝える。
オレの話が終わると、室内はとてつもなく静かになった。海山さんは腕を組みながらこちらを見据えるが、そこから口は出してこない。対してオレも説明することはすべて説明してあとは海山さんがどういうことなのかを教えてくれるのを待つぐらいしかできないのだが、校長室特有の固い空気の中で何分も動かずにいると緊張で縮み上がりそうになってくる。海山さんの後ろにある窓から漏れるカーテン越しの日光だけがこの場における清涼剤のようだった。
しかしそれでも我慢できなくなり、ついにオレは海山さんに聞いた。
「あ、あのー……みや、校長……?」
「……ん、ああ悪いね遠原。つい考えこんじまったよ。アタシの悪い癖だね、こりゃ」
「いえ、ちゃんと話が聞けそうなら大丈夫ですよ。それで、なにか分かりますか?」
「その前に聞かせな。あんたが天木を助けようとする理由を、ちゃんとアタシに語ってみせな。あんたにアタシの考えを話すかどうかはそれからだ」
海山さんの目は先ほどからはっきりとこちらを見据えていた。その目が今、鋭くこちらを見通そうとしている。もともと目つきがキツいと言われている彼女の目がさらに鋭利さを増しているのはなかなか心に刺さるものがある。
でも、それで彼女の言ってることに答えられないほどオレは曖昧な決意をした覚えは無い。こちらも海山さんに目線を鋭くして向ける。
「那須野の時と同じですよ。今回も同じ『遠原櫟』がやったことが原因で思い詰めてる人がいるから助けるんですよ。なにせ、自分と同じ名前で同じような顔つきの人間が恨まれてるようなことになっていては他人事にも思えませんからね」
「他人事だろう? 少なくとも、アタシは異世界の海山奏子が大量殺人犯のテロリストで武器商人だったとしても助けたり捕まってやるような義理はないね」
「そりゃあ、オレだってただ異世界の自分が極悪人だ、なんて言われただけじゃ動きませんよ。ただ、那須野のときも天木さんのときも、オレは助けてほしいと言われましたから。これはオレ個人が父さんからもらった形見ですけど、助けを願われたら手を貸すのは当たり前なんですよ」
それをその姿勢で教えてくれた父さんを、オレは少し尊敬している。バカだったし、色々と残念なところも多かった。けどそれはもう全て過去のものになっていて、全てが美化されているようにも思えるけれど、まだどこかで会えるはずだとオレも、きっと樫羽も思っている。また会えるまでに、父さんが居ないうちは自分がそれをやり続けるのは、オレの決めたことだからやめたりすることなんてできない。
海山さんと目線をぶつけ合い続けるのは別によかった。退く理由がないから退かない。相手の考えとぶつかり合うことぐらいは覚悟していたが、意外にも海山さんが先に目から力を抜いた。
「……ま、それならたぶん大丈夫か。いいさ、あんたが聞きたかったことを教えてやる」
「ほ、本当ですか! ありがとうございます!」
頭をもう一度下げて海山さんに感謝する。ひとまずは安堵だ。これで異世界の自分の対策ができるかもしれない。あくまでまだ何歩も先のゴールへの一歩めでしかないが、それでもこれで先へ進めることができるならば、それでいい。今日中には終わらせておければ、それだけこっちが有利になる。
「それで遠原。ひとつこちらから質問をさせてもらうが、いいね?」
「あ、はい。なんでしょうか?」
「お前は昨日倒れたとき、知識の自己複写を行った。これで間違いないんだね?」
「ええ、そうですね」
それで昨日はみんなに心配をかけてしまったようなのだが、これで今回の天木さんの問題をより知ることができたのだから、ハイとまではいかなくともミドルリターンはあるのではないだろうかと思う
しかし海山さんはそれを聞いてどうしたんだろう。なにやら「そうか……」と言って思いっきり息を吐いたりしている。なにか問題があったのだろうか。
「……遠原。言いづらいことなんだが……」
海山さんの表情は暗い。言葉の歯切れも悪くなっていて、普段のような傲岸不遜な口調の面影もどこにもなくなっている。だが覚悟を決めたか、その白い髪を振るってオレにもう一度向き直る。
そして、はっきりと告げた。
「今回、異世界の『遠原櫟』が来たのは、お前が原因な可能性が高い」