新たなる波乱?
予想はしていたけれど、見事寝不足になっていた。
いつもより少しだけ遅く起きて、身嗜みを整えると私は部屋を出た。水をもらおうと厨房に向かうと、ティルー殿がいた。
ふと昨日の彼を思い出して、声をかけようか迷ったわ。
『お嬢様、と』
彼の家族構成に興味なんてない。けれど、そこから発展しなかった会話を思い出すと声をかける気が──あ、気付かれた。
ティルー殿がこっちを見た。
「……おはようございます、ティルー殿」
「おはようございます、リドニア殿。……寝不足のようですね」
そこにいたメイドにぬるま湯の手配をして、私は少しだけティルー殿と話すことにした。
「ええ、まあ。秘密を知ったことを後悔はしていませんけど、やはり寝不足は辛いですね」
ティルー殿は大して辛くなさそうだけど。男女の差かしら。
そんな私の心の声が通じた……わけはないけれど、ティルー殿は答えてくれた。
「僕は慣れてますから」
「私は全然慣れません。いつだって夜更かししたら眠いです」
そもそも、お嬢様が舞踏会や夜会のない日は早くベッドに入られるから。っていっても十日に一度くらいだけど。
「慣れないほうが良いですよ。貴族に仕えながら生活習慣に気を使うなんて無理な話ですけどね」
わざとらしく肩を竦めてから、ティルー殿は私を見て「あ」と声を漏らした。
「ティルー殿?」
いえ、彼が見ていたのは私ではなく、私の後ろ──
「……おはようございます」
「レイ、様」
「おはようございます、レイ様」
優雅に挨拶を交わすレイ様とティルー殿。私も慌てて腰を屈めた。
「二人で何の話を?」
「レイ様がお気になさるような話ではございませんよ」
ティルー殿もレイ様も、どちらも穏やかな笑みを浮かべていて怖い。大抵、こういう表情って失礼なお客様の前で浮かべるものよ。
「それより、今夜はよく眠られましたか?」
「普段通りだ」
「睡眠は摂ったほうが良いですよ」
にこにこにっこり
あまり笑うのって、逆に失礼じゃない?というくらい、ティルー殿は笑う。
「ティ、ティルー殿、失礼ですよ」
小声でたしなめても、彼は聞く耳を持たない。にこにこと笑みを浮かべたまま、レイ様を見つめている。
「良いんですよ。彼らは、自分達がどれだけ自分勝手なことをしたのか気が付いてないんです」
あああああ、何てことを!
レイ様に聞こえるわよ!!というか、絶対聞こえてるわよ──!
文字通り真っ青……というか真っ白というか……になった私。
……多分、もうティルー殿と会うことはないでしょう。だって、彼はすぐに不敬罪で解雇されるから。
「貴方達は、自分で解決するべきだったんだ。なのに、無駄に高い権力を振りかざして……っ。陛下だって、」
──不自然なほどに、ティルー殿は怒りに燃えていた。笑っていたのが気のせいかと思うほどに。
ティルー殿の批判が、陛下個人におよびかけた時、初めてレイ様がティルー殿の肩を強く掴んだ。
「私達のことは構わないが、陛下のことは言うな。でないと、お前を捕らえねばならなくなる」
まるで、捕らえることが本意ではないとでも言うように。
「あ、あのぅ……」
そんな不自然な空間は、か細いメイドの声によって打ち破られた。
弾かれたようにティルー殿はレイ様から離れ、数歩距離を置いた。
「ティルー殿、もう参りましょう」
メイドからぬるま湯を預かり、穏やかな声でティルー殿にそう声をかけた。
「…レイ殿と陛下は間違えた。それでは、シンシア様は幸せになれない」
「ティルー殿ッ!!」
「……っ」
ガン!とつま先を踏ん付け、私はティルー殿に背を向けた。
「たとえ判断を間違えていたとしても、貴方は過去に戻ってそれを正すつもりですか?……無理でしょう?
いつまでもぐだぐだ言ってないで、私達使用人は主に従えば良いのです」
主が行っていることは、その内容に関係なく受け入れる。そしてそれを正しいことだと信じる。それが、私のすべき事だと思うようにしている。
それに、お嬢様が悪いことなんてするはずないもの。
「リドニア殿は、何も分かってないんですよ。だから……」
ぶつくさと呟かれる言葉があまりにも不愉快で、私はたまらず、足を止めた。
「分かるわけないでしょう、貴方方が何の話をしているのかも分からないのに!──ただ分かるのは、貴方がとんでもなく不愉快な人だということだけです」
早く行かないと、お湯が冷めるわ。
早足でその場を去ると、少ししてから駆け足で私に近づく音がした。
「リドニアさぁ~ん」
「……。…はっ!?」
無視してしまおうと思って──その違和感のある呼び方に反応してしまう。
何?何で少し砕けた呼び方になってるの?
