つまり、そういう人
さて、我らが深根魔術高校には小生意気なことながら部室棟というもの以外にも第二体育棟というものが存在している。いわゆる柔道や剣道などの室内系の運動部が中にあるのだが、ここ数十年でまったくもって新しい部が生まれて、そこもこの第二体育棟に部室を持っている。
部の名称は「武道部」。中身はわかりやすくシンプルに、武の精神をもって相手を超える喜びを知ること――さらに噛み砕けば、最低限の共通ルールで試合をして各々磨いてきた武術を競うことだ。乱暴すぎる、と思うかもしれないがあくまで戦い方や武器の選択の幅が広がった剣道と思ってくれればいい。
規定の時間は十分。軽めの木でできた剣や槍、あるいは素手での参加も認められる。ある意味では異種格闘技戦に近いものなのかもしれないがそれはまぁいい。要は那須野はそこの部員だということだ。たぶんまだ校内にいるというならばここだろう。
その第二体育棟の中に入り「武道部」と書かれている部屋を見つける。鍵は開いているみたいなので中に入らせてもらう。普段から身体を動かす人間が入ってくることを想定してか扉は普通のそれより多少重いが、力を込めればすぐに開いた。
「オォォォォォォッ!」
開けた瞬間、中からは猛るような那須野の声。扉を開けるまで聞こえないとはどうやら防音設備は立派なもののようだ。こういった部活の部屋には付き物の溜まりきったような汗の臭いは確かにあるが、少なくともそれは横においてある、置きっぱなしらしい男どもの荷物からだろう。電気はついていないためか薄暗い。だが武道場は天窓から月の光が入ってきているのか、まだ全体を見て取ることができた。
その中心で、那須野は左右に長さの違う棒を持って動き回っていた。動きやすいようにウェットスーツのような全身を覆う服の肩や腰などの部位に防具やプロテクターのようなものがついている。だが、頭を覆う面のようなものだけが無い。だが、それがあったなら、オレは多分気づけなかっただろう。那須野の凛として真剣な、その表情に。
槍さばきは相変わらずのブレが見えないまっすぐとしたものだ。だが、そこに彼女の縦横へ素早く自由な自由な動きが合わさることで、一つの演舞のようなものとなっている。更にいえばポニーテールの動きも那須野の意思通りのように見えて、槍の舞を邪魔せずに独立したもう一つの舞のようだ。そしてその演舞を引き立てるのは月光。その初めて見るような動きに見惚れて――オレは右手に握っていたそれを落としてしまった。
パサッと頼りない音が夜の武道場に響く。それで那須野はこちらに気づいたようで、こちらを見ると演舞をやめて近くにあったタオルで汗を拭きながら近づいてきた。邪魔をしてしまったようなことに対して罪悪感と最後まで見れなかった口惜しさが浮かぶ。
「どうしたんだ遠原。たしかお前は今日は昼に帰ったんじゃなかったか?」
「いや。いろいろあってもう一度学校に来たんだが……おまえ、もう20時近いぞ? いままでずっとここにいたのかよ」
20時!? と那須野は時計を見る。どうやら気づかないままにやっていたらしい。となるとおそらく、夕食もまだだろう。今手から落ちたコンビニのビニール袋からおにぎり(鮭)を二つとペットボトルの緑茶を一本取り出して、時間に慌てている那須野に渡した。
「まぁ、とりあえず腹になんか入れろよ。動きっぱなしだったんだろ?」
「い、いや、某はすぐ家に帰ればなんとか」
それを聞き逃すことはなかった。小さく聞こえた、腹の虫が鳴る音。目の前でお腹に手を当てている那須野を見れば、誰のものかもすぐに察しがつく。そりゃ何時間も動いてりゃ空腹にもなるわ。素直に認めればいいというのに、まったく。
「ほら、腹減ってるんじゃないか。いいから早く食べろよ」
おにぎりとお茶を持った那須野に早く食べるように促す。だがその時、自分の身にも異変が起きた。
