雨、降り注ぐ
暗く、なにもかも飲みこまれてしまうような漆黒の夜の下。月明かりは雲に阻まれ、人の産んだ電気の光すらもそこには届かない、細い道があった。ビルとビルの間にならどこでも産まれるような、狭い路地が。
そしてその中をただひたすらに何かを求めて駆ける、闇夜には殊更映えない黒を身にまとう獣がいた。二足歩行、手の指は五本で様々な陸地に自分たちの領域を作った、頭脳を持つ者たちと同じであったその少年。しかし彼は今、人と呼ぶには獰猛に過ぎている。
「……はっ……はっ……はっ……!!」
荒い息を空気に溶かしながらただひたすら、狭き道を獣のように少年は抜ける。
片腕に薄く鋭い刃を持ち、狩りたいと望む相手はただ一人。
狩ると決めたのはただ一つ。もっとも大切な、見えない命。
少年の足音と吐息は、無機質な建物の陰に飲まれて消えていった。
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それは、6月も下旬に差しかかったころの話だった。オレは、目の前で厚めの本を片手に熱心に語る男の声を遮って呼び掛ける。
「あのさ……古賀先生」
「ん? どうした、遠原?」
遠原と呼ばれたオレと、オレが古賀と呼んだ男は単純に言えば教師と生徒の間柄だった。しかし通常授業の時間も終わってからなにゆえ二人きりで、マンツーマンで講義を受けているのかといえばなんてことはない。中間テストに失敗して補習と相成ってしまったというだけの理由だった。
教師の名前は古賀近実。クラス担任でもあり、世界史の授業も担当している。見た目が中年のオッサンなため、このみというカワイらしい名前が台無しとはもっぱらの話だ。
「先生……ちょっと語り口調なのがやけにイラつくので、黙っていてくれませんか……?」
オレは適当に数学の教科書をめくりながら古賀に、苛立ちを隠さない声でそう告げる。なぜかといえばこのおっさん、いわゆるRPGの導入部分のように「海の青、大地の緑に覆われた星、地球――」から初まり「この世界に一人の魔女が降り立ったことにより、新たな歴史の1ページは開かれる」と終わるように教科書の内容を勝手にまとめて読んでいたのだ。
それにちょっとイラッときたのだが、相手は教師なので一応敬語で言う。基本的にこの中年に対して表立って敬語を使うやつもあまりいないというかタメ口で話すやつのほうが多い。そして古賀もそれについては気にしていないようなのだが、望まぬ補習なんていう状況で相手の機嫌を損ねるのはよくないだろう。
「なんだ遠原、こっちのほうが好奇心やワクワク感が溢れてくるだろう」
「いえ、むしろツッコミたい衝動に駆られました。なんで壮大な物語の序章みたいな語りなんですか」
「いや、壮大だぞ。具体的にいうと、ここから150ページは続く」
「それは教科書の話ですよねぇ!? というかまず、俺の補習科目は数学です!」
この中年は自分の担当すら覚えてないのかと、ちょっと不安になった。数学の担当は確か青海という去年からこの学校にいる、背の小さい可憐な女性の先生なのだが、なぜこのむさいおっさん臭さ全開の教師がここにいるんだ。古賀がため息をつく。
「しょうがないだろ。青海ちゃんは急用らしいんだから」
「だからって古賀先生が来ることもないでしょうに。さっき語ってたのも世界史じゃなくて「新現代史」の内容ですし」
「いや、そりゃお前……こっちのほうが面白いし」
「仮にも自分の担当教科以外をやる理由にしては弱くないっすか、それ」
新現代史とは、平たく言えばこの世界がある大きな発見をしてからの歴史を学ぶ科目だ。
その大きな発見というのが、異世界だった。
今オレ達のいる世界と異なる別の世界の存在は、様々な機関によって確かに認められている。それも大量にだ。さらに言えば交流を始めてからの歴史もそれなりにあるので交流が始まった以降を新現代史、それ以前を日本史・世界史として扱っている。それはそれとして何でこんなめんどくさがりに見える中年教師が数学の補習にやってきたのだろうと思っていると、古賀がやれやれ、というような表情をした。
