ランチパーティと小人薔薇
馬車からエスコートされて降りたお嬢様は、ヒルドマン侯爵邸の庭園を見て息を呑んだ。
自力で降りた私だって驚いたわよ。
薔薇、薔薇、薔薇!
童話の女王の庭園のような──赤、白、黄の、色鮮やかな薔薇達が庭園を埋めつくしている。蔓薔薇の絡まったアーチ、野薔薇の群生……薫る薔薇の匂いは、薔薇好きのお嬢様には堪らないものだろう。
こちらの奥様も、お嬢様と同じように薔薇がお好きなのかしら……?
ティルー殿がエスコートし、お嬢様は薔薇園(といっても差し支えないだろう)の中を歩く。ドレスと相まって、まるでお嬢様はこの庭園の女主人のよう。もしくは、美しく、可憐な薔薇の精霊……。
薔薇のアーチをくぐると、そこには噴水が。ここにも薔薇が飾られていて、水面には大輪の薔薇が浮かんでいる。これ、毎日交換してるのかしら。
キョロキョロと庭園を観察する私を見て、ティルー殿はくすりと笑った。
今、笑われた……!?
頬が熱く発熱するのを感じながら、私は気付かなかったふりをし続けた。
噴水から少し逸れた所に、純白のテーブルクロスがかかった長テーブルがおいてある。もちろん、テーブルだけがポンと置いてあるわけではなく、その上にはローストビーフや鴨のパイ包み、春野菜のサラダ、サンドウィッチ……と料理が並び、果てには何人分よ、と呆れるほどの新鮮な果実。お嬢様のお好きな苺が大量にあるのは──気のせいね、きっと。
テーブルには椅子が二つ設置されていて、男性が一人座っていた。
「リクト様。ルーシャン様をお連れしましたよ」
ガタッと音を立てて彼──侯爵令息は立ち上がった。
「ようこそ伯爵令嬢殿。お出で下さって真に──」
「わたくしに触れないで、無礼者!」
すくうようにして取られた手で、お嬢様はリクト様の手を強く叩いた。真っ青になったのは私よ!
確かに、私も心の中ではお嬢様に触らないで、と思った。でも、実際の身分からしたらお嬢様の方が下なわけで。格上の相手の挨拶を拒むなど、そちらの方が無礼にあたる。
……ああ、どうかリクト様が海よりも深く広い心の持ち主でありますように!
なにがあってもお嬢様を助けられる体勢を作ると、私はリクト様の反応を待った。
「ひぃっ!」
お嬢様が悲鳴を上げた!見ると、払った手を再び取られたらしい。すばやく固まっているお嬢様の手の甲にキスすると、リクト様はティルー殿を追い払う仕草をした。
「ティルー。いつまでルーシャン殿に触れているつもりだ?」
「ふふ、思っていたよりもずいぶん可愛らしい方でしたから……。ルーシャン様、リクト様との婚約は止めて、私と婚約致しませんか?」
「ティルー!」
非難の込められたリクト様の声に、ティルー殿はサッとお嬢様から離れる。冗談じゃないわ。もし万が一、お嬢様が頷いたらどうしてくれるのよ!
ティルー殿が私の横に立ったので、私は三歩ほど移動した。
「………」
「な、何か?」
無言で見られた。嫌っていることがばれたかしら。
「いいえ、別に」
私とティルー殿が話している間に、リクト様はお嬢様を椅子までエスコートしていた。
そういえば、ここに使用人は私とティルー殿しかいない。紅茶を注いだりは、誰がするのかしら。
「ルーシャン殿、紅茶はダージリンでいいかな?」
そう言って、ティーポットに手をかけたのはリクト様だった。え?ご本人が注ぐの!?そんなこと、させられないわよ。
「わたくし、ダージリンは好みませんの。止めていただけるかしら」
紅茶全般を好むお嬢様は、そう言ってリクト様から顔を背けた。可愛らしい。けど、私としてはいつリクト様がお怒りになるのか、それが不安です。
「リクト次期侯爵様。私が紅茶を注ぎます……!」
「ルーシャン殿の侍女か?侍女の分際で口を挟むなど無礼な」
おっしゃる通り。けれど、私にとって何より大事なのはお嬢様だもの。
「あら、リドニアが入れるの?ならば飲むわ」
「……」
いかにも渋々といった風にリクト様はティーポットを私に差し出す。かなりいたたまれない雰囲気の中、私は紅茶を入れたのだった。
「……ルーシャン殿、自己紹介がまだだったな。私はヒルドマン侯爵令息──」
「リクト=ヒルドマン様。存じております。わたくしも名乗らなければいけないかしら。もうご存知かと思われますが」
横に立っていたティルー殿が小さく、「感じ悪っ」と呟いた。後で覚えておきなさい。
「名前を覚えてもらえていたとは。嬉しい限りだ」
実はいい人なのかしら。リクト様って。もしくは鈍感?お嬢様の言葉のトゲをまるで無いものみたいに扱って。
「ところで、ルーシャン殿。貴女は薔薇が好きだという情報が……」
「情報?」
「いや、噂があるらしいな。どうだろう、庭師に、庭園の花全てを薔薇に替えさせたのだが」
全てを!!噂一つで?
