賑やかな夜想曲
「ねえ、あれ……」
庭園で、私は信じられないものを見た。指を差すとティルー殿もぽかんと口を開ける。
「あれは……」
ティルー殿はあまり表情を変えない人だけれど、今回は驚いても仕方ない事だと思う。私だって一度見間違いかと思って、目を擦ってしまったもの。生まれてからずっと仕えている主を見間違うなんてミュール家として失格だけれど──本当に、衝撃だったの。
「お嬢様と、リクト様が……」
「ええ、ルーシャン様と、リクト様が……」
唯一人、リクト様を見たことのないトールだけは私達の反応に首を捻っている。
「リドニア?どうしましたか」
「トール……あれ、リクト様よ!ヒルドマン侯爵家の」
「ええ!?」
貴族の中でも上流と呼ばれる方々に仕える私達が目を見開いて絶句、なんてなかなか見れるものではない。
使用人は、たとえ殺人現場を見ても、男女の情事を目撃しても顔色を変えるな、って指導されている。そんなもので心を乱していたら、使用人失格だと。だから、その法則でいけば私達は使用人失格ってことだけど、今回は許されてもいいはずよ。
「お嬢様とリクト様が……」
ワインの入ったグラスの華奢な脚を持ち、お二人は優雅に乾杯していたの!
ここにいたのが私一人なら、見なかったことにしてその場から動いたと思う。
「雨でも降るんですかね」
茶化すように言うけれど、ティルー殿の声は動揺していて、驚いているのがありありと分かる。
「雨が振っては困りますね……」
ティルー殿の冗談に本気で返して、トールは私の顔の前で手を振った。
「リドニア。いつまでもボーッとしていないで。行きますよ。……ティルー殿も」
「わ、分かってます」
「そうですね、行きましょう」
トールもティルー殿もショックから抜け出している。
私はまだ驚いていたけど……無理矢理足を動かしてランチパーティに向かった。
時間から考えても、もう終盤だと思う。お嬢様に戻ったことを報告して片付けを手伝いましょう。
初めに私達に気付いて下さったのは、リクト様だった。こちらに軽く手を上げ、お嬢様にも声をかける。
「リドニア!」
お嬢様は顔を輝かせて私達──いえ、私を見た。
「お嬢様……!」
「遅いわよ!それに……どうしてティルー殿まで一緒なの」
トールについては、不審に思わないようだった。メフィス伯爵邸から一緒に来たと思われたらしい。
「それは、私も聞きたいな、ティルー?」
自分の主に睨まれ、ティルー殿は苦笑いした。
「あ……ははは。リドニア殿の護衛に……」
「護衛ですって?屋敷に戻ったのではなかったの?」
ああ、流れが。変な方向に流れている気がする。ここでトールが「リドニアは来てませんよ」なんて言ったら、私が意図的に黙っていたみたいじゃないの!
「あ、あの。お嬢様のお部屋から退出した際、メフィス伯爵邸より手紙を受け取ったのです。戻らなくても良いとのことでしたので、ならば夜会に使う化粧品を購入しようかと思い、街に行って参りました」
私の必死さが伝わったのか、お嬢様は不満そうにしながらもさらなる追求は止めて下さった。
「……で、僕もそれに護衛としてついていったんです」
都合よく私の説明に乗っかるティルー殿。リクト様は顔をしかめた。
「必要あったのか?街くらい行き慣れているだろう」
「お役に立ちましたよね?リドニア殿」
「え?ま、まあ……」
役に立ったというか、何と言うか。
「何かあったんですか、リドニア?」
トールはそう聞いてくれるけれど、スリに遭いました、だなんて言いづらい。
「何もありませんでした」
「リドニア?本当のことを……」
「ないって言ってるでしょ!」
私がトールに怒鳴ると、お嬢様が呆れた顔をして手を二、三度叩かれた。
「みっともないからお止めなさい、二人とも」
いつも窘めているのは私だったから、何だか落ち込んだ。お嬢様のおっしゃったことは、考えることもなく正しかったのだもの。
エリザは、夜会を取り仕切るメイド長の補佐という大役に就いていた。
「すごいじゃない」
エリザは若い。私よりも年上だけれど、ウォルツ伯爵邸の中では若年層に部類するだろう。それに加えて、ローズ様の侍女として屋敷に移ってきてから数年しか経っていない。
「そんなに嬉しくないわ」
私に対して、エリザは冷めたものだった。
「もっと喜びなさいよ。選ばれなかった人に失礼だわ」
お嬢様やローズ様のいない私達だけの空間。夜会の行われる大広間。だからこそ、私達は本音で素の自分のままで話していた。