――それは聞き逃されることはなかった。大きく響いた、腹の虫ががなる音。目の前で動きを止めたオレを見れば、誰のものかも察せられる。そりゃ昼以降に何も食わなかったら空腹になるわ。さっさと何か食べてればよかったというのに、まったく。
「……お前も空腹なんじゃないか。まったく、遠原は……」
やれやれといった呆れ顔でこちらにおにぎりの片方を渡してくる。だがこちらにもかっこつけて渡したという意地があるのだ。それを受け取るわけにはいかないというか受け取ると自分が情けなさすぎる。きっと寝るまで覚えていたら枕を涙に濡らすことになるだろう。
「いや、これは那須野に買ってきたんだから那須野が食べろよ」
押し返そう。そう思って、そうしようとしたはずなんだ。
パシッ。オレの手はそのおにぎりを掴んで……腕が元の位置に戻った。空腹に逆らえるような堅い意志はどうもオレにはなかったということか。その事実に失望しかけてると、那須野は笑いかけてきた。
「お前、言ってることとやってることが逆じゃないか」
「……お前の意思を尊重しただけであって、オレが欲しかったわけじゃないからな」
それが強がりであることがわかっているのか、那須野はまだ笑うのをやめない。だが、そんなことよりも彼女はおにぎりを食べるほうが優先のようだ。包装を手早く解くとそれに一気に齧りつく。軽やかな音を立てて切れる海苔はその内側に閉じ込めた米の味を最大限に活かさせるものだ。その味がどれだけいいかはほっこりとした笑顔の那須野が示していた。空腹であったからか、それは止まらない。二口目、三口目。その勢いで完食まであと少しのところまでいったが急ぎすぎたか、喉に詰まったようだ。背を叩こうかと思ったが、彼女は大丈夫だというように手を出し、お茶の蓋を開けて口に流し込む。口からようやくそれを離したところでプハッ、とその中に閉じ込められていた息を吐き出して、手に残っていた最後の一口を食べきった。
「大丈夫か、那須野?」
「ああ。久しぶりにいい気分で食事ができた。量は流石にまだ足りんが、今は家まで帰れるぐらいもてばいい。それより遠原も早く食べたらどうだ?」
それもそうかと、自分の手にあるおにぎりの包装を解く。鼻に入り込むような磯の匂いはあまり無い。が、よく訓練された日本人なら海苔に包まれた米というだけで食欲が湧いてくるのだ。横の少女の食いっぷりに感化されてか、オレもそれを一気に齧る。
パリッと音を立てた海苔と表面に薄く油が塗られた米によって、本来主役足り得ない海苔は主役を張れる力のある米を引き立てながら二人目の影の主役となる。また米の中に入っている鮭はその身に染みとおった塩気を噛み締めるたびに口内に広げ、海苔によって持てる力を最大限に引き出しているにも関わらずさらにおにぎりの力を増す。この調和の前に、空腹状態の人間は無力に等しい。那須野のように一気に食べ進め、最後の一口を飲み込もうとしたが、息が苦しい。米が喉に詰まったか? だがそれは逆に、最後の一味を最高のものにすることができるのだ。
那須野からお茶を受け取りそれを飲む。爽やかな苦みを持った液体が、まだ口の中にある味の残滓を吸い込み詰まった米を流し込む。
このとき生まれるえもいわれぬ満足感。それが個人的には最高なものだった。口からペットボトルを離して蓋をする。一息つくことができたところで、那須野に質問をする。
「那須野。お前、いつもこんな時間までやってるのか?」
「いつもじゃない。ただ、時間を忘れることはたまにある」
それだけ、打ち込んでるってことか。これが青春によくある部活への情熱を燃やす学生のようなものだったらどんなによかったか。彼女の鍛錬はすべて仇を討つためのものなのだということが深く自分にのしかかってくる。
――自分じゃない。だけど自分はそいつと同一の存在とされ繋がることができる。頭で繋がる別世界の自分は、どこか心の中にいるもう一人の自分であるという風に感じてしまう。だから、贖罪になるのならなんでもしてやりたい。罪滅ぼしにはならずとも、責任だけは感じるのだから。
「そういえば遠原。今日はまだお前と戦っていなかったし今からでも」
