侯爵家への忠誠
「ミネルバ公爵ですか」
廊下を歩きながら、ティルー殿がぽつりと呟いた。その声音からは、ミネルバ公爵に対する彼の感情を察知できなかった。ただただ、人の言葉を繰り返すように中身のない声。
「ええ。私も驚きました」
今「実は冗談でした」と言われても素直に頷けるくらいには驚いている。このミュール家が受けている恩恵。皆が感謝していると信じていたのに。
ウォルツ伯爵邸での舞踏会を思い出した。エリザと私とトールでミュール家について話したこと。まさか一番信じていた弟が真っ先に反旗を翻すことになるとは思っていなかったわ。
「ロアくんは将来、メフィス伯爵家の執事になるはずだったんですよね」
「そうです。……はずだったのではなく、今だってその予定ですよ。ロアをミネルバ公爵家になんて渡しません」
微かに声に刺を含ませて睨みつける。客人に対する態度じゃないけど……別に彼相手ならいいんじゃないかしら。どうせ未来の同僚なんだし。
「まぁ、ね。それは置いておいて。とすると、次の執事はどなたが?まさかリドニアさん?」
ちょうど私とトールが話していた内容。ティルー殿は無知だけど、どうやら目の付け所は間違えていないらしい。
「分かりません。私はお嬢様に付いていくつもりでしたが……。私か、もしくはトールの内のどちらかですね」
そうですか、とティルー殿は眉を下げた。
「できれば、リドニアさんにはヒルドマン侯爵邸に来ていただきたいです」
「そ……そうですか?光栄ですけど」
そう言われれば悪い気はせず、何だか妙に気恥ずかしい。ティルー殿が珍しく真面目な顔で言うからかしら。
「ええ。きっとその時、僕はいないので」
「え……何故?」
当然のように付け足されたその言葉に、私の足は止まった。確かにティルー殿は素晴らしい従者とは言えないけれど……リクト様には合ってると思うわ。それなのに……。
私の思い浮かべる未来像には私がいて、お嬢様がいてリクト様がいて、ティルー殿がいる。もちろんエリザやローズ様や、リジン様だってその世界には存在していて。なのに、ティルー殿はいないの?
「色々とあって……。そうならないよう、頑張ってはいるんですけど」
ティルー殿の説明は曖昧であやふやで、中心の一番大事な部分ははぐらかされたもの。
色々って何?
そう聞けるほど、私達の関係は近くない。
「そう、ですか。残念ですね」
だからそう言った。声に私の微かな微かな動揺は伝わっていない。
「ですからリドニアさん。ちゃんと、ヒルドマン侯爵邸にきてリクト様に仕えてくださいね」
はい、と私は小さく頷いた。
***
ティルー殿はお嬢様と二言三言話して、すぐに帰った。予定を聞いていたようだったけど、とりあえず今回の騒動が終わるまでは訪問を控える、という約束を交わしていた。
勝手に約束なんて、と思ったけど、今日はどうしても小言を言う気になれなかった。
ティルー殿の見送りは私だけ。珍しい訪問者でもなし、お嬢様はお茶会の続きをなさっている。
彼は何もなかったかのような表情をしていて、私もそれにつられてしまう。ティルー殿がなぜ、未来私がヒルドマン侯爵の屋敷に行ったらいないのか。
聞きたいけれど、今その話題を戻すのはあまりにも不自然だった。
「では、また来ますね」
「ええ……ぜひお来しください」
「リクト様とは関係なくても?」
「は?」
ティルー殿のことを考えていてティルー殿の話を聞いていなかった。けれどそれを言いたくなくて。
「ええ、ぜひ」
私は笑顔で頷いた。
馬車でヒルドマン侯爵邸に戻るティルー殿を見送り、私は屋敷に戻る。ルドルフ執事がちょうど庭に出ようとしているところだった。彼は私と目が合うと、疲れたように笑った。
「リドニア……少し、良いですか?」
ルドルフ執事の隣に立ち、庭園の花を見る。もちろん、共に観賞をしようというわけじゃない。ロア、ひいては今後のミュール家の話でしょう。
私が辞めたいというよりも、何十倍の影響力を持つ弟。妬みが一切ないということはないわ。だって男社会だからといって、女の価値がないというのはあんまりだと思う。
「リドニアは今回の騒動、どう考えますか」
私の発言によってロアの今後が変わるということは絶対にない。私の発言に影響力なんてないから。
けれど彼は迷っている。迷っているからこそ、ルドルフ執事は私に意見を仰いだのでしょう。
「私は全面的に反対です、ルドルフ執事。貴方も同じ考えだと信じていますが」
仕事において、私達は平等。そういう決まりを両親は作った。私はルドルフ執事の娘ではなく、大人として見られる。不用意なことを言えば首が飛ぶ。
私の答えはミュール家の義務。ミュール家ならば、こう答えなくてはいけない。
……それに、実際私はこう思ってる。
セルア様に同情なんかしてる場合じゃないのよ。同情なんて軽い感情で、ロアを失えない。
「リドニア。お前はいざという時、ルーシャンお嬢様から離れる覚悟はありますか?」
「……ヒルドマン侯爵邸に行かない、という意味ですか。お嬢様が嫁いだ後、ここに残れと?」
「いざという時です」
示されたもしも話は、この状況に対してとてもリアルに聞こえる。今の私の答えが全てに対する答えのような。
「……それは、私に女執事になれということですか」
「質問に答えなさい、リドニア」
少なくとも、トールとの婚儀は話に出ていないのかしら。でも確かに、その話を進めるなら応急処置を終えてからのほうが好都合なのかもしれない。
「私、は──」
そのような……覚悟を持つ必要性を、感じません。私の主はメフィス伯爵家である前にお嬢様です。
それに私は、とうの昔にリクト様に対して忠誠を誓う覚悟はできております。
お嬢様の婚儀と同時に、私の主はリクト様になる。私はミュール家として、ヒルドマン侯爵家に仕えることを決めている。
私の答えに、ルドルフ執事は頷いた。その目に、私への感情はない。非難も賞賛も。
けれど私のこの忠誠は、時と状況によって曲げられるような柔軟さは持ち合わせていないのだ。