グラスの音色は高らかに
意識がうっすらと目覚めてきて、まず感じたのは窓から入り込んでくる柔らかい日の光だった。目をゆっくり開けるとそこはよく見知った、自分の部屋の天井。ついつい縮んだような身体を伸ばしてしまい、ズキン、と脇腹が痛んだ。
「うぉぉ……いってぇ……」
昨日受けた傷のことをうっかり忘れていたせいで、痛みに唸るような声を上げるはめになってしまう。ただそれのおかげかそれのせいか、昨日話したことが頭の中に克明に甦った。そう、今日は叔父さんや葉一たちを招いた食事会で、自分はその準備の大半をする係で……朝から買い物に行かなきゃいけないわけで。壁にかかった時計を見ると、時刻は九時。どうも二人ともまだ起きてないようで家の中もまだ静寂に包まれている。
「……二度寝したいけど、そういうわけにもいかないよなぁ」
とりあえず洗面所まで行って顔を洗った後でリビングに行って、しまってあった食パンを袋に入れたままテーブルに置いておく。今から朝に手の込んだものを作っても昼が食べられなくなるので日曜にはよくやる手抜きだ。ジャムも置いたところで、次の行動に移る。
もう一度二階に行き、樫羽の部屋の扉の前に立って手の甲で素早く扉を二回叩く。
「樫羽ー、もう九時だぞー。起きろー」
しばらくして、中から「……うぅ、はい、わかりました……」という、今起きたばかりのような声が聞こえた。もうちょっとちゃんと起こしておきたいがここには入れないので、次は天木さんだ。
二階の一番奥、元は父さんの部屋だったそこの扉もまた二回叩く。
「天木さーん? もう朝だよー」
中に聞こえるように言う。だが少し待っても、反応が無い。
もう二回叩くが、やはり何も返ってこない。仕方ないので、中に入って直接起こすことにした。
ドアを開けると、視界に部屋の全体が入り込む。自分から見て左の方に天木さんが寝ているベッドがあるので目線をそちらに集中し、彼女の状態を確認。
寝相はそこまでよくないようで、布団はところどころめくれあがり、寝間着として使っているらしいドット模様のパジャマも乱れている。白い肌も少しだけ見えていて、直視するのはなかなかに恥ずかしい。
「……見ないようにやらなきゃな」
できる限り背を向けながらそばに近づく。が、声をかけなければ起こせそうにない。後ろを向けていてそれはできないことだ。直接揺さぶるのは、気が咎められた。
身体の方を見ないように首をまわす。寝顔は口がわずかに開いていて、微かな寝息の音が漏れている。まだ何もしていないから当然かもしれないけど、髪も少し乱れているようだった。しかしそんな少しの乱れで普段よりも見た目が悪くなるなどということもなく、それはそれでむしろ寝姿にふさわしい愛らしさだ。
天木さんの寝てる高さまでしゃがんで、耳元に直接声をかける。
「……起きて、天木さん。そろそろ目を覚ました方がいいよ」
ガサゴソと布団と衣服のこすれ合う音がする。どうやら意識がやっと目覚めてきたらしい。顔を見ればまぶたも少しずつ開き始めていた。そろそろオレは出ていった方がいいだろう。
もう一度、できる限り天木さんのほうを見ないようにして廊下へ出ようとする。ドアノブに手をかけようとした。が、後ろではもう起きあがる気配が。
「……あ、遠原さん。おはようございますぅ……」
「お、おはよう……」
朝の挨拶を無視するわけにもいかず、オレは返事をする。しかし背を向けた状態なのが不可解なのか、
「? なんでこっちを向いてくれないんですかぁ……?」
という言葉が返ってきた。まだ寝ぼけてるのかその声の調子は蜜が垂れているような、とろんとしたものだ。きっと顔つきもそんな感じになっているのだろうが、そんな状態だからか自分の格好もあまり気にしていないのだろうか。しょうがないので少し罪悪感はあるが、天木さんのほうを向いた。
ベッドの上で崩した正座のような形で脚を水平にしてぺたっと座り、まだどこか焦点が定まっていないのか眼のあたりを指でこすっている天木さんは小動物のような印象を受ける。その姿はどこか脆そうで、見る人が見れば加虐心を煽るように弱々しい。
