従者の戴爵
「………」
目を覚ましたのは、まだ真夜中とも言える時間だった。けれど、お嬢様とお話した時よりも少なからず時間は経っている。日が昇っていた。眠気よりも鈍い頭痛のほうが強くて、私はうずくまった。
──外に出て、気分転換でもしようかしら。
目を閉じても、眠れそうにない。ただ無駄に時間を潰してしまいそう。ついでにどこかから二日酔いの薬でも貰いましょう。
ベッドから足を下ろし、部屋履きを履く。箪笥まで歩いてから、その下に置いてある靴に履きかえる。お仕着せはどこかしらと思っていたら、綺麗に洗濯されたものが畳まれて、テーブルの上に置いてあった。
洗濯メイド(洗濯専門のメイドのことね)がやってくれたのかしら。手慣れた感じだもの。
ワンピースを脱いでそれに着替えると、私は部屋からでた。
城内は、適度に騒がしく、適度に静かだった。昼間に比べれば朝に相応しい静かさがあるけれど、それでも料理人の料理の下準備や、水を運ぶ下男の足音、洗濯メイド同士の話し声、馬の世話をする馬丁……。音に満ち溢れてる。まあ、それらの音が聞こえるのは私の借りている部屋が使用人用のものだからであって、陛下やお嬢様の部屋からは何も聞こえないのでしょうけど。
手の空いている下男や下女を捕まえて薬を貰おうと思っていたのに、私が見る限り暇そうなのは私だけだった。
……、あれは──。
ふと窓から庭園を見て、私は立ち止まった。
そこにあったのは、他と隔離された花壇。植わっているのは小さな小さな薔薇よ。
「まあ……!」
小人薔薇よね?あれ。
自分の歓声が頭に響いて、私は頭を押さえた。
実際、その薔薇は小人薔薇だった。いえ、私にはそう見えたわ。お嬢様がいればこの薔薇が小人薔薇か、もしくはそれに類似した別の薔薇か分かったかもしれないけれど、この場にいるのは私だけだったから。
緩く蕾を開いた状態のそれは、屋敷にあるものよりも育っている。
お嬢様がいらっしゃれば、きっと凄く喜ばれたわよね。後で教えて差し上げよう……。
「──誰だ?」
しゃがみ込んで小人薔薇を撫でていると、後ろから声がかかった。
「えっ……」
この時間に起きているのなんて、使用人くらいしかいないわ。使用人の中でも、下位のほうの人達。だから、ゆっくり振り返って驚いたわ。
「レ、レイ、様!?」
そこに立って、私を見下ろしていたのはレイ殿……いえ、レイ様だった。今日をもって爵位を戴爵するのなら、様をつけるべきよね?
「誰だ。見慣れない顔だが、新入りか?」
しゃがみ込んでいたせいで、私のお仕着せが見えなかったらしい。メフィス伯爵邸でのお仕着せと城で配られるお仕着せは全く違うもの。
「紛らわしいことをして申し訳ございません。私はメフィス伯爵邸より参りました、ルーシャンお嬢様の侍女をさせていただいている者です。リドニア=ミュールと申します」
立ち上がってから頭を下げると、レイ様が私よりもかなり長身なことに気がついた。細身だから気がつかなかったわ……。
「ミュール?ミュール家か」
「はい」
さすが。ミュール家は王城でも有名らしい。一種の誇らしさを感じ、私の唇は自然と弧を描く。重く感じる頭が、一瞬だけ痛みを消した。
「レイ様、この度の戴爵、真におめでとうございます。我が主も、あのようなことがなければ祝したかったと申しておりました」
「離縁のことか……」
気づかれないようにその表情を窺ったけれど、レイ様の表情には何も映っていない。悲しみも怒りも、喜びも。
「私も、驚いている」
……そうは見えないわ。
レイ様は私の横に立った。すぐにどこかへ行くものと思っていたから、少し驚いたわ。レイ様のような人も、私みたいな小娘と話をしようと思うことがあるのかしら。
「──美しい花ですね。小人薔薇でしょうか」
小さな花壇に小さな薔薇。
あんまりレイ様がじっと見つめているものだから、彼が世話をしているのかと思った。
「ミュール家は、草花にも精通しているのか?」
けれど、違うみたいね。
思わぬことを聞いた、という顔をされた。
「いえ……。主が、薔薇に詳しいものですから」
ああ、とレイ様は納得されたらしい。
「この薔薇を植えさせたのは、シンシア様とミーユ様だ。小人薔薇だと説明していただいたのだが、私にはよく分からない」
……お二人で?え、お二人は仲が良いの?