「ま、青海ちゃんはいねえけどよ。ここにいる可愛い近実ちゃんで我慢してくれや」
まるで女性アイドルのようなきゃぴきゃぴしたポーズをとって古賀はこっちを見る。それを見てオレは立ちあがった。
「――すいません先生、ちょっと気分が悪いんでトイレで吐いてきます」
吐かないと体内から腐りそうなので、とは言わないでおこう。中年には優しく。しかし教師には厳しくがモットーだ。立ち上がると古賀が手を伸ばして止めようとしてくる。
「待て、俺も行く! あんなことをするのは……やめておいたほうがよかった……すまん、遠原……」
「ほんとですよ。それで、許してくれるんなら、もう今日は帰ってもいいですかね」
窓のほうを見れば外では雨が降っている。梅雨なので当然かもしれないが、朝のニュース番組でよく当たると評判の気象予報士から「満タンのバケツをひっくり返したかのような雨」というお墨付きももらっているほどの激しい土砂降りだ。クラスメイトたちが帰っていった時にはまだ普通程度だったのだが、2時間ほど補習を続けた今はもう見栄えからして違っていた。雨が窓を叩く音がしきりに教室や廊下から響いてくるってところからしておかしいと思わされる。これ以上雨足が強くなられでもしたら、傘も保たないんじゃないかと不安で仕方無い。ついでに今の季節はすでに夏服であるがために肌寒くもなりそうだ。考えるだけで体が震えそうになってきた。
しかし古賀は頭が固いようで、外の様子を窓越しに見るだけでもそんな不安を感じるくらいは当然だろうに、無常にもオレの頼みに首を横に振る。
「いーや、ダメだ。こっちだって頼まれたからには最後までやってやらないとな……」
「えー、そりゃないでしょう。これ以上雨がひどくなったら傘があってもずぶ濡れになるかもしれないじゃないですか」
「そりゃあこっちだって、何をやればいいのかはわからんがさっさと終わらせて帰りたいと思ってるがなぁ……」
「何をやればいいのか分からないって、それじゃ何のために……」
「――あ」
いま気付いた。これ、別に長々と続ける必要はないんじゃないだろうか。担当の教師はいないし、そもそも何か課題が出されてるわけでもない……多分、青海先生が古賀に言っておくか課題を出すのを忘れたんだろう。そうなるとここにいる意味が特に無いうえに二人とも帰りたい……そのことに古賀も気づいたようで一瞬アホみたいな表情になったが、そこは自称「可愛い」近実ちゃん。この場をどうすればいいかすぐに気づいたようで、普段どおりの締まりの無い表情に戻る。
「しょうがねえから今日はもう帰れ。日を改めて青海ちゃんの都合がいい日にでもまたやれよな」
完全な棒読み、ありがとうございます。この時点でうまくごまかせるかな、という不安な気持ちは吹っ飛んだのだが、とりあえずオレもちゃんと返そう。
「え、本当ですか、ありがとうございます」
一瞬、古賀が「お前、そこはもうちょっとがんばれよ……」みたいな目を向けてきたが、あんたが言うなと言いたい。気をつけてなー、という声を背に軽い足取りで傘とかばんを手に取って、教室を出る。
雨のせいか雲のせいか、それとも長く過ぎた時間のせいか。外はすでに、暗くなってきていることを感じさせた。
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私立深根魔術高等学校。それがオレの通う学校の名前だった。今はこの魔術学校というのが各地にある。どうやら異世界発見に多大な貢献をした異世界人の魔女、ベアトリスがこの世界にやってきて始めた事の一つに、魔術の教育というものがあるらしい。異世界との接触にはどうしても機械以上に魔術の力が必要だからとか。
こう書くと由緒正しいとかそういった選ばれた人間しか入れないような、格式高い学校なのでは? と思われることも多いのだが、実際そういうわけでもない。
それと言って特別な才能も必要なく、自分のような庶民も通えるような至って普通の学校だ。制服も目立ったりするようなところや派手なところはない(とはいっても魔術学校の制服と普通の高校の制服は区別できるように違う部分もあるのだが)が、女子のそれは着る者の可愛らしさを十二分に引き出せるという評判なので、それだけのために入学を希望する女子もいるほどだ。