「んぅっ……」とうめき声を上げて、天木さんは苦しそうに身体を縦に伸ばす。その影響で胸の部分が、寝巻きの上でも少しはっきりと膨らんでいるのがわかる。彼女が起きるまでは激しい音も無く窓から入るうららかな日光を感じられた穏やかな朝だったが、今となっては脳内がドラムロールを響かせるように騒がしく熱い。こっちだって思春期の男子高校生だ。目の前で興奮を促すようなものがあったらそれに無反応でいられるほど達観しているわけがない。だが理性というものは、休みきった朝ならまだ本能よりも強かったらしい。なんとかして抑えきる。
「えっと、おはよう天木さん。早めに着替えて朝ごはん食べちゃってね。ちょっと今日は葉一と早いうちに出かけるから」
若干早口とはいえちゃんとした挨拶をし、天木さんからは気の抜けたような「はぁい……」という了承の返事。これでひとまずはここから出てもいいはずだ。今度は止まることなくドアを開けて、そのまま廊下へと戻る。
「……ふぅ、危なかった……」
ドアを完全に閉じた後、その場で溜まっていた何かごと吐き出すようにして息を吐く。実際、本当に危なかった。なにせ同年代の女の子を寝室まで起こしに行くというのは初めての経験なのだ。ハードルが相当高いということに気づかずに挑戦するようなものではないらしいということが分かった。今出てきた扉に寄りかかってしゃがみこむ。とりあえず五秒で心を落ち着かせようと、深呼吸をしながら集中する。
――集中してしまったために、中からは衣擦れの音が聞こえてしまう。布の擦れ合う、ある種の情を煽るような音を聞いて思いっきり息を吐いていては、どう考えてもただの普遍的な変態だ。これ以上は自分の理性が限界だと判断してその場で立ち上がり、とぼとぼと部屋に帰還して着替えることにした。さすがに盗み聞きまでしてしまっては罪悪感が強すぎたので忘れようと心がけながら。
「樫羽、今日はちょっと留守を頼むぞ。昼までには帰るようにするから」
三人ともパンを食べたあとで、樫羽にも早いうちに葉一と出かける旨を話す。もちろんこれは今夜のための買出しだ。早いうちに出かけてしまわないと準備もろくにできやしない。ある程度は手を抜きつつ、それなりの料理を揃える。これが今日オレのやることの半分であり、もう半分は説得だ。つまりほぼ全部やるということ。ある程度は周囲にも任せたいが、どこをオレ以外にやらせればいいのかはあまり分からない。なら自分がやるしかない……はずだ。できれば目の前の樫羽や天木さんには、その辺を悟られないようにしておこう。割りと二人ともお節介焼きのような部分があるみたいだし。
とりあえず樫羽も流石には気づいていないらしく、特に疑われてるような感じはしなかった。
「わかりました、兄さん。わたしもできれば手伝いたいのですが……」
「あー……まぁ、うちのキッチンに三人はちょっと狭いからな。手伝いは頼むかもしれんが、樫羽は叔父さんをもてなすほうでがんばってくれ」
そうだ、食事会といっても作って食べてもらうだけがそれではない。黙々と食べるだけではなく、その間も世間話でもなんでもいいから和らいだ空気を維持すること。それはたぶんオレだけでは無理だし、きっと樫羽たちに頼ることになる。最初に大変そうなこっちを手伝いたいという気持ちはわかるが、役割はきちんと分けるのが鉄則だ。
「とりあえず昼は何か買ってくるつもりだから、先に何か作らないように頼むな」
「あ、はい、わかりました」
天木さんも今は完全に平常運行のようで、少なくともさっきのような印象を受けることはなく普通に答えてくれた。彼女を見ていると朝の事を思い出すが、できるかぎりはそれから意識を逸らす。あれを覚えていては、天木さんにとっても失礼だろう。
「それじゃ遠原さん、お夕飯は楽しみにさせてもらいますね!」
「ん、任せて」
こうして期待もしてもらってるんだ。罪滅ぼしのつもりで今日の夕食は全力を傾けなければ気がすまない。二人にいってきます、と言って外に出たあとで葉一に電話をする。メールでは寝ていたら起きないかもしれないからだったが、すでに起きていたようですぐつながった。
「おはよう、葉一」
『おう、おはようだぜ櫟。そろそろ行くのか?』
やはり自分から言っていただけあって忘れてるなどということはなかったか。軽い冗談のように聞こえても相手に実行するつもりがあればその準備だけはしておくのは葉一の美点といってもいいものだ。
「ああ。今お前の家に向かってるところだ」
『こっちも準備はできてるぜ。ただ、那須野が荷物持ちでついてきたいって言ってるんだが連れて行っていいよな?』
「いいんじゃないか? じゃあ切るぞ」