──そう、私とトールは夜会の準備の手伝いをエリザに申し込んだの。
貴族が来るのは、完璧に飾り付けられ、楽団が音楽を奏でている時だけ。その前にどれだけの人数でセッティングをするか、またその後に片付けをする使用人の苦労など知ろうともしない。
いえ、別にいいのよ?こちらだってそれを前提としているのだもの。気を遣ってもらおうなどとは思っていない。
「何故嬉しくないのです?」
白く広いテーブルクロスを敷きながら、トールは表情を暗くしているエリザに尋ねた。
大理石の床は鏡のように目の前のものを映していて、掃除をしたメイド達の努力が窺えた。
「だって、私が補佐になれたのは、ミュール家のせい──いえ、お陰なのよ」
エリザのフルネームは、エリザ=ミュール。
私の父、ルドルフの弟の娘が、エリザなの。
一気に、私はエリザの気持ちを察してしまった。
「誰も私の能力なんて見てないわ。ミュールを名乗れば、全員が私を尊敬の眼差しで見てくる」
一族で貴族に仕える。そういう一族は、多くないけれど存在する。なにもミュール家だけではないわ。
けれど、メフィス伯爵という、大貴族に一族単位で仕えることを許されているのはとんでもない名誉なの。だって、旦那様は選べるのだもの。私達以外にも選択肢はあるのに──私達を使ってくださる。それは大変に名誉なこと。
「ローズお嬢様の侍女でミュール家。それだけで私は大役に抜擢されるのよ」
苦々しい表情で出される料理一覧表に許可の印をつける。そのままエリザは近くにいたメイドにそれを渡した。
「だとしても──ミュール家であることに誇りを持つべきよ。それに、いくらミュール家だとしても、エリザの能力がなければ誰も評価しないわ」
燭台の数と配置を確認しながら、私が言うと、エリザは憮然とした表情になる。
「ミュール家の人は、皆これで悩むと聞いたわ。リドニアはまだなのね」
まだって。どうしていつか悩むみたいに言うのよ。
「私は悩まないわ。もちろん、ロアもよ」
出来の悪い弟の名を出すと、エリザは、
「確かに、ロアもあまり悩まなさそうね……」
と呟いた。
「いつでも自信満々だもの」
「あいつは、自信過剰なの!」
そういえば、もうすぐ帰ってくるかしら。あまり楽しみではないけれど。一応、弟だものね。料理でも作ってあげよう。
ミュール家の話はどこへやら、エリザは懐かしむように目を細めた。
「昔は、楽しかったわ。リドニアをルーシャンお嬢様に取られるのが嫌で、逃げ回ったりしてたのよね」
「そうだったかしら」
あまり覚えていない。むしろ、四人仲良く遊んでいたような気がするのだが。あ、私達とロアね。
「ええ。トール、貴方はまだいなかったわよね」
「はい。私はその時……メフィス伯爵邸の使用人の募集人数が予想以上に少なくて、ミュール家を恨んでいました」
トールの言い方に実感がこもっていて、私とエリザは顔を見合わせた。
「それは、そうよ。ミュール家の特権だわ」
誇らしげな私とは対称的に、エリザは睫毛を伏せる。
「ええ。──絶対に伯爵家において重要な地位に立てるけれど、それ以外に選択肢はないのよ」
……それは、常々エリザが言っていたことだった。
ミュール家に生まれたら、絶対にメフィス伯爵家に仕えなければいけない。それは権利ではなく、義務だと。
エリザがそれを言うたびに、私は反論したものだった。
だってそうでしょう?伯爵に仕えるという光栄を、自ら手放す馬鹿がいるのかしら。
「それは……。これまでいなかったんですか?別の道に進みたいと言う者は」
参加者リストとグラス、料理数を確認しながらトールが言い、
「いないに決まってるでしょ。何を言うのよ、トール!」
銀食器に曇りがないか確認しながら私が返す。
「リドニア……変わらないわね……」
エリザは溜め息を吐きながら楽団に出す賄いを確認していた。
準備が全て終わり、私はお嬢様にドレスを着せた。トールに詰問したところ、母様……マリア侍女長に取ってもらったそうな。本当でしょうね?と思うけど、嘘を言う人でもないし、信じることにしたの。
「お嬢様。リクト様と仲を深められたようですね」
鏡の中のお嬢様。彼女に向かって言うと、カァッとその頬が赤くなったので驚いた。
「な、何を言っているのかしら、リドニアは!」
「いえ、お二人が乾杯している所を見たもので。とても仲睦まじいご様子でした」
胸元が寂しいわ。ローズ様にお借りした首飾りに何があったかしら……。
頭を回転させながらの言葉だったが、お嬢様はガタリと立ち上がられた。
「お嬢様?」