あのアーチとか紅薔薇とか、二日三日じゃできないわよ!?
そんなリクト様の(庭師の?)苦労を、お嬢様は鼻で笑った。
「薔薇は世界で二番目に嫌いです。この甘ったるい匂いも、何もかもが大嫌い」
リクト様は貼付けたような笑顔のままティルー殿を呼び付けた。
「はい?何でしょう」
「庭師はクビだ」
「伝えておきます」
「ちょ、ちょっと待って!」
自分の嘘の影響が庭師の人生にまで及んでいることに気付き、お嬢様は慌ててリクト様を止める。
ヒルドマンの庭師にまで同情するなんて、なんて慈悲深いお方かしら。
「薔薇は世界で二番目に嫌いですが──この栽培技術は素晴らしいと思いますわ。ええ、あの小人薔薇など、他人の庭園で拝見したのは初めてです。そんな才能のある人物を解雇するなど、愚か以外の何物でもありませんわ」
小さな、野薔薇よりも小さな薔薇を指差してお嬢様は興奮したように言い募る。そんなマニアックな品種まで知っているのに薔薇が嫌いって……とリクト様が思われないといいのだけれど。
「ルーシャン殿はお優しい方だな……。ちなみに、薔薇は世界で二番目に嫌いだとおっしゃっていたが──一番嫌いなものを教えていただいても構わないだろうか?」
何かしら、お嬢様が世界で一番嫌いなものって。
お嬢様は花も恥じらう、とてつもなく可憐で優雅な笑みを浮かべ、おっしゃられた。
「ヒルドマン侯爵家ですわ」
しーん、と、何とも表現しづらい沈黙が辺りを包み込んだ。
それからは当たり障りのない話題が続き、お嬢様は一定の笑みを保ったまま相槌を打たれていた。料理は不敬にならないギリギリの量しか口を付けなかった。
「リクト様、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「何です?出来うるかぎり答えましょう」
「何故──わたくしを婚約者に?正直なところ、賢しい選択とは思えませんわ」
私も、一番聞きたかったことだわ。むしろこれを聞くためにここにやって来たて言っても過言ではない。
リクト様は真面目な表情になって、お嬢様の方に手を伸ばした。長い指はお嬢様の顔のサイドに垂らされている髪をとる。お嬢様は嫌そうにしながらも黙認されていた。しかし、リクト様がその髪に口づけるとサッと身を引かれた。
「貴女に恋をしたからだ。──レディ・ルーシャン」
「こ……!?」
お嬢様、絶句。これまでの人生の中で、一番驚かれていらっしゃるんじゃないかしら。私だって驚いたわよ。
真っ青になった顔はじょじょに赤くなっていく。あ、言っておくけど、照れてるのとは違うわよ。怒りで赤くなってるの。
「馬鹿にしないで!失礼するわ!!」
「もう?来たばかりじゃないか」
帰るには早い時間だけど、来たばかりと言うほどじゃないと思う。
私とリクト様の間には時差でもあるのかしら。「楽しくて時間を忘れていました」を素でやっているのかもしれないわね。
「……仕方ない。ティルー、ルーシャン殿をお送りして」
「かしこまりました」
ティルー殿は白々しく頭を下げて、お嬢様に手を差し出す。お嬢様はそれに見向きもせずに私の手を取った。
「リドニアがエスコートして!」
「……はい。お嬢様」
私はお嬢様の楯にでもなったつもりでリクト様とティルー殿を睨みつけると、ヒルドマン侯爵家の馬車に乗り込んだ。今回はティルー殿が御者役をしてくれるらしい。最悪、私が御者をしようと思っていたから安堵した。今、お嬢様を一人にするのは不安だったから。
「リドニア、リドニア……」
「お嬢様……」
「あたし、ヒルドマン家に嫁ぐなんて嫌……」
それは、お嬢様の初めての本音だった。飾り気のない、ダイレクトな言葉。
それを聞いたところで何ができるということはないけれど。
それでも、本心を包み隠さずに吐露することでお嬢様の心が少しでも軽くなるのなら。
しばらく抱き合っていると、馬車は止まりティルー殿が箱馬車の扉を開ける。
「到着しました……ルーシャン様……リドニア殿?」
すー、と寝息を立てている私達を見て、ティルー殿は目を丸くした。十五分程度しか走ってないのに、と。
「どうしよう?」
そこにリクト様がいたのなら、滅多に困った顔をしないティルー殿の途方に暮れた顔をみて驚いただろうけど──生憎、彼のその顔を見た人はいなかった。
「ルーシャンお嬢様のお帰りですか?」
「ああ、執事さん」