『んじゃ、那須野には伝えとくわ。それじゃ後でな』
+++++++++++++++++++++
「よし、それは置いてきなさい」
神田家に到着して開口一番に言うはめになったのはこんな台詞だった。至極残念ながらも一般人な葉一に向けて言った言葉ではなく、ただただ残念な那須野に向けての発言だ。二の腕まで露わになっているシャツの上にこれまた袖の無いデニムジャケットを羽織り、黒いジーンズでいつもどおりのポニーテールとここまでは普通だが、いつものように布にくるまれたハルバードを彼女は持ってきていた。しかし今日行くような人が集まるところまで持って行くのは、流石に無理に決まっている。
露骨に残念そうな顔をする那須野に、葉一はこうなると分かっていたような呆れた表情をしていた。
「だからそれ持ってくのは無理だって言っただろ……」
「し、しかし、気にしてるのは神田と遠原だけということも……!」
ねぇよ、とこの時ばかりは当然のように葉一と言葉が重なる。ここまで否定されては無理だということがちゃんと伝わったのか、渋々と家の中にハルバードを戻しにいった。
たった今はわずかな時間ながら男二人だけで外にいる時間になる。だというのに葉一はできる限り声を潜めてこちらに話しかける。まるで聞かれてはいけない話でも始めるようだ。道端でやることでもないだろうと思うが、きっとこいつと考えていることは同じだろうし、それについてはオレもひとつ言いたかった。
「……櫟、お前ならわかってると思うが……」
「ああ……まさかあそこまでとは思ってなかったが……なんという――」
――なんというデカさ……! ジャケットを閉じていないうえにわりと大き目のシャツだというのにその存在を感じさせるようなものがこの世に存在していようとは、今オレは目の前にあったおっぱお、じゃないおっぱいが確かにあったということをいまだ信じられない……いや待て、あのサイズゆえに閉じられないという現実的を飛び越えてもはや夢のような領域にまで達しているのではないだろうか? 普段は手を出しかける葉一に対して「バカじゃねぇの?」などと言っていたが、あれと共に暮らしてるということを再認識すると逆に手を出せていない葉一すげぇ、とは……いやならないな。むしろ那須野すげぇ、である。
そういえば昨日も道着の上からチラッとでもあれを見たことになるのだが、これを話すと隣でにやけた笑いを浮かべているバカに殺されそうだ。逆の立場だったらオレもそうするつもりだし。
「あぁ、見ているだけでも最高すぎる……」
……きっとオレがこうして似たような思考のバカにつっこめるのは、こいつがその醜態をわざわざ見せてくれるからではないだろうかと思う。こうはなるまい、いやなりたくないという心も存外強いものなのだということがよくわかる。
ひとつ言い訳をするならオレだって最初からここまで那須野に対してこういった眼を向けていたわけではない。そもそも、自分の仇の同一人物とも言えるような相手にいまや憎まれ口を叩いたりこうして買い物についていこうとするなんていうのも、昔のオレと那須野なら現実感の無い光景だ。自分は『遠原櫟が那珂川那須野の家族を殺した』という事を知って、ただ彼女が望むことに付き合ってきただけだったし、それまでに今みたいな相手を馬鹿にしているようなことをやることは絶対にできなかった。罪滅ぼしでやってるのに悪ふざけができるような気持ちではいられなかったということだ。
そして今日のように那須野と出かけることも、これまではなかった。単純に自分と普段から居るのは嫌だろうからと鍛錬以外では彼女を避けていたオレと那須野を、今日までのような悪友らしい関係にしたのは横にいる葉一のおかげだ。できるならいつかお礼を言いたかったが、こいつはそこまで気にしてないだろう。
こう思ってしまうといつかと言わず、今すぐに言ってしまいたいという感情が強くなる。だから、先日の誰かのようにこっそりと言わせてもらうことにした。
「――ほんと、ありがとうな」
「ああ、本当にありがたいものだ。あれさえあればファンだろうが信仰心だろうが、すぐに天すらもぶち破るほどに集まるだろうぜ」
妙に渋い顔をしながら、オレの言ってることを予想通り(・・・・)そっちのことだと誤解して、脈絡も何もない実にバカらしいことを葉一は言っている。その姿勢はやはりぶれないんだな、と思うとつい吹きだしてしまいそうになった。本人はわざとやっていたからかそれを維持できずに笑い出す。普段ではウザいだけだが、実際にこの明るさに助けられてきたことを考えると、決してそんな風に嫌いだとは思えなかった。