「悪い、それは無理だ。ちょっと怪我して、今はあまり身体を動かせないんだよ」
海山さんの魔術によって腹部にあった表面的な傷口は消えているが、貫かれた体内が完全に治るにはまだ何日も時間がかかる。なので激しい動きをするようなことはしばらくできない状態だ。そうなると那須野の訓練の相手もしばらくできなくなるということを説明する。那須野は一応オレの事情は知っているので、隠れて怪我をしたことを樫羽に話したりすることもないから心配することはない。
残念だ、と那須野は苦笑いをしていた。自分としても、こればかりは責任を持ってやり遂げたいことの一つだからここで少し足踏みをしてしまうことになるのは悔しいところだ。
「怪我が早く治ることを祈る。それまでは某一人でなんとかやっていこう」
「悪いな。葉一に頼めればよかったんだが、さすがにあいつもいきなり那須野の動きについていくなんてことはできないだろうし」
「そうでもないぞ。あいつも某の動きは何度か見ていて慣れてきたといっていた。どうしても治らない内に誰かと成果を試したくなったら、ここの部員か神田とやってもいいかもしれんな」
「ま、怪我させない程度にしろよ。とりあえずそろそろ帰ったほうがいいんじゃないか? 葉一にはオレから連絡しとくから」
あまり話し込んで拘束してしまうのも悪いだろう。ひとまず那須野は制服に着替えると言って立ち上がり、その際目に入った全身を覆う道着越しにすら主張の激しい胸部に目と意識が奪われかけるが、ポケットの中の携帯を掴む手に力を込めてそれを振り払う。
「ん、そういえばさっきのお茶は『間接キス』というやつになるのか」
ふと那須野がそんなことを言った。さっきのお茶って、お握りの時のやつか。自分も今になってようやく気づいた。だが不思議とそれに気恥ずかしさのようなものはなく、ストン――と胸の中にすっぽりと抵抗無く入るような印象しかない。
「ああ、そういえばそうだな。けど、そんなに気にすることでもないだろ」
「……そうだな。遠原相手だと、どうでもいいことにすぎないか」
そう言った那須野が更衣室まで行ったことを確認したあとで携帯を開く。男として見られていないのかねと、ちょっと気にはしたがそんな間柄でもないとすぐに自分で否定して、アドレス帳から「葉一」を選択してコール。待たされるようなことも無く、すぐに葉一は電話に出た。
『どうしたよ、櫟。今は何もやってなかったから別にいいけど』
「ちょっと野暮用で学校の第二体育棟に今いるんだが、那須野と会ってな。ついでに途中まで送っていこうと思うんだが、お前、オレの家の近くまで来れないか?」
『ん、わかった。しかし夜とはいっても那須野に襲い掛かるようなヤバイのが寄ってくるかね?』
「ま、その辺はとりあえずやっとくべきだろ。それにお前の言うようなヤバいのは案外近くにいるかもしれんしな」
『俺はヤバかねぇよ! ったく……んじゃ、俺は先に出るから、早く来いよ』
ボタンを押して通話を切る。さて、こっちも那須野の準備が終わったら早く行くとするか。葉一を待たせるのはいいが、那須野や家に帰っているだろう樫羽たちを待たせるわけにもいかない。
「……そういえば、武道部の試合って見たことないな」
ただ待つのもなんなので部屋の中を見渡していると、そんなことを思う。去年から那須野は武道部に入っておりなんと一年で大会のメンバーに選ばれていた、というのは葉一から聞かされた話だ。葉一は確か大会を見に行ってたというのも聞いている。昔は聞き流していたが、今となっては惜しいことをしたのかもしれない。
先ほどの舞うような動きを見ていると、那須野は大会に出る猛者達とどんな戦いをするのか。それをその場で見たくなってきてしまった。去年は行かなかったが、今年はちょっと行って、応援してみるか。
そんな考えをしていると重い扉の開く音が聞こえ、制服になった那須野がもう一度入ってきた。やはりその姿を見るに疲れはあまり無いようだ。
「着替え終わったぞ、行こう遠原。鍵は某が閉める」
