驚きとお迎え
婚約……。
私とお嬢様は、きっと同じ表情をしていたのではないかしら。やっぱり、って。
お嬢様は今年で十五歳。そろそろ婚約話もくる頃だろうと思っていたわ。いきなりではあったけど、旦那様からの呼び出しとして、婚約話であることは想像に難くないもの。
「婚約ですか……」
さすがにお嬢様も大声で嫌だと言い張るほど子供ではなかった。内心ホッとしながらも、私はお嬢様の次の台詞を待つ。
「それは……どちらの令息でしょう?」
貴族の結婚で、三十も歳の離れた老人と、という話は聞くわ。でもそれは、どちらかと落ちぶれた貴族の場合が多い。財産に困って、好色な老人に娘を……というのが多いと思うわ。伯爵家には財産はあるし、歴史もある。
引く手数多なのよ。
それに、旦那様はローズお嬢様とルーシャンお嬢様、つまりご自身の子を愛していらっしゃっているから、数ある引く手からお嬢様が傷つく場所に嫁げとは言わないだでしょう。何より、お嬢様はこんなにも美しいのだから!
旦那様はしばらく視線を泳がせてから、真剣なお嬢様を見ずに、ぼそぼそと答える。
「……ヒルドマン侯爵の……リクト……殿……」
旦那様の最愛の奥様にそっくりなお嬢様。その顔が絶望と驚愕に歪む。その顔を見つめて、すぐに目を逸らし、旦那様は窓の外を見た。
お嬢様だけじゃないわ……私だって驚いた。
ヒルドマン侯爵とは、旦那様の政敵とも言える方なのに。ヒルドマン侯爵の姉君、ミーユ様は、国王陛下の正妃でいらっしゃる。
シンシア様とミーユ様の仲は知らないけど、その家族同士が不仲なのは、カラスが黒いのと同じくらいに当たり前のことだわ。
例えば晩餐会などで顔を合わせてしまっても、スッと目を逸らすのだとか。どちらも無駄に(といっては不敬かしら)権力はあるので、ほとんどの貴族はメフィス伯爵派かヒルドマン侯爵派に別れているらしい。
お嬢様の婚約者として、これまで誰かな、あの人かな?と考えたことはあるけど。まさかヒルドマン侯爵家の方だとは。考えたこともなかったわ。
けれど、私の驚きなど序の口だったらしい。
「それで、ルーシャン。本日、相手方からランチパーティの誘いがきている。対面という意味もあるだろうから、行って……って、リドニア!!」
「はい?……っつ、お嬢様!?」
お嬢様は絶句したまま卒倒された。
お嬢様を抱えた侍従(当初は旦那様が運びたがったのけど、腰を痛められてしまい、侍従と交代した)と共に、お嬢様の寝室に向かう。揺らさぬようゆっくりと歩く侍従を睨みつけた。
「どういうことよ、ヒルドマン侯爵家との婚約なんて!」
「音量を下げなさい。お嬢様が起きてしまわれます。……このことは、旦那様から拝聴したことですが……、今回の婚約は、先方の意思だそうです。元々、ヒルドマン侯爵家の方々はこちらほど相手に敵意は持っていないようですからね。まあそれでも、未来の奥方をお嬢様に選ぶほどの好意も持っていなかったと思いますが」
まどろっこしい言い方。
けれど、こちらほど相手を嫌っていない、と言うのには笑えた。確かに、向こうは正妃の一族、こちらは第二王妃の一族。あえて嫌うほどの相手ではないということよね。皮肉なものだわ。
「では、何故、ルーシャンお嬢様を?」
「それは旦那様も疑問に思われていたようでした。最初はかなり渋っておられましたから。先方がずいぶんと条件を呑む形になったそうですよ」
「条件?」
「ええ」
頷いてから、彼は王城に納める葡萄酒が、ヒルドマン侯爵領産が八割だったのを、メフィス伯爵領産のものを五割にして……と私の管轄外のことをペラペラと話した。
「そ、そうなの」
「本当に分かってますか?」
「分かってるわよ」
などと話していると、お嬢様の寝室に着いた。侍従が迷わず中に入ろうとするのを慌てて止める。
「ま、待ちなさい。何をしようとしているのよ!」
「何って……運ぼうとしていますが」
「ここはお嬢様の寝室なのよ!?」
「分かってますよ」
私の言いたいことが伝わっていないらしい。私は彼からお嬢様を奪おうとした。
「り、リドニア?」
「は、恥を知りなさい!この部屋は、私以外侵入を許可されてないわ!」
侍従は「ああ」と頷き、謝罪してから私にお嬢様を背負わせた。ぐらぐらとして不安そうに侍従は私を見ていたけど、私が部屋に入りお嬢様をベッドに横たえたのを確認して旦那様の書斎に戻った。
本当に美しい方ね、とお嬢様の顔を見ていると、ゆっくりとその唇が弧を描く。
「ふふ……」
どう考えても寝言でない笑い声に、私はお嬢様の顔を覗き込んだ。主人に対して礼を失する態度であったけど、お嬢様は咎めなかった。
「お嬢様?起きてらしたんですか」
「ええ。侍従が部屋に入ったら、目を開けて彼の頬を張ろうとしていたの。リドニアに止められて、あれは幸せだったわね」
ニヤニヤと笑いながら言い、お嬢様は私に抱き着いてくる。
「ねえ、大好きよ。リドニア。ヒルドマンのことが嫌いなくらい好き」
「それは……」
相当好いて下さっているのね……。
「嬉しいです」
私は使用人だからお嬢様の背に手を回すことができないけれど。その小さな手と細い腕に身をまかせて、私も同じくらい貴女のことを愛している、と伝えたのだった。
どれだけの時間、そうしていただろう。お嬢様は現実から目を背けるようにして私にしがみつき、私はそんなお嬢様の行為を何も言わず受け入れていた。
私がふと窓を見ると、屋敷の前に大きな箱馬車があった。
お嬢様もそちらを見て、小さく「ヒルドマン侯爵家だわ」と呟く。馬車についている家紋で分かったらしい。私も習っているので、顎を引いてそれに同意した。
少しして、扉がノックされる。びくりとお嬢様の肩が跳ねるのが分かった。
「体調が優れぬ時に、申し訳ございません。……ルーシャンお嬢様、ルドルフです」
父様──ルドルフ執事の声。お嬢様の許可をいただいて、私は部屋の扉を開けた。
「何のご用でしょう」
私の声に含まれるトゲに気がついたのか、ルドルフ執事は眉をひそめた。
けれど、不出来な娘を咎めるよりも伝えるべき用件のほうが重要だったらしく、穏やかな口調で言った。
「ヒルドマン侯爵令息、リクト様が、ルーシャンお嬢様を迎えにいらっしゃいました。旦那様より、準備が整い次第、向かうようにとのことです、お嬢様」
お嬢様は、感情を消した顔で頷いた。私は思わずルドルフ執事の燕尾服を掴む。
「わ、私もご一緒してよろしいでしょうか!?」
「何言ってるの、当然よ!」
答えたのは、父様ではなくお嬢様だった。