那須野が玄関を開けて戻ってくる。その手にハルバードなんてものはない。これでようやく目的の所まで行けるはずだ。
「すまん、やはりどうにも手が落ち着かな……お前ら、何を笑ってるんだ?」
なんでもない、とだけ笑いをこらえながら答える。実際なんでもないようなことしか考えてなかったのだが、隣の男は知られちゃまずいことばかりが頭に浮かんでいたのかどこかぎこちない顔だ。だからか、答えたあとに逃げるようにして先へ走っていた。
「それじゃ行こうぜ。とりあえず俺が先にどんな状態か見てくるから、二人は後から来いよ!」
逃げているふうに見せないようにして葉一は走っていた。このままあいつの姿を見失わないよう、その後を追いかけるために走ろうとする。しかし、直後に後悔したくなった
――ズキン、と踏み出したばかりの一歩目で脇腹が痛み、手で押さえる。これでは走るのもままならない。傷を甘く見ていたことを後悔してると那須野が心配そうな顔をしてかけよってきた。
「怪我をしていると昨日言っていたであろう。その様子だと、走ることは無理だと思え」
「……お前、まさかそれで今日はついて来たのか?」
一朝一夕で治るはずがないとわかっているから、だから彼女はついてきてくれたのだろうか。オレの質問にギクリとした顔で「うっ」と一瞬たじろいでいたが、すぐにゆっくりとうなずいていた。肯定ということか。
「……別にいいであろう、それぐらい。今日の遠原ががんばるべきは買い物ではなく料理作りだ」
「料理を作るんなら、買い物からやらないとダメなんだよッ、いつつ……」
自分が見て買ったもので、美味い料理を作ろうとするのは当然だろうとオレは思う。痛みに呻きながら言っているせいか妙に格好はつかないが……。
そんな姿を見てか、横の那須野は呆れた調子でやれやれ、とため息混じりにこぼした。
「……落ち着け。危なくなったら某が支えていくから、ゆっくりでも歩いて行こう」
まだ少し響く痛み。これでは那須野の言うように歩いていくのがベストか。葉一にも走れないというのを伝えておくかと、歩きながら携帯電話のメール送信画面を開く。文面を考える最中、さっきまで昔のことを振り返っていたからか、那須野に聞きたいことがふと出てきた。今までは聞きたくても聞けなかったようなことだが、なぜかこの時は聞かずにはいられなかった。
「なぁ、那須野。お前はオレとお前の家族の仇について……どう思ってるんだ?」
自分の中では違う人間だと思っていても否定しきれない、自分だと認めたくない自分で、那須野にとっては、仇敵。だからこのまま近くにいて苦しいのなら、また(・・)離れることも考えていた。
だけど那須野は、考えた時間などほとんどないように極めて自然な口調で、顔色も変えずに答えた。
「随分と簡単な質問だな。『クヌギ』をまだ許す気は到底無いが……遠原に対してそんな憎しみをぶつける気は更に無いぞ」
それはつまりどういうことか。自分の中でまだ答えを受け止める準備ができてなかったせいで彼女の顔を見るも理解は遅れる。しかしその答え、意味は那須野が直接口から出して答えてくれた。
「クヌギは敵でも、遠原は味方で、そして今の某にとってはもはや友だろう? 元が同じでも某の中でクヌギと遠原は同じなどと呼ぶのは侮蔑も同じだ。もしクヌギでなく他の誰かでも、遠原がその者と同じだなどとぬかす者がいたら――某は、我慢などはせん」
拳を握り、那須野は想像だというのに怒りを露わにしていた。その言葉を聞き、姿を見て思うのは自分を友だと言ってくれている那須野への感謝と、自分とクヌギ――那須野にとっての仇を一緒にしていたことへの申し訳なさ。当人である彼女がこう思ってくれていたのに、なぜ自分が勝手に友達ではないのではないか、などと考えるのは自分が会いづらい、顔をあわせると相手が辛いのではと、自分が辛いのを身勝手に相手へと理由を擦り付けていただけだと、那須野の言葉に気づかされる。
もしもオレと那須野の距離を、葉一が無理矢理にでも縮めなかったらきっとオレが思っていたとおりの関係になっただろうか。でもそれは、今ではなくifの話でしかない。今向き合ってる那須野との関係はそんな殺伐とした味気無いものではなく、もっと大事な暖かいもの。那須野はそう思ってるんだから、オレがそうだと信じないでどうする。