昨日、ティルー殿に教わった気がする。どのような状況で?何を教わったのかしら。
頭がぐらぐらする。重い……痛い。引っ掛かった何かは、掴む寸前で指をすり抜けていく。
「ああ……君は知らなかったのか」
レイ様はあっさりと私に答えを差し出した。
「あの方達は仲が良いのだ。互いに妃になる前から──なった後でさえ」
胸が苦しい。忘れかけていた二日酔いが戻ってきて、私の頭を支配する。
私が俯いていると、レイ様は私に手を向けた。
「二日酔いに効く薬だ」
「え……?」
「会ったら渡すように言われていたのだ」
粉の包まれた薄紙を受け取り、私はもう一度深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「酒を飲むのなら、自分を制御しろ。酒に呑まれる者は、真の意味での使用人にはなれないぞ」
厳しい顔で私にそう言うと、レイ様はどこかに行ってしまった。
何だったのかしら?
薬を持ったまま、私も水を求めて庭園から移動した。
薬を飲み、部屋に戻ってからぼーっとしていればお嬢様の起床時間はすぐにやってきた。その頃にはかなり気分が良くなっていて、私はいつも通りに過ごすことができた。
「あら。頭を押さえて苦しんでいるかと思っていたけど……大丈夫なの?」
珍しく寝起きのよかったお嬢様は、開口一番そんなことをおっしゃった。
「はい、お嬢様。早朝にお薬をいただいたので、みっともない姿をさらすことは避けられました」
顔を洗い、柔らかな布で拭く。お嬢様が少し残念そうなのは、私の気のせいかしら?
「残念だわ」
気のせいではなかった。唇を可愛らしく尖らせて、お嬢様は責めるような目で私を見た。
「弱っているリドニアを見れるのは、そんなときだけなのに……。私に許可なく薬を飲むのはお止めなさい」
お嬢様の可愛らしくも愛しい命令に、私は目を細めて頷いた。
「……本日の予定を申し上げます。本日は、レイ様の戴爵式に出席した後、旦那様が陛下との会談を行います。お嬢様は予定もありませんから、自由に過ごしてくださって構いません」
「シンシア叔母さんも、その会談に出席されるのかしら」
お嬢様の問いに頷く。原因でもあるシンシア様が会談に出席しないわけはないわ。
「ええ……恐らくは」
クローゼットからお嬢様のドレスを取り出し、お嬢様に着ていただき、その長い金髪を結っている時に、扉が叩かれた。
「ルーシャン様……失礼ですが、姉はおりますか?」
ロアの声。
お嬢様は私を見て、「いるわよ」とロアに答えた。
「失礼します」と言って、ロアが室内に入ってくる。
今はレディの身支度中なのよ?思いっきり軽蔑の目で見たら、ロアは怯んだように肩を竦めた。
「ティルーさんに頼まれたんだよ。ほら、二日酔いの薬」
ロアが突き出してきたのは、今朝私がレイ様にいただいたものと同じ粉薬。
「ティルー殿に?」
「そうだよ。苦しんでるだろうから、って」
そうなの、と思いつつ、何だが今ここで元気にしているのが悪いような気分になった。さすがに二つは飲まないし……どうしようかしら。
私が躊躇っていると、ロアは強引に私に薬を受け取らせてすぐに部屋を出た。
残された私とお嬢様の間に、何とも言えない沈黙が走る。
「お優しいことね」
「お嬢様……これどうしましょう」
鏡の中のお嬢様と目を合わせると、お嬢様はクスリと笑った。
「次回使えるように、とっておけば?」
「お、お嬢様、次回などありません!」
とは言っても、捨てるわけにはいかなくて。私はスカートのポケットに薬を滑り込ませた。
戴爵式なんて、そう頻繁に開かれるものではない。あったとしても、陛下や国のために頑張った庶民が、領地を持たぬ一代限りの士爵位を賜るくらい。従者が貴族になるなんて、普通はないことよ。
聞くところによると、レイ様が賜るのは男爵位だとか。陛下のご意思は分からないけど、明確な理由のない戴爵は、あまり褒められたことではないと思うわ。……まあ、私が言うことではないけれど。
謁見の間で式は行われる。大貴族と呼ばれているヒルドマン侯爵、メフィス伯爵、それから力のある貴族が並ぶ。爵位を賜る際に、その方々の許可が必要なのよ。大抵は許可するように仕組まれているけれど。
で、男爵位と領地を賜って、終了。
「……あ」
少し早めに用意して部屋から出ると、廊下でミーユ様と会ってしまった。
侍女とメイドを引き連れて、正妃らしく着飾り堂々とした態度で歩いている。歳はシンシア様よりも年下で、その身分から当時正妃だったシンシア様を追い越して、正妃の座に収まった方。
私は、正直あまり好きではないわ。だって……どうしても、彼女がいなければシンシア様は幸せだったのではないかと思ってしまって。
「あらぁ、ルーシャンちゃん?」
始めは私やお嬢様と同じように目を丸くしていらっしゃったけど、ミーユ様はじきに笑顔になった。まさか軽蔑されたり冷笑されたりするのでは、と思っていたわけではないけど、この笑顔には驚いた。
「ミ、ミーユ様。お初にお目にかかります」
お嬢様は深く頭を下げた。私もそれにならって、最敬礼をする。ミーユ様はキョトンと私達を見てから、およそ王妃らしくない笑い声を上げた。
「あっははは!ルーシャンちゃんたら、顔を上げて。私達、初めましてじゃないのよ?」
「え?」
お嬢様は困惑した表情。でもそれは、私も同じだった。
一度でも言葉を交わした貴族は、絶対にそれを忘れてはいけない。それはお嬢様にも、そして侍女である私にも当然のことよ。自分よりも下位の人なら何とでもなるけれど。先日一緒に話した人に「初めまして」なんて言われたら嫌な気分でしょう?