ちなみに、入学はせずに制服だけ買おう、という人のために制服自体は誰にでも売ってくれるらしい。なぜあるのかはわからないその制度にも利用者はいるようで、我が家にも一応それが2着ほどある……自分で着るわけではなく、家族の将来用のものだが。
そしてベアトリスがやってきてから変わった事と言えばもう一つ、街並みが少々おかしくなった。というか、コスプレみたいなのが増えた。間違えてはいけないが、異世界からの来訪者達や、自分の世界から転移してきたやつらだ。コスプレイヤーと間違えるととてつもなく怒るので要注意。どうもこの世界は様々な世界の集まりの中でも中心の方に位置するらしく、色んな世界から人が流れてくることがあるらしい。たまに秘術だのなんだので自分から来るようなのもいるなんて聞くが、それにはまぁ、会ったことはない。
時代を遡れば刀を持っていた侍が市街を歩いていた。だが今ではビル街の中、プレートアーマーを身につけ、大剣を背負う人間が現れるのも珍しくはない。同じ顔の人間は3人いる、という言葉も今となっては3人どころではなく死語になって久しい。異世界の存在が珍しいだの、新鮮だのといった気持ちも、最近では今さらという感じがする。もはや今の時代は基本的に異世界すらも当然の存在として見られているのだ。例外もあるにはあるが。
……テストもすでに終わっていると言うのに、こうして異世界とこの世界のことを考えてしまうのは、さっきまで古賀に長々と新現代史のことを聴かされていたからだろうか。
「…………はぁ」
ため息が出た。初夏だというのに雨のせいで外の空気は冷たく、独特の臭いが鼻をさす。このままだと深く沈んでいきそうな気分で帰る途中、商店街を抜けようとすると、前から場違いにも思えるような黒いリムジンが来て、横を通っていく。深い興味も無かったが、スモークを張っていなかったので中に乗っている人が視界に入った。あれは確かこの前、道のど真ん中に何も無い筈の空間からいきなり剣を持って現れて、ヒメがどうだのと叫んでいた騎士だったか。その時と同じ――しかし血の痕などの汚れが無くなった鎧を着て、車に乗っていた。
(鎧を着て車に乗っていた……となるとやっぱり、元の世界に帰るのかな……?)
丁度オレも居合わせていたあの時、このあたりで出来ていた人ごみの間から見えた先ほどの騎士の顔と剣、そして鎧にはおびただしい量の赤い血がこびりついていた。そして、何か強大なものに駆り立てられているような表情でヒメがどこにいるか、などということを大声で叫びながら聞いてきたりしたらしい。剣を握り締めて彼はここに来るまでに戦っていた。恐らくは『ヒメ』という人物を探し、あるいは救い出すために。そんな大事な戦いから一気に別世界へと飛ばされた彼の気持ちを、悔しいのだろうな、としか自分では測ることはできないでいた。
だが、今のリムジンに乗っていた彼の顔は精悍で、何かを決意したような意思が感じられた。彼はきっと自分の世界に帰って、もう一度戦いに行くのだろう。今度こそ自分が追っているものを掴み取るために。横を過ぎ去っていったリムジンを見送りながら、名前も知らないあの男が今度こそそれを完遂できるよう、心の中でわずかながら祈ることにした。覚悟を踏みにじられてなお必死だったのを目の前で見たのだし、見ず知らずの人間でも成功を祈るぐらいはしてもいいだろう。
名前も知らない騎士を見送り、強まる雨の中を更に進んでいくと、真っ赤な髪の毛の男がエプロンをつけて野菜を売っている。その髪の色と野性的な様相の男の顔つきに、買い物に来たおばちゃんは怯え気味だったが、男は紳士的にしようとして失敗しているものの、裏表はなさそうな態度にとりあえず落ち着いているようだ。