「……ああ、ありがとな、那須野。それといきなりこんなこと聞いてわるいな」
「気にするな、某はこういった質問ならいつでも答えられるつもりだ」
臆面もなく那須野はそう答えるが、なかなかそれを恥ずかしがらずに言えるのはすごいことな気がした。だけど、誰かが友であるということ、それを当然だと思ってくれているのだから、言われたオレは嬉しいに決まっていた。きっと那須野は気づいていないようだけれど、その言葉は受け取るほうにはなかなかに重いものだ。だけど那須野や葉一……それに、天木さんのものならば全部抱えていけると、抱えていけるはずだと自分を奮い立たせる。
だが今は。
那須野の言葉を聞いた心が、これまでの重さを無くしたように軽くなり、その重かった蓋が取れたように一気に込められていた感情は上へ昇っていき、朝の比ではないほどの想いが篭った吐息となって身体の外へと抜け出ていく。
その後の歩調はどこか軽く、痛みまでも忘れたようなものになっていた。
++++++++++++++++++++
あれから先はもはやデスマーチのようだった。家にいた樫羽から「繁夫さんは18時ごろに来るみたいですよ」というメールが届き、スーパーで試食に釣られそうになっている那須野を引っ張って急ぎで買い物を済ませ、家に帰ってついでに買ってきた弁当をオレと葉一は黙々と食べ、そこから先は……まぁ、色々とあった。
13時ごろに初めれば18時までは余裕で間に合う、というのは甘い。めちゃくちゃ食う人間が一人、それには及ばないが結構な健啖家が二人いる。前者は那須野、後者は叔父さんと天木さんだ。叔父さんは歳なのによく食べるな、と思うがそれをそれを考えていてもしょうがない。
材料費は昨日の魔王の子保護でそれなりに稼いだから気にしなくていいということになっているが、それでも奮発したそれなりの値段の肉や魚を大量に買うわけにもいかない。だからこそ目をつけたのが、米だ。本日使う量を脳内シミュレーションすると1/2袋ほど一日で使う計算になる……どう考えても異常だが、実際必要なのだからどうしようもない。
で、その量を用意するとなると当然炊飯器の連続使用をするしかないのだが、いかんせん時間がかかる。その間に他の料理を作ることになるが、炊き上がったら放置せずすぐに中をすべて移し変えてまた…とやらなければいけないのでその間は他が手付かずになってしまい、ある意味一番の敵は時間となった。
そんな作業を始めて4時間以上、18時丁度に試合終了のゴングのごとく最後の炊飯が完了したというのを意味する電子音が鳴った。なお、ここから先はすべて葉一に任せている。さすがに全部の料理に手を出すことはできず、メインとなるバターライス作りは葉一が担当することになった、いや、させた。それでオレはただいま休憩をさせてもらっているところである。
「……料理とは実に恐ろしいものなのだな……」
「はい……あんなに鬼気迫った表情でのお料理なんて私もはじめて見ました……」
「オレも、初めてやったよ……ああ……天井の明かりが……遠くに見える……」
イスにもたれかかって天井を仰ぎみる。完全に疲労困憊となっているオレの状態を見てか樫羽が濡れたタオルと水をくれた。額に置いたタオルは熱を出しそうになった頭を冷やしてその冷気を身体全体に染み渡らせ、水は喉を潤して疲れをどこか和らげてくれて、気分も少しよくなってきた。
そこに葉一が本格的に調理を始めたのか、バターの溶ける匂いがこちらにまでやってきた。それでああ、やはり待つというのは楽だということを実感する。
――その時インターホンの音が鳴った。来たか、と緊張でつい喉を鳴らす。樫羽と那須野には料理の皿を並べるのを頼み、自分は玄関へ出迎えに行く。コップはリビングのテーブルに無造作に置き、タオルは洗面所に投げ入れて玄関まで走る。かけていた鍵を開けて、ついに叔父さんと対峙――
「こらぁー遠原ぁー! 酒がぁ、たりぃぃんぞぉぉー!」
叔父さんの他にずいぶん見知った酔っ払いもそこにいた。「アハハ……」と叔父さんが苦笑いで肩を貸しているのは、普段どおりの格好で怒鳴り声を上げ、顔が赤くなって目もとろーんとしている校長こと海山さんらしい。なんというか、どう見ても傍迷惑な飲んだくれが介抱されている図であり、少なくともこの姿の女性が魔術学校の長とは誰も思うまい。そういうカモフラージュならば、ある意味大成功といえるだろう。