そして、こちらが忘れていた相手が大貴族とも呼べる方だったら笑い事じゃあ済まされない。
だから、貴族の方々は人の顔覚えるの早いわよ。私なんて、たまにこんがらがりそうになるけれど。
今のお嬢様と私の状況は……一番避けるべき事態。
「──と言っても、私がルーシャンちゃんと会ったのは、ルーシャンちゃんが生まれて、それをシンシアに自慢された時以来だから、覚えてないわね!」
しまった、という表情を浮かべていたお嬢様だったけれど、ミーユ様の言葉に、少し安堵した表情を浮かべた。私も、ほっと胸を撫で下ろす。
「ところで──ルーシャンちゃんって、その子以外に使用人は連れ歩かないの?」
十人余りの侍女を引き連れたミーユ様が不思議そうに私を見る。たった一人の侍女(それに加えて若年)しか連れていないお嬢様が不思議らしい。
お嬢様はね、数より質なのよ!
と自分で言えるほど上質でもないかしら。
「ええ──最も信用できる者だけを連れようと思えば、自然とこうなっておりました」
お嬢様……!
あ。今、泣きそうだわ。
裏を読んだらミーユ様への厭味になりかねない言い方だったけれど。少しそれを考えてミーユ様を見ると、彼女は綺麗に表面しか見ていなかったらしい。
「そうね!素敵よ!」
と、楽しそうに笑っているもの。
「シンシア叔母様と、仲がよろしいのですか?」
私としてはミーユ様とはさっさと別れたかったのだけど、お嬢様はにっこりと微笑んで、ミーユ様と立ち話をする体勢をとった。
「ええ。シンシアとは、昔から仲がいいのよ!」
本当に元気な方ね。陛下は、ミーユ様のどこが気に入ったのかしら。
でも確かに、ミーユ様のような明るい方って、敵が少なそう。
レイ様もおっしゃっていたじゃない。ミーユ様とシンシア様は、昔からの親友だった、って。
「ルーシャンちゃんが生まれたら真っ先に自慢されたのよ?ローズちゃんに続いて、シンシアにばかり姪ができるんだもの。一人くらい私にもできたっていいのに、って思ってたけれど……」
ぺらぺらと息継ぎなしで話し続け、そこでミーユ様は言葉を切った。嬉しくて堪らないという顔をしている。
──そのシンシア様のことなんか考えないで。いい気なものね。
「リクトくんと結婚するなら、ルーシャンちゃんが私の姪になるのね。シンシアと家族になるのだわ!」
その喜びようは本物で。
なぜ友人であるシンシア様が人生で一番不幸かという時にミーユ様が笑っていられるのか、私は不思議でならなかった。
それじゃあね、とミーユ様と別れたら、時間は余裕を持って部屋を出た意味がない時間帯になっていた。余裕どころか、小走りで向かわないと危ないかもしれない。
「リドニア。入場は何時までだったかしら!?」
ミーユ様は、陛下と共に、戴爵式の前半で入場の場面があるからこんなに焦らなくともいいのでしょうけど。お嬢様は一般席(といっても、見るのなんてほとんど貴族の方でしょうけど)で観覧されるのだから、多少の気遣いは欲しかったわ!
私が時間を言うと、お嬢様は小走りだった足を止めた。
「お嬢様!?急ぎませんと、間に合いませんっ」
「近道があるのよ。こちらを通りましょう。じゃなきゃ間に合わないわ」
近道……?