「任せた」
部室から外へ出る。その時にチラッともう一度部屋の中を見た。多分近い内にまた来ることになるだろうなという思いを抱きつつ、目の前でその扉は閉ざされた。
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深根魔術高校から我が家までは、普通は徒歩で30分近くかかる。そして葉一の家まではさらに10分ほど時間が追加される。家の前まではいいが、そこから先までついていくのは那須野から見て不自然だし、そこから先へ着いていくのはあまりいい顔もされないだろう。こいつは自分の危険をあまり気にしないのが玉に瑕だ。
電灯や家の明かりに照らされたアスファルトの道を横に並んで歩く。相変わらず那須野はハルバードを持ち歩いているようで片手に鞄を持ち、肩に竹刀を入れたバッグを担ぐようにしてハルバードのくるまれた布を持つ。なお、銃刀法はこんな世界になった今、むしろ邪魔なものとして扱われているためかあまり咎められることはないようだ。人の集まるような繁華街等にはさすがに持って行けないけど。
そんな風に、横に(一応)美少女を連れての帰り道と書くと人生がいい方向に進んでいる人間に見えるが、あいにく自分の意識は別のことに向かっていた。
(明日、叔父さんが来たときはどうしようか……)
これだ。今の問題はこれに尽きる。那須野との会話も少ないが、これ対策が未だに浮かばないほうが問題だ。下手なことをすれば警察という組織の一員たる叔父さんも天木さんを無理矢理にでも保護しようとするだろう。あくまで天木さんの世界に帰しそちらの警察に任せる、という方法でだ。だがそれは一番危険だろうと思う。
だが、意地を張ってしまってるだけでは叔父さんは納得させられない。となると、どうにかして事情を話すのがいいのだろうが……天木さんが許してくれるかどうかだ。
叔父さんの人柄に期待して、ある程度ボカしてもいいのだがそれの具合も間違えると結局怪しまれてしまうし……。
「遠原、ずいぶん神妙な顔をしているがなにかあったのか?」
横でどうも険しい顔をしていたのが気になったのか、那須野がなにごとか聞いてきた。そういえば、こいつは叔父さんと違ってもう天木さんには会ってるんだったな。確か昨日の朝にチラッと程度だが、よほどの馬鹿じゃなければ覚えているはずだ。
「那須野、お前昨日の朝の組み手のときに家から出てきた女の子、覚えてるか?」
「ああ、覚えているが……もしやあの女子に関する問題か?」
「そんなところだ。明日叔父さんが家に来るんだが……」
那須野にも道すがら、明日叔父さんが家に来るがどうにかして天木さんを家に住まわせ続けることを許可させるためにどうするかを考えていることを説明した。天木さんの事情等、深いところは説明していないが那須野は基本的にオレを疑うことはあまりしない。オレが葉一と組んだりした時以外に限るが、今回もオレ側につくつもりのようだ。
「天木殿、か。しかし彼女にも頼られているとは、遠原はわりとモテるのだな」
「何言ってるんだよ。お前にこうして付き合ってるのはどうもオレ……と似たようなやつがやっちまったみたいだからだし、天木さんを手伝うのもあの子を助けたいと思ったからだ。モテるなんて話にしちゃ二人にも失礼だろ」
「それもそうだな。某も、遠原をそういった対象で見た覚えはない」
ひどい振られ方だと、ひとしきり二人で笑いあったところで自分の家の前についたらしい。さて、那須野はこのあたりで葉一と合流するはず――
「よう、櫟」
門扉の内側から私服姿の葉一が出てきた。近くとしか言ってなかったが、たしかにここなら確実に合流できるし葉一も考えたもんだ、などと感心してると葉一が近づいてくる。片手を軽く上げて挨拶を返す。
「こんばんわ、葉一。それじゃあオレは」
「ああ待て櫟。ちょっと、ちょっとでいいから」