「えっと、櫟くん。海山さん入れてもいいかい?」
「……入れなきゃしょうがないでしょう」
外に出してもその辺で寝てしまいそうだ。というか手に持ってるのは酒のボトルか。空みたいだがなぜここまで持ち歩いてきてるんだろう。まさかそれを持って徘徊でもしてたのかと、言いたいことは多いが、まぁちょうどいいか。今回は参加人数が多いほうが都合がいい。
中へと二人で運んでいき、リビングまで運んでいった。中の4人は叔父さんが来たことよりもいきなり運び込まれてきた酔っ払いのほうにギョッとしていた。
「おぉ!? なんだか美味そうな匂いがするなぁ!」
「……まさか、この人まで来るとは……」
「でも酒持ってこい酒!」
「さっきまでのが嘘のように酒臭くなったな……」
「日本酒! テキーラ! ウォッカ!」
「酔ってる姿も美人だとは思うが、言動がキツいぜこりゃ……」
というか、美味そうな匂いがするけど酒持ってこいとかアル中かこの人は。このまま酒の名前をコールされ続けてもやかましいだけなので、樫羽が呆れながらもすばやく持ってきた水を飲ませようとする。だが、酔っ払いはなんとまぁ叔父さんに抱きついてそれを拒否した。
「繁夫さんの口移しじゃないと飲まんよぉ、あたしはぁ!」
あぁ、これ相当酔ってるな。一応、この人が素の状態でも叔父さんのことを好きなのは知ってるし、さっきは一瞬肩を貸されてる姿を見て赤飯を炊くことも考慮したが、今の酔いどれ状態ではうっとうしいことこの上ない。ひとまず一番手っ取り早い方法を叔父さんにもやる気があるかどうか聞いてみる。
「……叔父さん。口移し、やる?」
「うーん……こんなことで操を奪ったら海山さんにも申し訳が立たない気がするから、ひとまずは説得してみるよ」
しかし、好かれている本人はまったく気づいてない。この二人に関しては、もしかして若い者が後押ししなければいけないことになるんじゃないだろうかという不安がある。二人とももうそんな歳じゃないだろうに。
「海山さん、とりあえず今はこの水を」
「繁夫さんの頼みならドンとこぉい!」
決断早いな口移しだけしか認めないんじゃなかったかおい、という顔を叔父さん以外の全員がしていただろう。それぐらい即決でただの水をゴキュゴキュと牛乳でも飲んでるように喉を鳴らして飲んでいた。ご丁寧に最後には「プハァッ!」と豪快な声までつけていた。
「あー、なんか眠くなってきた。とりあえず、ソファ、借りるよ……」
水の一杯でなんとか酔いが少し醒めて寝る気になったみたいだ。またも手際のよい樫羽が毛布を持ってきて海山さんにかける。横になって即座に静かになるあたり、騒がしい台風のようなものだと感じた。瞬間風速的にはこっちのほうが迷惑度合いが高い気がするが。
とにかく、これで完全にタイミングを逃してしまったことになる。叔父さんは初めて見た天木さんの方に視線を向ける。それに気づいた天木さんは立ち上がって慌しくお辞儀をした。
「は、はじめまして! 遠原さんにお世話になってます、天木鹿枝と申します!」
「……はじめまして。櫟くんの叔父の遠原繁夫です」
緊張してる様子の天木さんを、ジーッと見定めるように鋭い視線を叔父さんはぶつける。これはどうも、完全に二人だけの見えない世界だ。そこに割り込むタイミングを逸してしまい、今このときは天木さんだけが叔父さんと向かい合っている状況。
まずは叔父さんが、確認するような一言で牽制する。
「……きみはこの辺りの土地の人じゃないね? 天木、なんて名字はたしかこの近辺にはなかったはずだ」
いきなり厳しい質問だ。天木さんは少し躊躇うも、それに答える。
「私は確かにこの辺りの人ではありません。私は知らなかったんですが、どうもこっちでは異世界人なんて扱いらしいです」
それを聞いて叔父さんは口元に手を当てて考え始める。「また……?」などと小さい声が時折聞こえるがそれは思考の断片でしかないようでどういう考えをしているのかはわからない。叔父さんはもっと材料を欲しがったか、次の質問をぶつける。
「異世界人だというのなら、どうやってこっちに来たか、それは説明できるかい?」
「……いえ、気づいたらこっちにいたようなもので……」