あの男も確か先ほどの騎士のように、この世界に突然やってきた人間だったはずだ。そんな彼が今もこの場にいるのは、この世界にいることをよしと思ったのだろう。帰ることも可能だが、こうしてこの地に残ることも可能だ。その場合は保護責任者が必要となるが、それはこの世界の一般市民なら誰だっていい。彼の場合は八百屋の主人だろう。歩きながら見ていると、男がおばちゃんに傘をあげている。それをもらったおばちゃんが顔を赤らめたのを見て、少しげんなりした。なんというか、こいつは多分フラグを乱立するような主人公タイプなんだろう。爆散すればいいのに。遠目に赤髪を呪いつつそんな光景を眺めて、強まる雨で重くなってきた傘を持ち直しながら先へと進んでいく。やけに体が寒く感じるのは、豪雨の影響だけではないように思えてきた。
商店街を抜け、家の近くの道へとたどり着く。帰る家はもうすぐそこだ。しかし、傘ももうほとんど意味がない状態で、先ほどから地面に跳ね返る雨粒がズボンの裾などに付いたりして足首のあたりがやけに湿っぽい。さっきの憧れさえ抱くような、理屈など無くなぜかモテる男を見かけたこともあって、軽く憂鬱だった。六月らしい精神状態といえば、合っているかもしれない。
そう思っているときだった。
不意に、道の向こうから走ってくる一人の少女が視界に入る。傘も持たずに道を走っていたその少女は、オレから10mほどの距離で不意に止まり、顔を上げた。
その瞬間、心のうちにドス黒い感情がどこからかやってきて、それが全身に伝わっていった。
急速に浮かんだ鮮明なイメージを持った頭が、彼女の存在を認識しようとする。
足が、彼女の元へと駆けていこうとする。腕が、彼女を捕まえようとする。何がどうなっているのか、それを疑問とするような思考を挟む暇もない。ただ、頭に浮かぶそれをやってはいけないと必死で黒い感情を抑えようとした。しかしどれだけ力を入れようとも、そんなことが精神に影響するはずはない。汚染するように広がっていく残虐な思想は留まる事を知らない。どうすればいいのかは、わかるはずもなかった。
だから、深く考えずに体を動かした。本能的に体が動いたとも言える。
傘を手から離して天を仰ぐ。そして、満タンのバケツを思いっきりひっくり返したような水とやらを一気に身体に浴びた。まったく考えのない行動だったが、こんなことをしたのは至極どうでもいいような理由だったのかもしれない。目を覚ます時には顔を洗うのが一番いいという、一般的な常識。寝起きには最もスッキリしやすい方法だとは思うが、こんな状況では気休め程度にしかならないだろうとは、後になって思った。こんな寒い状況だと、雨水もわりと暖かいような気がする。そんな風に考えられるようになったあたりで黒い感情は、気化するように消えた。
目を次第に閉じていく。目に直接当たっていた雨粒は瞼に当たるようになり、視界は闇一色に染まる。その中で考えるのは今の事態になった原因だ。
唐突に湧いた、明確な『殺す』という意思の発生源。
(いったいなんだったんだ……? あんなふうに憎悪する相手なんていなかったと思うが……)
頭を濡れた犬のように素早く振り、考えても仕方ないと、その思考を中断する。ついでにこれ以上は濡れたくない。濡れた服の洗濯も楽ではないのだから。制服もズボンもずぶ濡れでもはや使う意味があるのかもわからないが、無いよりはおそらくマシだろうと傘を取って、さっさと家に帰ろう。
そう考えていると目の前で、おそらく先ほど向こうから走ってきたであろう少女が息を切らしていた。どこの学校かはわからないが、制服らしきものを着ているという事は学生だろう。なぜか雨の中で傘を差していないその少女の顔を見てみると――少女は涙を浮かべていた。雨水か涙かどちらかもわからないほどに顔は濡れている。だが、嗚咽が混ざり、手で目元を拭う仕草は泣いているようにしか見えなかった。
「遠原……さん」
――オレを、知っている? 本当に誰だ? こんな子をオレは知らない。知り合いにこんな人はいただろうか、と必死に思い出そうとしても欠片も思い出せないのだ。
そうして戸惑っていると、彼女が抱きついてきた。雨の匂いにかすかに、女の子の香りらしきものが混ざって鼻をつく。
「遠原さん……お願いです。私を――助けてください……」
結局、この時彼女らしき人物を思い出すことはなかった。