首を傾げると、お嬢様は昨夜リクト様が教えてくれたのだと言った。
「一度外へ出て、裏口から入るのですって」
「裏口……ですか?」
何となくの想像力はつく。謁見の間で何か起こった時用に作られている、言わば非常口のようなものよね。鍵はなくて、簡素な木でできている場合が多いと聞くわ。目立たぬ場所にひっそりとあるんですって。気にならないと言ったら、嘘になるけれど……。
「お嬢様、あまり使わないほうが、よろしいかと。あくまで災害用ですし」
「……そう思う?」
お嬢様も、薄々そう思っていらっしゃったみたい。眉を下げて、自信なげにそう言った。
「ええ。本気で走れば間に合いますわ。参りましょう!それに、いざとなれば参加などせずともよろしいではありませんか。相手はシンシア様を捨てる、憎き国王陛下とその従者なのですから!」
グッと拳を握って励ますと、お嬢様も笑って頷く。
「そうね。その通りよ。……でも、少しボリュームを落として。不敬罪で捕らえられてしまうわよ」
必死に走りながら、お嬢様は息を切らせて、戴爵式が終わったら裏口を探しに行きましょう、と私に言った。
……見てみたかったのね。
「そうですね……、ええ!行きましょう!」
私もお嬢様も普段運動なんてしないから、謁見の間に到着した時は、息も髪も乱れていた(お嬢様のは、私が直してさしあげたわ)。
開かれた扉に入ると、すでに旦那様やヒルドマン侯爵はいらっしゃった。
「……ルーシャン殿!遅かったな」
最前列にいたリクト様がこちらに手を振った。いるのは貴族が過半数を占めていて、ルーシャン様を見ると少し場所を譲る。
「あ、姉さーん」
「ロア……何であんたいるのよ……」
「ルーシャン様も、こちらへどうぞ」
人の間を縫うように進んで、お嬢様は最前列に収まった。私も付いていこうとしたら四方八方から睨まれて、少し遠くからお嬢様を見守ることにした。
それにしても、けっこう人が多いわね。やっぱり、陛下の従者が戴爵、という理由が大きいのかしら。
「……どうも、リドニア殿」
「わっ!?ティルー殿!?」
至近距離から名を囁かれ、私の肩が跳ねた。
「こんなところから見るんですか?」
振り返ると、もっと前にいるはずのティルー殿。こんな後ろで何をしているのかしら。
「来たのが遅れたのです。幸い、リクト様とロアのおかげでお嬢様は前に行けましたから。私はここで構いません」
「こんなの、セール中の八百屋に比べれば閑散としたものです」
──八百屋?
「もっと前に行きましょう。陛下を近くで見れますよ」
「あ、ちょっと!」
にやりと笑うと、ティルー殿は私の手を引いて豪奢なドレス(と言っても、貴族の普段着だけれど)の間を抜けていく。
こんなことをして……主の名に傷がついたらどうするつもりなのかしら。
こう言ってはなんだけれど、ティルー殿って使用人に向いていない気がする。
「あ、あのティルー殿……」
彼を止めようとしたところで、楽団の音楽が鳴り響く。騒がしくしていた人々はお喋りを止めた。
「始まりましたか?」
「ええ……恐らく」
扉の側に控えていた騎士や兵士が最敬礼をし、旦那様やヒルドマン侯爵、他の権力のある方々が顔を強張らせて頭を下げる。
その敬意を一心に浴び、赤い絨毯の上を、ゆったりと歩くのは陛下よ。その後ろからミーユ様と、シンシア様が続く。
シンシア様の離婚騒動を知っているのは昨日、彼女の誕生会にいた人だけ。そう理解しているはずなのに、私は、何事もなかったかのようにミーユ様に続くシンシア様に違和感を覚えてしまった。
「普通そうですね」
「そうね」
思っていたことが真横から言われて自然と頷く。返してから、敬語を使わなかったことに気付いたけど……、
「ですよねぇ」
ティルー殿も気付いてないみたいだから、いいかしら。
陛下が玉座に座り、その横にミーユ様が座る。その二つに寄り添うような場所にある椅子に、シンシア様が腰掛けた。
そして最後に──主役が登場する。
礼服に身を包んだレイ様が静かに玉座に歩みより、数メートル離れた場所でひざまずいた。
「リドニア殿、レイ殿の戴爵の理由を聞きましたか?」
「いいえ。ティルー殿はご存知ですか?」
というか……理由なんてあったのね。
「なんでも、隣国との和平の条約を好条件でまとめたらしいですよ」
隣国?と聞き返せば、ティルー殿はその国名を教えてくれた。触れたら切れそうな……というほどではないけれど、グウィリー王国と緊張体制に入っている、と言われている国。
「その褒美に男爵位……ですか」
確かに、手柄と言えば手柄だけど。少し、過剰じゃないかしら。私の気のせい?
「これより、レイ=ミラードの戴爵式を行う」
国王陛下の声が響いた。