「な、仲睦まじくなんてないわよ!ヒルドマンよ!?」
言ってから、しまったという顔。
お嬢様はローズ様のおっしゃった事を真剣にお考えなのね。
そんな生真面目なところさえ愛しく感じる。
お嬢様の白い肌にアメジストを乗せると、……完璧よ。よく映える。
「──あら?」
お嬢様の強く握り締められた拳が目に入った。そこには、たった一つの指輪さえない。
「お嬢様。リクト様からいただいていなかったのですか?婚約指輪」
「え?そ、そうね。忘れていたわ」
お嬢様は何でもないみたいにおっしゃるけど……困ったわね。私の方がショックを受けてしまう。
婚約指輪のピンクダイヤモンドをお客様に見せて回ることをイメージした色調でまとめたのだけれど。
リクト様、夜会で渡して下さるかしら。
「……後でティルー殿に言っておこうかしら……」
──ティルー殿。
ハッと街でのことが脳裏に過ぎる。
純粋で真っ白なお嬢様。彼のことを知れば、この方の白は濁るのかしら。
「リドニア?どうかして?」
「な、なんでもありません、お嬢様。夜会で指輪をいただければ良いのですが」
「──そうね」
素直な返答に、私は再び驚いた。私が目を丸くしたのをお嬢様は鏡越しに見て、眉を寄せた。
「ところで、リドニアは何を買っていたのよ、街で」
「え?あ、忘れるところでした。──これを買ったのです」
高級化粧品店の紙袋を出すと、お嬢様は「ルージュ?」と意外そうな声を出した。
「ルージュなら、わざわざ買わなくても……」
「ふふ、色を見て下さい。ローズピンクなんですよ。ローズ様の唯一無二の姉妹の証として」
お嬢様は瓶すらも美しいルージュを見つめて、にっこりと女の子らしく笑った。
「あたしとお姉様って、趣味が合わないけど……薔薇好きなのは一緒なのよね。きっと喜ぶわ」
「ご本人も薔薇色の人生を歩いてますしね」
そうね、とお嬢様は笑ってくださった。
お嬢様はリクト様のパートナーとして夜会に出席された。指にリングはない。
私とトールは大広間でグラスや料理を持って歩き回り、エリザは別室でメイド長補佐として指示を出し、ティルー殿は護衛として夜会に参加していた。侍従兼護衛というのは、都合の良い身分ですね、と皮肉を言えば、そうでしょうと返された。
夜会が始まってしばらくすると、皆お酒が入って騒ぎ出すから、私達使用人には少し楽な時間になる。
その時を見計らって、私は真っ直ぐにその人の元に行った。
「カクテルはいかがですか、お客様?」
「……リドニア殿。嫌味ですか?」
私の声に振り返ったのはティルー殿。暇そうにしてる。私はこんなに忙しいというのに!
嫌味ですけど。と言うのを我慢して、私は「いいえ」と答えた。
「相手が誰であろうとそう呼べとマニュアルに書いてあるのです。いかがです?カクテルは」
「貰いたいですけどね。今飲酒したらリクト様が守れませんから。アルコールのないジュースでもいただきます」
まあ、護衛ならそう答えるわよね。
そう思い、アルコール度数の低い、お嬢様が好むようなドリンクを渡した。
「どうぞ」
「どうも。……高そうなジュースですね」
小さな逆円錐のグラスには、海の色と同じ色の液体が揺れている。チェリーが入っているのが、女性向けの証でしょうね。
「普段旦那様や奥様が嗜まれているものよりは高くありませんが。──あ、申し訳ありません。今言うべきことではありませんでした」
「構いません。貴女と金銭感覚が違うことは分かってます」
グビッと飲み干して、チェリーはそのままに私の持っているプレートに戻す。
「あ、そうだ。お客様、少し頼みたいことがあるのですが。よろしいですか?」
ティルー殿は不思議そうな顔をして頷いた。
「足は踏まないでくださいね」
すぐに、お嬢様とリクト様が対面した時のことを言われたのだと分かった。
「……貴方がお嬢様を悪く言うからです」
後悔はしてないわ。
ティルー殿はクスリと笑ってその場の空気を変えた。
少し表情を改める。
「何ですか?聞きましょう」
「はい。リクト様に、早々に婚約指輪をお嬢様に渡していただきたいのです。ティルー殿、急かしてください」
「……。僕に、そんな火中の栗を拾うようなことをしろと」
「ええ?」
そんなこと言ってないわよ。
「今のお嬢様は不完全なのです。ピンクダイヤモンドが指を飾って初めてお嬢様は輝かれるのです!」
多少大声を出しても、今の夜会では目立たない。皆、馬鹿笑いしているもの。
「んー。リドニア殿、あれが見えますか?」
ティルー殿が指差す方向には──お嬢様と、リクト様?