窓からヒルドマン侯爵家の馬車を見て迎えにきたルドルフ執事は、眠っている私達を……特に私を見て眉をひそめる。
「仕事中に眠るなんて──」
「ああ、構いませんよ。執事さんはルーシャン様をお願いします」
「はい?」
どうぞ、と渡されたお嬢様を抱え、その後にティルー殿が私を抱えて──お姫様抱っこよ。ありえない。まだ俵担ぎの方がマシだった──出てきたのを見てルドルフ執事は表情を変えたらしい。
その五分くらいの間に身近な人の珍しい表情が見れたのに、私は見逃してしまったのだ。
「てぃ、ティルー殿。それは起こして下さい。今は仕事中なのだから」
「いえいえ、構いませんよ。一度、リドニア殿ををこうして抱き抱えてみたかったのです」
「は……」
「ずっとこちらを睨んでいましたから、多分嫌われているのでしょうね」
女性を抱える男性二人。
屋敷では、さぞ浮いていたことだろう。
「使用人として、主に忠実であることは、美徳だと思いませんか?」
「……それのことでしょうか」
「限定はしません」
「……」
「私──僕もメフィスのことは好いていません。ルーシャン様のように。ですが、リドニア殿のルーシャン様への愛には感心しているのですよ」
ルーシャンの部屋の前に着くと、ルドルフ執事は私を起こすようティルー殿に言った。
「ルーシャンお嬢様の部屋に入れるのは、それだけなのです」
「すごい決まりですね。不便でしょうに」
「誰も反対はしておりませんから」
何度か揺らされて私は目を覚まし──目の前にティルー殿の顔があって驚いた。
「わ、うわ!」
「嫌な驚き方……」
な、なんで私が……お姫様抱……いや、抱えられてんのよ!父様もいるし!!
「リドニア。お嬢様を部屋にお運びして下さい」
「は、はい……」
もしかして、馬車の中で寝ちゃった?二人そろって。こんなこと、マリア侍女長にばれたら説教モノだ。
意識のないお嬢様を運ぶのは、本日二回目。
運び終え、私はティルー殿に頭を下げた。一応、私をあそこまで運んでくれたみたいだもの。起こしてくれて全然構わなかったけど。
「不注意で眠ってしまい……迷惑をおかけしました」
「いいえ迷惑だなんてとんでもない。とても可愛らしかったですよ。役得でした」
「そう言っていただけましたら幸いです」
「では、馬車まで見送って下さいよ」
今、迷惑だなんてとんでもないって言ったじゃない。やっぱり迷惑だったんだわ。
とはいえ、言われなくとも客人(?)の見送りはしなければならないことだったので、私は頷いた。
「ええ。もちろんです」
ルドルフ執事に頭を下げ、私はティルー殿と共に屋敷から出る。
「では、また来ます」
「……お待ちしております」
……社交辞令かしら。実際にまた来られたら、迷惑なんだけど。
「それと、リクト様のあれは、冗談ではないですよ。あの方は本気です」
「恋をした」発言のことだろうか。冗談だろうが本気だろうが、どちらにしても笑えない。
「あ、それとですね──」
「ティルー殿、私も貴方に用件があります。こちらに来ていただけますか?」
ティルー殿は怪訝そうな顔をしながらも私に近づいてきた。
「あのですね。……お嬢様は、感じ悪くなどありません!」
勢いよくかかとで足を踏んでやった。
「感じ悪っ」と言った仕返しよ!これでもまだ足りないくらいだわ!
「いっ──!?」
苦痛に顔を歪めたティルー殿に頭を下げて言ってやる。
「道中、気をつけてお帰り下さい」
「──これを庭師に渡しておいてください」
何かの種を私に渡してから、ティルー殿は御者台に座って馬に鞭を振るった。
……なんの種かしら?
屋敷内に戻る前に庭師に渡すと、彼は、
「これ、小人薔薇の種ですよ!咲く花の大きさと違い、種は薔薇の中でも最大なんです!うわぁ、初めて見ました!」
私は庭師と興奮を分かち合えなかった。
小人薔薇は、時期になればきっと伯爵邸でも咲くだろう。庭師は自分の命よりも大事にしそうだし、お嬢様は薔薇の栽培のためなら資金援助を惜しまないから。ヒルドマン侯爵邸とメフィス伯爵邸にだけ咲く、稀少な稀少な小人薔薇。
もちろん世界に二つしかないわけではないだれうから、そう言い切れるわけではないけれど──。
私には、小さな薔薇がヒルドマンとメフィスを結び付ける証のようなものに感じられた。
小人薔薇というのは、完全に私の創作です。あったら可愛いなー、と思いますが。