もう用事は済んだはずなのに、葉一は帰ろうとしない。オレに用があるみたいだが、このところ何かあっただろうか。ふと視線を下ろすと、葉一は拳をわなわなと震わせている。そしてこちらを睨みつけて、こう言った。
「てめえ……なに樫羽ちゃん以外に美少女を家に泊めてんだゴルァァァ!」
その言葉は、持っている感情が羨望であることを感じさせるように拳とともに襲いかかってきた。それを見たオレと那須野はきっと同じような目をしていただろう。とても哀れなものを見る、生暖かい目を。
「とりあえず家の中で話そう。道端で立ち話にするには長いし、本人が居た方が都合もいいから」
ひとまず那須野には葉一の暴挙を止めてもらった。あのまま暴れてたらその内魔術を使い出しそうな勢いだったから助かったが、どうも納得がいくまで帰る気はないようなのでこの際葉一も巻き込むことにした。便利な存在ではあるからまぁ、適当に使っておけばいいだろう。
「……しかしなんで天木さんのことを葉一が? たしか紹介とかしてないよな?」
それを聞くとまだどうにも収まらない部分があるのか「ふっ、ふっふふっふっ」と壊れたカセットテープが繰り返すようにリズム感皆無な笑い声を上げて語りだした。何をそこまでショッキングな出来事に遭遇したふうなのか……正直きもちわるい。
「お前の家の前でな、こう、立ち尽くして待ってたら中から知らない女の子が出てきて「そこにずっと立ってると風邪を引きますよ」って温かいお茶を出してくれてな……面食らってその時はあぁだのうぅだのとしか反応できなかったが、カップを返して、家の中に戻ってもらった時はお前への嫉……怒りしかなかったね、もう」
なるほど、天木さんはやはり優しすぎるということか。で、目の前の男はそれを気にせずにオレの家にきれいな女の子がいたというその妬ましさをぶつけようとしたと。今度から天木さんには葉一に対してまともな接客とかしなくて大丈夫だと言っておこう。なお横にいる那須野は神田家で一年近く一緒に住んでいるからか、いつもと変わらないという平然とした態度だ。
「神田……やはりおぬし、阿呆ではないか?」
「う、と、とりあえず中入ろうぜ。なんか事情が入り組んでるってことなんだろ」
「それはいいんだが家主放って勝手に進めんな」
しかし時間的にはちょっと遅くなったな。昨日みたいに下準備をしたわけじゃないからなにか作って食べていてくれるとありがたいけど、冷蔵庫の中の食材は何があったかちょっと思い返す。
後ろに客を二人引き連れて玄関を開け、家の中に入る。廊下には誰もいなかったが、ドアが開いた音を聞いたからか、奥のリビングからまずは樫羽がやってきた。その表情を見るかぎり別段怒ったりしてるわけではないようだ。
しかし、なにか違和感がある。普段から見ている樫羽の顔で、劇的に背が伸びたりしたわけでもないのになんだろうか。髪形も変わっていない。たしかに怒ってるわけでもないが、口元がどことなく緩んでいる。そこだろうか。いや、もっと別の何かが引っかかっているのを感じるが……。
「に、兄さん、お帰りなさい」
「ん、ただいま」
なぜそこでどもる。ひょっとしてなにかまずい時に帰ってきたか? 後ろの二人も顔を出し、樫羽は軽い会釈をする。そういえば、今日はあまり見たことない服を着てるな。白と黒のTシャツと腰の辺りから足首の近くまでを覆う黒いロング丈のレース付きスカート。違和感があったのは普段がジーンズ主体の樫羽には珍しくスカートを着用していたからか。
「スカートなんて珍しいな、樫羽。今日行ったところで買ってきたのか?」
「え、ええ、はい。そう、ですよ?」
なぜ目を逸らす。別にまずいことを聞いたわけでもなかろうに。服の値段が予想外のレベルで高かったりしたらその限りではないだろうが、どっちを見てもそこまで高いものではなさそうだしそれはないだろう。
後ろの葉一は樫羽を見てか、感嘆のような声をあげていた。
「おお、やっぱり何着てもかわいいなぁ樫羽ちゃん。に」