リクト様は蕩けるような笑みを、お嬢様は居心地の悪そうな表情を浮かべている。
「リクト様はルーシャン様を庭園に誘っておられますが、ルーシャン様が断って……るのかは分かりませんが、拒んでおられるんですよ」
「まあ。お嬢様が?」
満更でもなさそうだったのに!
お二人は同じようなことを繰り返しているように見える。どちらも頬を染めて……。染めて……、
「──酔ってらっしゃる?」
そうなんです、とティルー殿は大きく頷いた。
「あんな酔っ払いに真面目に話し掛けても馬鹿を見るだけです。リドニア殿も飲みませんか?」
「私は今仕事中です!」
ウォルツ伯爵夫人にカクテルを渡し、ローズ様に首飾りをお借りしたことについてお礼申し上げ、酔ったお客様を介抱し……。夜会という神聖な響きから、和やかな話し合いのようになってきた頃。
私がお客様が落とされた食器を回収し、トールが新しいものを渡す。そこで、私達は息をついた。
「──山は越えたわね」
「ええ」
なんとなく戦友っぽい笑みを浮かべ合い、エリザに報告に行こうかと考えていた頃。
ガシッとだれかに腕を掴まれる。
「っ、ティルー殿?」
彼はすっかり出来上がっていた。顔は赤いし、意味もなく頬が緩んでいる。
……護衛だから飲まないって言ってなかったかしら。「どうしました?」「はは、向こうで、おもしろいものが見れますよ」
さすがに呂律は回るようね。
ホッとした。
困惑した様子のトールに「ちょっと休憩するわ」と言い残し(大丈夫だと思ったから抜けるのよ?)、私は引きずられるままに庭園に出た。
「ティルー殿?」
「あれです……見えますか?」
そこにはお嬢様とリクト様。
木の陰から、何かを盗み見るように。決して品のある行動ではなかった。
「のぞき見なんて……」
目を逸らして木から離れようとすると、腰に手を回された。
酔っ払い特有の距離感が、しらふの私には近く感じる。
「何を──」
「黙ってください。見つかります」
仕方なく口をつぐみ、私もお二人に視線を向けた。
「ルーシャン殿、受けとってもらいたいものがあるのだが」
まさに意を決したようなリクト様。それに対し、お嬢様は「ああ」と頷く。
「リドニアから聞きました」
なんとなく気まずい雰囲気になる。
リクト様もお嬢様も、私がここにいるの知らないのよね?
「……言ったんですか」
間近にあるティルー殿に睨まれ(た気がする)、
「……言いました」
小さな小さな声で答える。
私達がそんな会話を繰り広げている間にも、リクト様は箱を取り出した。
「これなんだ。貴女のことを考えながら選んだ。気に入ってもらえるだろうか?」
箱を差し出すリクト様。お嬢様は受け取る。
なかなか開けようとせずに、ぼんやりとそれを見つめていらっしゃる。
「わたくしは、貴方と結婚して幸せになれるのかしら……?」
どこか舌足らずな声で言い、お嬢様は自嘲するような笑みを浮かべた。
「絶対に」
何の根拠もないリクト様に、お嬢様は微笑みを見せる。
箱を開けると、その微笑みはさらに深いものになった。
「気に入っていただけたか……?」
「──」
お嬢様が口を開く直前。グラッとティルー殿の身体が揺れて、いきなり体重がかかってきた。身構えてもいない私は、簡単にバランスを崩す。
「わわ……!」
「あれ?」
ドタッと
庭園の芝生に倒れ伏した私達を、悲鳴すら上げられないほどに驚いたお嬢様が見つめる。
「リ……リドニア」
「お嬢様……」
「すいませんリドニア殿。一瞬寝てました」
頭を押さえてティルー殿が何かを言うけれど、そんなこと今はどうでもいいわ!
「あの──お、おめでとうございますお嬢様!!」
「お……、おめでたくなんてないわ!!」
お嬢様は顔を赤くすると、指輪の入った箱を持ってその場から立ち去ろうとした。
「ルーシャ……」
「リクト様は来ないで!リドニア、貴女は来なさい!」
「は、はい!!」
眠そうなティルー殿と何とも言えない表情をしたリクト様に頭を下げてから、私はお嬢様を追ったのだった。
……絶対、お怒りよね。
夜会は、まだ終わらない。