王妃殿下の昔話
「当時、ヒルドマン侯爵家とメフィス伯爵家は、そう仲が悪かったわけじゃないのよ」
もちろん、仲が良かったわけじゃないけれど。
付け足された言葉に、私は頷いた。
その時は圧倒的にヒルドマン侯爵家が上だったのだと思うわ。メフィス伯爵家に、ヒルドマン侯爵家に対抗するほどの切り札はなかった。
きっと、普通の付き合いだった。
目に見えない格差は歴然で、旦那様もそれを越えようだなんて考えもしなかった。
「私とシンシアは親友だった。……いえ、今も親友だけど。昔から仲が良かったのよ。そして、」
そこで言葉を切り、ミーユ様は陛下の腕に手を絡めた。
それに嫌悪感を一切感じなかったのは、これによってシンシア様が傷付かないと分かっているから。
「私と陛下は、恋人だった」
きっとお二人は、その関係を隠していなかった。だからこそ、ヒルドマン侯爵家は昔から強かった。
侯爵だけでも強かったヒルドマン家にとっては最高の土台。無くても強い。けれど、その事実があったらさらに強くなれる。
「その頃、シンシアと陛下の婚約の話が出たの。それを言い出したのは、その頃の、陛下の臣だったわ」
元来から一夫一妻制のグウィリー王国だけれど、国王に対してだけその限りではない。
世継ぎとか、そういう諸々を考慮した決まりね。
「当時メフィス伯爵は、段々とその富を蓄えていて、国としても良いと思える土地をたくさん所有していたから、というのが理由だったわね、確か」
「…ええ」
そうね、と頷くシンシア様。
……当時からのご友人だったミーユ様の恋人との結婚だなんて。珍しい話ではないとしても、何とも言えない気分にならされる。
だとしても、お二方はそれに対して文句なんて一切言わないでしょうね。だって、それが令嬢の義務だから。
私やエリザが働くように。令嬢は何不自由ない生活の代わりに、他人に未来を決められてしまう。
「わたくしとレイが恋人だったことは、陛下もご存知だったのよ。そしてわたくしと陛下は、良き友人でもあった。わたくし達は幸せだったの。──だから、わたくしと陛下の婚儀ごときでその幸せを壊すのは嫌だった。わたくしと陛下は、一つの約束をしたのよ」
……約束。
それが今回のことに深く関わっている気がして、私はグッとシンシア様を見つめた。
「わたくし達は、本当の意味での夫婦にならない、と。…陛下はミーユを迎えにいくことを決めていたし、わたくしだって、友の子を産む気はなかったし、ね」
よく考えたら凄いことよね、友人の子を産むって。
私がトールと結婚して子供を作るようなものじゃない──無理だわ。
そんなことを考えていると、隣で小さな、本当に小さな声で、
「はた迷惑な約束して…」
というぼやきが聞こえた。
ティルー殿の気持ちも、陛下とシンシア様の気持ちも分かる身としては何か言う気にも慣れず、私は黙っておいた。
「わたくしと陛下は、もとから離婚をすることが前提で結婚したのよ。…ただ、いつ離婚するかが問題だったのよ。わたくしはいつでも良かったけれど…」
「…レイ様が戴爵される日にされたんですね」
私の言葉にシンシア様は頷く。
「──旦那様は、納得されるでしょうか…?」
陛下の第二夫人という栄華から、一転。離婚されて、レイ様の恋人。旦那様が納得するとは思えない。
「いざとなれば、どうとでもできるわよ」 なのに、なんでミーユ様はこんなにも余裕でいられるの?
「伯爵といえど、ただの貴族じゃない。王族の命令に逆らえるわけがないのよ」
──なんて、なんて傲慢な考え方だろう。
けれど、それしかないのかもしれない。私や母様は権力の前には非力で。
旦那様はシンシア様が夫人でなければ納得しないのならば、陛下やシンシア様が幸せになるためには、権力を振りかざして旦那様を跪かさなければならないのかもしれない。
どうにかならないの?なんて考えてはいけない。だって私は、単なる使用人なんだから。
そっと隣を伺うと、ティルー殿と目が合った。彼はこちらが驚くほどに穏やかな表情をしていて。
「ど……して、笑っていられるの?」
「こういう対処もあるのかと思っていました」
「え……?」
「いえ、何も」
こういう対処?
どういう意味かしら。
**
貴方達はもう戻りなさい。
そう言われて、私とティルー殿は部屋を追い出された。
──口外しないように、とは言われなかった。
誰に知られてもいいと思っているのか、はたまた私達を信用しているのかは分からないけれど。
ただ驚いたのは、部屋を出る寸前、ティルー殿が陛下に何かを渡していたこと。
『お手紙越しで申し訳ないのですが、ぜひお頼みしたいことがありまして』
早口にそれだけ言うと、紙を押し付けてさっさと部屋を出た。私は慌てて彼についていったの。
今彼は、私の前を悠々と歩いている。私はこんなに混乱しているのに。
「……ティルー殿」
「シンシア様は幸せになれますよ。レイ様が迎えに来ますから。女性というものは、愛する人がいるだけでどんな場所でも状況でも、幸せになれるものです」
「……男性は違うとでも言いたげですね」
「結局、性格や人柄ですけどね。愛する女性をとりまく状況が少しでもよくなるよう、尽力するんですよ。無責任な約束までして」
それが彼の持論なのかしら。まるで見たことがあるみたいに言うけれど。
……というか。
「無責任な約束って、今回陛下とシンシア様が行った約束のことですか」
「え?──いえ、違いますよ」
壊れた扉を通る。
真っ暗闇の中、ふらふらと歩いていたらティルー殿が足を止めた。それに気付かず歩いたら、彼にぶつかった。
「あたっ。…ティルー殿?何止まってらっしゃるんですか」
「リドニア殿は、本当に夜目が利かないんですね」
手をとられた。帰りも手を繋いで帰るっていうのかしら。
「ね、リドニア殿。行きに、僕の両親が同じ職場だったらって話しましたよね」
「え?……ああ、しましたね」
どうして母様をマリア侍女長って呼んでいるのか、って話だったような気がする。すっかり忘れてたわ。
「僕の両親ね、同じ職場だったんです。確かに役名で呼んでました。……いえ、結婚したときはどちらも仕事を辞めていましたけど。それでも、父は母を役名で呼んでいました」
「あら、そうなんですか。結婚して、辞めた後も役名で呼ばれるだなんて嫌ですね……」
結婚後に役名で呼ばれるって、どういう状況だろう。父様が母様のことを、家でも「侍女長」って呼ぶようなものよね。
「ええ、確かに母は嫌がっていました」
「お父様は、お母様を何て呼んでらっしゃったんですか?」
ティルー殿は、少し間を置いてから答えてくれた。置かれた間は、彼の迷いを表していたように思える。
「──お嬢様、と」