そこから先の葉一の言葉はなぜかモゴモゴと行き場の無くなった息のように、たしかな形にならずにこもった。よくわからんが、那須野が口でも塞いだのだろうか。理由もまったく浮かばない。それについてはあとで聞いてみるとして、まずは居間まで行くことにした。靴を脱いで、埃もまだ無い廊下を進む途中で樫羽を見やる。
「……兄、さん。その」
さっきまで緩んでいたはずの口元は口角が下がり、目元も弱々しく潤んだような表情でこちらを見ていた。その顔を見ているとどことなく、雨に打たれている弱った子犬がこちらを見ているような姿が重なる。だからか、昨日も言われたにもかかわらず、つい無条件にその頭へと手を置いて前後する。相変わらず、撫でていると落ち着いてくる頭だ。
「ちょ、ちょっと、兄さ――」
「そんな顔するなよ樫羽。新しい服着てるんだから、もうちょっと嬉しそうにしろ。似合ってるんだしさ」
「に、似合ってますか!? 本当に!?」
ひときわ大きくなった樫羽の声に一瞬驚く。が、その顔がついさっきまでと比べてもいくらか晴れやかになっているのを見ると、突然のことにのけぞるよりも先にこちらの口元が緩んでくる。
「ああ、似合ってるぞ。本当にかわいく似合ってるから安心しろ。オレが保証する」
「……ありがとうございます、兄さん」
撫でながらその格好を褒めていると、うつむいてしまった。どうした? と聞く前にそういえば横に二人がいたことを思い出して手を離す。人前で頭を撫でられてる姿を見られるのはさすがに恥ずかしいか。二人とも知り合いな分、余計に嫌だろう。
「プハァッ! な、那須野、なんで口塞ぐんだよ!」
「……やれやれ。お前等二人はもうちょっとイロイロと学ぶべきではないかと思うのだが、とにかく奥へ行かないか? 二人にも話すことはあるのだろう?」
「ん、そうだな。樫羽、天木さんはリビングのほうにいるか?」
このまま廊下で喋ってても埒が明かない。樫羽に必要ならば天木さんを呼んできてもらおうと思ったのだが、返事がない。一昨日に続いてまた無反応状態か、と思っていると、またリビングに続くドアが開く音。今度出てきたのは、天木さんだった。彼女がなぜか一瞬怯んだような反応を見せたような気がしたが、たぶん錯覚だろう。そんな気配もなかったし、表情や行動も平然としている。服装は樫羽とは違ってシンプルにスキニージーンズとゆったりとした白黒の横縞模様のシャツだ。
「あ、遠原さん、お帰りなさい。えっと、後ろの人はたしか那珂川さんでしたね。その横の人は……そこの玄関の近くにいた?」
「さっきは自己紹介ができなかったな。俺は神田葉一。櫟の友達だよ」
「神田さん、ですか。さっきは大したこともできなくてすいません」
自分を指差して自己紹介をした葉一に対して、朗らかな笑顔を向けつつ軽い会釈を天木さんはする。大したことも、というのに葉一もいやいやこちらこそ、と返す初対面同士の通過儀礼のような行為が行われるのを眺めたあと、天木さんに話しかける。
「天木さん、一つ君のことで話し合いたいことがあるんだ。ここにいる5人全員でなんだけど……」
「……とりあえず、奥に行きましょう。何の話かもそこで聞かせてください」
天木さんは君のこと、というので自分の事情に関する話だと理解してくれたようで、顔つきが少し険しくなりつつも居間の中に戻った。横で固まってる樫羽をペシッと軽く叩く。それで気を取り戻したようで、状況を確認するためか周囲をきょろきょろと見ていた。
「――あ、あれ? 兄さん?」
「とりあえず、奥行くぞ。二人もついて来い」
とりあえず樫羽にもついてくるように言ってドアを開ける。食事は済んでいたようで流し台にはすでに洗われた食器があり、テーブルにはラップをかけられたサラダが置かれていたが、邪魔になると思ったのか天木さんがキッチンのほうへ運んでいった。あと2つの席を用意してイスに腰をかける。そして、5人全員がイスに座ったところで、まずは葉一と家にいた二人に事情を話す。葉一と樫羽はたしかにまずい事態だという顔だが、天木さんはまだ叔父さんが来るということがどういうことかよくわからないようだ。