これは天木さんもどう説明すればいいのかわからないようで、言葉を濁す。叔父さんは表情が少し険しくなりつつもまだ確信は持てていないようだ。
三つ目の質問が、飛んだ。
「なぜきみは、櫟くんの家にいるんだい?」
単純ながら突き放したような、そんな厳しい言葉。それは叔父さんがオレたちを本当に思っているからで、守りたいという意思が、相手を必要以上に見極めなければいけないというように焦っているからだろう。だから、異邦人である天木さんを信用に足るかどうかを見極めることに全力を注いでいるのだと思う。だけどいくらなんでも刺々しすぎやしないかと、その時ばかりは叔父さんに向かってそう吠えたくなった。
だけど、この冷たい言葉に天木さんは少し驚いたようだが、迷うことなく毅然として答えた。
「私が助けてほしいと、遠原さんに頼ったからです。そして私を助けられるのは――遠原さんだけ、だからです」
天木さんを助けるということはつまり、天木さんを追う男を天木さんの下から遠ざけることでも確かに成立していた。だけど今の彼女の目的は、もうそんなものではなくなっている。今の天木さんが求めているのは、男との昔の友達という関係をその手で取り戻すこと。天木さんを安全にすることではない。
だからそれを手伝うのだと、オレは天木さんと話し合った。天木さんに力を貸すことを決めた。それは他人に任せることできるほど、軽い問題じゃない。
天木さんはそこまでは語らなくとも、断言した――
――オレにしかできないと(・・・・・・・・・・)。
「……櫟くん、正直に言ってくれ。それは間違いないんだね?」
だったらオレは助けを願った女の子を裏切るような言葉も、これまで助けてくれた親類を騙す言葉も必要ない。
「そうだよ。天木さんはオレに助けを願った。それを解決できるようにするのは、オレがやらなきゃいけない事なんだ」
――ただの正直な自分の気持ちを、目の前で突きつけて納得させるだけだ。強い決意ではないのかもしれないけど、その言葉は四日前から、天木さんのお願いを聞いたときからあった想いのありのままだ。これを否定されるのなら、打つ手なんてものは最初からどこにもなかったのだと思う。
叔父さんが目元に手を当てて、最初に出したのは――ため息だった。
「……まったく、櫟くんは本当に頼られるとだだ甘なんだから……」
「しょうがないっスよ。櫟は一人じゃただただ責任感じて潰れるタイプですし、人の頼み一つ断るのも難しいんじゃないっすか?」
葉一が叔父さんの言葉に乗っかって、勝手にオレの評価を述べていた。しかもなんだか随分なことばかりだ。これには少しイラッときたので後ろに回ってアームロックをかけてやろうとするが、それを察知したか後ろにすばやく下がる。追いかけるのも面倒なので、技をかけるのは諦めた。
そんなオレと葉一の様子を見てか、叔父さんは苦笑する。
「神田くんの言っていることも合ってると思うけどねぇ。とりあえず天木さん、でいいのかな?」
「は、はい!」
叔父さんも聞き捨てならない言葉を言っていたが、天木さんとの会話に割り込むわけにも行かないので静観するだけに留める。その目は鋭さを失い普段のどこかぼんやりとした感じで柔和な雰囲気をいつものように漂わせていた。天木さんもそれのおかげかさっきより表情が柔らかくなっている気がする。
「僕はあまりこっちに来るわけでもないし、櫟くんもちょっとダメなところはあるけど、どうかよろしく頼むよ」
「こ、こちらこそよろしくお願いします、遠原さ……えっと、遠原さんの叔父さま!」
それはちょっと長いんじゃないか? とその場の全員がつっこんで天木さんが顔を赤くしてうつむくのを見て、全員の顔に笑顔がこぼれる。ああ、これで今の心配事はなくなったんだとみなが思っているはずだ。だから、ここから始めるのはちょうどいい。
「葉一。準備はもうできてるよな?」
「ああ。それじゃあこれから正式に鹿枝ちゃんの歓迎会を始めようぜ!」
全員が右手にグラスを持って構える。叔父さんには家に置いてある焼酎の入ったグラスを持たせて、後は全部ジュースだ。さすがに警察の目の前で飲酒行為はできないし、するつもりも無い。
「ほら櫟。お前が乾杯の音頭取れよ」
葉一がこっちを見てせかし、他のみんなもオレを見てうなずいた。普段ならやりたくない、と言いたいところだが、今日は別だ。
「それじゃあ……天木さんがここにいて問題なくなったことを祝って!」
――乾杯!!