「ティ、ティルー殿?」
「何でしょうリドニアさん?」
「……ティルー殿?」
「はい」
「ティルー、ど、の!」
「殿」に力を込める。
そう呼べという意味を込めて。
「……別に大して変わらないのでは」
「大した違いです、ティルー殿!呼び方はその二人の間柄を表すんですよ!」
「殿」みたいな堅苦しい呼び方は、つまり私とティルー殿の関係を表しているわけで。
こうやって「さん」になって、最終的に呼び捨てにでもなったら……。
「ひいぃっ」
「んな大袈裟な……。別にいいじゃないですか。何も呼び捨てにするわけじゃないんだから」
「当たり前です!」
いくら文句を言ってもティルー殿は呼び方を前に戻さず、ぬるま湯を持った私は、ため息を吐いて歩き始めることしかできなかった。
***
お嬢様の身支度を整え、部屋を出る。今日、メフィス伯爵邸に戻る。……シンシア様を連れて。
昨日のことをお嬢様には伝えられずにいた。事情を知ってしまったとはいえ、私にどこまでの自由が許されているのかが分からなかったから。多分、ティルー殿も伝えてないんじゃないかしら。
「旦那様は……あまり上機嫌ではないでしょうね」
「まあ、そうでしょうね」
逆に上機嫌だったら嫌だ。……怖い。
「でもあたし、シンシア叔母様とはあまり交流が無かったから……少しだけ、楽しみだわ」
「では、屋敷に戻ったら早々にティーパーティーでも開きましょう」
ええ、とお嬢様が頷きかけた時、バタバタと小走りで駆けてくる音がした。
「ルーシャンっ」
走ってきたのは、リクト様。
「……、リクト様。どうかなさいましたか?」
「メフィス伯爵が、」
続いた言葉に、お嬢様は真っ青になった。リクト様が走ってきた道を逆走する。私も慌ててその後を追った。
旦那様が、──シンシア様を殴りつけた。
そんな、だって、あの旦那様が?
もの凄い大事になっているのかと思ったけど、そんなことはないらしい。
途中でお嬢様を抜いて導き役になったリクト様が止まったのは、シンシア様のお部屋の前だった。
「叔母様!」
「シンシア様……っ」
リクト様は入ってこられなかった。
部屋の中には拳を強く握った旦那様と、壁に寄り掛かってうずくまったシンシア様、それから、そんなシンシア様を守るように覆いかぶさっている母様。
「お前は……どうして……」
「………」
「お前が……、幸せになれるようにと……思っていたのに」
「お父様……」
呟かれた声は、お嬢様のものにも、シンシア様のものにも聞こえた。
「──帰ろう、シンシア。殴って悪かった。マリア、手当をしてやってくれ」
「かしこまりました」
嫌だな、と思う。
今回の騒動に、悪者がいないことが。皆行動の動機が純粋で、だから責められるべき人がいない。
「……お嬢様、戻りましょう?」
「……ええ」
***
ガタタ、と揺れる馬車は静かだった。──人を除いて。
「なぁ、何あのシンシア様の頬の湿布」
「……」
「もしかして、誰かにたた──」
「黙りなさい、ロア。詮索なんて悪趣味よ」
馬車に乗る前に次回の逢瀬の約束をしていらしたお嬢様とリクト様。
その間も、ロアはチラチラとシンシア様を見つめてて……、ほんといつ叩いてやろうか迷ったわ。
「あ、そういえばロア。あんた、何か話があったんじゃ……」
私の声に顔を上げたのは、ロアと母様と父様。ロアはハッと母様を見て、高速で首を振った。
「い、いやいやいやいや、今じゃなくていいからっ!お願い後にして!」
「え?でも──」
キキー
ガタン!
馬車が停車した。素早く降りると、私達は主の乗る馬車に向かう。お嬢様に手を貸していた私は、ふと屋敷の門を見て──目を丸くした。
「あら?」
その場にいた全員がそちらを見る。
「ぁ、セルア様……!?」
悲痛な声。
「ロア、来ちゃった!」
そこにいたのは少女で──彼女はロアに向かって微笑んだ。