「あの、遠原さんの叔父さまが来るのってそんなに悪い状況なんですか?」
オレを含めた4人ともが、口を揃えて言った――一番まずい、と。
「繁夫さん、仕事に忠実だしな……」
一番得意でないであろう男はどこか遠くを見ているような目をし、
「下手な言い訳では信用してもらえませんし……」
一番構われているだろう妹は困ったような表情を浮かべ、
「某のときも『年頃の女の子が神田くんぐらいの男の子が居る家に泊まるってことが、本当にわかってるのかい?』などと言われたな……」
一番縁が薄いであろう女は、思い出しただけでも呆れているような仕草をした。
「……とまぁ、こんな風にモラルには厳しい人ということで……たぶんこのまま何もしないと天木さん、どこか知らないところに連れてかれるか、自分の世界に帰らされる」
三人の姿で天木さんもなんとなくわかったようで、それ以上は叔父さんに関しては何も言わなかった。ではここから明日来る叔父さんをどうやって誤魔化す……いや、説得するかなのだが、まずは天木さんに聞いておく必要がある。
「天木さん。最悪の場合なんだけど君がこっちに来た理由を叔父さんに話すことになるかもしれないけど、天木さんは他の人に自分の事情を知られたくない?」
「……できれば、あまり知られたくはないです。でも警察だっていうなら、私は話してもいいかと思っています」
話してもいい、ね。だがこれもある意味では諸刃の剣だ。保護を考える決定打になってしまうかもしれない。彼女の安全は大切だが、非正規の方法でこっちに来た天木さんはほぼ確実に最低でも一回は向こうの世界へ送り返される。それでは安全もへったくれもない、元の世界に戻ることだけでも天木さんにとっては危ないのだ。だがそれに加えて、もう一つ理由はある。
「天木さんができる限り話したくないなら、話さないように全力を尽くすよ。それでいいだろ、葉一?」
「当然だ。わざわざ嫌な想いをさせる必要がどこにある」
葉一はオレと同じように、天木さんの心に影を落としたくないからという単純ながらも明確な理由で賛成。残りの二人もそれに続いて賛成だといっている。天木さんはその様子を見て慌てた様子で頭を下げた。
「み、みなさんありがとうございます。でもなんで、私の事を知ったばかりの神田さんや那珂川さんまで……?」
天木さんが言っていることは正論だ。二人とも深い事情は話していないのに手を貸すというのはどういうことなのか、当事者なら気になって当然だ。葉一はなんとなくわかるが、那須野はどういうことなのだろうか。
二人は薄い笑いを浮かべて、軽い口調で答えた。
「なに、知らなくてもなんとなく信用できるんだよ。櫟に頼った美少女はみんな、な」
「ああ。普段はろくな役に立たないが、まともな人間を見分ける目はあるからな。他は凡愚といってもいいのに」
葉一は相変わらずアホみたいな事を言ってるだけだからまだいいが、那須野がなんだかナチュラルに暴言を吐いていた。人を見る目はあるって褒められてるように見えたが、それ以上に欠点がいくつもあるみたいな言い方だ。そこには当然反論させてもらおう。
「おい那須野。さすがに今のはちょっと」
「兄さん、とりあえず叔父さんのことについて意見が一つあります。いいですか?」
うん、兄が暴言吐かれていても涼しい顔でいる妹はなかなかひどいと思うんだよ。なんでフォローの一つもしてくれないだろう。あれか、真実を嘘にする必要はないとかそういうことならオレも納得できる。そしてそのあとで泣く……まぁそれはいいか。
「……ああ、いいよ?」
「涙声にならないでください、脆すぎです兄さん。それで明日の叔父さんについてですが……こうして今日話しても多分無駄でしょう。ですが明日はそちらのお二人も混ざって食事会とするのはいかがでしょうか。要はパーティーです。雰囲気だけでも和らぎますし、それに天木さんの歓迎会にもなります」