++++++++++++++++++++
高らかに祝福する、いうなれば福音のようなガラスのぶつかる音が鳴り、そしてそれが騒がしい食事――もはや今となっては宴会と呼べるものの始まりとなった。
最初のうちはまだ談笑したりしつつも食べ進めることがメインになっていた。だが、葉一のバカが天木さんにナンパを始めたあたりからどこかおかしくなっていったのだと思う。天木さんがどうにも葉一にきつく言い返せないからか那須野と樫羽が二人で肉体的指導に走り、那須野の食事スピードに感化されてしまった叔父さんがそれを真似た結果グロッキー状態で突っ伏してしまったり、いつのまにか目が覚めていた海山さんがなぜか葉一に対して顔を赤くしながら「やってしまったぁぁ!」と叫びながらキャメルクラッチを極めてたり、天木さんが朝の事は忘れてほしい、と隠れてオレに言ってきたのを耳ざとく聞いていた処刑部隊二名が天木さんからそれを無理矢理聞きだして……次の標的がオレになったり。
とにかくそんな、男連中が死屍累々としているような状況が後のほうにはあったがそろそろお開きにするか、ということで全員で残ってるものを完食し、さらになんとも律儀なことに皿洗いのほうはオレ抜きでやってくれると言っていた。
なのでオレはリビングにいても手持ちぶさたで、邪魔になっても悪いので廊下で壁に寄りかかって休んでいるところだった。
「……あいつら、手加減無しでやってきやがったからかところどころ力が入らないな……」
節々に残る痺れるような痛み。幸か不幸か腹部には何もされていないのはいいことだったが、それでも朝から動きっぱなしだったからか、これ以上はあまり動きたくないのが本音だ。
リビングの中の様子は扉の中央にあるガラスから分かるが、声は聞こえない。この静寂の中で思い浮かべるのは、食事会を始める前に天木さんが言ってくれた言葉だった。
「……助けられるのは、オレだけ、か」
こうして何にも思考を遮られない無音の空間の中にいると、その言葉はオレにとって最も重いものとなって頭に入り込んでくる。だから思う。今のままで本当に彼女を助けることはできるのかと、自分を疑ってしまう。
そして考えついた。今できることは何かを。オレが知っているのは天木さんの話に出てきた内容だけで、それ以外のことは何も知らない。なにしろまだ彼女に語られたのは彼女から見てどういう人物であるか、というそれだけに過ぎない、名前も知らないような人物なのだ。だったら、確証はなくても情報が手に入るかもしれないのならやって損はない。
「……決定条件は『天木鹿枝と関係ある者』」
ぽつりと、必要はなかったがつい呟く。何かで繋がった頭の中に流れ込んで出てきた人物は、たった一人。体格や顔つきはオレと似ているようだが、はたしてどこまでが自分と似たような者なのか。それもこれからの初体験で分かるのだろうか。
そう、これは初めて行う行為。決してこれまで必要としてこなかったが、今この時役立てなければもはやきっと役立たないであろう能力。
「さぁて……せめてこいつが有益な情報を持ってるように祈っておきますか」
写すのは、知識。こっちに流れてくるはずのそれを受け入れる準備はできたと、オレとそいつを繋げるなにかに宣言する。
そして始まったそれは、今までとまったく違うような感覚だった。これまでは直接的な力が身体にそのまま入り込んでくるようだったが、今度は脳に直接、記憶や思念のようなものが混濁した毒々しい青や黄色、果てはピンクのやたら濃い色合いのものが流れ込んでくるようなのを視覚で感じている。その波に呑まれそうになった時に本能でわかった――押し流されたら、その時点で自分は終わりだと。
踏みとどまれと、根性でその景色に真っ向から向き合って耐えているとやがて不規則に混ざりきった気分の悪い景色が、青い色合いの落ち着いた景色となってきた。
――ここからが本番か。自分はきっと入り込んでくるであろう知識に身構えて、それを待つ。何が来るかという予想は意味を持たないということは既に理解している。
青の壁に覆われた世界に光が入り込み、それが視界を支配した。