「無駄、か。まぁ確かにあの人は言葉に間違いがあまりないし、付け焼刃じゃ逆に苦しくなるかもな。だがパーティーって、基本的に飯を作るのはオレなんだぞ? そこのところはわかってるか?」
間違った意見ではないのだ。雰囲気が固くなればそれだけ緊張で失敗してしまうかも知れないし、まぁ誤魔化しきれないまでも、相手を軽く抑える効果ぐらいは期待していいかもしれない。それに天木さんをちゃんともてなしてなかったのも事実だったからちょうどいい。
が、パーティーとなると結構な量の食事が必要になる。それをたった一日、しかも一人で用意しろというのは、少しきつい。横ではそんなことも知らずに那須野と葉一がその意見にノリノリだ。せめてもう少し人数がいればいいのだが……あ、そうだ。
「おい葉一、お前も明日は手伝え」
こんな時のために連れてきていたというのに、忘れるところだった。まぁ一応こいつも料理はけっこう作れるほうだし、そこまで問題はないだろう。だというのに目の前の男は騒ぎ立てる。
「んなっ、なんで俺がやるんだよ! 客にやらせんな家主がやれ!」
「都合の悪いときだけ家主扱いしやがって……というか、主賓じゃないからいいだろ。明日のメインは天木さんだ、お前も家事ができる男だって見せてやれるいい機会だぞ」
「よっしゃ、明日の朝の内に材料買ってこようぜ、櫟!」
よし、簡単な一本釣り完了。やはりノリやすいバカは扱いが楽だ。悪いけど天木さんには餌になってもらった。その天木さんもどうにか断ろうとしているようだが、残った二人相手には多勢に無勢のようだ。
「あ、あの、私は大丈夫ですから、歓迎会だなんて……」
「いえ、やったほうがいいですよ。理由はいろいろありますが……とにかく、天木さんもまずは楽しんでもらわないといけません。兄さんに助けを求めてただただ暗くなられても困りますからね」
「そうだぞ天木殿。こういった催しは開いてもらえるだけでも嬉しいのだ。某もやってもらったが……あぁ、そういえばあの時は随分と申し訳ないことをした。すまないな樫羽殿」
「……いえ、あの頃はしょうがなかったかと。とにかく天木さん。わたし達もあなたを歓迎しているんです。乗ってもらいこそすれ、拒否される謂れはありません。ぜひ楽しんでいただければと思います」
「……分かりました、はぁ」
天木さんもなにか乗り気じゃなかったようだけどそれは女子二人がどうにかしてくれたみたいで、ちゃんと参加してくれるらしい。断るのを諦めた表情が視界の端に見える。とりあえず、これで完全に明日は食事会で決定のようだ。日曜日でもあるし朝から準備に取り掛かれるだろう。
「んじゃ、明日のために英気を養っておくか。那須野、帰ろうぜ」
「うむ、楽しみにしているぞ。某の期待以上に応えてくれ」
二人がリビングのドアを開けて出て行く。そして玄関のドアが閉まった音も聞こえた。これで家にいるのは普段どおりの3人になったわけだ。
「……それじゃ、遅くなったけどオレも英気を養うために夕飯でももらおうかな」
さすがにさっきまで言わないようにしてたが空腹だ。やっぱり鮭握りひとつでは限界がある。さっきまでまじめな思考をしていた樫羽と天木さんはこの言葉で完全に脱力してしまったようで乾いた笑い声が上がる。
「兄さん……まったく、ご飯ぐらいはよそってあげますから座っててください」
「あ、じゃあ私は他をやってきますね」
二人がキッチンのほうへ向かった。その少しあとに肉の焼ける音が聞こえ、香ばしい匂いが鼻を衝く。それに反応してか数十分ぶりに鳴った腹の虫で夕食は期待できるものだということを直感し、その味を想像しながらオレは二人を待った。
久しぶりの人に任せる食事に胸が躍る。だがその思考の端では明日何を作るかを考えてるあたり、自分は作る側に一生いそうだということを思って軽く笑いが零れた。だからこそ今日は楽しんで食べよう。それはある意味前向きだが、今後は家事をすることに疑問を持たないという空しい決意の証だということからは目を背ける。そしてもう一度キッチンから流れ出てくる匂いを嗅いで、期待にだけ身を任せて目を閉じた。